夢の中でも愛してる

狭山ひびき

文字の大きさ
60 / 145
花言葉と緊張の夜

2

しおりを挟む
 おろしたてのハンカチに刺繍ししゅうを刺しはじめた遥香だったが、二針刺したところで手を止めて、はあ、とため息をついた。

「どうかなさいました? ため息ばかりつかれているようですが」

 ティータイムにフィナンシェを用意してくれていた侍女のアンヌが、物憂げな主人が気になったのか、手を止めてこちらを見やる。

 遥香は針をおいて、頬杖をついた。

「婚約式、ですって」

 遥香がため息とともに吐き出せば、アンヌがぱっと顔を輝かせる。

「ようやくですか! おめでとうございます」

「ありがとう」

「……リリー様。もしかして、婚約式がお嫌なんですか?」

 アンヌが表情の冴えない遥香に、一転顔を曇らせると、遥香は首を振って否定した。

「嫌ってほどじゃないのよ。ただ……」

「ただ?」

 遥香は窓外に視線を向けた。雨が降るほどではないが、空は薄灰色に曇っている。時折、雲の隙間から差し込む日差しは明るいが、またすぐに曇ってしまい、朝からすっきりとしない天気だった。

「婚約式が終われば、次は結婚式でしょう? ……あっという間に王太子妃。そしてきっと、何年かしたら王妃……、よね。普通に考えると。わたしに務まると思う?」

「まあ姫様。今からそんなに自信がなくてどうするんですか」

「だって……、わたしはすぐに緊張してしまって、きっとクロード王子に迷惑ばっかりかけることになるんだわ」

 そして、あきれたクロード王子に意地悪を言われるのだ。それを想像すると、今日の空模様のように、どんよりと重たい気持ちになってしまう。

「リリー様。夫婦は支えあってこその夫婦ですよ。いいではありませんか。慣れるまではクロード王子に甘えても。クロード王子も、こちらへ滞在している間に姫様の性格はおわかりでしょうから、それを承知の上で婚約式をするとおっしゃっているはずですよ」

「そう……、かしら」

 ことあるごとに意地悪なクロード王子。確かに彼は、遥香に対してあまりオブラートに包んだ言い方をしないから、嫌なら嫌だとはっきり言いそうだ。

(でも……、どうして、嫌だと言わないのかしら)

 内向的で、とてもではないが王妃には向かない性格の遥香に、彼はイライラしているはずなのだ。「どうしてこんな女を」と思われても仕方がない。「仕方がないから遥香でいい」と妥協される対象ですらないこともわかっている。

 クロードは、遥香が気に入らないから意地悪をしているはずなのだ。

(……あれ?)

 そこまで考えて、遥香はふと違和感を持った。

 別荘に行ったころからだろうか、少し前からだろうか、はっきりといつからかはわからないが、クロードにあまり意地悪を言われていない。

 たまに、にやりと笑みを浮かべながら「チクリ」と言われることはあっても、泣きそうになるほどひどいことは言われていなかった。

 それどころか、別荘では――ダンスの練習は除いて――優しくされたことも多い。

「不思議ね……」

「なにがですか?」

「あ……、いえ、なんでもないわ」

 うっかり心の声が口に出ていて、遥香は曖昧あいまいに笑ってごまかした。

 アンヌの煎れてくれた紅茶を飲みながら、フィナンシェに手を伸ばす。口の中に広がるバターの風味に頬を緩めていると、リリックがやってきたと教えられた。アンヌにリリックの分の紅茶を頼み、遥香が立って出迎えると、心持ちやつれたような顔をしたリリックが、ぐったりとソファに体を沈めた。

「どうしたの、リリック兄様。大丈夫?」

 体調が悪いのかと心配した遥香に、リリックが小さく笑う。

「大丈夫だよ」

 およそ大丈夫でなさそうな顔で大丈夫というリリックに、遥香はもっと心配になる。

 リリックはアンヌの煎れた紅茶に口をつけて、はあ、と息を吐きだした。

「アリスだよ。よくわからないけど、ここのところ、ずっとついて回るんだ。……さすがに、少し疲れたよ」

「……まあ」

 遥香は心の中でリリックに合掌した。

 リリックに恋をしているアリスが必死になって追いかけまわしている姿が目に浮かぶ。それでもアリスの気持ちに気づかないリリックもどうかと思うのだが、疲弊ひへいしているリリックの様子を見ると可哀そうになるので、遥香はあとでそれとなくアリスに注意をしておこうと思った。

