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事故
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金曜日。
定時五分過ぎに仕事を終えた遥香は、夕食には魚が食べたいと言っていた弘貴のために、献立を考えながら藤倉商事のエントランスから出た。
晩酌にビールを飲むから、サバの味噌煮がいいかもしれない。それともカレイの煮つけにしようか。弘貴は煮魚が好きなので、今度本屋でレシピ本を探してレパートリーを増やそう。遥香は、自分の作った料理を美味しいと言って食べてくれる弘貴の顔を思い出して、思わずにやけながら、ビルの裏の道に入る。大通りよりも、裏の道に入った方が、スーパーまで近道なのだ。
(あ、煮干しがもうすぐなくなるんだった。ついでに買って帰ろう)
弘貴は、みそ汁は鰹節よりも煮干しの出汁が好きなのだ。一緒に暮らしていると弘貴の好みがどんどんわかってきて嬉しくなる。
今日は定時後に会議が入っていると言っていたから、少し帰りが遅くなるらしい。料理を作りながら帰りを待つのもとても楽しかった。
遥香はスキップでもしそうな足取りで道を進んでいく。
(お味噌汁はお豆腐とわかめ、あと……)
「秋月さん」
献立を考えるのに集中していると、ふと後ろから声をかけられて遥香は足を止めた。
振り返ると、そこには不機嫌そうな顔の高梨がいて、遥香は思わずぎくりと顔をこわばらせる。
「高梨さん……。お疲れ様」
できれば挨拶を交わしてそそくさと立ち去りたかったが、高梨はそれを許してくれなさそうな雰囲気だった。
高梨は険しい表情のまま、カツカツとピンヒールを鳴らしながら遥香との距離を詰めた。車の通りはそこそこあるが、人通りはほどんどなく、遥香は少し嫌な予感を覚える。
高梨は遥香の目の前で腕を組むと、鋭い目で遥香を睨みつけた。高梨は女性にしては身長が高く、さらに高いヒールをはいているので、上から見下ろされると威圧感がすごい。
年下だがなんだか怖くて、遥香はすでに逃げ腰だった。
「秋月さんと八城係長がつき合っているって、本当ですか?」
予感的中。遥香の背筋を冷や汗が伝う。
「どういうことですか? わたしが八城係長のことを好きだと伝えたとき、心の中で笑っていたんですか?」
「笑ってなんか……」
「じゃあなんですか? どうしてあの時、八城係長とつき合ってるって言わなかったんですか」
「それは……」
言わなかったのではなく、言えなかったのだと説明しても、きっと理解されないだろう。
「というか、なんであなたなんかが八城係長とつき合ってるんですか?」
高梨に侮蔑の滲んだ声音で言われて、遥香は息を呑む。
「美人でも可愛いわけでもないし。どう考えてもあなたよりわたしの方が釣り合うのに。どんな手を使ったんですか?」
「………」
「別れてください」
「……え?」
「だから、別れてくださいよ、わたし、八城係長が好きだって言いましたよね? あなたも、自分が釣り合ってないことくらいわかるでしょう?」
遥香は絶句した。
高梨は髪をかき上げると、ふっと嘲るような笑みを浮かべる。
「もしかして、自分は愛されてるとか勘違いしてるんですか? きっとあなたなんか遊びですよ。あんなスペックの高い人が、あなたに本気なわけないじゃないですか。傷つく前に、早く分かれた方がいいですって」
高梨の言葉を聞きながら、遥香は自分の中の怒りが沸々と温度を上げていくのを感じた。
(なんで、こんなこと言われなくちゃいけないの……?)
遥香はぎゅっとこぶしを握りしめる。
遥香のことはまだいい。でも、「本気じゃない」とか「遊び」だとか――、弘貴は、そんな残酷な人じゃない。弘貴のことまで貶めるようなことを言わないでほしかった。
(弘貴さんは……好きだって言ってくれたもの)
遥香は、胸元に手をやった。手のひらの下に、チェーンで首にぶら下げている、弘貴からもらった指輪がある。
遥香はきゅっと唇をかみしめると、襟元からチェーンを手繰り寄せて、その先で揺れている指輪を見せた。
「これは弘貴さんにもらったの。結婚しようって言われたの。勝手にわたしたちの関係を、遊びたとか、本気じゃないとか、決めつけないで!」
滅多に怒鳴らないので、声を荒げると息が切れる。
遥香が反論すると思っていなかったのか、高梨は目を丸くした後で、顔を真っ赤に染めた。
「……わたし、急ぐので」
これ以上高梨と話していたくない。遥香は指輪を服の下にしまうと、ふいっと高梨から視線を逸らして歩き出す。
普段のんびりしている遥香だって、許せないことくらいある。
(……来週から、ちょっと怖いけど)
会社で仕返しされるかもしれない。それでも遥香は、高梨に好き勝手言われたままではいられなかったし、もちろん弘貴と別れるなんて絶対に嫌だったのだ。
高梨に背を向けて、十数歩ほど足をすすめた遥香は、「ふざけないで!」という高梨の叫び声を聞いてびっくりして足を止めた。
振り向くと、高梨が怒りの形相でこちらに向かって走ってきていた。
(叩かれる!?)
