52 / 112
第一部 街角パン屋の訳あり娘
誕生日の翌日 3
しおりを挟む
翌日、ウォレスがどこか疲労をにじませた顔でパン屋ポルポルにやって来たのは、十時十八分のことだった。
リジーが来て、十一分後のことである。
ウォレスが来るまで粘ると言って、飲食スペースに陣取っていたリジーは嬉しそうな顔をして立ち上がった。
「……お茶、入れましょうか?」
「頼む。あと……甘いものがほしい」
「それでしたら今日はラスクがありますよ」
バゲットが前日売れ残った日だけ作って売るラスクが、まだ何枚か残っている。
滅多に陳列に並ばない珍しい商品なので、いつもなら朝のうちに売り切れるラスクだが、昨日はバゲットが多めに余ったためいつもよりたくさん作っていた。
「じゃあそれを……全部」
「わかりました」
ラスクは六枚残っていた。
それをすべて皿に移して、飲食スペースに置いてやる。
そして紅茶を淹れるために奥に引っ込むと、表からリジーの「お誕生日おめでとうございます」の一言が聞こえてきた。
「ありがとう。知っていたんだな」
「はい! 昨日、サーラから聞いて。昨日が二十歳のお誕生日だったんですよね?」
「ああ」
ウォレスの口調には、ほんの少しだけ苦いものが混じっていた。
おそらくだが、城で誕生日パーティーが開かれて、嫌と言うほど祝いの言葉をもらって、それに応えて回っていたのだろう。
王子ともなれば、祝われる側が疲弊するほど盛大な祝いであるのは想像に難くない。
届いたプレゼントも、危険物が紛れ込んでいないかの確認が終わった後で、一つずつウォレスも確認して、礼状の手配もしなければならないはずだ。さすがに自分では書かないだろうが、確認だけでも大変な作業であるのは間違いない。
祝いの言葉にもプレゼントにも辟易しているはずだ。
(これなら、プレゼントはいらなかったかしらね)
サーラは、昨日のうちに用意したハンカチの包みを見てそっと息を吐く。
刺繍は無難に植物を模したものにした。さすがに王家の紋章を入れるわけにはいかなかったからだ。
(でもまあ、せっかく準備したし、渡さなかったらリジーもうるさそうだし……)
なんだか自分自身に言い訳している気分になりながら、サーラは紅茶を三つと、それからハンカチの包みを持って飲食スペースへ向かう。
早くプレゼントを渡したくてうずうずしていたらしいリジーが、サーラが席に着いたのを見て、テーブルの上にカフスボタンの入った小さな包みを出した。
「これ、お誕生日のプレゼントです!」
ウォレスは目を丸くして、それからとろけるような笑みを浮かべる。
美丈夫の極上の笑みに、リジーがぽっと赤くなった。
「ありがとう」
そう言いながら、ウォレスはちらりとこちらに視線を向けてくる。
「……おめでとうございます」
サーラもそっとハンカチの包みを差し出した。
ハンカチ自体は絹であるし、刺繍に使った絹糸もいいものを使ったので、王子の普段使い程度ならば大丈夫だろうかと言う品だ。
ウォレスが笑みを深めた。
(この笑顔に二段階目があったとは……)
今まで見たことがないくらいに、とろけきった笑みである。あまりの破壊力に、リジーの顔がさらに真っ赤になった。
「開けてみても?」
「いいですけど……たいしたものではないですよ」
期待しているところ申し訳ないが、どこにでもある刺繍入りのハンカチである。
ウォレスは微笑みを崩さず、リジーとサーラそれぞれの包みを丁寧にあけた。
リジーのは、馬蹄の形の、金色のカフスボタンだ。ああでもないこうでもないと、うんうん唸って悩みながら決めたものである。
サーラは刺繍前提だったので特に迷うこともなく、無難に白い絹のハンカチを買った。
刺繍のモチーフにしたのは、もう少し寒くなってくると実が赤く色づいてくるピラカンサスである。実の赤と葉の緑のコントラストが鮮やかな植物だ。
「……見事な刺繡だな」
ウォレスが目を見張ると、リジーも彼の手元を覗き込んで目をぱちくりとさせた。
「本当。サーラ、刺繍上手だったのね!」
「……たまにお兄ちゃんのハンカチにも刺繍しているからね」
ここまで緻密な刺繍を刺したのは久しぶりだが、意外と覚えているものだ。
ウォレスはそれぞれのプレゼントを丁寧に包みなおすと、ジャケットのポケットに入れた。
「ありがとう。大切にするよ」
王子のウォレスからすれば全然たいしたことないプレゼントなのに、彼は心からそう言っているようにも見えて、サーラはちょっとだけくすぐったくなる。
紅茶を飲みながらラスクを食べはじめたウォレスの顔色は、心なしか少しマシになったようだ。
もしかしたら、第二王子オクタヴィアンとして、大勢の視線にさらされ続けている彼は、ここのように気を張る必要のない場所が必要なのかもしれないと、なんとなく思う。
肩の力を抜いて、お茶と素朴なお菓子やパンを食べながら、のんびりする時間が。
満足そうな顔でさくさくとラスクを食べているウォレスをぼんやり見やっていたサーラは、そこでハッとした。
