58 / 155
第一部 街角パン屋の訳あり娘
精霊の棲む森 2
しおりを挟む
王都の東隣にあるティル伯爵領の、領主の邸に到着したのは、空が熟れすぎたオレンジ色に染まったころのことだった。
王都から近いので気候に差はないが、しいて言えば少しだけ空気が綺麗な気がした。王都と比べて緑が多いのでそう思うのだろうか。
馬車を降りると、邸の玄関前には、青白い顔をした頬のこけた中年男性と、眉がやたらと細い少し気の強そうな中年女性。そして十数名の男女の使用人がずらりと並んでいる。
青白い顔をした男がティル伯爵で、眉の細い女性が伯爵夫人であろう。
「まあまあ殿下、わざわざご足労頂き恐縮ですわ」
家長である夫を押しのけるようにして前に出て、両手を胸の前で組んでやたらと高い声でウォレスに挨拶する夫人を見れば、この夫婦の力関係がわかるというものだ。
(ま、伯爵は気が弱そうだものね)
だから、精霊の祟りを恐れてやつれてしまったのだろう。豪胆な人間ならば、ここまでやつれたりはしない。
さあさあどうぞ、と夫人の先導で邸の中に入る。
「本当に、申し訳ございません。まさかオクタヴィアン殿下がいらしてくださるなんて……」
恐縮しきった様子の伯爵が、ウォレスの隣を歩きながら言う。
「兄が新婚旅行中だからな。妙な事件だ、調査は早い方がいいだろう?」
可哀想なくらいやつれているティル伯爵を気遣っているのか、ウォレスの口調はとても優しい。
ウォレスが伯爵夫妻と話をしている間に、サーラはベレニスとともに、使用人に案内されて二階の客室へ向かった。ウォレスの部屋に荷物を運び、整えるのである。
マルセルとシャルはウォレスの護衛としてウォレスに同行だ。
ウォレスが使う部屋は続き部屋で、中央の主寝室の扉に立って左の部屋が侍女の控室になるという。
マルセルとシャルは廊下を挟んで反対側の部屋だ。
バスルームは主寝室の右隣。こちらも内扉でつながっている。
侍女が使う左の部屋にも、続きのバスルームがあったが、こちらは使用人が使うことが想定されているので主寝室の続きのバスルームよりも小さい。しかし、もちろんサーラの家のバスルームよりははるかに広かった。
バスルームにはすでにソープやバスオイルなどが揃っている。
「サーラ、殿下の着替えをクローゼットへお願いしますね」
案内役の使用人が下がると、ベレニスがサーラにそう命じて、自分は手荷物の中から何かの試薬を取り出した。
(ああ、毒物検査ね)
ないとは思うが、何かあってからでは遅い。
ベレニスはバスルームのソープやオイル、それから備え付けの茶葉など、確認できるものはすべて試薬を使って検査をするようだ。
ウォレスからの事前情報では、ティル伯爵家は第一王子寄りらしい。
とはいえ、ティル伯爵夫人がセザールの母である第三妃と友人という関係であるだけで、伯爵個人はどちらかといえば中立だそうだ。夫人が第三妃と仲がいいので、周囲から第一王子寄りだと思われているのだと言う。
第一王子と第二王子の王位争いがどのようなものなのかは、サーラは詳しくは知らない。
ウォレスの雰囲気を見るに、互いの足を引っ張りあうと言うよりは、自分自身を高め評価を集めるという方向性のようなので、それほどぎすぎすしたものではないような気もしているが、こればっかりは想像では語れまい。
当人たちの思惑だけでなく、派閥間の問題もあるだろうからだ。
ウォレスが使う部屋の毒物検査を終えると、ベレニスは今度は侍女が使う部屋の毒物検査もはじめた。
その頃にはサーラはウォレスの荷物を片付け終えていたので、自分とベレニスの荷物の荷解きへ移る。
「サーラ、こちらへ」
毒物検査が終わると、ベレニスが少し声を落としてサーラを呼んだ。そして、何かの液体が入った小瓶を手渡す。
「念のため解毒薬を渡しておきます。瓶の色が違うので覚えてください」
青と赤、それから白い小瓶の解毒薬の説明を受け、さらには解毒薬が存在しない毒が盛られた時のために嘔吐薬も渡される。
