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第一部 街角パン屋の訳あり娘
神の子を名乗る男 2
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「なるほどな……」
次の日の十時十分ごろ、ウォレスがパン屋ポルポルにやって来た。
リジーはまだ来ていない。おそらくあと五分か十分もすれば来るだろう。
飲食スペースの前に座ったウォレスにお茶を出し、シナモンロールを出した。今日は来ることを知らなかったのでブリオッシュは取り置きしていなかったのだ。
サーラが対面に座ると、ウォレスがちらりと首元を確かめる。そして首元で揺れる青い輝きに満足そうに目を細めると、シナモンロールにかぶりついた。
「神の子か。それはこの目で見ておきたいが……娼館は無理だろうな」
ウォレスの視線が、パン屋の扉のガラス窓の奥へと向く。
外に停められている馬車の御者台には、いつも通りマルセルが座っていた。
「だから、もしセレニテが来るならわたしが行ってこようと思って」
「危ないんじゃないのか?」
「娼館通りのあたりは、あれでなかなか治安がいいらしいんです。男衆が見回りしていますから。お兄ちゃんが言っていました」
「だが、娼婦目当ての男がたくさん来るのだろう?」
テーブルの上に投げ出していたサーラの手に、シナモンロールを持っていない方のウォレスの片手が重なる。
つーっとくすぐるように手の甲を撫でられて、サーラは恥ずかしくなって視線を斜めに落とした。
顔がほてっていくのがわかる。
「露出の高い服は着るなよ」
「もともと、そんな服は持ってませんよ」
「香水もつけるな」
「つけませんって」
「化粧もだめだ。ついでに帽子をかぶっていけ」
あれこれと注文をつけてくる。
心配性だなあと肩をすくめて、サーラは頷いた。
「そうしますけど、わたしに興味を持つ人はいないと思いますよ」
(なんたって、絶壁だし)
ヴァルヴァラの、あの豊満な胸のふくらみを思い出しながら胸の中でつぶやく。
色を売る町に来る男たちだ。サーラのような色気の欠片もないような女に興味を示すはずがない。
「いないはずがないだろう。現に君の目の前に一人いるじゃないか」
真顔で、照れるようなことを言わないでほしい。
サーラはどきどき言いはじめた鼓動を落ち着けようと、ティーカップに手を伸ばす。
「なあ」
「なんです?」
「ちょっと、馬車に行かないか」
「馬車に何の用事があるんですか?」
「用事というか……。ここじゃあ、キスの一つもできない」
「ぶっ!」
変なことを言うから、紅茶をちょっと噴き出してしまったではないか。
「なっ、何を言うんですかっ! 行きませんよ!」
「じゃあここでいいのか? いつ客が入ってくるかわからないが……」
「いいはずないでしょう⁉」
真面目な話をしていたはずなのに、この男は何を考えているのだろう。
ウォレスはむっと口をへの字に曲げだ。
「なかなか二人きりになれないのは考えものだな……」
パン屋の中には二人きりだが、完全に二人きりというわけでもない。
カウンターの奥の調理場にはアドルフがいるし、たまにグレースも出入りしている。
パン屋なので、いつ客が入って来るかもわからない。
本当ならば、こんなところでの際どい会話も避けるべきなのだ。
まったくもう、とため息を吐いたとき、チリンとベルが鳴った。
ウォレスの手が、ぱっとサーラの手から離れる。
「あー! ウォレス様!」
入って来たのはリジーだった。
ぱあっと顔を輝かせて、スキップでもしそうな足取りで飲食スペースまでやって来た。
「サーラ、サーラ、あたしも~」
「はいはい、お茶ね。パンはどうする?」
「じゃあ、ウォレス様と同じシナモンロールで!」
「了解」
ちょっと赤い顔がリジーに気づかれないうちに、サーラは少々急ぎ足で、紅茶を淹れるためにカウンターの奥へ向かう。
