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雪が解け、庭の木には若葉が芽吹こうとしている。
わたしは王都から届けられた手紙に目を落とし、ふう、と息を吐き出した。
シュタウピッツ公爵邸の使用人たちを連れてディートリヒが王都に戻って数か月。
季節は春になったというのに、彼はまだこちらに戻って来ないし、わたしに王都に来いとも言わない。
今回の件の話し合いが長引いているのだろう。
ディートリヒの手紙には、シュタウピッツ公爵家が爵位剥奪になるだろうと書かれているが、子爵家や男爵家の爵位を剥奪するのと公爵家の爵位を剥奪するのでは意味が変わってくる。
大勢の領民を抱え、そして大きな派閥の中心であるシュタウピッツ公爵家が爵位剥奪となると、慌てる人は大勢いる。低く見積もっても万単位だろう。
シュタウピッツ公爵家の爵位を剥奪したとして、この領地をどうするのかと言う問題もあるし、一朝一夕で結論が出る問題ではない。
そう、わたしはまだ、シュタウピッツ公爵領の、シュタウピッツ公爵邸にいた。
シュタウピッツ公爵邸をこのまま放置することもできないと、わたしと騎士たち、それからバルドゥルたち魔族は邸に留まっていてほしいと言われているのだ。
シュタウピッツ公爵家の人間が証拠隠滅を計画するかもしれないので、誰かが邸を見ていなければならないらしい。
「エレオノーラ様、あらかたの処分が終わりました」
ダイニングでぼんやりしていると、バルドゥルがやって来た。
彼には幻惑草をはじめ、人間に害を及ぼす植物を処分するように頼んでいた。
シュタウピッツ公爵家の罪が明るみに出ても、さすがに魔族の存在は明るみにできない。もしかしたら国王陛下には説明するかもしれないとディートリヒが言っていたが、それ以外については伏せると言っていた。
だから、魔力がある地でしか育たない植物のうち、人間に害のあるものは処分していいとディートリヒから連絡が来たのだ。
魔族を捕まえて閉じ込めていたシュタウピッツ公爵家は、魔族を利用して、魔力のある地でしか育たない植物を育て、さらにはより効力の高いものを新しく作り出せないかと研究していたのである。
ジークレヒトが持っていた幻惑草も、王妃に飲まされていた避妊薬の元となる草もここから見つかった。
可哀想だが、危険なものは残しておけないと、わたしは、人間に害のある植物のみ、すべて処分してしまうことに決めたのだ。
「それからこれを、庭に咲いていたので」
バルドゥルが差し出したのはユリのような形をした銀色の花だった。
「これは……月ユリじゃない」
「はい。温室で咲いていたのを見つけました」
月ユリも魔力のある地でしか育たない植物だが、これは別に人体に害はない。しいて言えば、いい香りがして、安眠効果のある花だった。もちろんその安眠効果については、人間界に生息しているハーブの類などとは比べ物にならないほどの効果がある。
……この花、寝つきがよくなるだけじゃなくて幸せな夢が見られるのよね。
月ユリを枕元に飾っておけば悪夢なんてものは絶対に見ない。必ず、自分が望む幸せな夢を見ることができる花なのだ。
「ありがとう。懐かしいわ……」
わたしがサンドリアだったころに大好きな花だった。
こうして今も目にできるとは思ってもみなかった。
地下に捕らえられていた魔族たちは現在、バルドゥルが面倒を見ている。
彼がひっそりと暮らしていた集落からも一部の魔族たちを呼んで、なかなかの大所帯だ。
地下で衰弱していた彼らは今ではすっかり元気になって、邸の細々とした仕事をしてくれたり、体を動かすことが好きな者たちは騎士たちの鍛錬に参加したりして、楽しそうに過ごしていた。
「……このまま、エレオノーラ様がここにとどまってくださると嬉しいのですけど」
バルドゥルがぽそりと呟く。
わたしがこの地を去って、シュタウピッツ公爵家以外の誰かがこの地の領主におさまったあとのことを考えては、バルドゥルは不安になるらしい。
