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キス

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「ごめんね、ほんとに、ごめんね!」

 手を合わせながら何度も謝る同じチームの中谷に、遥香は笑顔を浮かべて「大丈夫です」と答えた。

 三十二歳既婚者の中谷は、今日が結婚記念日らしい。ほかの業界で働いている夫と外食する予定を入れており、レストランも予約しているそうなのだが、急ぎの仕事が入って残業しなくてはいけなくなったのだ。それを、事情を知る遥香が「わたしでよければ、かわりましょうか?」と申し出たのである。

 中谷は、最初は申し訳ないと言っていたのだが、今日予約していたレストランが、半年先まで予約が埋まっている人気レストランなこともあり、最後はこうして謝りながら、かわりの残業を頼んできたのだ。

 仕事の指示だけを残し、ぱたぱたと慌ただしくオフィスを飛び出していく中谷の後姿を見ながら、遥香は心の中で「いいなぁ」とつぶやいた。

 結婚して、幸せな毎日を送っている人を見ると、どうしても羨ましくなってしまう。

 既婚者の友人は「いいことばかりじゃないのよ」と言うが、それでも遥香は大好きな人と一緒にいられるということが、とても羨ましく感じられるのだ。

(って、ぼーっとしてちゃダメだわ。仕事仕事)

 遥香はパソコンに向かい、中谷に頼まれた提案資料を作りはじめた。

 近年流行りの「ホワイト企業」を目指す藤倉商事は、定時退社を推進している。それでも仕事が残っている場合の残業は認められるが、最近は定時に上がる社員が増え、定時後の社内は閑散かんさんとしていた。

 明かりが半分消えたオフィスで、カタカタとキーボードを叩いていると、突然、目の前にコーヒーの紙コップがおかれた。

 びっくりして顔を上げると、同じ紙コップのコーヒーに口をつけながら、八城弘貴が背後に立っていた。

「お疲れ様」

「あ……、ありがとうございます」

「もう八時半だよ」

「もうそんな時間ですか?」

 遥香はオフィスの中に視線を走らせた。みんな帰宅したようで、社内には遥香と弘貴しかいないようだ。

 弘貴は隣のデスクの椅子を引っ張ってくると、ディスプレイを覗き込んだ。

「へぇ、すごいね、見やすい。この画像、どうやって処理したの?」

「あ、これは……」

 遥香が簡単に画像の加工をやってみせると、弘貴はきらきらと目を輝かせた。

「すごい、詳しいね! 俺の提案資料も修正してほしいくらいだ。前職、広告代理店だっけ? さすが。同じパワーポイントの資料とは思えないよ」

 手放しでほめられて、遥香は恥ずかしくなってうつむいた。

「あとどのくらいで終わりそう?」

「あと十分もあれば……。八城係長は、先に帰って……」

「部下が仕事してるのに帰らないよ。十分ね! じゃあ、俺も書類整理してるから、終わったら声かけてくれる?」

「はい……」

 遥香の仕事が遅いせいで待たせたのかもしれない。そう思うと申し訳なくて、遥香は資料の仕上げを急いだ。

 予定よりも三分早く仕事が終わってパソコンの電源を落とし、弘貴に声をかけようと振り返ると、ちょうど目が合って微笑まれる。

「終わった?」

「はい」

「オッケー、じゃあ、帰ろっか」

 待たせておいて、一人だけそそくさと帰るのも感じが悪いので、遥香は弘貴と肩を並べて歩き出した。階段を下りながら、「お待たせしてすみませんでした」と謝れば、弘貴は「いやいや」と首を振る。

「本来、秋月さんの仕事じゃないでしょ? かわりにやってくれて助かったよ」

「でも、中谷さんなら、もっと早く仕上げられたと思うし」

「んー、でも、中谷さんの作った資料と、秋月さんの作った資料は違うでしょ? 俺、さっき見た秋月さんの資料は、とても見やすくて素敵だと思うけど」

「そう……でしょうか?」

「そうだよ」

 きっと弘貴は優しいのだろう。お世辞だとわかっているのだが、優しくされると心がポカポカしてきて、遥香ははにかんだように微笑んだ。

 弘貴は会社のビルを出たところで足を止めた。

「秋月さん、もちろん、晩飯まだだよね」

「はい、まだですけど……」

「何か食べて帰らない?」

 遥香はびっくりして息を呑んだ。頭の中でぐるぐると断る言い訳を考えていると、畳みかけるように弘貴が言う。

「俺、一人暮らしだから外食なんだ。一人で飯食うのも味気ないから、少しだけ付き合ってくれると嬉しいんだけど」

 ここまで言われると、意固地いこじになって断ることはできない。

 遥香は少しだけ困った顔をして、小さくうなずいた。
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