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暗闇の抱擁
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遥香の意識が戻ったのは、それから二時間後のことだった。
瞼を持ち上げてぼんやりと天井を見つめていると、隣からしゃくりあげるような声が聞こえて、顔を動かして横を見る。ベッドの近くに座って、アリスが泣きじゃくっていた。
「アリス……?」
目が覚めたばかりでかすれた声で名前を呼べば、弾かれたようにアリスが顔をあげる。
アリス以外にも部屋にいたらしく、遥香の目が覚めたとわかると、クロードやリリック、アンヌが駆け寄ってきた。
「気分は?」
クロードがそう言いながら額に手を当ててくる。
「大丈夫ですよ。……クロード王子も、お風呂で温まりましたか?」
「お前はこんな時に……」
クロードは苦笑すると、「風呂には入ったから安心しろ」と言って遥香の額を軽く小突く。
遥香は小さく笑うと、泣きじゃくっているアリスに手を伸ばした。
「アリス、泣かないで」
「お姉様、ごめんなさいっ」
アリスは遥香の手を握りしめると、そのままベッドに突っ伏してグスグスと泣き続ける。
遥香が困ったように顔をあげれば、リリックがはあ、と息を吐いた。
「アリスが白状したよ。自分が閉じ込めたって」
リリックが怒りをにじませた声で言えば、アリスの肩がびくりと揺れる。
「こ、こんなに大ごとになるなんて、思って、なかったんですもの……っ」
「大ごとになるならないの問題じゃないだろう! やっていいことと悪いことの区別もつかないのか君は!」
めったに怒らないリリックの怒鳴り声に、怯えたアリスがさらに泣き出してしまう。
「一つ間違えれば、湖が増水して、命を落としていたかもしれないんだぞ!」
けれども頭に血が上っているリリックは、泣いたくらいでは許せないらしい。クロードもアンヌもかばう気はないようで、リリックが怒鳴るのに任せている。
遥香はアリスの頭をそっと撫でた。
「少し、アリスと二人きりにしてくれないかしら? お願い」
遥香が言えば、リリックは「はあ」と盛大にため息を吐き出して頷いた。
「わかった。だけど、君は気を失ったばかりなんだから、あんまり無理をしたらいけないよ。落ち着いたら、消化によさそうなものを作ってもらってくるから」
「ふふ、兄様、病人じゃないのよ」
「それでもだよ」
リリックが部屋を出て行くと、アンヌが心配そうに何度も振り返りながらそれに続く。
最後にクロードが「またあとで来る」と一言言い残して出て行くと、部屋の中にはアリスと二人きりになった。
「アリス、怒ってないから泣かないで」
遥香が何度もアリスの頭を撫でていると、ようやくアリスが顔をあげる。
「ほんと?」
「ええ」
アリスはハンカチで目元をぬぐうと、椅子に座りなおして、ぐすぐすと鼻を鳴らす。
「それで、アリス。どうしてあんなことをしたの?」
アリスはきゅっと唇を引き結んだ。だが、しばらくすると、観念したように、
「だって、……リリックはお姉様ばっかりかまうんだもの」
と言った。
「え?」
遥香が目を丸くすると、先ほどまで泣いていたのに、今度は拗ねたように頬を膨らませたアリスが、まくしたてるように言う。
「リリックはいつもお姉様が一番大切なの! いつもいつもお姉様ばっかり。お姉様には会いに行くのに、わたしのとこには会いに来てもくれないし。何か言えば困ったように笑うだけ。だけどお姉様といるときはすごく楽しそうで……、だから、ほんのちょっと、困らせてやれって、そう思って……。こんなに大変なことになるとは思わなかったの……」
遥香は唖然としながらその話を聞いていたが、アリスが口を閉ざすと、「まさか……」と口を開いた。
「アリス、あなたが好きな人って、リリック兄様だったの?」
「……うん」
アリスがこくんと頷くと、遥香は額をおさえた。
クロードとの婚約の話を、アリスが「好きな人がいる」という理由で断ったことはコレットから聞かされて知っている。しかし、まさかそれがリリックだったとは思わなかった。
