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仮面舞踏会

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 おかゆと栄養ドリンク、カットフルーツと即席みそ汁の入ったスーパーの袋を手に提げて、遥香は弘貴が暮らしている高層マンションのエントランスに立っていた。

 ピカピカのエントランスは、敷居が高くてなかなか入りにくい。

 十二階の端と聞かされてはいたが、部屋番号までは聞いていなかったので、遥香はどうしたらいいのかもわからずに頭を抱えた。

 すると、土曜日に弘貴と一緒にいたところを覚えていてくれたのか、ボブカットの品のいい顔立ちのコンシェルジュが話しかけてきた。

「八城様と一緒にいらっちゃった方ですよね?」

「あ……、はい。覚えていてくださってありがとうございます。あの、体調を崩しているようなので、差し入れを持ってきたんですが……」

 あわよくばコンシェルジュに渡して帰ろうかと考えていると、にっこりと微笑んだコンシェルジュが、心得たように弘貴の部屋のインターフォンを鳴らした。

 少し間があって、弘貴のかすれた声がする。

「お客様がいらっしゃっていますが、お通ししても大丈夫ですか?」

「客?」

 コンシェルジュに目配せされて、遥香はインターフォンに向かっておずおずと口を開いた。

「八城係長、秋月です。あの、おかゆとか、買ってきたんですけど……」

「秋月さん!?」

 びっくりしたような弘貴の声がして、そのあと、がたがたと何かが倒れるような音がした。

「あ、あの……。しんどいと思いますし、コンシェルジュの方に、預けて帰るので……」

「大丈夫だから、あがって」

 慌てた声でそう言った弘貴は、そのあと激しく咳き込んだ。

 このままインターフォン越しに会話させるのは忍びなくなり、遥香はコンシェルジュを見上げると、彼女微笑みを浮かべたままエレベーターがある方向を指さした。ピッと音がして、エレベーターに続く廊下の途中にあるガラス戸が開く。

「わかりました。今からお伺いしますね」

 遥香はインターフォン越しに弘貴に答えて、コンシェルジュに会釈すると、エレベーターに乗り込んで十二階を押した。

 さすがは高層マンションのエレベーターというか、あまり時間もかからずに十二階まで到着すると、遥香は端にある弘貴の部屋の前に立つ。

 部屋の前の呼び鈴が見当たらなかったので、ドアノブを回すと、鍵は開いていた。

「……お邪魔します」

 部屋の中へ小さく呼びかけると、廊下の奥からマスクをした弘貴があらわれた。まだ熱が高いのだろう。顔が赤い。

 彼は、少し足元がおぼつかない様子で迎えに出てくる。

「八城係長、寝ていてください! ふらふらしています!」

 遥香は靴をそろえて部屋の中に入る。奥がリビングのようだ。弘貴を玄関先へ出さないために奥へ進むと、二十畳は軽く超えそうな広いリビングルームがあらわれる。

 だが、おいてある家具は少なく、部屋の中に五人は座れそうな、L字型の黒い革張りのソファとローテーブル、大画面テレビ、そして「水草を育てている」と言っていた、一メートルほどの細長い水槽があるだけだった。

 熱が出て部屋の片づけができていないのか、飲み終わった缶ビールの空き缶やコンビニの弁当箱がローテーブルの下に散乱していた。

 遥香は持参したおかゆなどが入った袋をローテーブルの上においた。

「ほら、寝てください。熱はまだありますか?」

「まだ、少しね。差し入れありがとう」

「いえ。おかゆとか、カットフルーツとか、食べれそうですか? 食べれそうなら、おかゆのパウチを買ってきたので温めますけど……」

「うん、食べる」

 へらっと弘貴が笑って、ソファに腰かけようとするのを、遥香は慌てて止めた。

「だから、寝てくださいって! 温まったら部屋まで持って行くので、起きてちゃダメです」

「でも、部屋散らかってるし……」

「変なこと気にしていないで、寝てください」

「……はい」

 弘貴は渋々頷いて、リビングルームの隣の寝室へ引っ込んだ。

 遥香はあまり使われた形跡のないキッチンに入ると、おかゆのパウチを取り出して水を張った鍋に入れ――自炊はしないが、買ってきたものを温めたりするのに使うのか、鍋はおいてある――、カットフルーツを冷蔵庫に入れた。インスタントの味噌汁用に湯を沸かそうとして、栄養バランスを考えて、野菜スープの方がいいかなと思い悩む。

(いつも、外食か、コンビニのお弁当っぽいし……)

 試しに冷蔵庫をあさってみたが、缶ビールとベットボトルのお茶以外何も入っていなかった。自炊はまったくしないのだろう。

(野菜、買ってこようかな……)

 彼女でもないのに、そこまで出しゃばるのもどうかと考えたが、スープを作るだけだと自分に言い聞かせて、遥香は近くのスーパーまで出かけることにした。

「八城係長、ちょっとだけ出かけてきますけど、寝ててくださいね」

 寝室に向けて声をかけたが返事がない。

 眠っているのかもしれないので、わざわざ起こす必要はないと、遥香はそのまま部屋を出た。

 スーパーで玉ねぎとベーコン、キャベツやニンジンなどの数種類の野菜がカットされて袋詰めになっているものと、調味料を購入して部屋に戻ると、玄関の扉を開けた途端にバタバタと大きな音がして目を丸くした。