 しばらくソファの上でぐったりしていたリリックだが、アンヌら侍女たちが部屋を出て行くと、おもむろに口を開いた。

「近いうちに婚約式をするんだって?」

「あら、リリック兄様、情報が早いのね。わたしも今朝、お父様からお聞きしたばかりなのに」

「アリスが嬉々として知らせに来たんだよ」

「……あの子も、どこから仕入れたのかしら」

 恐るべし、アリスの情報網。別荘行きを嗅ぎつけたことといい、昔から変に情報通な妹だが、いまだに、どうやってその情報を仕入れているのかは遥香にはわからない。

 リリックは真顔になって、膝の上に手を組んだ。

「それで、するの? 婚約式」

「それは、もちろんよ。どうして?」

「婚約式をしたら、もう逃げられないよ」

「え……?」

 遥香は瞠目した。逃げる、とリリックは言った。それは、婚約から、クロードから逃げるということだろうか。

「婚約式の前ならば、まだ相手は変えられる。けれど、婚約式をすませたら、逃げられない。正式にリリーはクロード王子の婚約者となる。これを覆す場合、よほど理由がないと無理だ。もし婚約をなかったことにするのなら今しかないんだよ」

「何を言っているの兄様。そんなことができるはずないじゃない」

「できるよ。最初はアリスに来ていた話だった。王女でないといけないと言うならば、最初の話通りアリスがクロード王子と婚約するべきだよ。単に王族やそれに準ずる女性でいいと言うのなら―――僕の妹や、叔父上の娘がいる。隣国に嫁ぐのは、君じゃなくてもいい」

 淡々と諭すように語られて、遥香は頭の中が真っ白になった。

(どうして今になって、そんなことを言うの……)

 いや、今だからこそ、なのだろう。

 確かに、アリスや、従妹たちの方が、将来の王妃としての資質はあるかもしれない。ただ笑って手を振るだけでいいという時ですら笑顔が引きつる遥香では、嫁がせるのに不安が残るだろう。――けれど。

(クロード王子は……、断らなかった)

 真っ先に断られてもおかしくなかったのに、クロードは断らなかった。相手を変えろとは言わなかった。言われてもおかしくなかったのに、だ。

 遥香はカラカラに乾いた口の中を潤すために紅茶を口に含んだ。ゆっくり飲み込んで、深呼吸して、口を開く。

「リリック兄様……。確かに、わたしでは頼りないかもしれないけど、もう決まったことだから、婚約式はこのまま進めるつもりよ」

「リリー……」

「心配してくれて、ありがとう。でも、こちらの都合で、また相手が変わりましたなんて、クロード王子に失礼すぎると思わない? それに、わたし、すっごく不安で怖いと思ってしまったけど、お父様から婚約式の話を聞かされたとき、嫌だとは思わなかったの。だから、がんばってみるつもりよ」

 本当はまだまだ不安でどうしようもないけれど、誰かにかわってほしいとは思わなかったのは事実だった。

 リリックは盛大にため息をつくと、少し寂しそうに笑った。

「わかったよ。でも、考えが変わったら教えて。僕はいつでも君の味方だからね。それだけは忘れないで、リリー」

「ええ。ありがとう、兄様」

 遥香は心の中に残る不安に背を向けて、にっこりと微笑んだ。
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。

蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。 これで、貴方も私も自由です。 ……だから、もういいですよね? 私も、自由にして……。 5年後。 私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、 親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、 今日も幸せに子育てをしています。 だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。 私のことは忘れて……。 これは、お互いの思いがこじれ、離れ離れになってしまった一組の夫婦の物語。 はたして、夫婦は無事に、離婚を回避することができるのか?