わたしもできることならばせっかく出会えた同胞たちと一緒にいたいけれど、こればかりはわたしの我儘で通していい問題でもなかった。
バルドゥルが一礼してダイニングから出て行くと、わたしは月ユリを持って二階の自室に使っている部屋へ向かう。
花瓶に水を入れて月ユリを生けると、ごろんとベッドに寝転がった。
……これからどうなるのかしらね。
ディートリヒのことは信頼している。けれどディートリヒの一存でどうにかなる問題でもないだろう。
ディートリヒはこの地の――ここに住む魔族たちの将来を考えて、今、必死で王都で戦ってくれているが、この地の新たな領主を誰にするのかを決めるのは国王と大臣たちだ。
……会いたいなぁ。
ディートリヒは元気だろうか。
手紙では元気そうだった。
フランツィスカ王妃のお腹はかなり大きくなっていて、すでに懐妊中であると世間にも公表している。
ジークレヒトは王太子候補の身分を剥奪されたそうだが、ディートリヒも、王妃の出産を待って王太子候補の身分を返上するそうだ。
フランツィスカははじめての出産が不安なのか、最近しきりに聖女であるわたしに王都に戻ってきてほしいとディートリヒにこぼしているらしい。
……まさかディートリヒこそが聖女の力を持った人だなんて思わないでしょうね。
ふふ、と笑う。
そういえばユリアだが、彼女は心のケアを優先され、その後は処刑ではなく修道院に入れられることになった。ユリアもまた、ジークレヒトに利用された一人だとわかったからだ。
グレータ・シュタウピッツ公爵夫人のお茶会にユリアが乱入したことが気になっていたが、なに、それを手引きしたのがジークレヒトだと言うのならば納得である。
ジークレヒトはユリアにわたしが消えればユリアが聖女に選ばれるはずだ、そうすれば再び婚約できるなどと甘い言葉をささやいた。幻惑草を片手に。
ユリアは幻惑草の効果もあり、ジークレヒトの甘いささやきにすっかり酔ってしまった。
いつから考えていたのか、ジークレヒトはユリアを魔族の「母体」にしようと考えていた。そしてユリアをうまく連れ去る方法を模索していた。
ユリアを罪人にし、なおかつわたしへの恩が売れるあのお茶会の襲撃は、ジークレヒトの自作自演だったというわけだ。
ユリアの処刑があっさりと決まった一件だって、蓋を開ければなんてことはない。ジークレヒトは常に幻惑草を持ち歩き、王城内の人間を少しずつ掌握して言っていた。議会はすっかり彼の言いなりだったというわけだ。気がつかなかったわたしも馬鹿だ。なにも、あんなにも堂々と幻惑草を持ち歩いていたのだから、彼の目的に予想くらい立てられただろうに。
幻惑草はすべて没収したから、ジークレヒトの言いなりになっていた人物たちも、季節が廻った今頃はすでにその効果もすっかり消えてもとに戻っている頃だろう。
ちなみに王妃に堕胎薬を盛った侍医は、ジークレヒトの母グレータの差し金だった。
ジークレヒトを次の王にしたかったグレータは侍医を使ってフランツィスカに避妊薬を飲ませ続け、妊娠がわかったら堕胎薬を処方させていたのである。
相手は弟の妻であろうに、権力とは恐ろしいものだ。
ふわりと、月ユリの香りが鼻孔をくすぐる。
月ユリの香りのせいだろう、なんだか眠たくなってきた。
わたしはふわぁとあくびを一つして、ベッドの上で猫のように丸くなる。
少しだけ昼寝をしようと、目を閉じて――そして、夢を見た。
☆
エレオノーラ、と誰かが呼んでいる。
夢の中でわたしは草原にいて、大きな木の下にお弁当の準備をしていた。
そこへ、二人の子供の手を引いて、ディートリヒが歩いてくる。
エレオノーラ、と彼が優しく名前を呼んで――
ああ、なんていい夢なのかしらと、わたしは笑った。
☆
「ふふふ……」
「エレオノーラ?」
月ユリの甘い香りがほのかに香る寝室で、わたしは優しく揺り起こされた。
パチリと目を開けると、灰色の髪に綺麗な青い瞳をした男がこちらを見下ろしている。