「忘れるところでした。リジー、あの話!」
ウォレスは、王位継承のための実績を積んでいると言っていた。
ならばリジーが仕入れてきた奇妙な話を耳に入れておいた方がいいだろうと、サーラはリジーに水を向けたのだが、どうやらよくわかっていないらしい。きょとんとした顔で首をひねっている。
「リジー、あの、奇跡の話よ」
「ああ! あれ! そうだったわ!」
噂が大好きなリジーが黙っているのが不思議だったが、どうやら単に忘れていただけのようだった。それだけウォレスの誕生日に夢中になっていたのだろう。
「奇跡? 何の話だ?」
四枚目のラスクを食べ終えたウォレスが、手を止めて怪訝そうな顔をした。
「神の子ですよ、ウォレス様!」
「……神の子?」
プレゼントをもらって上機嫌だったウォレスの表情がこわばる。
「詳しく教えてくれ」
「はい!」
噂を仕入れることも広めることも大好きなリジーが、胸を張って語り出した。
「ルイスによると、ルイスの友達が『神の子』を見たのは、第一王子殿下夫妻の成婚パレードの三日前のことらしいんです。彼――一応『彼』としますが、実は彼は男か女かもわからない外見をしていて、白くて長い髪に、赤に近い茶色の瞳をした背の高い人物だそうです。全身を黒いローブで覆っていて、声も高すぎず、でも低すぎない、男性とも女性ともつかない声色だったとか」
聞くだけで怪しさ満点の人物である。
「『神の子』はセレニテと名乗ったそうですが、これは人の世界で使う仮初の名前だと言っていました」
「セレニテ……、なるほど、自分は清らかであるって言いたいわけね」
セレニテには空や空気が清澄であるという意味がある。
そんなものを神の子を名乗る自分の偽名にするなんて、どれだけ自信家だろうか。
「セレニテは、人々の前でたくさんの奇跡の技を見せたそうです。それが何なのかまではわかりません。ルイスの友達も、最初から居合わせたわけではなくて、人だかりができていたのが気になって見に行ったらしいですから。セレニテの奇跡の技を見ていた人たちは口々にすごいと騒ぎ立てていたそうです」
コツコツ、と小さな音がしたのでウォレスの方を向くと、彼は指先で小さく机の上を叩いていた。明らかに機嫌が降下している。
(そりゃそうか。王家の威信に関わるもんねえ)
神の子を名乗る人物に人々が傾倒しはじめると、時には国家権力をも脅かす事態に発展することがある。
国は神を認め、信仰を許しているが、それらは国家の威信を脅かさないように緻密に計算、管理された上でのことだ。
王の上に神がいるとしながらも、その神は王制を脅かしてはならない。
王は神を王制に正当性をもたらす存在として利用しているだけなのだ。王制を揺るがす存在になったとき、神は神ではなくなる。少なくとも、国にとって。
歴史を紐解けば、為政者にとって都合が悪くなった神を信仰する人々が迫害され改宗させられたケースなど数えきれないほどあるものだ。
政治と宗教は別々のようで密接に絡み合い均衡を保っている。
今回の「神の子」は、その繊細な均衡を崩しかねない危険な存在だった。
「そして、ルイスの友達がセレニテの周りに集まっている人たちの輪に加わってすぐ、見物していた人達の中で、一人の男が突然お腹を押さえて呻き出し、その場に倒れこみました。男はぴくぴくと痙攣を起こしたように小刻みに全身を震わせて、それからくたりと死んだように動かなくなったそうです。集まっていた人たちが悲鳴を上げる中、セレニテはゆっくりと男に近づいて、首元に手を当て、口元に耳を当てて、『お可哀想に……』と呟いたとか。ルイスの友達は、その一言で男が死んだのだと確信しましたと言ったそうです」
「ねえ、その男は本当に死んだの?」
「え? 知らないよ。だってあたしが見たわけじゃないもん。でも、他の人も死んだと思ってたみたいよ。市民警察を呼べとか、医者を呼べとか大騒ぎだったんだって」
まあそれはそうだろう。
というか男の生死にかかわらず、そのような倒れ方をすれば医者を呼ぶのは当然である。
「それでどうなった?」
気が急いているのか、ウォレスの声が少しだけ低い。
「セレニテが生き返らせました」
「は?」
「ええっと、男を抱き起したセレニテは、『神の慈悲を与えましょう』と言って、小瓶に入った水を男の体に振りかけたそうです。『聖水』とセレニテは言っていたらしいですけど、ルイスの友達にはただの水に見えたと言っていたらしいです。それで、その聖水をかけて、彼が羽織っていた黒いローブを男の体にかけたそうです。そして、セレニテは五分くらいでしょうか、神に祈りをささげていたんだそうです。その間に近くの診療所から医者が連れてこられたそうですが、セレニテは医者に男に触れることを禁止して、待つようにと言ったとか。すると、男はひゅうっと大きく息を吸い込んで、目を覚ましたらしいです」
ウォレスは目を見張って沈黙した。
リジーは続ける。