(それなのに、リリック兄様はわたしの元婚約者候補……。なんてこと)
おそらく、これほど遥香に嫉妬するということは、リリックが元婚約候補者の名前に上がっていたことを知っているはずだ。
ことあるごとに「お姉様ばっかりずるい」とリリックに言っていたアリスの気持ちがわかるようで、遥香は胸が痛くなった。
「リリック兄様には、それは言ったの?」
「言えるわけないじゃない!」
アリスは顔を真っ赤に染めて声を荒げた。
「だって、リリックは明らかにお姉様が好きじゃない! わたしが好きって言っても相手にしてくれるはずがないわ」
「リリック兄様がわたしを好き? そんなことないと思うわ」
「お姉様って、天然なのか馬鹿なのか、たまにわかんなくなる時があるわ」
あんまりな言いように、遥香は苦笑するしかない。けれどリリックは兄のような存在で、遥香は彼を異性として見たことはないし、また、リリックもそうであると信じていた。
「アリス。万に一つ、リリック兄様がわたしを好きだとしてもね」
「万に一つじゃなくて、確実によ、お姉様」
「えっと……、仮にそうだとしても、わたしはもう婚約しているのよ」
「婚約式はまだじゃない。まだ、つぶそうと思えばつぶせる婚約よ」
「……アリス。この婚約は国同士の問題だから、そう簡単にはいかないのよ」
アリスは少し考えるそぶりをしたあとで、ベッドの上に乗った。すっかり涙の乾いたアリスは、目をキラキラさせて遥香の手をぎゅっと握りしめる。
「わかったわ。お姉様はクロード王子が好きなのね」
「ええ!?」
突然何を言いだすのだろうと声を裏返す遥香にはかまわず、アリスはにこにこと笑みを浮かべた。
「わたし、お姉様とクロード王子が仲良くなるように協力してあげる! そのかわり、リリックとうまくいくようにお姉様はわたしに協力してね」
セザーヌ国の美姫と謳われるアリスは、姉の立場でも見ほれるほどの艶やかな笑みを浮かべると、ぎゅうっと遥香を抱きしめた。
「約束よ、お姉様」
どうしてこうなったのか。
遥香は自問しながらも、アリスの勢いに気おされて、首を縦に振ってしまったのだった。
瞼を持ち上げてぼんやりと天井を見つめていると、隣からしゃくりあげるような声が聞こえて、顔を動かして横を見る。ベッドの近くに座って、アリスが泣きじゃくっていた。
「アリス……?」
目が覚めたばかりでかすれた声で名前を呼べば、弾かれたようにアリスが顔をあげる。
アリス以外にも部屋にいたらしく、遥香の目が覚めたとわかると、クロードやリリック、アンヌが駆け寄ってきた。
「気分は?」
クロードがそう言いながら額に手を当ててくる。
「大丈夫ですよ。……クロード王子も、お風呂で温まりましたか?」
「お前はこんな時に……」
クロードは苦笑すると、「風呂には入ったから安心しろ」と言って遥香の額を軽く小突く。
遥香は小さく笑うと、泣きじゃくっているアリスに手を伸ばした。
「アリス、泣かないで」
「お姉様、ごめんなさいっ」
アリスは遥香の手を握りしめると、そのままベッドに突っ伏してグスグスと泣き続ける。
遥香が困ったように顔をあげれば、リリックがはあ、と息を吐いた。
「アリスが白状したよ。自分が閉じ込めたって」
リリックが怒りをにじませた声で言えば、アリスの肩がびくりと揺れる。
「こ、こんなに大ごとになるなんて、思って、なかったんですもの……っ」
「大ごとになるならないの問題じゃないだろう! やっていいことと悪いことの区別もつかないのか君は!」
めったに怒らないリリックの怒鳴り声に、怯えたアリスがさらに泣き出してしまう。
「一つ間違えれば、湖が増水して、命を落としていたかもしれないんだぞ!」
けれども頭に血が上っているリリックは、泣いたくらいでは許せないらしい。クロードもアンヌもかばう気はないようで、リリックが怒鳴るのに任せている。
遥香はアリスの頭をそっと撫でた。
「少し、アリスと二人きりにしてくれないかしら? お願い」
遥香が言えば、リリックは「はあ」と盛大にため息を吐き出して頷いた。