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛

らがまふぃん
恋愛
 こちらは以前投稿いたしました、 美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛 の続編となっております。前作よりマイルドな作品に仕上がっておりますが、内面のダークさが前作よりはあるのではなかろうかと。こちらのみでも楽しめるとは思いますが、わかりづらいかもしれません。よろしかったら前作をお読みいただいた方が、より楽しんでいただけるかと思いますので、お時間の都合のつく方は、是非。時々予告なく残酷な表現が入りますので、苦手な方はお控えください。10~15話前後の短編五編+番外編のお話です。 *早速のお気に入り登録、しおり、エールをありがとうございます。とても励みになります。前作もお読みくださっている方々にも、多大なる感謝を! ※R5.7/23本編完結いたしました。たくさんの方々に支えられ、ここまで続けることが出来ました。本当にありがとうございます。ばんがいへんを数話投稿いたしますので、引き続きお付き合いくださるとありがたいです。 ※R5.8/6ばんがいへん終了いたしました。長い間お付き合いくださり、また、たくさんのお気に入り登録、しおり、エールを、本当にありがとうございました。 ※R5.9/3お気に入り登録200になっていました。本当にありがとうございます(泣)。嬉しかったので、一話書いてみました。 ※R5.10/30らがまふぃん活動一周年記念として、一話お届けいたします。 ※R6.1/27美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛(前作) と、こちらの作品の間のお話し 美しく冷酷な公爵令息様の、狂おしい熱情に彩られた愛 始めました。お時間の都合のつく方は、是非ご一読くださると嬉しいです。※R6.5/18お気に入り登録300超に感謝!一話書いてみましたので是非是非! *らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。 ※R7.2/22お気に入り登録500を超えておりましたことに感謝を込めて、一話お届けいたします。本当にありがとうございます。  ※R7.10/13お気に入り登録700を超えておりました(泣)多大なる感謝を込めて一話お届けいたします。 *らがまふぃん活動三周年周年記念として、R7.10/30に一話お届けいたします。楽しく活動させていただき、ありがとうございます。 ※R7.12/8お気に入り登録800超えです!ありがとうございます(泣)一話書いてみましたので、ぜひ!

そのご寵愛、理由が分かりません

秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。 幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに—— 「君との婚約はなかったことに」 卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り! え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー! 領地に帰ってスローライフしよう! そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて—— 「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」 ……は??? お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!? 刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり—— 気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。 でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……? 夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー! 理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。 ※毎朝6時、夕方18時更新! ※他のサイトにも掲載しています。

【完結】地味な私と公爵様

ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。 端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。 そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。 ...正直私も信じていません。 ラエル様が、私を溺愛しているなんて。 きっと、きっと、夢に違いありません。 お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)

仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!

ぽんちゃん
恋愛
 ――仕事で疲れて会えない。  十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。  記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。  そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?

【完結】大変申し訳ありませんが、うちのお嬢様に貴方は不釣り合いのようです。

リラ
恋愛
 婚約破棄から始まる、有能執事の溺愛…いや、過保護?  お嬢様を絶対守るマンが本気を出したらすごいんです。  ミリアス帝国首都の一等地に屋敷を構える資産家のコルチエット伯爵家で執事として勤めているロバートは、あらゆる事を完璧にこなす有能な執事だ。  そんな彼が生涯を捧げてでも大切に守ろうと誓った伯爵家のご令嬢エミリー・コルチエットがある日、婚約者に一方的に婚約破棄を告げられる事件が起こる。  その事実を知ったロバートは……この執事を怒らせたら怖いぞ!  後に後悔しエミリーとの復縁を望む元婚約者や、彼女に恋心を抱く男達を前に、お嬢様の婿に相応しいか見極めるロバートだったが…?  果たして、ロバートに認められるようなエミリーお嬢様のお婿候補は現れるのだろうか!? 【物語補足情報】 世界観:貴族社会はあるものの、財を成した平民が貴族位を買い新興貴族(ブルジョア)として活躍している時代。 由緒正しい貴族の力は弱まりつつあり、借金を抱える高位貴族も増えていった。 コルチエット家:帝国一の大商会を持つ一族。元々平民だが、エミリーの祖父の代に伯爵位を買い貴族となった資産家。

処理中です...