三十をいくつか過ぎた彼は、昔と変わらず優しい顔をしていた。
わたしは夢と現実とがちょっとわからなくなって、ぱちぱちと目をしばたたく。
そして首を巡らせて、ああ、と頷いた。
「寝ちゃってたんですね、わたし」
「うん、その花を置いていたせいだろうね」
くすくすとディートリヒが笑う。
――あれから十二年の月日が流れた。
わたしは相変わらずシュタウピッツ公爵領――いや、サンドリア公爵領と名を変えた西の地にいる。
シュタウピッツ公爵家の人間を捕らえ、地下に捕らえられていた魔族たちを解放したのち、王都に戻ったディートリヒは、夏を過ぎたくらいに戻って来た。
フランツィスカ王妃は無事に男の子を出産、その後ももう一人女の子が生まれている。
王太子候補でなくなったディートリヒは、本来であればケルヒェン公爵家を継ぐはずだったのだが、彼はそれを弟に譲って新たな爵位を手に入れてきた。
それがこの、「サンドリア公爵」という爵位である。
……今でもちょっと恥ずかしいわ。
シュタウピッツ公爵家は爵位剥奪の上取りつぶしになって、その後この地をどうするかという点で議会はもめていたそうだ。
そこに白羽の矢が立ったのがディートリヒで、彼も、魔族が暮らすこの地のことを気にかけてくれていたからそれを受け入れてくれた。
しかしシュタウピッツ公爵家は取りつぶしのためその名を名乗ることはできない。
新たな名をと言われたディートリヒは、迷わずわたしの前世の名前であるサンドリアにすると決めたらしい。……わたしに断りもなく、である。ちょっとひどい。知っていたら恥ずかしすぎて断固拒否したのに、たぶん彼はわたしが恥ずかしがって拒否するのを見越して勝手に決めたのだ。
「なんで不機嫌なの?」
むうっと昔を思い出して眉を寄せていると、ディートリヒが不思議そうに首をひねる。
「……夫の横暴を思い出していたんです」
「え? そんなことした⁉」
わたしが恨みがましく言えば、ディートリヒが慌てだした。
今も昔も優しい彼は、知らないうちにわたしを傷つけたのではないかとおろおろしている。
慌てるディートリヒの顔を見ているとちょっと溜飲が下がって、わたしはくすくすと笑った。
ディートリヒがサンドリア公爵位を賜ってこの地に戻って来た一年後、わたしは彼と結婚してサンドリア公爵夫人となった。つまりかつての名前を、姓に持ったわけだ。
この地に住まう魔族たちは、国王との話し合いの末「魔族」であると言うことを伏せて普通に生活している。
というのも、人間だ魔族だなどと種族を分けるからいらぬ諍いを生むのだと、種族を気にせず同じ人間として過ごせばいいではないかと国王が言ったためだ。
魔族が生きていることに国王は驚いたそうだが、ディートリヒの話を聞いてそうして柔軟に考えてくれる当たり、とてもいい王だと思う。
けれども黒髪に黒い瞳への偏見が完全に消えたわけではないので、魔族たちがよその地に行っても平和に暮らして行けるかどうかはわからない。
そうなるには長い年月が必要で、一朝一夕で変わるものではないからだ。
ゆえに魔族たちは当面の間サンドリア公爵領で暮らすのが一番平和だろうということになり、バルドゥルたちが遠くの地を転々としていた魔族たちを呼びよせたりして、今では領民の五分の一が魔族である。結構いたものだ。
そんな魔族と人間だが、この十二年の間に、魔族と人間で結婚した夫婦も増えた。当然子供も生まれている。こうして少しずつ同じになっていくのだろうかと、わたしはこの十二年を思い出してちょっと感慨深くなった。
「ほら、そろそろ昼寝もやめて下に降りないと子供たちがうるさいよ」
「ああ、本当ですね。お茶の時間だわ」
時計を確認して、わたしはディートリヒに手を引かれてベッドから降りる。
わたしとディートリヒの間には二人の子が産まれていて、まだ幼い我が子たちは、毎日のお茶の時間に出されるお菓子を楽しみにしているのだ。遅れたらふくれっ面で文句を言われる。
「行こう」
ディートリヒに手を引かれて歩き出す。
