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告白

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 火曜日の夜のキスの一件以来、遥香はひたすら弘貴を避け続けた。

 朝は混雑して苦手なエレベーターを使うようになり、仕事中の業務的な会話は仕方ないにしても、定時になればすぐに帰宅する。話しかけられたときに視線をそらしてしまったのはあからさまだったかもしれないが、反射的な行動だったので仕方ない。

 とにかく避けに避け続け、気がついたら週末になっていた。今日を終えれば、土日は弘貴の顔を見ることもなく、心穏やかに過ごせるだろう。

 だが、午後になって、遥香は弘貴に呼び出された。といっても、オフィスの中でのことだったので、二人きりではない。

「え、中谷さん、早退ですか?」

 弘貴から、同じチームの営業事務の女性社員が早退と聞かされ、遥香は困ったように眉尻を下げた。

 言われてみれば、中谷は朝から体調が悪そうだった。けれど、今日は急ぎの仕事が入っており、中谷の指示のもと資料を作っていたので、彼女がいないのは非常に困る。

 遥香の困惑に気づいたのか、弘貴が気づかわしげに訊ねてきた。

「中谷さんから急ぎの仕事があるって聞いたけど、あとどのくらい残ってるの?」

「あと……、三分の二くらいでしょうか?」

「締め切りはいつ?」

「月曜日の朝一にアポイントが入っているそうなので、今日中です」

「まいったな……。一人じゃ無理そう?」

「過去のデータの洗い出しとか、資料の大枠は作れます。だけど、細かい部分は……、クライアントの要望や予算と調整しなければいけないので、わたしではちょっと……」

「そうだね、担当営業は誰?」

「斎藤さんです」

「斎藤君、今どこにいるの?」

「今日は終日外出で、夜は接待だそうです」

「なるほど、そんなこと言ってたな……。わかった。じゃあ会議のあと、夕方から俺がフォローに回るから、大枠とデータの洗い出しだけ進めておいてくれる?」

「わかりました」

 遥香は頷いて自分のデスクに戻った。

 過去のクライアントのデータをまとめて、業務改善がはかれる点を、データベースをもとに数値化していく。

 提案資料はすべてパワーポイントなので、プレゼン時間と、斎藤が作ったプレゼン内容をもとに、大枠を作り上げていく。

 その間にもかかってくる外線電話の対応などにも追われ、気がついたら夕方の五時前になっていた。

「どう? どこまでできた?」

 会議から戻ってきた弘貴が、遥香のディスプレイを覗き込む。

「大枠と、データ表とグラフは大体終わりました」

「あとは細かいところだけか。斎藤君からもプレゼンの原稿を外から転送してもらったから、それをもとに打ち込んでいけば、今日中には何とかなりそうだな」

「よかった……」

 遥香はホッと息を吐きだした。

 定時まではあと三十分と少し。間違いなく残業にはなるだろうが、間に合うのなら一安心だ。

「斎藤君のプレゼン原稿をもとに、パワポに入れるコメントを考えてメールにまとめていくから、打ち込んで仕上げて行ってくれる?」

「はい」

 遥香は弘貴の指示通り、パワーポイントにコメントを打ち込んでいく。そして、最後に細かい部分の修正を終え、資料が仕上がったときは七時半になっていた。

 パソコンをシャットダウンして、はあ、と息を吐くと、同じくパソコンを閉じた弘貴が近くまでやってきた。

「お疲れ。遅くまでごめんね」

「いえ……」

 目の前の危機を脱したせいか、ふいに弘貴の存在が気になって、遥香は体を強張らせた。

 こっそりオフィスの中に視線を走らせると、遥香と弘貴以外誰もいない。二人きりは避けたかったはずなのに、それすら気づかないほど集中していたらしい。

 遥香は急いで荷物をまとめた。

 だが、遥香が逃げるように帰宅する前に、弘貴が口を開く。

「秋月さん、この前は、ごめんね」

 この前――、それは火曜日の夜のキス以外に思いつくことはなく、遥香はドクンと音を立てた心臓の上をおさえる。

 早く忘れたいのに、蒸し返さないでほしかった。

 遥香が膝の上に鞄を抱えて、黙り込んでいると、弘貴は遥香のデスクの上に手をついた。

 弘貴が体重をかけたからか、カタン、とデスクが小さな音を立てる。

 弘貴の体温が近くに感じられて、遥香は恐る恐る顔を上げた。

 肩の先が当たりそうなほど、弘貴が近くにいる。

 キスの感触を思い出してしまって、遥香は首を横に振ってそれを頭から追い出すと、消え入りそうなほど小さな声で弘貴に言った。

「……あんなこと、もう、しないでください」

 けれど、弘貴は頷かなかった。

 デスクについていない方の手をゆっくりと持ち上げると、かろうじて触れるくらいの距離で遥香の頬を撫でていく。

 羽が触れているような感覚に、ぞくり、と背中の産毛が逆立った。

「秋月さん、俺――、君が好きだ」

「―――っ」

 遥香は弘貴を見上げたまま、細く息を呑んだ。ひゅっと喉が鳴る。

「知り合ったばかりで、信じられないかもしれないけど、嘘じゃない。それに君とは、はじめて会った気がしないんだ」

 メガネのレンズの奥の切れ長の双眸が、真剣な光を宿している。

 急激に脈が速くなって、遥香は息苦しさを覚えた。

 弘貴の瞳に、ほんの少しでも揶揄するような光が見えたなら、「冗談言わないでください」と突っぱねて逃げることもできただろう。けれど、彼の表情は本当に真剣で、冗談にして逃げることはどうやっても無理そうだった。

