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男爵家の次は公爵家なんてもううんざり‼ 1

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「うぅ……ん」

 ごろん、と寝返りを打ったセレアは、手のひらに当たる、ふかふか、さらさらした感触に「ん?」と眉を寄せた。
 花の香だろうか。いい匂いもする。

 何か、変だ。

 微睡みの中にあった脳がゆっくりと覚醒するにつれて、違和感が徐々に大きくなっていく。

 デュフール男爵家のセレアの部屋は物置小屋で、ベッドは木箱を並べて古い布をかけただけの固いものである。
 部屋の中は埃臭い匂いが満ちていて、花の香りがしたことなんてついぞない。
 ましてやクッション一つないセレアの部屋に、ふかふかさらさらしたものがあるはずがなかった。

 違和感が限界まで膨らんで、セレアはついに目を開けた。
 まず、目の前に飛び込んできたのは、真っ白でさらさらと、けれどもしっとりと肌に吸い付くような感触もする、絹のシーツだった。

「……?」

 セレアはむくりと起き上がった。
 そして瞠目すると、反射的に自分の頬に手を伸ばす。
 むぎゅっとつねって――

「いたい……」

 自分の痛覚が正常に作用していることを確かめると、右に左に顔を動かして、部屋の中を確かめた。

「……どこ?」

 セレアは今、白いレースの天蓋がついた巨大なベッドの中にいた。
 ふかふかしたものはどうやらこのベッドと、それから枕、びっくりするくらい軽い羽毛布団の感触だったらしい。

 くんくんと鼻を動かして匂いの正体を探したセレアは、ベッドの横の棚に花瓶があることに気がついた。真っ赤な大輪の薔薇が三本いけてある。匂いの正体はどうやらこれらしい。
 部屋の中は、市井で暮らしていたときのセレアの家が二つも三つも入りそうなほどに広く、高そうな二人掛けのソファが向かい合っておかれていて、真ん中にはこれまた高そうなテーブルが置かれている。
 さらに飾り棚には絵皿や置物が品よく置かれていて、薄い緑色のカーテンと、それからレースの白いカーテンが、わずかに開いた大きな窓から入り込む風で静かに揺れていた。

 デュフール男爵家はあっちもこっちも趣味が悪かったので、絶対にここはデュフール男爵家の邸じゃない。

(待って待って待って、思い出すのよセレア。ええっと、わたしは確かカロン侯爵家のパーティーに出席して……)

 ゴーチェにエドメ・ボラン侯爵というデブ二号に引き合わされて、結婚と言う名の人身売買の憂き目にあいそうになったので逃亡したはずだ。
 そして逃げている途中で、異母兄アルマンに見つかって襲われそうになって反撃したら怒らせてしまって、それから――

「ひっ!」

 セレアは短い悲鳴を上げて、素早く自分の体を確かめた。
 セレアが来ていたものはパーティーの時に来ていたドレスじゃない。とても着心地がいい高そうなネグリジェだったが、とにかく着ているものが違った。

(ちょっと待ってよこれってもしかして事後とかいうやつじゃ……)

 さーっとセレアの顔から血の気が引いた。
 別に体はどこも痛くないし体調も悪くないが、あのままアルマンに犯されてどこかに攫われたか売り飛ばされたと考えると筋が通る。

 見た感じとてもお金持ちそうな家だから、アルマンの持ち物であるはずがない。
 何故ならデュフール男爵家は貧乏で、ゴーチェの息子であるアルマンも仕事なんてしていないから金を持っていないのだ。こんな豪華な部屋を借りられるはずがないし、所有しているはずもない。

 セレアは茫然として、しばらく凍り付いた。
 しかし、ハッと我に返ると、もう一度さっと部屋の中に視線を這わす。

(ショックを受けるのは後よ! とにかく逃げないと! アルマンがわたしを誰に売り飛ばしたかは知らないけど、戻ってくる前の今がチャンスよ‼)

 セレアは急いでベッドから降りると、まず窓に駆け寄った。窓から逃げられるだろうかと思ったが、どうやらここは二階で、そしてとても高いので飛び降りられそうにはない。

(って、本当にここどこよ⁉)

 窓の外に広がる庭は、信じられないほどに広かった。
 整えられた庭には、四阿や噴水、灌木で作られた大きな迷路もある。ずーっとずーっと向こう側に生け垣があって、そのさらに先には人工的に作られたのか小さな森が広がっていた。門はどこにあるのか、ここからではちっとも見えない。

(え? もしかしてわたし、知らない間に異国に連れてこられたの⁉ 何日眠っていたわけ⁉)