「わかった。だけど、君は気を失ったばかりなんだから、あんまり無理をしたらいけないよ。落ち着いたら、消化によさそうなものを作ってもらってくるから」
「ふふ、兄様、病人じゃないのよ」
「それでもだよ」
リリックが部屋を出て行くと、アンヌが心配そうに何度も振り返りながらそれに続く。
最後にクロードが「またあとで来る」と一言言い残して出て行くと、部屋の中にはアリスと二人きりになった。
「アリス、怒ってないから泣かないで」
遥香が何度もアリスの頭を撫でていると、ようやくアリスが顔をあげる。
「ほんと?」
「ええ」
アリスはハンカチで目元をぬぐうと、椅子に座りなおして、ぐすぐすと鼻を鳴らす。
「それで、アリス。どうしてあんなことをしたの?」
アリスはきゅっと唇を引き結んだ。だが、しばらくすると、観念したように、
「だって、……リリックはお姉様ばっかりかまうんだもの」
と言った。
「え?」
遥香が目を丸くすると、先ほどまで泣いていたのに、今度は拗ねたように頬を膨らませたアリスが、まくしたてるように言う。
「リリックはいつもお姉様が一番大切なの! いつもいつもお姉様ばっかり。お姉様には会いに行くのに、わたしのとこには会いに来てもくれないし。何か言えば困ったように笑うだけ。だけどお姉様といるときはすごく楽しそうで……、だから、ほんのちょっと、困らせてやれって、そう思って……。こんなに大変なことになるとは思わなかったの……」
遥香は唖然としながらその話を聞いていたが、アリスが口を閉ざすと、「まさか……」と口を開いた。
「アリス、あなたが好きな人って、リリック兄様だったの?」
「……うん」
アリスがこくんと頷くと、遥香は額をおさえた。
クロードとの婚約の話を、アリスが「好きな人がいる」という理由で断ったことはコレットから聞かされて知っている。しかし、まさかそれがリリックだったとは思わなかった。
(それなのに、リリック兄様はわたしの元婚約者候補……。なんてこと)
おそらく、これほど遥香に嫉妬するということは、リリックが元婚約候補者の名前に上がっていたことを知っているはずだ。
ことあるごとに「お姉様ばっかりずるい」とリリックに言っていたアリスの気持ちがわかるようで、遥香は胸が痛くなった。
「リリック兄様には、それは言ったの?」
「言えるわけないじゃない!」
アリスは顔を真っ赤に染めて声を荒げた。
「だって、リリックは明らかにお姉様が好きじゃない! わたしが好きって言っても相手にしてくれるはずがないわ」
「リリック兄様がわたしを好き? そんなことないと思うわ」
「お姉様って、天然なのか馬鹿なのか、たまにわかんなくなる時があるわ」
あんまりな言いように、遥香は苦笑するしかない。けれどリリックは兄のような存在で、遥香は彼を異性として見たことはないし、また、リリックもそうであると信じていた。
「アリス。万に一つ、リリック兄様がわたしを好きだとしてもね」
「万に一つじゃなくて、確実によ、お姉様」
「えっと……、仮にそうだとしても、わたしはもう婚約しているのよ」
「婚約式はまだじゃない。まだ、つぶそうと思えばつぶせる婚約よ」
「……アリス。この婚約は国同士の問題だから、そう簡単にはいかないのよ」
アリスは少し考えるそぶりをしたあとで、ベッドの上に乗った。すっかり涙の乾いたアリスは、目をキラキラさせて遥香の手をぎゅっと握りしめる。
「わかったわ。お姉様はクロード王子が好きなのね」
「ええ!?」
突然何を言いだすのだろうと声を裏返す遥香にはかまわず、アリスはにこにこと笑みを浮かべた。
「わたし、お姉様とクロード王子が仲良くなるように協力してあげる! そのかわり、リリックとうまくいくようにお姉様はわたしに協力してね」
セザーヌ国の美姫と謳われるアリスは、姉の立場でも見ほれるほどの艶やかな笑みを浮かべると、ぎゅうっと遥香を抱きしめた。
「約束よ、お姉様」
どうしてこうなったのか。
遥香は自問しながらも、アリスの勢いに気おされて、首を縦に振ってしまったのだった。
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