ウォレスにくすぐられていた手の甲が左の手の甲が熱い。
(キスなんて、さらっと言わないでよ……)
付き合いはじめて八日。
四阿でして以来、まだ一度もキスしていないが、だからってわざわざそのために馬車の中に入るのはおかしいだろう。馬車の帳を閉めたところでマルセルには勘繰られるだろうし、恥ずかしくてサーラの頭がどうにかなってしまいそうになる。
グレースの腰の具合もだんだん良くなってきていて、最近では、たまには店番を変わるから遊んできなさいと言ってくれるけれど、それをウォレスに言うのは、なんだか自分からデートに誘っているみたいで照れてしまって言えなかった。
ウォレスも紅茶のお代わりがほしいだろうからと、多めに入れた紅茶をティーポットに入れたまま飲食スペースに戻る。
リジーに紅茶を差し出し、それからからっぽになっていたウォレスのティーカップに紅茶を注いだ。
サーラが紅茶を淹れている間、リジーは昨日のセレニテの噂話を披露していたらしい。
「もし姐さんがセレニテを呼ぶことに成功したら、ウォレス様も見に行きましょうよぅ」
「いや、私はたぶん無理だ。だが、マルセルを行かせるよ。女の子たちがあのあたりをうろうろするのなら護衛も必要だろう?」
マルセルに相談もなく、彼の同行が決定していた。
(……可哀想に)
マルセルは第二王子の筆頭護衛官のはずなのに、いつもいいように使われている。
「それにしても、セレニテは今度はどんな『奇跡』を起こしたんだろうね」
「前回のは、サーラの推理通りなら奇跡でも何でもないですもんね~」
セレニテが人を生き返らせたというあの奇跡は、サーラの予想通りならただの自作自演だ。
奇跡どころか、トリックですらない。
(たぶん今回も奇跡ではないと思うけど……、あちこちで『奇跡』と言って妙なことをして回っているなんて、セレニテの目的は何なのかしらね)
サーラとしては、奇跡の内容そのものよりも、セレニテの目的の方に興味がある。
――リジーから、ヴァルヴァラがセレニテを娼館に招くことに成功したと聞かされたのは、翌日のことだった。
次の日の十時十分ごろ、ウォレスがパン屋ポルポルにやって来た。
リジーはまだ来ていない。おそらくあと五分か十分もすれば来るだろう。
飲食スペースの前に座ったウォレスにお茶を出し、シナモンロールを出した。今日は来ることを知らなかったのでブリオッシュは取り置きしていなかったのだ。
サーラが対面に座ると、ウォレスがちらりと首元を確かめる。そして首元で揺れる青い輝きに満足そうに目を細めると、シナモンロールにかぶりついた。
「神の子か。それはこの目で見ておきたいが……娼館は無理だろうな」
ウォレスの視線が、パン屋の扉のガラス窓の奥へと向く。
外に停められている馬車の御者台には、いつも通りマルセルが座っていた。
「だから、もしセレニテが来るならわたしが行ってこようと思って」
「危ないんじゃないのか?」
「娼館通りのあたりは、あれでなかなか治安がいいらしいんです。男衆が見回りしていますから。お兄ちゃんが言っていました」
「だが、娼婦目当ての男がたくさん来るのだろう?」
テーブルの上に投げ出していたサーラの手に、シナモンロールを持っていない方のウォレスの片手が重なる。
つーっとくすぐるように手の甲を撫でられて、サーラは恥ずかしくなって視線を斜めに落とした。
顔がほてっていくのがわかる。
「露出の高い服は着るなよ」
「もともと、そんな服は持ってませんよ」
「香水もつけるな」
「つけませんって」
「化粧もだめだ。ついでに帽子をかぶっていけ」
あれこれと注文をつけてくる。
心配性だなあと肩をすくめて、サーラは頷いた。
「そうしますけど、わたしに興味を持つ人はいないと思いますよ」
(なんたって、絶壁だし)
ヴァルヴァラの、あの豊満な胸のふくらみを思い出しながら胸の中でつぶやく。
色を売る町に来る男たちだ。サーラのような色気の欠片もないような女に興味を示すはずがない。