 ここは本当に王都だろうか。
 そんな疑問が頭をもたげたとき、ノックもなしに部屋の扉が開いた。

「ああ、起きたのか」

 セレアが振り返る前に、低くて、けれども心地いい響きの男の声がする。
 部屋の中に入ってきたのは、二十歳前後くらいの背の高い男だった。
 つややかなプラチナブロンドに、菫色の瞳。服はシンプルに白いシャツと黒いズボンだったが、纏っている空気が……なんというか、とても高貴な感じがした。少なくとも、あのデブやババアとは全然違う。

(誰、これ。え? もしかしてアルマンがわたしを売り飛ばした相手ってこの人? いやでも、アルマンと付き合いがあるような人には見えないけど……)

 いやだがしかし。
 人は見た目で判断はできない。
 少なくともセレアがここにいて、そしてこの男が部屋に入ってきたということは、アルマンと何かしらのつながりがあると見ていいはずだ。
 セレアは警戒して、ぴたりと窓ガラスに背中を押しあてた。

「……あなた誰? わたしが寝ている間にドレスをはぎ取ったのは、あなた?」
「人聞きの悪い言い方をするな」

 男は気分を害したのか顔をしかめて、大股でセレアに近づいてきた。
 そして、逃げるのを警戒しているかのように、セレアの腕をつかむ。

「ちょ、離し――」
「助けてやったのに、恩人に向かってドレスをはぎ取ったなどと、あんまりな言い方じゃないか? それとも何か、お前は破られてぼろ雑巾のようだったドレスを着たままでいたかったのか? 下着が丸見えだったのに?」
「え?」

 助けてやった?

 一体どういうことだと首をひねっていると、男がぐいと腕を引く。
 引っ張られるままにソファまで連れてこられたセレアが座ると、男はベルを鳴らした。
 すぐにメイドらしき女性が数名入ってきて、テーブルの上にティーセットと、それからホカホカと湯気を上げている美味しそうなパンをおいて行く。

「もう昼前だからな、腹が減っているだろう? とりあえず昼食までのつなぎとしてそれでも食っておけ」

 セレアは、途端に口の中に溜まった唾をごくんと飲み込んだ。
 ホカホカと湯気を上げる柔らかそうなパンなんて、デュフール男爵家に引き取られて七年間、口にできたことがない。数えるほどだがパーティーに連れていかれたときも、出されているのは軽食ばかりで、ほかほかのパンなんて一つもなかった。
用意された紅茶もとてもおいしそうだ。
 なんと、紅茶の側には蜂蜜や砂糖、ミルクまで置いてある。好きに使っていいということだろうか。

「どうした? 食べないのか?」
「………………いただきます」

 この男が何者かは知らないが、食欲には勝てなかった。
 紅茶に砂糖とミルクをたっぷり落として一口飲んだあと、温かいパンに手を伸ばす。
 バターのいい香りのするパンを口に入れると、ふわっと溶けるほど軽かった。

「美味しい……」

 思わずため息のような声がこぼれて、そして美味しいパンのなつかしさに涙腺がゆるむ。
 ギョッとしたのは男の方だった。

「な、泣くほどのことか⁉」
「だって、美味しい……」

 もう二度と味わえないかもしれないと思っていた温かくてふわふわする美味しいパン。

(マリーおばさんとバジルに会いたいよぅ……)

 懐かしくて優しい記憶が呼び覚まされて、セレアはぐしぐしと目元に溜まった涙をぬぐう。
 パンを食べては涙をぬぐう動作を繰り返していると、男が遠慮がちにハンカチを差し出してきた。

「ありがとう」

 彼が誰かはいまだにわからないが、美味しいパンを提供してくれてハンカチまで差し出してくれたのだ、悪い人間ではないのかもしれない。

(さっき助けたって言ってたし。あ、そうだった、あれってどういうことなのかしら?)

 パンを二個食べ終えたところで、セレアは彼が言っていたことを思い出した。目の前のパンで頭がいっぱいになって忘れるところだった。危ない危ない。
 紅茶で喉を潤して、セレアは改めて男に向き直る。

「それで、あなた誰ですか? ここはどこですか? 助けたってどういうことですか? というか、わたしはなんでここにいるんですか? わたしをどうするつもりですか? は! もしかしてこのパンに変な薬とか入ってるんですか⁉」

 一度にまくしたてるように質問をしたセレアに、男はあきれ顔を浮かべて、自分の目の前に置かれている紅茶に口をつけた。

「あれだけ勢いよく食っておいて、今更そんな心配をするのか。危機感がたりないんじゃないのか?」
「じゃあやっぱり変な薬――」
「入れてない! はー……、噂で聖女だと聞いたからもっと大人しそうなのを想像していたのに……お前は本当に聖女なのか? 昨日だって、普通、淑女が男の股間を容赦なく蹴り上げるか? さすがにぞっとして助けるのを一瞬ためらったぞ……」
「見てたの⁉」
「だから助けたと言っただろうが。あの後殴られて気絶したお前を、いったい誰が助けてここまで運んだと思っているんだ」
(え、じゃあこの人いい人? じゃあわたし、アルマンにいかがわしいことはされてないってこと?)