階下から子供たちの声が聞こえてきて、わたしは、ああ、なんて幸せなのかしらと目を細めた――
わたしは王都から届けられた手紙に目を落とし、ふう、と息を吐き出した。
シュタウピッツ公爵邸の使用人たちを連れてディートリヒが王都に戻って数か月。
季節は春になったというのに、彼はまだこちらに戻って来ないし、わたしに王都に来いとも言わない。
今回の件の話し合いが長引いているのだろう。
ディートリヒの手紙には、シュタウピッツ公爵家が爵位剥奪になるだろうと書かれているが、子爵家や男爵家の爵位を剥奪するのと公爵家の爵位を剥奪するのでは意味が変わってくる。
大勢の領民を抱え、そして大きな派閥の中心であるシュタウピッツ公爵家が爵位剥奪となると、慌てる人は大勢いる。低く見積もっても万単位だろう。
シュタウピッツ公爵家の爵位を剥奪したとして、この領地をどうするのかと言う問題もあるし、一朝一夕で結論が出る問題ではない。
そう、わたしはまだ、シュタウピッツ公爵領の、シュタウピッツ公爵邸にいた。
シュタウピッツ公爵邸をこのまま放置することもできないと、わたしと騎士たち、それからバルドゥルたち魔族は邸に留まっていてほしいと言われているのだ。
シュタウピッツ公爵家の人間が証拠隠滅を計画するかもしれないので、誰かが邸を見ていなければならないらしい。
「エレオノーラ様、あらかたの処分が終わりました」
ダイニングでぼんやりしていると、バルドゥルがやって来た。
彼には幻惑草をはじめ、人間に害を及ぼす植物を処分するように頼んでいた。
シュタウピッツ公爵家の罪が明るみに出ても、さすがに魔族の存在は明るみにできない。もしかしたら国王陛下には説明するかもしれないとディートリヒが言っていたが、それ以外については伏せると言っていた。
だから、魔力がある地でしか育たない植物のうち、人間に害のあるものは処分していいとディートリヒから連絡が来たのだ。
魔族を捕まえて閉じ込めていたシュタウピッツ公爵家は、魔族を利用して、魔力のある地でしか育たない植物を育て、さらにはより効力の高いものを新しく作り出せないかと研究していたのである。
ジークレヒトが持っていた幻惑草も、王妃に飲まされていた避妊薬の元となる草もここから見つかった。
可哀想だが、危険なものは残しておけないと、わたしは、人間に害のある植物のみ、すべて処分してしまうことに決めたのだ。
「それからこれを、庭に咲いていたので」
バルドゥルが差し出したのはユリのような形をした銀色の花だった。
「これは……月ユリじゃない」
「はい。温室で咲いていたのを見つけました」
月ユリも魔力のある地でしか育たない植物だが、これは別に人体に害はない。しいて言えば、いい香りがして、安眠効果のある花だった。もちろんその安眠効果については、人間界に生息しているハーブの類などとは比べ物にならないほどの効果がある。
……この花、寝つきがよくなるだけじゃなくて幸せな夢が見られるのよね。
月ユリを枕元に飾っておけば悪夢なんてものは絶対に見ない。必ず、自分が望む幸せな夢を見ることができる花なのだ。
「ありがとう。懐かしいわ……」
わたしがサンドリアだったころに大好きな花だった。
こうして今も目にできるとは思ってもみなかった。
地下に捕らえられていた魔族たちは現在、バルドゥルが面倒を見ている。
彼がひっそりと暮らしていた集落からも一部の魔族たちを呼んで、なかなかの大所帯だ。
地下で衰弱していた彼らは今ではすっかり元気になって、邸の細々とした仕事をしてくれたり、体を動かすことが好きな者たちは騎士たちの鍛錬に参加したりして、楽しそうに過ごしていた。
「……このまま、エレオノーラ様がここにとどまってくださると嬉しいのですけど」
バルドゥルがぽそりと呟く。
わたしがこの地を去って、シュタウピッツ公爵家以外の誰かがこの地の領主におさまったあとのことを考えては、バルドゥルは不安になるらしい。
わたしもできることならばせっかく出会えた同胞たちと一緒にいたいけれど、こればかりはわたしの我儘で通していい問題でもなかった。