「八城係長!?」

 何かあったのかと思って声をかけると、リビングから飛び出してきた弘貴が、パタパタとこちらにかけてきて、遥香をぎゅうっと抱きしめた。

「え? え?」

 急な展開に思考回路が付いていけずに固まっていると、弘貴が大きく息を吐きだした。

「よかった……。寝室が汚すぎて、嫌になって帰っちゃったのかと……」

 どんな心配をしているのだろう。

「違いますよ。野菜スープ作ろうかなって買い物に行ってただけです」

「作ってくれるの!?」

 弘貴がパッと顔を上げる。

 期待に満ちた表情を見て、遥香は少し焦った。

「そ、そんなに料理得意じゃないですからね! 味は保証しませんけど……」

「食べたい」

「……わかりました。作りますから、部屋に戻ってください」

 弘貴はコクコクと頷いて、ふらふらしながら寝室に戻っていく。

 その様子が、子供のようにも子犬のようにも見えて、遥香は小さく笑うと、キッチンへ向かった。

 フライパンはないので、深めの鍋でベーコンと玉ねぎを炒め、カット野菜を煮込んでいく。その間、パウチのおかゆは湯煎で温めた。

 味を調えて出来上がったスープとおかゆをそれぞれ皿に盛り、お盆がないので、大きなプレート皿に乗せて寝室に向かった。

「八城係長、入りますよ?」

 部屋の外で声をかけて扉を開いた遥香は唖然とした。

 服。本。ビールの空き缶に、おつまみの袋。広いはずの部屋の中に、ゴミや脱ぎ散らかした服が散乱している。

 弘貴はもぞもぞと布団から顔を出した。

「……やっぱり、幻滅した?」

 遥香は苦笑した。

「いえ。片づけはあまり得意じゃないんですね」

 ベッドサイドのテーブルにおかゆとスープをおくと、弘貴が起きあがって、ベッドの淵に腰かけた。

「ありがとう。美味しそう。実は、熱出てからまともなもの食べてなくて、助かるよ」

 弘貴はそう言ってマスクを外しかけ、ぴたりと手を止めた。

「どうかしました?」

 不自然なところで手を止めた弘貴に、遥香は首を傾げる。

「うん……。髭、ちゃんと剃ってないから……」

「そんなこと気にしなくていいから、温かいうちに食べてください」

「嫌いにならない?」

「なりません」

 答えてから、遥香はハッと息を呑んだ。

(な、なんか、今の好きって言ったみたいじゃなかった!?)

 否定しようかどうしようかとおろおろしている遥香をよそに、弘貴はマスクを外すと、スプーンとスープ皿を手に取った。

 確かに無精髭は生えているが、気になるほどではない。

 弘貴がスープを口に運ぶのを見届けてから、遥香は片づけのため部屋を出て行った。

 スープはまだ鍋に残っているのでそのままにしておいて、使った包丁などを片付けて、リビングのローテーブルの下に散乱していたゴミを回収する。

 カットフルーツを持って弘貴の寝室に戻れば、スープもおかゆもすべて食べ終えて満足そうな顔をしている彼がいた。

 カットフルーツを差し出すと、嬉しそうにフォークに手を伸ばす。

 食欲があるなら大丈夫そうだとホッとして、弘貴がフルーツを食べ終わると、「寝てください」とベッドに押し込んだ。

「帰るの?」

 布団にもぐりこんだ弘貴が、上目遣いに見上げてくる。

「もちろん帰りますよ」

「……客室、あるよ?」

「何を言ってるんですか。意味がわかりません」

「泊っていけばいいのに」

「泊りません」

 きっぱり告げると、弘貴がシュンとする。

 熱が出て人恋しいのだろうかと考えて、遥香はベッドのそばに腰を下ろした。

「眠るまではそばにいますから、寝てください」

 遥香がそういえば、弘貴が途端にこにこと笑い出した。

「なんか今の、彼女っぽい」

「は?」

 遥香はかあっと頬を染めた。

「ち、違います!」

「諦めて、俺の彼女になってくれればいいのに」

「なりませんっ」

「まだだめかぁ……」

 弘貴ははぁと息を吐きだして目を閉じた。

 しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてくると、遥香は弘貴の寝顔を見つめてそっと心臓の上をおさえる。

 甘えてくるのは、反則だ。

 ――なんか今の、彼女っぽい。

 嬉しそうな、弘貴の笑顔がまぶしかった。

 心臓が、少しドキドキしている。

(好きになったら、ダメ……)

 弘貴は信じられると、心の中で思っている自分がいる。「俺の彼女になってくれればいいのに」と言われて、一瞬頷きそうになった。

 遥香は額に張りついている弘貴の前髪に手を伸ばし、軽く横に払ってから、立ち上がった。

 部屋の中を見渡して、ゴミを回収し、散乱している本を一つの箇所に整頓して積み上げる。洗濯物は洗濯機の前のカゴに入れて、「スープ残っているので、温めて食べてください」とメモ書きを残して部屋を出た。

 ――泊っていけばいいのに。

 本当は、ほんの少しだけ、泊っていきたいと思ってしまったことは、絶対に内緒だ。
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