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第一部 街角パン屋の訳あり娘

種明かし 1

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(うぅ、まだ恥ずかしい……)

 翌日、十時を回って客足が遠のくと、サーラは赤くなった頬を両手で抑えた。
 忙しいときはそうでもないのだが、一人になると、思い出してしまうのは昨夜の馬車での出来事である。
 一時間、自分のことだけを考えろと言ったウォレスは結局、馬車が一時間ほど下町の中を散歩し、パン屋ポルポルの前に停車するまで、サーラを離してはくれなかった。

 ウォレスが拗ねるところは何度も見たが、昨夜のような拗ね方をされたのははじめてだった。
 サーラとウォレスの関係が変わったからだろうか。
 恋人になった途端、遠慮というものがなくなった気がする。
 一時間ほどサーラを腕に閉じ込めていたウォレスの機嫌は、一時間立つ頃には直っていたけれど、サーラはのぼせたようにふらふらになってしまった。

 サーラはネックレスを指先でいじりながら、ふう、と息を吐き出す。
 今日、ウォレスがここに来ることになっているのだ。
 昨日馬車を降りる前にサーラがお願いした、あるものを持って。
 ウォレスのためのブリオッシュは取り置いてあるし、いつぞやウォレスがプレゼントしてくれた青いリボンで髪をまとめている。後はこの赤い顔を何とかすれば準備はオッケーだ。

 顔の熱を逃がすように、ぱたぱたと手のひらで扇いでいるとチリンとベルが鳴った。
 ウォレスかと思った顔を上げたが、入って来たのはリジーである。

「おはようサーラ! って、どうしたの? 顔赤いよ?」
「おはようリジー。ええっとその、ちょっと暑くて」
「そう? 今日はむしろ涼しい方だと思うけど」

 残暑が遠のき、朝晩はだいぶ冷え込むようになっている。
 昼はまだすごしやすいが、今日はリジーの言う通りいつもより涼しい。
 きっと空が曇っているせいだ。
 言い訳に失敗したなと思ったが、リジーは特に突っ込んできたりはしなかった。どうやら頭の中は昨日のセレニテの「奇跡」でいっぱいのようだ。

「ねえねえ、すごかったよねえ、昨日のあれ!」

 リジーはうきうきした足取りで近づいてきて、カウンターに身を乗り出す。

「あ、今日はいつものバゲットと、あとお父さんからちょっと相談がね。アドルフおじさんにお願いしたら、ブリオッシュってたくさん焼いてもらえるのかなあ? 焼き型も指定したいんだけど」
「お父さんに訊いてみないとわからないけど、どうして?」
「ほら、二週間後ってお酒の日じゃない?」

 お酒の日、とは、毎年十一月一日に下町で行われるお祭りである。
 今年仕込んだワインの出来上がりを祝うお祭りだが、ワインだけではなく様々なお酒がふるまわれる日だ。大通りにはたくさんの露店が立ち並び、夜通し火も焚かれて、とても賑やかなお祭りである。
 ちなみに酔っ払いが続出し、翌朝の大通りにはそのまま潰れて寝こけている人が山になることでも有名だ。
 酔っ払い同士のいざこざも毎年のように起こるので、市民警察も夜通し警備に駆り出される。つまり、シャルは徹夜になる日だ。

「お酒の日がどうかしたの?」
「うん。その日にね、お父さんがサバランを出そうかっていうのよ。ほら、お酒ばっかりじゃあたしたち女の子は楽しめないでしょ~? だからお酒風味の甘いものでもどうかって」

 サバランとはブリオッシュの生地に紅茶やシロップをしみ込ませ、そのあとでラム酒で風味付けをして生クリームとフルーツで飾ったお菓子である。

(なるほど、だからブリオッシュね)

 菓子屋パレットでブリオッシュを焼くこともできるだろうが、恐らく通常業務もあるので手が足りないのである。それならば普段からブリオッシュを扱っているパン屋に頼んだ方が効率がいいと判断したのだろう。ポルポルのブリオッシュは、なかなか人気商品だ。

「できればこのくらいのドーナツ形で焼いてほしいんだって! その方が加工がしやすいからってお父さんが。もちろん型はうちが用意するよ」
「わかった。ちょっと待ってて」

 サーラはリジーに断って、カウンターの奥の焼き場へ向かった。

「お父さーん」

 発酵を終えたパンをオーブンに入れていたアドルフに声をかける。
 リジーから聞いた話を伝えると、アドルフは少し考えて、今日の夕方にでもリジーの父親と話がしたいと言った。サバラン用のブリオッシュを焼くにしても、どのくらいの数が必要なのか、また焼き型を変えるなら金額をどうするのかなど話し合いが必要なようだ。
 表に戻ってリジーに伝えると、リジーが夕方に父親をポルポルに来させると言った。

