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二度目のキス
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藤倉商事は、水曜日は定時退社日である。
最近、定時退社日が設けられる会社が増えているが、藤倉商事のそれは「強制」だった。どんな事情があったとしても、必ず帰ること。残業は一切禁止の徹底ぶりだ。
大きな商談があると午後から外出していた弘貴も、定時三十分前に慌ただしく帰ってきて、急ぎの書類だけ大慌てで片付けながら、部下たちに定時にはパソコンの電源を落とすようにと指示を出している。
もうじきゴールデンウィークがあるからか、最近、弘貴は仕事に追われていて、とにかく忙しそうだ。自分の仕事のみならず、部下と同行で挨拶回りなどもあり、オーバーワーク気味じゃないかと心配になる。
一方で、忙しいおかげで食事の誘いなどがなくなって、遥香としては安心している部分もあった。
朝が一緒になれば、にこにこと話しかけられて、他人の目がないところでは平然と口説こうとしてくるのは相変わらずだが、強引に誘われることがないのでホッとする。
遥香は定時ちょうどにパソコンの電源を落とした。
階段で一階まで降りて、駅に向けて歩きかけたところで、ばったりと橘に出会った。
「あれ、秋月さん?」
橘も気がついたようで、遥香を見つけて軽く手を上げる。
金曜日にタクシーでマンションの近くまで送ってもらったことを思い出して、改めてお礼を言おうと、遥香は小走りで橘に駆け寄った。
「橘さん、金曜日はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、アイドル顔の橘は、アイドル顔負けのさわやかな微笑みを浮かべた。高橋は「イケメンじゃない」と言ったが、遥香は充分イケメンの部類だろうなと、その見ほれるような笑顔に感心する。
「いえいえ。秋月さんこそ、途中、酔ってたみたいだけど大丈夫だった?」
あ、やっぱり、わかるほどぼーっとしていたんだなと遥香は反省する。いくら酒が弱いとはいえ、酔いつぶれるほど飲まなかったと思うが、弘貴が創業者一族かもしれないという話にショックを受けて心ここにあらずだったのだろう。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
もう一度頭を下げると、橘に笑われた。
「そんな細かいこと気にしないから平気だよ。それより、金曜日は楽しかったね。よかったらまた飲みに行こうよ」
さらっと誘われて、遥香は困惑した。すると遥香が困ったことに気がついたのだろう、橘がおどけて片目をつむる。
「もちろん坂上ちゃんと高橋も入れて四人だよ。俺はシャイだから、女の子と二人きりなんてそんなそんな、緊張しちゃって汗だくになっちゃう」
「ふふ……っ」
遥香の困惑を冗談で笑い飛ばそうとしてくれているのに気がついたから、遥香は笑ってしまった。話してて嫌な感じがまったくない。
(橘さんって、きっと、もてる人なんだろうなぁ)
たぶん、相手の感情の動きをよく見ているのだと思う。遥香が顔に出やすいのもあるのかもしれないが、弘貴ほどではないがイケメンの部類に入る橘を相手にしていても、それほど緊張しないから不思議だった。
「そう言うことなら、もし坂上さんたちが大丈夫なら、また行きましょう」
純粋に、金曜日に四人で飲むのは楽しかった。途中からまともに覚えていないが、それまでが楽しかったことだけは覚えている。
「やったね。じゃあまた誘うね」
それじゃあ、と手を振って橘が歩いていくと、遥香も改めて駅側に向きなおる。そして、遥香はぎくりと足を止めた。
少し離れたところに、弘貴が立っていたのだ。その表情は少しだけ厳しかった。
何もやましいことなどないはずなのに、遥香の心臓が嫌な音を立てる。
弘貴は少しの間遥香をじっと見つめていたが、無言で視線を逸らすと、そのまま遥香の目の前を通りすぎて行く。
遥香はただ、橘と話していただけだ。それなのに、弘貴に見つめられたとき、どうしてか責められている気がした。
