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知りたくなかった事実
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念のため精密検査を受けて、異常なしと判断されると、弘貴は遥香――リリーを連れてマンションへと帰った。
リビングのソファに座って、物珍しそうにきょろきょろしているリリーのためにコーヒーを淹れながら、弘貴は状況を整理しようと試みる。
リリーは、頻繁に見る夢の中に登場する少女だった。
遥香にそっくりで――、遥香とはじめて会ったとき、あまりにそっくりなことに驚きつつも、現実世界でリリーとそっくりな彼女に出会えたことに歓喜した。運命だと思った。弘貴はずっと――リリーさえも覚えていない昔から、彼女のことが気になっていたのだ。
(……まさか、こんなことって)
リリーとはじめて会ったのは、夢の中の弘貴――クロードが十一歳の時。リリーは確か八歳になったばかりだっただろう。
当時、夢の中の弘貴の世界では、グロディール国とセザーヌ国の国境付近での小競り合いが続いていて、弘貴――クロードは、会談に臨む父王に連れられて、セザーヌ国を訪れていた。
当然、十一歳の子供が、一国の王同士の会談の席に同席するわけにもいかず、その間、城の中庭で遊んでいるようにと言われた。
遊んでいろと言われても、セザーヌ国の王子たちは小競り合いの続く隣国の王子を嫌厭して近づこうともせず、何もすることのないクロードは、中庭のベンチに座って本を読んでいた。
その時だ。すすり泣くような小さな声が聞こえてきたのは。
最初は噴水の水の音か、木の葉がこすれる音かと思っていたクロードだが、どうにも違うとわかると無性に気になって、本をおいてその声を探しはじめた。
声の主はすぐに見つかった。
灌木の下にうずくまって、グスグスと鼻を鳴らして泣いているのは、つややかな黒髪の小柄な少女だった。
「どうした?」
クロードが話しかけると、少女はびくっと肩を揺らし、怯えた表情で振り返った。
大きな黒い目にいっぱいの涙をためてクロードを見上げたその顔は、今でも忘れられない。
特別に可愛らしい少女ではなかった。愛らしいとは思ったが、ちょっとかわいいくらいの、ごく普通の顔立ちの少女。だが、瞳を潤ませて、怯えた顔をした彼女は、まるで母猫とはぐれて震えている子猫のようで、どうしようもなく庇護欲をかきたてられた。
彼女は綿の飛び出た薄汚れたテディベアを抱えていた。
クロードは彼女を怯えさせないようにその場に膝をつくと、そっと手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
「どうした? その人形は?」
少女はぎゅっとテディベアを抱きしめると視線を落とした。
「……おかあさまが、くれたの」
少女は涙がこぼれるのを我慢するように、きゅっと唇をかみしめた。
「おかあさまが、リリーがひとりでもさみしくないようにって。でも、……おうひさまがおこって、リリーのくまちゃん、けがしちゃった……」
ひくっと少女がしゃくりあげたので、クロードは慌てて彼女を抱きしめた。
少女――リリーは、クロードの腕の中でぽろぽろと涙をこぼした。
「おうひさまはリリーはおしろにいちゃいけないんだっていうの。でも、おかあさまは、いっしょにおじいさまのところにいっちゃだめって。じゃあ、リリーは、どこにいればいいの?」
クロードはリリーと言う名に聞き覚えがあった。この国の第二王女の名前だ。生母は王妃ではないそうだが、なるほど、その王妃に疎まれているのだろう。クロードはリリーの頭を撫でながら、どうすれば泣き止むのかと途方に暮れた。
だが、クロードがどうすればいいのかと悩んでいる間に、リリーは気丈にも涙をぬぐって顔をあげた。
「ごめんなさい。ないちゃった。またおにいさまに、なきむしっていわれちゃう。リリーがないてたこと、おにいさまにないしょにしてくれる?」
少女はごしごしと目元をこすって、無理して作ったような笑顔を浮かべた。
そして、「そろそろおべんきょうのじかんなの」と言って、クロードに向かってバイバイと手を振ると、パタパタと城の方に駆けて行く。
それが、クロードがリリーとはじめてであった日のことだった。
リリーは覚えていないだろうが、クロードは――弘貴は、あの日のことがどうしても忘れられなかったのだ。
はじめて夢でリリーを見たとき、弘貴は大学に上がっていたし、八歳の夢の中の少女に恋をしたわけではもちろんない。
だが、あの日から夢の中のリリーという少女の存在が頭の中に引っかかっていたのは確かで、いつしか夢の中のクロードが青年になり、その婚約者がリリーだと知ったとき、弘貴は夢の中の出来事なのに嬉しかった。
そして、それと時を同じくして、遥香と出会ったとき、これは運命だと思ったのだ。遥香が弘貴のことを知らないことには落胆を覚えたが、同じ夢を共有していることのほうがおかしいのだと納得し、彼女との出会いに感謝した。だが――
(どうして、遥香がリリーになっているんだ?)