「いいの? おじさん、忙しいでしょ?」
「うちが頼む仕事だもん。アドルフおじさんに来いなんて言えないし、そんなことを言ったら、あたしがお父さんに怒られるよ」

 なるほど。リジーの父親は優しそうだが、怒ると怖いと聞いたことがある。

「サーラのところは、毎年酒祭りの日には休んでるけど、今年も休み?」
「たぶんね。お父さんもお祭りを楽しみたいだろうし」

 年中働きづめのアドルフが、どうしても休みたがるのが酒祭りの日である。
 普段は酔っぱらうほど飲まないが、実はアドルフ、お酒が大好きなのだ。
アドルフの健康を気にして酒の量に関しては口うるさいグレースも、一年に一度くらいならと言って大目に見るので、恐らく今年も店を休んで飲み歩く気でいると思う。

「楽しそうだな」

 リジーと話し込んでいると、チリンとベルが鳴ってウォレスが入って来た。

「ウォレス様! ごきげんよう!」

 リジーがぱあっと顔を輝かせる。

「いらっしゃいませ、ウォレス様」
「ああ。それで、話し込んでいたようだが何の話をしていたんだ?」
「お酒の日のお話ですよ、ウォレス様!」

 元気いっぱいに答えて、リジーが我が物顔で飲食スペースにウォレスを案内する。

「お酒の日?」
(貴族街にはないんでしょうね)

 もともとお酒の日のお祭りは、酒造りが盛んな地方で行われるお祭りだと聞く。
 下町で祭りがはじまったのがいつかはわからないが、誰かが地方のお祭りを取り入れて定着したのだろう。下町の人間はお祭り騒ぎが大好きだ。

「ご存じないですか? 毎年十一月一日にするんですよ! だいたい三番通りから南門までの範囲にはなるんですけど、露店とかも出てとっても盛り上がるんですよ!」
「へえ、それは面白そうだ」

 リジーとウォレスが話し込んでいるのを聞きながら、サーラは紅茶を三人分入れて、ウォレスのために取り置きしているブリオッシュを出した。
 リジーがうらやましそうな顔をしたがブリオッシュは一つしかないので、代わりにパンデピスを出してやる。

 パンデピスはシナモンなどのスパイスをたっぷり入れたパンで、蜂蜜がたっぷり使ってあるので、スパイシーで甘い。毎年秋から冬にかけてのみ店に出しているパンで、今年は今日から店に並べたのでウォレスもまだ知らないものだ。
 当然、ウォレスも興味を示したので、ウォレスとリジーの二人分を出してやる。
 パンデピスは一度にたくさん焼き上げるので、朝で売り切れてしまうことはなく、だいたい夕方くらいまで残っている。

「それで、そのお酒の日の祭りだが、何時からはじまるんだ?」
「このあたりの人たちはみんな飲兵衛だから、昼にはもうはじまってますよ~」
「なるほど、じゃあリジーとサーラは仕事だな」
「あたしはそうですけど、サーラはお休みですよ。その日はお店を閉めるので。ね?」
「うん」

 紅茶を飲みながら頷くと、ウォレスが楽しそうに目を細める。

「休みなのか。……だったら、私を案内してくれる?」
「え?」

 サーラはぎょっとした。
 リジーがいる前でデートに誘ってくるなんて何を考えているのだろう。
 頭の中が真っ白になって口をパクパクさせていると、リジーが笑顔で頷いた。

「もちろんですよウォレス様! 当然よね、サーラ! だってウォレス様はこの店のお得意様だもん! あ、よかったらお祭りの日はうちの店にも遊びに来てくださいね!」
「ってリジーは言ってくれているけど、サーラ、いい?」

 ウォレスは悪戯っ子のような顔をしている。ニヤニヤしているところを見ると、きっとサーラの反応を見て楽しんでいたのだ。

(……もうっ)

 心配して損した。
 リジーも勘ぐっていないようだし、サーラは軽くウォレスを睨んでから、仕方なさそうな雰囲気を出しつつ頷く。

「わかりました。いいですよ、暇ですから」
「よし、決まりだ。では昼に迎えに来るよ」

 それにしても、ウォレスは簡単に予定を入れたが、本当に大丈夫なのだろうか。

(マルセルさんが頭を抱える様子が目に浮かぶようだわ)

 相手は王子である。一見暇そうに見えるウォレスだが、暇なはずはないのだ。
貴族街では社交シーズンがはじまっているので、春や夏に輪をかけて忙しくなっていると思うのだが。
 マルセルに同情していると、ウォレスが思い出したようにコートのポケットから二つの箱を取り出す。

「それでサーラ、頼まれていたものを持って来たよ。見せてくれるんだろう? ――奇跡を」

 リジーが、びっくりしたように目をまあるく見開いた。


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