「わたし……は……」

 口の中が渇く。

 頭の中は疑問符だらけで、脳は正常に機能していない。

 そのとき、ふと、ほとんど停止しかけていた脳の裏側に、一人の男の顔があらわれて消えた。


 ――お人形のくせに。


 脳裏に響いた、嘲るようなその声に、遥香の全身の筋肉が強張った。

(ああ、……無理)

 弘貴は「彼」ではない。それはわかっているが、遥香は端正な顔をした弘貴の言うことを、どうしても信じることはできない。

 そもそも、「好き」だと言われる理由が全くわからないのだ。

 どこにでもある平凡な顔立ち、特に明るくも華やかでもない性格、おしゃれでもないし、気の利いたことは何一つ言えない。

 こんな自分のどこを、彼は好きだと言うのだろうか。

 自分自身でさえ、自分を、胸を張って好きだと言えないのに。

 都合がよく、適当に遊んで捨てられると思われているのではないかと疑心暗鬼にすらなってくる。

 遥香は弘貴の視線から逃げるようにうつむいた。

「わたしは……、八城係長のこと、好きには、なれません……」

 蚊の鳴くような小さな声で、なんとかそれだけ答えると、遥香は小さく震えた。怒らせたかもしれないと思ったからだ。

 二人きりの社内では、運動神経のない遥香が逃げられるところなんて、どこにもない。

「そっか……」

 弘貴は吐息交じりの声でそう言って、そっと遥香の頭に手をおいた。

 びくっと肩を揺らした遥香を落ち着けるように、優しく髪を梳いていく。

「ごめん。二人きりの社内でこんなことを言われたら、怖いよね」

 その声がとても優しくて、遥香はなぜだか泣きそうになった。

 弘貴は遥香の頭を撫でながら引き寄せ、ふんわりと抱きしめた。遥香は座ったままで、弘貴は立っているので、抱き寄せられると彼のおなかのあたりに頭がくる。

 鍛えているのか、硬い腹筋に側頭部を押し付けるような体勢になり、遥香の顔に熱がたまった。

 弘貴は子供をあやすように、よしよしと遥香の頭を撫でる。

「でもね、俺、結構しつこいから」

「え?」

 遥香はびっくりして顔を上げた。

 弘貴は優しい目をして微笑んでいた。

「だから、簡単にはあきらめたりしないよってこと」

 遥香は目を見開いた。茫然としているうちに、弘貴が体をかがめて、頭のてっぺんにチュッと口づける。

「―――!」

 遥香は思わず弘貴を突き飛ばして、頭のてっぺんに手をおいた。

 突き飛ばされても、片足を下げただけで、平気そうな顔をした弘貴は、にこにこと微笑んでいる。

 遥香は鞄を持って立ち上がった。

「か、かえります!」

「うん。駅まで送るよ」

「大丈夫です!」

 くるりと踵を返して、一人でオフィスから出て行こうとした遥香のうしろを、弘貴が勝手についてくる。

 弘貴はオフィスの施錠をしてから遥香を追いかけたのだが、一歩当たりの歩幅が違うため、あっさりと追いつかれてしまった。

「一人で帰れます」

「うん。でも俺が送りたいから」

「でも……」

「言ったでしょ? 俺はしつこいから、諦めて」

 弘貴は、やはり少し強引だ。

 何を言ってもダメだろうし、逃げようとしても勝手についてくるし、もちろん運動神経に差がありすぎるために、走ったところであっさり捕まるだろう。

 どうやったって弘貴から逃れられないと知った遥香は、諦めて駅までの道のりを弘貴と肩を並べて歩いた。

 さりげなく車道側を歩いてくれる優しさに、遥香は心がほっこりと温かくなるのを感じる。

 弘貴は強引だけど、優しい人なのだろう。

 弘貴を信じられて、付き合うことができたなら、とても幸せになれるような気がした。

(……だめ)

 弘貴のやさしさにほだされそうになった遥香だったが、心の中に浮かび上がってきた甘い考えを、慌てて消し去る。

 たった一人だけ、過去に付き合ったことのある男性の顔が浮かんで、消える。


 ――お前ごときが、本命になれると思ってたの?


 あの時の嘲笑を浮かべた彼の顔を思い出して、遥香はじんわりと目に涙がたまっていくのがわかった。こんなところで突然泣き出したら変に思われる、とこっそり涙をぬぐっていると、弘貴がそれに気がついて顔を覗き込んでくる。

「どうしたの?」

「あ、目にゴミが……」

「大丈夫? 見せて」

「いえ、もう取れたと思うので……」

 目の端の涙をぬぐっていると、弘貴がそっと目元にハンカチを押しつける。

「もう痛くない?」

 心配そうに訊ねてくる弘貴が優しくて、感傷的になっていた遥香はまた泣きたくなってくる。

 弘貴と恋ができれば、幸せなのだろう。

 好きなのかと問われれば、きっとまだそんな感情は芽生えていないのだろうが、彼のそばにいれば、きっとすぐに好きになれる気がした。

 でも、遥香はきっと彼の手は取らないだろう。


 なぜなら遥香は、もう二度と、恋愛で傷つきたくはなかったから――
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