ウォレスの様子がおかしければすぐベレニスを呼ぶように、万が一近くにいない場合は渡した薬で応急処置をするように言われた。
「ここはそれほど警戒が必要な場所ですか?」
「伯爵夫妻については殿下の命を狙うようなことはないと思っています。ただ、今回の護衛は、シャルさんを入れて二人です。精霊の祟りなんて大声で言えるものではありませんから、伯爵家に招待されて都合がついたので遊びに行ったと言う体を取っておりますので、護衛は最低限にしておりますから」
それもあるだろうが、護衛を少なくせざるを得なかったのはサーラが同行したことが大きい。騎士の中には仕事などで下町を訪れる者もいる。気を使ってくれたのだ。
「殿下にも武術の心得はありますし、毒に対する知識もあります。お渡しするのは、あくまで万が一の時の保険ですから、それほど緊張なさらないでください」
「はい……」
万が一の保険と言われても、毒を盛られる可能性があると言われれば緊張してしまう。
かつて公爵令嬢として生き、そしてその立場を奪われたサーラは、貴族社会の恐ろしさをわかっていたつもりだった。
けれども、社交デビューする以前に幼くして貴族社会を離れたサーラは、本当の意味では理解できていなかったのかもしれない。
(ウォレス様は……こんな世界で生きていたのね)
きらびやかな貴族社会の、どろどろと陰湿な裏の顔。
邪魔な人間を陥れ、時には命すら奪い、その骸の上でワルツを踊るような、そんな世界。
謀略が蜘蛛の巣のように張り巡らされた世界では、小さな油断が命取りになる。
サーラの実の両親は、そんな蜘蛛の巣にからめとられた敗者なのだ。
だから捕食された。
サーラは渡された薬をきゅっと握り締めて、大きく息を吸い込む。
サーラは今、貴族社会にいる。
下町のあの家に戻るまで、決して油断はしてはならないのだと、サーラは己に言い聞かせた。
王都から近いので気候に差はないが、しいて言えば少しだけ空気が綺麗な気がした。王都と比べて緑が多いのでそう思うのだろうか。
馬車を降りると、邸の玄関前には、青白い顔をした頬のこけた中年男性と、眉がやたらと細い少し気の強そうな中年女性。そして十数名の男女の使用人がずらりと並んでいる。
青白い顔をした男がティル伯爵で、眉の細い女性が伯爵夫人であろう。
「まあまあ殿下、わざわざご足労頂き恐縮ですわ」
家長である夫を押しのけるようにして前に出て、両手を胸の前で組んでやたらと高い声でウォレスに挨拶する夫人を見れば、この夫婦の力関係がわかるというものだ。
(ま、伯爵は気が弱そうだものね)
だから、精霊の祟りを恐れてやつれてしまったのだろう。豪胆な人間ならば、ここまでやつれたりはしない。
さあさあどうぞ、と夫人の先導で邸の中に入る。
「本当に、申し訳ございません。まさかオクタヴィアン殿下がいらしてくださるなんて……」
恐縮しきった様子の伯爵が、ウォレスの隣を歩きながら言う。
「兄が新婚旅行中だからな。妙な事件だ、調査は早い方がいいだろう?」
可哀想なくらいやつれているティル伯爵を気遣っているのか、ウォレスの口調はとても優しい。
ウォレスが伯爵夫妻と話をしている間に、サーラはベレニスとともに、使用人に案内されて二階の客室へ向かった。ウォレスの部屋に荷物を運び、整えるのである。
マルセルとシャルはウォレスの護衛としてウォレスに同行だ。
ウォレスが使う部屋は続き部屋で、中央の主寝室の扉に立って左の部屋が侍女の控室になるという。
マルセルとシャルは廊下を挟んで反対側の部屋だ。
バスルームは主寝室の右隣。こちらも内扉でつながっている。
侍女が使う左の部屋にも、続きのバスルームがあったが、こちらは使用人が使うことが想定されているので主寝室の続きのバスルームよりも小さい。しかし、もちろんサーラの家のバスルームよりははるかに広かった。
バスルームにはすでにソープやバスオイルなどが揃っている。
「サーラ、殿下の着替えをクローゼットへお願いしますね」