バルドゥルが一礼してダイニングから出て行くと、わたしは月ユリを持って二階の自室に使っている部屋へ向かう。
花瓶に水を入れて月ユリを生けると、ごろんとベッドに寝転がった。
……これからどうなるのかしらね。
ディートリヒのことは信頼している。けれどディートリヒの一存でどうにかなる問題でもないだろう。
ディートリヒはこの地の――ここに住む魔族たちの将来を考えて、今、必死で王都で戦ってくれているが、この地の新たな領主を誰にするのかを決めるのは国王と大臣たちだ。
……会いたいなぁ。
ディートリヒは元気だろうか。
手紙では元気そうだった。
フランツィスカ王妃のお腹はかなり大きくなっていて、すでに懐妊中であると世間にも公表している。
ジークレヒトは王太子候補の身分を剥奪されたそうだが、ディートリヒも、王妃の出産を待って王太子候補の身分を返上するそうだ。
フランツィスカははじめての出産が不安なのか、最近しきりに聖女であるわたしに王都に戻ってきてほしいとディートリヒにこぼしているらしい。
……まさかディートリヒこそが聖女の力を持った人だなんて思わないでしょうね。
ふふ、と笑う。
そういえばユリアだが、彼女は心のケアを優先され、その後は処刑ではなく修道院に入れられることになった。ユリアもまた、ジークレヒトに利用された一人だとわかったからだ。
グレータ・シュタウピッツ公爵夫人のお茶会にユリアが乱入したことが気になっていたが、なに、それを手引きしたのがジークレヒトだと言うのならば納得である。
ジークレヒトはユリアにわたしが消えればユリアが聖女に選ばれるはずだ、そうすれば再び婚約できるなどと甘い言葉をささやいた。幻惑草を片手に。
ユリアは幻惑草の効果もあり、ジークレヒトの甘いささやきにすっかり酔ってしまった。
いつから考えていたのか、ジークレヒトはユリアを魔族の「母体」にしようと考えていた。そしてユリアをうまく連れ去る方法を模索していた。
ユリアを罪人にし、なおかつわたしへの恩が売れるあのお茶会の襲撃は、ジークレヒトの自作自演だったというわけだ。
ユリアの処刑があっさりと決まった一件だって、蓋を開ければなんてことはない。ジークレヒトは常に幻惑草を持ち歩き、王城内の人間を少しずつ掌握して言っていた。議会はすっかり彼の言いなりだったというわけだ。気がつかなかったわたしも馬鹿だ。なにも、あんなにも堂々と幻惑草を持ち歩いていたのだから、彼の目的に予想くらい立てられただろうに。
幻惑草はすべて没収したから、ジークレヒトの言いなりになっていた人物たちも、季節が廻った今頃はすでにその効果もすっかり消えてもとに戻っている頃だろう。
ちなみに王妃に堕胎薬を盛った侍医は、ジークレヒトの母グレータの差し金だった。
ジークレヒトを次の王にしたかったグレータは侍医を使ってフランツィスカに避妊薬を飲ませ続け、妊娠がわかったら堕胎薬を処方させていたのである。
相手は弟の妻であろうに、権力とは恐ろしいものだ。
ふわりと、月ユリの香りが鼻孔をくすぐる。
月ユリの香りのせいだろう、なんだか眠たくなってきた。
わたしはふわぁとあくびを一つして、ベッドの上で猫のように丸くなる。
少しだけ昼寝をしようと、目を閉じて――そして、夢を見た。
☆
エレオノーラ、と誰かが呼んでいる。
夢の中でわたしは草原にいて、大きな木の下にお弁当の準備をしていた。
そこへ、二人の子供の手を引いて、ディートリヒが歩いてくる。
エレオノーラ、と彼が優しく名前を呼んで――
ああ、なんていい夢なのかしらと、わたしは笑った。
☆
「ふふふ……」
「エレオノーラ?」
月ユリの甘い香りがほのかに香る寝室で、わたしは優しく揺り起こされた。
パチリと目を開けると、灰色の髪に綺麗な青い瞳をした男がこちらを見下ろしている。
三十をいくつか過ぎた彼は、昔と変わらず優しい顔をしていた。
わたしは夢と現実とがちょっとわからなくなって、ぱちぱちと目をしばたたく。