「いないはずがないだろう。現に君の目の前に一人いるじゃないか」
真顔で、照れるようなことを言わないでほしい。
サーラはどきどき言いはじめた鼓動を落ち着けようと、ティーカップに手を伸ばす。
「なあ」
「なんです?」
「ちょっと、馬車に行かないか」
「馬車に何の用事があるんですか?」
「用事というか……。ここじゃあ、キスの一つもできない」
「ぶっ!」
変なことを言うから、紅茶をちょっと噴き出してしまったではないか。
「なっ、何を言うんですかっ! 行きませんよ!」
「じゃあここでいいのか? いつ客が入ってくるかわからないが……」
「いいはずないでしょう⁉」
真面目な話をしていたはずなのに、この男は何を考えているのだろう。
ウォレスはむっと口をへの字に曲げだ。
「なかなか二人きりになれないのは考えものだな……」
パン屋の中には二人きりだが、完全に二人きりというわけでもない。
カウンターの奥の調理場にはアドルフがいるし、たまにグレースも出入りしている。
パン屋なので、いつ客が入って来るかもわからない。
本当ならば、こんなところでの際どい会話も避けるべきなのだ。
まったくもう、とため息を吐いたとき、チリンとベルが鳴った。
ウォレスの手が、ぱっとサーラの手から離れる。
「あー! ウォレス様!」
入って来たのはリジーだった。
ぱあっと顔を輝かせて、スキップでもしそうな足取りで飲食スペースまでやって来た。
「サーラ、サーラ、あたしも~」
「はいはい、お茶ね。パンはどうする?」
「じゃあ、ウォレス様と同じシナモンロールで!」
「了解」
ちょっと赤い顔がリジーに気づかれないうちに、サーラは少々急ぎ足で、紅茶を淹れるためにカウンターの奥へ向かう。
ウォレスにくすぐられていた手の甲が左の手の甲が熱い。
(キスなんて、さらっと言わないでよ……)
付き合いはじめて八日。
四阿でして以来、まだ一度もキスしていないが、だからってわざわざそのために馬車の中に入るのはおかしいだろう。馬車の帳を閉めたところでマルセルには勘繰られるだろうし、恥ずかしくてサーラの頭がどうにかなってしまいそうになる。
グレースの腰の具合もだんだん良くなってきていて、最近では、たまには店番を変わるから遊んできなさいと言ってくれるけれど、それをウォレスに言うのは、なんだか自分からデートに誘っているみたいで照れてしまって言えなかった。
ウォレスも紅茶のお代わりがほしいだろうからと、多めに入れた紅茶をティーポットに入れたまま飲食スペースに戻る。
リジーに紅茶を差し出し、それからからっぽになっていたウォレスのティーカップに紅茶を注いだ。
サーラが紅茶を淹れている間、リジーは昨日のセレニテの噂話を披露していたらしい。
「もし姐さんがセレニテを呼ぶことに成功したら、ウォレス様も見に行きましょうよぅ」
「いや、私はたぶん無理だ。だが、マルセルを行かせるよ。女の子たちがあのあたりをうろうろするのなら護衛も必要だろう?」
マルセルに相談もなく、彼の同行が決定していた。
(……可哀想に)
マルセルは第二王子の筆頭護衛官のはずなのに、いつもいいように使われている。
「それにしても、セレニテは今度はどんな『奇跡』を起こしたんだろうね」
「前回のは、サーラの推理通りなら奇跡でも何でもないですもんね~」
セレニテが人を生き返らせたというあの奇跡は、サーラの予想通りならただの自作自演だ。
奇跡どころか、トリックですらない。
(たぶん今回も奇跡ではないと思うけど……、あちこちで『奇跡』と言って妙なことをして回っているなんて、セレニテの目的は何なのかしらね)
サーラとしては、奇跡の内容そのものよりも、セレニテの目的の方に興味がある。
――リジーから、ヴァルヴァラがセレニテを娼館に招くことに成功したと聞かされたのは、翌日のことだった。
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