遥香はとっさに腕で顔をかばう。だが、腕には何の衝撃もなく、気づいた時にはドンッと背中を押されていた。
「きゃっ」
ぐらりと体が傾いて、転びそうになる。何とか持ちこたえようとたたらを踏むと、運悪く歩道と車道の段差にヒールが落ちて、体が車道に向かって投げ出される。
「き、きゃああああああっ」
プーッと、けたたましいクラクションの音が鳴り響く。
――意識を失う前、遥香は、リリーの乗った馬車が大きな木の下敷きになる映像を見た。
定時五分過ぎに仕事を終えた遥香は、夕食には魚が食べたいと言っていた弘貴のために、献立を考えながら藤倉商事のエントランスから出た。
晩酌にビールを飲むから、サバの味噌煮がいいかもしれない。それともカレイの煮つけにしようか。弘貴は煮魚が好きなので、今度本屋でレシピ本を探してレパートリーを増やそう。遥香は、自分の作った料理を美味しいと言って食べてくれる弘貴の顔を思い出して、思わずにやけながら、ビルの裏の道に入る。大通りよりも、裏の道に入った方が、スーパーまで近道なのだ。
(あ、煮干しがもうすぐなくなるんだった。ついでに買って帰ろう)
弘貴は、みそ汁は鰹節よりも煮干しの出汁が好きなのだ。一緒に暮らしていると弘貴の好みがどんどんわかってきて嬉しくなる。
今日は定時後に会議が入っていると言っていたから、少し帰りが遅くなるらしい。料理を作りながら帰りを待つのもとても楽しかった。
遥香はスキップでもしそうな足取りで道を進んでいく。
(お味噌汁はお豆腐とわかめ、あと……)
「秋月さん」
献立を考えるのに集中していると、ふと後ろから声をかけられて遥香は足を止めた。
振り返ると、そこには不機嫌そうな顔の高梨がいて、遥香は思わずぎくりと顔をこわばらせる。
「高梨さん……。お疲れ様」
できれば挨拶を交わしてそそくさと立ち去りたかったが、高梨はそれを許してくれなさそうな雰囲気だった。
高梨は険しい表情のまま、カツカツとピンヒールを鳴らしながら遥香との距離を詰めた。車の通りはそこそこあるが、人通りはほどんどなく、遥香は少し嫌な予感を覚える。
高梨は遥香の目の前で腕を組むと、鋭い目で遥香を睨みつけた。高梨は女性にしては身長が高く、さらに高いヒールをはいているので、上から見下ろされると威圧感がすごい。
年下だがなんだか怖くて、遥香はすでに逃げ腰だった。
「秋月さんと八城係長がつき合っているって、本当ですか?」
予感的中。遥香の背筋を冷や汗が伝う。
「どういうことですか? わたしが八城係長のことを好きだと伝えたとき、心の中で笑っていたんですか?」
「笑ってなんか……」
「じゃあなんですか? どうしてあの時、八城係長とつき合ってるって言わなかったんですか」
「それは……」
言わなかったのではなく、言えなかったのだと説明しても、きっと理解されないだろう。
「というか、なんであなたなんかが八城係長とつき合ってるんですか?」
高梨に侮蔑の滲んだ声音で言われて、遥香は息を呑む。
「美人でも可愛いわけでもないし。どう考えてもあなたよりわたしの方が釣り合うのに。どんな手を使ったんですか?」
「………」
「別れてください」
「……え?」
「だから、別れてくださいよ、わたし、八城係長が好きだって言いましたよね? あなたも、自分が釣り合ってないことくらいわかるでしょう?」
遥香は絶句した。
高梨は髪をかき上げると、ふっと嘲るような笑みを浮かべる。
「もしかして、自分は愛されてるとか勘違いしてるんですか? きっとあなたなんか遊びですよ。あんなスペックの高い人が、あなたに本気なわけないじゃないですか。傷つく前に、早く分かれた方がいいですって」
高梨の言葉を聞きながら、遥香は自分の中の怒りが沸々と温度を上げていくのを感じた。
(なんで、こんなこと言われなくちゃいけないの……?)
遥香はぎゅっとこぶしを握りしめる。
遥香のことはまだいい。でも、「本気じゃない」とか「遊び」だとか――、弘貴は、そんな残酷な人じゃない。弘貴のことまで貶めるようなことを言わないでほしかった。
(弘貴さんは……好きだって言ってくれたもの)
遥香は、胸元に手をやった。手のひらの下に、チェーンで首にぶら下げている、弘貴からもらった指輪がある。
遥香はきゅっと唇をかみしめると、襟元からチェーンを手繰り寄せて、その先で揺れている指輪を見せた。
「これは弘貴さんにもらったの。結婚しようって言われたの。勝手にわたしたちの関係を、遊びたとか、本気じゃないとか、決めつけないで!」
滅多に怒鳴らないので、声を荒げると息が切れる。
遥香が反論すると思っていなかったのか、高梨は目を丸くした後で、顔を真っ赤に染めた。
「……わたし、急ぐので」
これ以上高梨と話していたくない。遥香は指輪を服の下にしまうと、ふいっと高梨から視線を逸らして歩き出す。
普段のんびりしている遥香だって、許せないことくらいある。
(……来週から、ちょっと怖いけど)
会社で仕返しされるかもしれない。それでも遥香は、高梨に好き勝手言われたままではいられなかったし、もちろん弘貴と別れるなんて絶対に嫌だったのだ。
高梨に背を向けて、十数歩ほど足をすすめた遥香は、「ふざけないで!」という高梨の叫び声を聞いてびっくりして足を止めた。
振り向くと、高梨が怒りの形相でこちらに向かって走ってきていた。
(叩かれる!?)
遥香はとっさに腕で顔をかばう。だが、腕には何の衝撃もなく、気づいた時にはドンッと背中を押されていた。
「きゃっ」
ぐらりと体が傾いて、転びそうになる。何とか持ちこたえようとたたらを踏むと、運悪く歩道と車道の段差にヒールが落ちて、体が車道に向かって投げ出される。
「き、きゃああああああっ」
プーッと、けたたましいクラクションの音が鳴り響く。
――意識を失う前、遥香は、リリーの乗った馬車が大きな木の下敷きになる映像を見た。
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