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デート

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 リリー――遥香は、日当たりのいい窓際で、真っ白なハンカチに刺繍を施していた。

 描いているのは薔薇の花で、丁寧に針を刺していく。

 真っ白な布地に針を入れながら思い出すのは、昨日、中庭でリリックがクロードに向けて言ったことだった。

(アリスがクロード王子の婚約候補だったことは知ってたけど……、リリック兄様とわたしが婚約するかもしれなかったなんて……)

 クロードも驚いていたが、遥香も全く聞かされていなかったので、一日たった今でも驚いている。

 同時に、予定通りリリックと婚約していれば、きっと優しい毎日が待っていたんだろうなと考えてしまい、慌てて首を振った。

 すでに、クロードと婚約したあとなのだ。今更そんなことを考えても仕方がないし、いくら意地悪なことを言う人とはいえ、クロードに失礼だ。

「リリー様、クロード王子がいらっしゃいました」

 侍女に声をかけられて、遥香は顔を上げた。

 本音は、できるだけ会いたくないが、仕方がないだろう。

「お通しして」

 遥香は告げると、途中だった刺繍をおいて立ち上がろうとした。だが、

「そのままでいいですよ」

 部屋に入ったクロードが遥香の手元を見て、にこやかにそう告げる。

 そして彼は、「姫と大事な話があるから」と、何故か侍女たちを部屋から追い出してしまった。

 そのままでいいと言われた遥香は、ハンカチと針を持ったまま、こちらへ歩いて来たクロードを見上げた。

 侍女たちが出て行ったからだろう、クロードはすでに笑顔を消しており、不機嫌そうな表情を浮かべて、遥香の向かいの椅子に腰かけて腕を組んだ。

「昨日のあれはなんだ」

 開口一番に苛々した口調でそう言われて、遥香は首を傾げた。

 不思議そうな表情を浮かべる遥香に、クロードはさらに苛々したらしい。チッと舌打ちする。

「お前は俺の婚約者だと言う自覚を持っているのか。なんだって元婚約候補の男と仲良く庭で散歩している。お前は俺を馬鹿にしているのか」

 遥香はハッと息を呑んだ。クロードは遥香がリリックと一緒にいたことが気に入らなかったらしい。

「……ごめんなさい」

 クロードを馬鹿にしているつもりはなかったが、確かに、リリックと二人でいたのは問題だったかもしれない。遥香は実の兄と一緒にいるのと同じように思っていたが、リリックから婚約候補だったと聞かされた今、クロードを不快にさせたとしても仕方がなかった。

「謝れなんて言っていない。少しは自覚をもって行動しろと言っているんだ。いつもぼんやりしていないで、少しは考えろ!」

 遥香はきゅっと唇をかんだ。

 責められるのは仕方がないと思う。自分がとろい性格で、ぼんやりしているのは知っている。リリックが昨日言ったように、自分は王妃には向かないだろう。どうして遥香が選ばれたのか、まったくわからなかった。

 クロードは嘆息した。

「だいたい、お前の従兄のリリックだってそうだ。婚約者がいる女を勝手に連れ出して、あまつさえ婚約破棄を勧めてくるなんてどういう了見だ。失礼にもほどがあるだろう」

「……リリック兄様は、優しいから、わたしのために言ってくれたんだと思います」

「はあ?」

「わたしは、こういう性格だから、ゆくゆく王妃になったとしても、うまくできるかどうかわからないから……」

「―――つまりお前も、婚約を破棄したいと?」

 クロードの声がぐっと低くなって、遥香は慌てた。

「いえ……。ただ、もともとの予定だったアリスの方が、リリック兄様が言った通り、よかったのではないかと……」

 もちろん、アリスが拒否したからこちらに回ってきた婚約話だということは知っている。それを言ったら、ますますクロードの気分を害してしまうだろうから口には出さないが。

「お前、ふざけてるのか……!」

 ダンッと机を殴られて、遥香はビクッと肩を揺らした。

 クロードを見ると、眉間に深く皺を刻み、遥香を鋭く見据えていた。

 クロードを怒らせてしまったことに気がついた遥香の顔が真っ青になる。

 遥香は机の上にハンカチと針をおき、ドレスのレースを握りしめて、震えながら口を開いた。

「ご、ごめんなさい……。わたしは、クロード王子を、いつも怒らせちゃうみたいだから……、お忙しい中、無理に、気を遣って会いに来ていただかなくても、その、大丈夫ですよ……。放っておかれても、わたしは、なにも文句なんて……」

「いい加減にしろ!」

 クロードは椅子を蹴るように立ち上がった。

 怖くなった遥香も立ち上がり、逃げるように後ずさりするが、すぐに背中が壁に当たって、これ以上逃げられなくなる。

 クロードは壁に片手をつくと、頭一つ分以上は低い遥香を見下ろした。

「俺とお前の婚約が、何のために結ばれているのか、わかっているのか!?」

 至近距離で怒られて、遥香は今にも泣きだしそうになった。婚約の理由は知っている。両国の平和条約のためだ。つまり、これは政略結婚なのだから、遥香にどうこう言える権利はどこにもない。

「わかって、います……。政略結婚です。だから、わたしは―――」

 泣き出しそうな声で答える遥香に、クロードはギリッと奥歯をかみしめた。

 クロードを見上げる遥香の顎を掴み、無理やり上向かせる。

「―――!」

 遥香は、大きく目を見開いた。

 壁に遥香を押さえつけたクロードにより、突然、唇を塞がれたのだ。

「んぅ……っ」

 強引に唇を奪われて、遥香の頭が真っ白になる。

 わかるのは、唇から伝わる熱だけだ。

 生まれてはじめての口づけに、遥香は息の仕方もわからなかった。息が苦しくなり、ぽろりと目じりから涙が零れ落ちると、それに気づいたクロードがハッとしたように唇を離した。

 遥香は唇を両手で押さえ、涙に濡れた漆黒の瞳でクロードを見上げた。

「……どうして……」

 クロードは黙って遥香を見下ろしていたが、やおら手を伸ばすと、目じりに残った涙を親指の腹でぬぐった。

 クロードの指がかすめていく感触に、遥香はきつく目を閉じる。

「……俺は、謝らないぞ」

 クロードは遥香の耳元にそうささやいて、遥香が目を開けるより早くに踵を返した。

 一度もうしろを振り返らずに、部屋から出て行くクロードの背中を見つめながら、遥香は茫然とするしかできなかったのだった。
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