案内役の使用人が下がると、ベレニスがサーラにそう命じて、自分は手荷物の中から何かの試薬を取り出した。
(ああ、毒物検査ね)
ないとは思うが、何かあってからでは遅い。
ベレニスはバスルームのソープやオイル、それから備え付けの茶葉など、確認できるものはすべて試薬を使って検査をするようだ。
ウォレスからの事前情報では、ティル伯爵家は第一王子寄りらしい。
とはいえ、ティル伯爵夫人がセザールの母である第三妃と友人という関係であるだけで、伯爵個人はどちらかといえば中立だそうだ。夫人が第三妃と仲がいいので、周囲から第一王子寄りだと思われているのだと言う。
第一王子と第二王子の王位争いがどのようなものなのかは、サーラは詳しくは知らない。
ウォレスの雰囲気を見るに、互いの足を引っ張りあうと言うよりは、自分自身を高め評価を集めるという方向性のようなので、それほどぎすぎすしたものではないような気もしているが、こればっかりは想像では語れまい。
当人たちの思惑だけでなく、派閥間の問題もあるだろうからだ。
ウォレスが使う部屋の毒物検査を終えると、ベレニスは今度は侍女が使う部屋の毒物検査もはじめた。
その頃にはサーラはウォレスの荷物を片付け終えていたので、自分とベレニスの荷物の荷解きへ移る。
「サーラ、こちらへ」
毒物検査が終わると、ベレニスが少し声を落としてサーラを呼んだ。そして、何かの液体が入った小瓶を手渡す。
「念のため解毒薬を渡しておきます。瓶の色が違うので覚えてください」
青と赤、それから白い小瓶の解毒薬の説明を受け、さらには解毒薬が存在しない毒が盛られた時のために嘔吐薬も渡される。
ウォレスの様子がおかしければすぐベレニスを呼ぶように、万が一近くにいない場合は渡した薬で応急処置をするように言われた。
「ここはそれほど警戒が必要な場所ですか?」
「伯爵夫妻については殿下の命を狙うようなことはないと思っています。ただ、今回の護衛は、シャルさんを入れて二人です。精霊の祟りなんて大声で言えるものではありませんから、伯爵家に招待されて都合がついたので遊びに行ったと言う体を取っておりますので、護衛は最低限にしておりますから」
それもあるだろうが、護衛を少なくせざるを得なかったのはサーラが同行したことが大きい。騎士の中には仕事などで下町を訪れる者もいる。気を使ってくれたのだ。
「殿下にも武術の心得はありますし、毒に対する知識もあります。お渡しするのは、あくまで万が一の時の保険ですから、それほど緊張なさらないでください」
「はい……」
万が一の保険と言われても、毒を盛られる可能性があると言われれば緊張してしまう。
かつて公爵令嬢として生き、そしてその立場を奪われたサーラは、貴族社会の恐ろしさをわかっていたつもりだった。
けれども、社交デビューする以前に幼くして貴族社会を離れたサーラは、本当の意味では理解できていなかったのかもしれない。
(ウォレス様は……こんな世界で生きていたのね)
きらびやかな貴族社会の、どろどろと陰湿な裏の顔。
邪魔な人間を陥れ、時には命すら奪い、その骸の上でワルツを踊るような、そんな世界。
謀略が蜘蛛の巣のように張り巡らされた世界では、小さな油断が命取りになる。
サーラの実の両親は、そんな蜘蛛の巣にからめとられた敗者なのだ。
だから捕食された。
サーラは渡された薬をきゅっと握り締めて、大きく息を吸い込む。
サーラは今、貴族社会にいる。
下町のあの家に戻るまで、決して油断はしてはならないのだと、サーラは己に言い聞かせた。
138
お気に入りに追加
713
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
残念ながら、定員オーバーです!お望みなら、次期王妃の座を明け渡しますので、お好きにしてください
mios
恋愛
ここのところ、婚約者の第一王子に付き纏われている。
「ベアトリス、頼む!このとーりだ!」
大袈裟に頭を下げて、どうにか我儘を通そうとなさいますが、何度も言いますが、無理です!