そして首を巡らせて、ああ、と頷いた。
「寝ちゃってたんですね、わたし」
「うん、その花を置いていたせいだろうね」
くすくすとディートリヒが笑う。
――あれから十二年の月日が流れた。
わたしは相変わらずシュタウピッツ公爵領――いや、サンドリア公爵領と名を変えた西の地にいる。
シュタウピッツ公爵家の人間を捕らえ、地下に捕らえられていた魔族たちを解放したのち、王都に戻ったディートリヒは、夏を過ぎたくらいに戻って来た。
フランツィスカ王妃は無事に男の子を出産、その後ももう一人女の子が生まれている。
王太子候補でなくなったディートリヒは、本来であればケルヒェン公爵家を継ぐはずだったのだが、彼はそれを弟に譲って新たな爵位を手に入れてきた。
それがこの、「サンドリア公爵」という爵位である。
……今でもちょっと恥ずかしいわ。
シュタウピッツ公爵家は爵位剥奪の上取りつぶしになって、その後この地をどうするかという点で議会はもめていたそうだ。
そこに白羽の矢が立ったのがディートリヒで、彼も、魔族が暮らすこの地のことを気にかけてくれていたからそれを受け入れてくれた。
しかしシュタウピッツ公爵家は取りつぶしのためその名を名乗ることはできない。
新たな名をと言われたディートリヒは、迷わずわたしの前世の名前であるサンドリアにすると決めたらしい。……わたしに断りもなく、である。ちょっとひどい。知っていたら恥ずかしすぎて断固拒否したのに、たぶん彼はわたしが恥ずかしがって拒否するのを見越して勝手に決めたのだ。
「なんで不機嫌なの?」
むうっと昔を思い出して眉を寄せていると、ディートリヒが不思議そうに首をひねる。
「……夫の横暴を思い出していたんです」
「え? そんなことした⁉」
わたしが恨みがましく言えば、ディートリヒが慌てだした。
今も昔も優しい彼は、知らないうちにわたしを傷つけたのではないかとおろおろしている。
慌てるディートリヒの顔を見ているとちょっと溜飲が下がって、わたしはくすくすと笑った。
ディートリヒがサンドリア公爵位を賜ってこの地に戻って来た一年後、わたしは彼と結婚してサンドリア公爵夫人となった。つまりかつての名前を、姓に持ったわけだ。
この地に住まう魔族たちは、国王との話し合いの末「魔族」であると言うことを伏せて普通に生活している。
というのも、人間だ魔族だなどと種族を分けるからいらぬ諍いを生むのだと、種族を気にせず同じ人間として過ごせばいいではないかと国王が言ったためだ。
魔族が生きていることに国王は驚いたそうだが、ディートリヒの話を聞いてそうして柔軟に考えてくれる当たり、とてもいい王だと思う。
けれども黒髪に黒い瞳への偏見が完全に消えたわけではないので、魔族たちがよその地に行っても平和に暮らして行けるかどうかはわからない。
そうなるには長い年月が必要で、一朝一夕で変わるものではないからだ。
ゆえに魔族たちは当面の間サンドリア公爵領で暮らすのが一番平和だろうということになり、バルドゥルたちが遠くの地を転々としていた魔族たちを呼びよせたりして、今では領民の五分の一が魔族である。結構いたものだ。
そんな魔族と人間だが、この十二年の間に、魔族と人間で結婚した夫婦も増えた。当然子供も生まれている。こうして少しずつ同じになっていくのだろうかと、わたしはこの十二年を思い出してちょっと感慨深くなった。
「ほら、そろそろ昼寝もやめて下に降りないと子供たちがうるさいよ」
「ああ、本当ですね。お茶の時間だわ」
時計を確認して、わたしはディートリヒに手を引かれてベッドから降りる。
わたしとディートリヒの間には二人の子が産まれていて、まだ幼い我が子たちは、毎日のお茶の時間に出されるお菓子を楽しみにしているのだ。遅れたらふくれっ面で文句を言われる。
「行こう」
ディートリヒに手を引かれて歩き出す。
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