 安心するとどっと体の力が抜けてきた。
 くたりとソファに体を預けたセレアに、男が苦笑する。

「まず名乗っておく。俺はジルベール・レマディエだ。聞いたことくらいあるだろう?」
「ううん全然。誰?」
「…………本当に君は男爵令嬢か? 貴族の名前を全員覚えろとは言わんが、公爵家くらいは覚えるものだろう、普通」
「公爵家?」

 言われてみれば、最低限覚えておけとゴーチェに貴族名鑑を渡されたことがある気がした。だが面倒くさくて一ページもめくることなく、高さがちょうどよかったので枕に使いはじめてからはその存在をすっかり忘れていた。

 セレアが首をひねっていると、ジルベールは簡単に彼のことを教えてくれた。
 ジルベール・レマディエは、半年前に父親を亡くして、若干二十歳でレマディエ公爵の名をついだらしい。死んだ父親は現王と従兄弟の関係だそうだ。
 アングラード国の南のあたりに広大な領地を有していて、ここは王都にあるレマディエ公爵家のタウンハウスだという。

(王都にこんな大きな邸があったのね)

 昨日のカロン侯爵家も広かったが、それと比べるのも馬鹿らしくなるほどの広さである。さすが王家に連なる血筋だ。規模が違う。

(まあいいや。とりあえず、この人がわたしを助けてくれてここまで運んでくれたってことはわかったし)

 というか、これはまたとないチャンスである。
 デュフール男爵家に戻される前に、さっさとここから逃亡しなくては。
 セレアはさっと立ち上がった。

「ええっと、レディ、じゃなくて、レマエでもなくて……」
「……ジルでいい」
「ジル様、助けてくれてありがとうございました! パン美味しかったです! ではわたしはこれで!」
「は⁉」

 じゃ、と手を振って部屋を出て行こうとしたセレアの手を、ジルベールが慌てたように掴んだ。

「おいこら待て!」
「待ちません! 急がないとあのデブ……じゃなくて、父に見つかるかもしれませんから!」
「デュフール男爵は確かにデブだが自分の父親をデブと呼ぶか普通……じゃなくて! だからなぜ出て行こうとする!」
「だから見つかる前に逃げるんですってば!」

 離してーとぶんぶん手を振るも、ジルベールの手には糊でもくっついているのかちっとも離れない。

「いいから座れ! まだ話は終わってない!」
「わたしの話は終わりましたからもういいです!」
「す・わ・れ!」

 さすが公爵、圧がすごい。
 逃げられないと悟ったセレアが渋々ソファに座りなおすと、何故かジルベールもセレアの手を掴んだまま隣に座った。逃亡防止のつもりだろうか。

「それでお話って何ですか? 助けてくださったことにはとっても感謝していますが、わたしとっても急いでいるんです!」

 このチャンスを逃せば、永久に逃げられなくなるかもしれない。
 せっかく手に入れた機会を棒に振りたくないのだ。

「急いでいるも何も、君はその格好で外に出る気なのか?」
「ああそうでした。これはジル様のものですよね。洗濯する時間がなくて恐縮ですがお返しします! だから昨日のドレスを返してください!」
「……うちにあったものなのは確かだが、俺のものだと言われると微妙な気分になるな。というか、昨日君が来ていたドレスは破れていて下着が丸見えだとさっき言わなかったか?」
「裸で外を歩くよりましです」
「どっちもどっちだ!」

 ジルベールは疲れたように、セレアの手を掴んでいない方の手で額を抑えた。

「お前と話していると話が先に進みそうもないから本題に移らせてもらう」

 まるでセレアが話を脱線させているような言い方だった。失礼な。

「まず確認だ。君は聖女だな」
「違います」
「――聖女だな?」
「違います」
「そうかでは確認のために今から城に――」
「嘘ですごめんなさい聖女らしいです」

 城に連れていかれるなんてたまったものではない。もたもたしていたら逃げられなくなってしまうからだ。
 ジルベールはセレアをじろりと睨んで、「次に嘘を吐いたら強制的に城へ連行してやる」と脅してきた。ひどい。

「では、浄化の力はもちろん使えるな?」
「一応」
「よし。では本題だが――」

 ジルベールはセレアの手を離すと、セレアの顔の左右のソファの背もたれにそれぞれ手をついた。
 ぐっと顔が近くなって、セレアは思わず息を呑む。
 ジルベールは、とても端正な顔立ちをしていた。心なしかいい匂いもする。
 不覚にもドキドキしてしまったセレアに、ジルベールは真顔で言った。

「俺と結婚してくれ」

 一、二、三……。
 セレアは目をしぱしぱさせながらたっぷりと沈黙して、それから返した。

「はあ~~~~~~⁉」



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