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貞観十八年。
恬子が伊勢を退去したのは、彼女が三十一の時の暮れだった。
都に戻って来てから、恬子は宮中には帰らず、母方の親戚の家の東の対の一室を借りた。
十七年も前に離れた久しぶりの都は、どこか物悲しかった。
兄の惟喬は数年前に出家し都を離れてしまっている。
恬子を迎え入れてくれた縁者も、内裏で暮らしていたころに少し話をしたことがあるくらいで、ほとんど他人と変わらない。
場違いなところに迷い込んでしまったかのような疎外感が、冬の針のような寒さとともに恬子に突き刺さった。
(これから、どうしたらいいのかしら……)
恬子は、彼女のために調度を一新してくれた室内に視線を這わす。かわるがわるに挨拶に来る人たちに疲れて、恬子は断りを述べて早々に部屋に下がったのだ。
(いっそ、お兄様のように出家しようかしら……)
そして、静かに瞑想の日々を送るのだ。うん、悪くないかもしれない。
「宮様、舎人が文を持ってまいりましたよ」
恬子が密かに出家願望を募らせていると、右近が文箱を抱えて持って来た。
「文? まあ、どなたから?」
文箱の紐を解いて蓋を開けると、冬だというのに夏の蝙蝠扇が入っていた。中身はそれだけで、恬子は首をひねりながら扇を広げる。ふわりと白檀の香りが漂った。
「これは……」
真っ白な扇に流麗な字で書かれていたのは、歌の下の句と、「逢いたい」の一言。
恬子は瞠目して、しばらく呼吸を忘れた。
この歌を恬子は覚えていた。
十三年も前のことだったが、片時も忘れたことはなかった。
逢いに行くと約束してくれたあの人を、恬子は馬鹿みたいにただひたすら思い続けていたのだから。
「……忘れないでいてくれたのね」
瞳が潤んで、視界がぼやけてくる。ここで泣いたら右近が怪訝に思うので、恬子はつんと痛い鼻をおさえて、上を向いた。
「右近……、これを持って来た舎人に、手厚くお礼をして差し上げて」
「文のお返しはどうなさいます?」
恬子は扇の面をそっと撫でる。
「すぐには書けないから……、またあとでするわ」
心がいっぱいで、しばらく何も手につきそうにない。
右近が退出すると、恬子は扇を胸に抱えた。
ついさっきまで出家しようかしらと考えていたのに、その気持ちはきれいさっぱり消え失せてしまった。今は一日も早く、一刻も早く、あの人に会いたかった。
「……またあふ坂の、関はこえなむ……。わたくしも、逢いたい……」
恬子が恋した、唯一の人だから――
恬子が伊勢を退去したのは、彼女が三十一の時の暮れだった。
都に戻って来てから、恬子は宮中には帰らず、母方の親戚の家の東の対の一室を借りた。
十七年も前に離れた久しぶりの都は、どこか物悲しかった。
兄の惟喬は数年前に出家し都を離れてしまっている。
恬子を迎え入れてくれた縁者も、内裏で暮らしていたころに少し話をしたことがあるくらいで、ほとんど他人と変わらない。
場違いなところに迷い込んでしまったかのような疎外感が、冬の針のような寒さとともに恬子に突き刺さった。
(これから、どうしたらいいのかしら……)
恬子は、彼女のために調度を一新してくれた室内に視線を這わす。かわるがわるに挨拶に来る人たちに疲れて、恬子は断りを述べて早々に部屋に下がったのだ。
(いっそ、お兄様のように出家しようかしら……)
そして、静かに瞑想の日々を送るのだ。うん、悪くないかもしれない。
「宮様、舎人が文を持ってまいりましたよ」
恬子が密かに出家願望を募らせていると、右近が文箱を抱えて持って来た。
「文? まあ、どなたから?」
文箱の紐を解いて蓋を開けると、冬だというのに夏の蝙蝠扇が入っていた。中身はそれだけで、恬子は首をひねりながら扇を広げる。ふわりと白檀の香りが漂った。
「これは……」
真っ白な扇に流麗な字で書かれていたのは、歌の下の句と、「逢いたい」の一言。
恬子は瞠目して、しばらく呼吸を忘れた。
この歌を恬子は覚えていた。
十三年も前のことだったが、片時も忘れたことはなかった。
逢いに行くと約束してくれたあの人を、恬子は馬鹿みたいにただひたすら思い続けていたのだから。
「……忘れないでいてくれたのね」
瞳が潤んで、視界がぼやけてくる。ここで泣いたら右近が怪訝に思うので、恬子はつんと痛い鼻をおさえて、上を向いた。
「右近……、これを持って来た舎人に、手厚くお礼をして差し上げて」
「文のお返しはどうなさいます?」
恬子は扇の面をそっと撫でる。
「すぐには書けないから……、またあとでするわ」
心がいっぱいで、しばらく何も手につきそうにない。
右近が退出すると、恬子は扇を胸に抱えた。
ついさっきまで出家しようかしらと考えていたのに、その気持ちはきれいさっぱり消え失せてしまった。今は一日も早く、一刻も早く、あの人に会いたかった。
「……またあふ坂の、関はこえなむ……。わたくしも、逢いたい……」
恬子が恋した、唯一の人だから――
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