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事故

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 弘貴に指輪をもらってからというもの、現金なもので、心に余裕ができたらしい。

 高梨が弘貴にどれだけ近づこうと、前ほど嫉妬心を覚えなくなった。

 きっと弘貴と一緒に暮らしはじめたのも大きいだろう。どうしようもなくもやもやすることがあっても、夜、弘貴にぎゅっと抱きしめてもらって眠りにつくだけで満たされた。

 そうして数日がたったころだった。

「みーちゃった!」

 給湯室で休憩がてらコーヒーを入れていた時だった。

 背後から音もなく近寄ってきた坂上にうしろから抱きつかれて、遥香は危うくコーヒー豆をぶちまけるところだった。

 個包装になっているワンカップ用のドリップコーヒーを片手に、困った顔をして肩越しに振り返ると、坂上が「ごめん!」と謝る。だが、すぐににんまりとした笑顔に戻ると、とっておきの内緒話を披露するように、遥香の耳元に口を寄せた。

「仲良く同伴出勤、みーちゃった」

「え?」

「んふー。誤魔化してもだめよぉ。今朝、駅前のマンションから八城係長と仲良く出てくるところ、見ちゃったんだから。ほらぁ、白状しなさいよ! 秘密にしてたなんてずるいじゃないの!」

 あちゃー、と遥香は額を抑えたくなった。ドリップコーヒーを手に持っていなかったら実際額を抑えて天を仰いでいただろう。

(浮かれて油断してた……)

 弘貴の住んでいるマンションは駅前だ。特に通勤時間は誰かに見られる危険性が高かったのに、時間をずらして出勤すればよかった。

 遥香は困った顔をしたが、坂上はそんなことでは許してくれなかった。

「で? いつからなのかなぁ?」

 この様子では誤魔化しは通用しない。いずれ坂上には話そうとも思っていたし、この際白状してしまおうと、遥香はため息をついて、ゴールデンウィーク前から弘貴とつき合っていることを白状する。

「やだーっ、そんな前からなの? どうして教えてくれないのよ!」

 坂上は目をキラキラさせながら、遥香の背中をバシバシ叩く。

「さ、坂上さん。コーヒー豆こぼれちゃう」

「あ、ごめん。でも、水臭いじゃない! もっと早く知りたかったわ!」

「ごめんなさい、なかなか言い出せなくて……」

「ま、それもそうか、なんたってあの八城係長だもんねぇ」

 よく落としたわねぇ、と坂上がしみじみと言ったが、落としたのではなく落とされた遥香は曖昧に笑う。最初のころはつき合いたくなくて逃げ回っていたと言ったら、それこそ、どれだけ根掘り葉掘り追及されるかわかったものではない。

「じゃあさ、その首から下がってる指輪は八城係長からなのかしら?」

「えっ?」

 遥香は慌てて片手で胸元を抑えた。長めのチェーンだから、見えることはないはずなのに、どうして気づいたのだろう。

「なんでわかるの? って顔してる」

 遥香がこくんと頷くと、坂上は微笑んだ。

「お昼明けにプリンターのトレーにコピー用紙補充してたでしょ? かがんだ時に襟元から指輪が出たの、見えちゃったんだなー」

 遥香は坂上の目ざとさに舌を巻いた。

 遥香はマグカップにドリップをセットしたあと、坂上に向かって拝むように手を合わせた。

「坂上さん、このことは……」

「だぁいじょうぶよ、誰にも言いやしないから」

「ありがとうございます!」

「そのかわり、今度しっかり恋愛トークにつき合ってもらうわよ」

 逃がさないわよ、と言いたそうな坂上のキラキラした視線に、遥香は乾いた笑みを浮かべる。だが、「はい」と頷こうとした、そのとき――

「秋月さん、何してるんですか? 課長が会議室の準備をしてほしいって言ってますけど」

 氷のように冷ややかな声が聞こえて、遥香は息を呑む。

 坂上とともに声がした方を見やると、針のように鋭い目をした高梨が睨んでいた。

「早くしてくださいね」

 高梨はぷいっと顔を背けると、カツンカツンとヒールを鳴らしながらフロアに戻っていく。

 坂上が「あー」と唸って片手で口元を覆った。

「あれは、聞かれちゃったかしら……」

「ですよね……」

 遥香も顔を覆うと、大きなため息を吐く。

 よりにもよって、高梨に聞かれるとは、最悪としか言いようがない。

「ごめん……、わたしがこんなところで話しかけたからだわ」

 坂上はちらりとフロアの方を見やってから、声を落とした。

「あの子、ちょっとやばい感じするから、嫌がらせされないように気をつけて。わたしも注意しておくから。ほんとごめん」

 坂上はぽん、と遥香の肩を叩く。

「コーヒーはわたしが自分のを淹れるついでにやっとくから、会議室の準備に行きなよ」

「ありがとうございます。すみません、じゃあ、会議室行ってきます」

 遥香は坂上に小さく頭を下げて会議室に向かう。

 課長に指示通りに会議室に資料を並べながら、高梨の鋭い視線を思い出して、憂鬱になるのだった。
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