理由のわからない罪悪感のようなものが胸の内に広がり、遥香はしばらくその場から動けなかったのだった。
最近、定時退社日が設けられる会社が増えているが、藤倉商事のそれは「強制」だった。どんな事情があったとしても、必ず帰ること。残業は一切禁止の徹底ぶりだ。
大きな商談があると午後から外出していた弘貴も、定時三十分前に慌ただしく帰ってきて、急ぎの書類だけ大慌てで片付けながら、部下たちに定時にはパソコンの電源を落とすようにと指示を出している。
もうじきゴールデンウィークがあるからか、最近、弘貴は仕事に追われていて、とにかく忙しそうだ。自分の仕事のみならず、部下と同行で挨拶回りなどもあり、オーバーワーク気味じゃないかと心配になる。
一方で、忙しいおかげで食事の誘いなどがなくなって、遥香としては安心している部分もあった。
朝が一緒になれば、にこにこと話しかけられて、他人の目がないところでは平然と口説こうとしてくるのは相変わらずだが、強引に誘われることがないのでホッとする。
遥香は定時ちょうどにパソコンの電源を落とした。
階段で一階まで降りて、駅に向けて歩きかけたところで、ばったりと橘に出会った。
「あれ、秋月さん?」
橘も気がついたようで、遥香を見つけて軽く手を上げる。
金曜日にタクシーでマンションの近くまで送ってもらったことを思い出して、改めてお礼を言おうと、遥香は小走りで橘に駆け寄った。
「橘さん、金曜日はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、アイドル顔の橘は、アイドル顔負けのさわやかな微笑みを浮かべた。高橋は「イケメンじゃない」と言ったが、遥香は充分イケメンの部類だろうなと、その見ほれるような笑顔に感心する。
「いえいえ。秋月さんこそ、途中、酔ってたみたいだけど大丈夫だった?」
あ、やっぱり、わかるほどぼーっとしていたんだなと遥香は反省する。いくら酒が弱いとはいえ、酔いつぶれるほど飲まなかったと思うが、弘貴が創業者一族かもしれないという話にショックを受けて心ここにあらずだったのだろう。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
もう一度頭を下げると、橘に笑われた。
「そんな細かいこと気にしないから平気だよ。それより、金曜日は楽しかったね。よかったらまた飲みに行こうよ」
さらっと誘われて、遥香は困惑した。すると遥香が困ったことに気がついたのだろう、橘がおどけて片目をつむる。
「もちろん坂上ちゃんと高橋も入れて四人だよ。俺はシャイだから、女の子と二人きりなんてそんなそんな、緊張しちゃって汗だくになっちゃう」
「ふふ……っ」
遥香の困惑を冗談で笑い飛ばそうとしてくれているのに気がついたから、遥香は笑ってしまった。話してて嫌な感じがまったくない。
(橘さんって、きっと、もてる人なんだろうなぁ)
たぶん、相手の感情の動きをよく見ているのだと思う。遥香が顔に出やすいのもあるのかもしれないが、弘貴ほどではないがイケメンの部類に入る橘を相手にしていても、それほど緊張しないから不思議だった。
「そう言うことなら、もし坂上さんたちが大丈夫なら、また行きましょう」
純粋に、金曜日に四人で飲むのは楽しかった。途中からまともに覚えていないが、それまでが楽しかったことだけは覚えている。
「やったね。じゃあまた誘うね」
それじゃあ、と手を振って橘が歩いていくと、遥香も改めて駅側に向きなおる。そして、遥香はぎくりと足を止めた。
少し離れたところに、弘貴が立っていたのだ。その表情は少しだけ厳しかった。
何もやましいことなどないはずなのに、遥香の心臓が嫌な音を立てる。
弘貴は少しの間遥香をじっと見つめていたが、無言で視線を逸らすと、そのまま遥香の目の前を通りすぎて行く。
遥香はただ、橘と話していただけだ。それなのに、弘貴に見つめられたとき、どうしてか責められている気がした。
理由のわからない罪悪感のようなものが胸の内に広がり、遥香はしばらくその場から動けなかったのだった。
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