男爵令嬢を側妃にすることはできません。愛妾もすでに埋まってますのよ。
どこに、捻じ込めると言うのですか!
※番外編少し長くなりそうなので、また別作品としてあげることにしました。読んでいただきありがとうございました。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
魅了の魔法を使っているのは義妹のほうでした・完
瀬名 翠
恋愛
”魅了の魔法”を使っている悪女として国外追放されるアンネリーゼ。実際は義妹・ビアンカのしわざであり、アンネリーゼは潔白であった。断罪後、親しくしていた、隣国・魔法王国出身の後輩に、声をかけられ、連れ去られ。
夢も叶えて恋も叶える、絶世の美女の話。
*五話でさくっと読めます。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
追放された悪役令嬢はシングルマザー
ララ
恋愛
神様の手違いで死んでしまった主人公。第二の人生を幸せに生きてほしいと言われ転生するも何と転生先は悪役令嬢。
断罪回避に奮闘するも失敗。
国外追放先で国王の子を孕んでいることに気がつく。
この子は私の子よ!守ってみせるわ。
1人、子を育てる決心をする。
そんな彼女を暖かく見守る人たち。彼女を愛するもの。
さまざまな思惑が蠢く中彼女の掴み取る未来はいかに‥‥
ーーーー
完結確約 9話完結です。
短編のくくりですが10000字ちょっとで少し短いです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】長い眠りのその後で
maruko
恋愛
伯爵令嬢のアディルは王宮魔術師団の副団長サンディル・メイナードと結婚しました。
でも婚約してから婚姻まで一度も会えず、婚姻式でも、新居に向かう馬車の中でも目も合わせない旦那様。
いくら政略結婚でも幸せになりたいって思ってもいいでしょう?
このまま幸せになれるのかしらと思ってたら⋯⋯アレッ?旦那様が2人!!
どうして旦那様はずっと眠ってるの?
唖然としたけど強制的に旦那様の為に動かないと行けないみたい。
しょうがないアディル頑張りまーす!!
複雑な家庭環境で育って、醒めた目で世間を見ているアディルが幸せになるまでの物語です
全50話(2話分は登場人物と時系列の整理含む)
※他サイトでも投稿しております
ご都合主義、誤字脱字、未熟者ですが優しい目線で読んで頂けますと幸いです
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
侍女から第2夫人、そして……
しゃーりん
恋愛
公爵家の2歳のお嬢様の侍女をしているルイーズは、酔って夢だと思い込んでお嬢様の父親であるガレントと関係を持ってしまう。
翌朝、現実だったと知った2人は親たちの話し合いの結果、ガレントの第2夫人になることに決まった。
ガレントの正妻セルフィが病弱でもう子供を望めないからだった。
一日で侍女から第2夫人になってしまったルイーズ。
正妻セルフィからは、娘を義母として可愛がり、夫を好きになってほしいと頼まれる。
セルフィの残り時間は少なく、ルイーズがやがて正妻になるというお話です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる