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恬子やすこ様」

 どのくらい雪の上に膝をついていたのか。

 名前を呼ばれてのろのろと顔をあげると、背後に中将が立っていた。 

 顔色が悪い。こんな寒い中に外にでてきてほしくなかった。

「泣いていたのですか、宮様」

 中将が恬子のそばに膝を折る。

 何も言うことができずに顔をあげた恬子の頬に流れる涙を、中将の指が優しくぬぐった。

 ――お前、あとどのくらい生きられるんだ?

 ――もう長くはないでしょうね。

 先ほど聞いてしまった惟喬と中将の会話が頭の中から離れない。

 気づけば恬子は、体当たりをするように中将の腕の中に飛び込んできた。

 中将は何も言わずに、ただ抱きしめてくれる。

「……いかないで」

 恬子は震える声で告げた。

「おいて、いかないで……。いなくならないで……」

 遠く離れて暮らすのと、二度と会えなくなるのでは違う。

 しゃくりあげながら告げると、中将も泣きそうな表情を浮かべた。

 中将が昨夜、都に帰ろうと言った言葉が思い出される。

 恬子が小野に来てから、都に帰ろうと誘われたことは昨夜まで一度もなかった。

 どうして今になって――、そう思っていたが、きっと、彼の先が長くないから。

(これが最後なんて……、いや)

 それでも、恬子はどうしていいのかわからなかった。

 中将の胸に顔をうずめて、ただ泣きじゃくる恬子を、中将はただ抱きしめていてくれる。

「私は、ずるい男です」

 どのくらいそうしていたのか、中将がぽつりと言った。

「私にあとどのくらいの時間が残されているのかは、正直わかりません。思っているよりも長いのかもしれないし、短いのかもしれない。でも、ああ、もうじき死ぬのだと思ったとき、どうしてもあなたに逢いたかった。どうしてもあなたがほしくなった。残ったわずかな時間を、あなたと一緒にすごしたいと思った。……私は自分勝手で、ずるい男です」

 中将がゆっくりと恬子の顔を持ち上げて、目尻に唇を押しつけた。

 はじめて感じる中将の唇の感触に、恬子の呼吸が止まりそうになる。

「でも、卑怯でも自分勝手でも、私はあなたがほしい」

 すごく近くに中将の顔がある。

 止まらない涙を何度も唇ですくっては、なだめるように額を合わせてくれる中将の、顔が。

「あなたの気持ちをないがしろにする、私はひどい男だ。けれど、最後の我儘です。私の残された時間を、一緒に生きてほしい」

「……中将、どの」

「あなたを愛しています」

 そっと唇が合わさった。

 今まで決して詰めなかった距離が埋まる。

 中将の唇の熱と吐息を感じながら、恬子は中将の背に手を回した。

(……もう、むり……)

 拒絶なんてできない。

 恬子も今より少しだけ自分勝手になってもいいだろうか。

 中将と一緒にいてもいいだろうか。

 唇が離れると、中将の真剣な顔がそこにあった。

「……無理やりでも、あなたを都に連れて帰ります。ひどい男だと罵っていただいてもかまいません。だから、帰りましょう」

 無理やりに連れて帰ると言いながら「帰りましょう」と誘ってくれる。優しくて、ずるい人。

「恬子」

 惟喬これたかの声が聞こえて振り返れば、少し困ったような顔をした兄がそこにいた。

「お前との暮らしは悪くなかった。だが、いつまでも意地を張っておらずに、中将と一緒に行け。いいな」

 兄は、自分からなかなか飛び込めない恬子の背中を押してくれる。

 恬子は目を伏せて、それからぽつりと、

「お花見の約束……、まだ、果たしてもらっていませんから。だから……」

 素直に都に帰るとは、まだ言えなくて。

 かわりにそんなことを言う恬子を、満面の笑みを浮かべて中将がきつく抱きしめた。
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