外見はもちろん遥香のままだ。最初は弘貴自身が都合のいい夢を見ているのかと思ったが、どうにも違うようだ。彼女がつけている指輪も、弘貴がプレゼントしたものではなく、夢の中でクロードがプレゼントしていたもの。
(だめだ、わからない……)
弘貴はため息をつくと、コーヒーカップを二つ持って、リリーのもとに向かった。
リビングのソファに座って、物珍しそうにきょろきょろしているリリーのためにコーヒーを淹れながら、弘貴は状況を整理しようと試みる。
リリーは、頻繁に見る夢の中に登場する少女だった。
遥香にそっくりで――、遥香とはじめて会ったとき、あまりにそっくりなことに驚きつつも、現実世界でリリーとそっくりな彼女に出会えたことに歓喜した。運命だと思った。弘貴はずっと――リリーさえも覚えていない昔から、彼女のことが気になっていたのだ。
(……まさか、こんなことって)
リリーとはじめて会ったのは、夢の中の弘貴――クロードが十一歳の時。リリーは確か八歳になったばかりだっただろう。
当時、夢の中の弘貴の世界では、グロディール国とセザーヌ国の国境付近での小競り合いが続いていて、弘貴――クロードは、会談に臨む父王に連れられて、セザーヌ国を訪れていた。
当然、十一歳の子供が、一国の王同士の会談の席に同席するわけにもいかず、その間、城の中庭で遊んでいるようにと言われた。
遊んでいろと言われても、セザーヌ国の王子たちは小競り合いの続く隣国の王子を嫌厭して近づこうともせず、何もすることのないクロードは、中庭のベンチに座って本を読んでいた。
その時だ。すすり泣くような小さな声が聞こえてきたのは。
最初は噴水の水の音か、木の葉がこすれる音かと思っていたクロードだが、どうにも違うとわかると無性に気になって、本をおいてその声を探しはじめた。
声の主はすぐに見つかった。
灌木の下にうずくまって、グスグスと鼻を鳴らして泣いているのは、つややかな黒髪の小柄な少女だった。
「どうした?」
クロードが話しかけると、少女はびくっと肩を揺らし、怯えた表情で振り返った。
大きな黒い目にいっぱいの涙をためてクロードを見上げたその顔は、今でも忘れられない。
特別に可愛らしい少女ではなかった。愛らしいとは思ったが、ちょっとかわいいくらいの、ごく普通の顔立ちの少女。だが、瞳を潤ませて、怯えた顔をした彼女は、まるで母猫とはぐれて震えている子猫のようで、どうしようもなく庇護欲をかきたてられた。
彼女は綿の飛び出た薄汚れたテディベアを抱えていた。
クロードは彼女を怯えさせないようにその場に膝をつくと、そっと手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
「どうした? その人形は?」
少女はぎゅっとテディベアを抱きしめると視線を落とした。
「……おかあさまが、くれたの」
少女は涙がこぼれるのを我慢するように、きゅっと唇をかみしめた。
「おかあさまが、リリーがひとりでもさみしくないようにって。でも、……おうひさまがおこって、リリーのくまちゃん、けがしちゃった……」
ひくっと少女がしゃくりあげたので、クロードは慌てて彼女を抱きしめた。
少女――リリーは、クロードの腕の中でぽろぽろと涙をこぼした。
「おうひさまはリリーはおしろにいちゃいけないんだっていうの。でも、おかあさまは、いっしょにおじいさまのところにいっちゃだめって。じゃあ、リリーは、どこにいればいいの?」
クロードはリリーと言う名に聞き覚えがあった。この国の第二王女の名前だ。生母は王妃ではないそうだが、なるほど、その王妃に疎まれているのだろう。クロードはリリーの頭を撫でながら、どうすれば泣き止むのかと途方に暮れた。
だが、クロードがどうすればいいのかと悩んでいる間に、リリーは気丈にも涙をぬぐって顔をあげた。
「ごめんなさい。ないちゃった。またおにいさまに、なきむしっていわれちゃう。リリーがないてたこと、おにいさまにないしょにしてくれる?」
少女はごしごしと目元をこすって、無理して作ったような笑顔を浮かべた。
そして、「そろそろおべんきょうのじかんなの」と言って、クロードに向かってバイバイと手を振ると、パタパタと城の方に駆けて行く。
それが、クロードがリリーとはじめてであった日のことだった。
リリーは覚えていないだろうが、クロードは――弘貴は、あの日のことがどうしても忘れられなかったのだ。
はじめて夢でリリーを見たとき、弘貴は大学に上がっていたし、八歳の夢の中の少女に恋をしたわけではもちろんない。
だが、あの日から夢の中のリリーという少女の存在が頭の中に引っかかっていたのは確かで、いつしか夢の中のクロードが青年になり、その婚約者がリリーだと知ったとき、弘貴は夢の中の出来事なのに嬉しかった。
そして、それと時を同じくして、遥香と出会ったとき、これは運命だと思ったのだ。遥香が弘貴のことを知らないことには落胆を覚えたが、同じ夢を共有していることのほうがおかしいのだと納得し、彼女との出会いに感謝した。だが――
(どうして、遥香がリリーになっているんだ?)
外見はもちろん遥香のままだ。最初は弘貴自身が都合のいい夢を見ているのかと思ったが、どうにも違うようだ。彼女がつけている指輪も、弘貴がプレゼントしたものではなく、夢の中でクロードがプレゼントしていたもの。
(だめだ、わからない……)
弘貴はため息をつくと、コーヒーカップを二つ持って、リリーのもとに向かった。
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