「セレニテはその後、『神の慈悲が与えられました。よかったですね』と微笑んで、その場から去ったそうです。医者は狐につままれたような顔をしていたと言っていました」
「……そんなことがあるのか?」
「ね、奇跡ですよね!」
リジーが無邪気に笑っているが、ウォレスとしてはその奇跡を認めるわけにはいかないだろう。何が何でも否定したいはずだ。
サーラはウォレスを横目で見やりながらティーカップに口をつける。
(リジーが話したことがすべてなら、同じことをする方法はあるけど……)
ただ、実際に見ていないのだからただの憶測だ。
そして、それは現実的に考えたときの可能性の一つであって、本当に奇跡が起こったかどうかを否定できるものではない。
しかし、茫然としているウォレスをこのままにしておくのは忍びなく、サーラは「たとえばですけど」と前置きして口を開いた。
「今のリジーの話が、その時の状況のすべてであるのなら、わたしでも同じことができます」
「え⁉」
「どういう意味だ⁉」
リジーとウォレスがほぼ同時に叫んだ。
「簡単なことです。セレニテの周りに集まっていた人は、セレニテが男を生き返らせる前に様々な奇跡を起こして見せたことで、彼のことをすごい人間だと、本当に神の子かもしれないと信じる気持ちが生まれていました。これができていたからこそ、成功した方法だとも言えます。これは、簡単な心理トリックですよ」
「心理トリック?」
「セレニテは本当に奇跡を起こせる人間だと信じる気持ちが、集団心理として植え付けられていたら、彼の行動を邪魔する人はいないでしょう。そしてその状況で、男が倒れ、セレニテが近づき、男が死んだと暗示させる。男が生きているか死んでいるかを確かめたのはセレニテ一人で、他の誰も男には近づいていない。ここまで言えばわかりませんか?」
「……つまり、男は本当は死んでおらず、セレニテとグルだった、と?」
「そうです。男は死んだふりをする。そしてセレニテがパフォーマンスを行い、男を生き返らせる。医者に触らせなかったのは触られたらすぐに気づかれてしまうからですよ。呼吸をすると胸部や腹部が動きますが、呼吸を浅くし、セレニテが男の胸部や腹部が周りから見えにくくなるように隠しさえすればいい。ローブをかけたのも、男が生きていると気づかれないようにするための措置でしょう。そして少し経って、男はさも生き返ったかのように大仰に息を吸って目を開く」
「詐欺じゃないか‼」
「そうかもしれませんが、ここで忘れてはいけないのが、セレニテは一言も、男が死んだとも、生き返らせるとも言っていないことです」
セレニテは倒れた男に向かって『お可哀想に……』、といい『神の慈悲を与えましょう』と言った。
男が死んだと勘違いしたのは見ていた人間で、神の慈悲が男を生き返らせることだと勘違いしたのも、やはり見ていた人間だ。
一言も言っていないのだから、これを詐欺とするのは難しい。
しかも、セレニテはお金を取った見世物をしていたわけではない。
ふらりとやってきて、ちょっとした芸を見せて去っただけ、そう言われれば終わりだ。
「でもさあ、もし誰かが倒れた男に近づいて、男が死んでいないことに気が付いたら?」
「そのときは、男が病気で腹痛を訴えているってことにすればいいんじゃない? そして同じようなパフォーマンスをして『治った』なんていえば、神の奇跡で治ったって見ている人は勘違いしてくれる」
セレニテが男が死んだと明言しなかったのはこのためでもあるだろう。死んだと言っていないのだから、どうとでも調整可能なのである。
「もっとも、これはあくまでわたしの想像です。実際にこの目で見ていないのですから、その場で何が起こったのか、確実なことは言えません」
「いや、有意義な意見だった」
奇跡を否定する材料ができたからか、ウォレスの顔色はいい。
(ただまあ、その前にもいくつかの奇跡を起こしているらしいからね、それが何なのかは、見て見ないと何とも言えないけど)
この世に本当に奇跡があるのならば見てみたい気もする。
けれど、リジーが語ったことを奇跡と信じるほど、サーラは純粋ではない。
サーラがもし、この世の汚いことを何も知らなかったサラフィーネ・プランタットのままであれば、信じたかもしれないけれど。
「なあんだ、つまんな~い」
奇跡が奇跡でないと言われて、リジーが口を尖らせた。
「でもまあ、同じようなことが続くなら、対策は必要でしょうか」
「そうだな。必要だ」
「え? どういうこと?」
リジーがきょとんとする。
サーラは小さく笑った。
「この国には、神の子は必要ないと言うことよ」
ウォレスは同意を示すように、深く頷いた。
リジーが来て、十一分後のことである。
ウォレスが来るまで粘ると言って、飲食スペースに陣取っていたリジーは嬉しそうな顔をして立ち上がった。
「……お茶、入れましょうか?」
「頼む。あと……甘いものがほしい」
「それでしたら今日はラスクがありますよ」
バゲットが前日売れ残った日だけ作って売るラスクが、まだ何枚か残っている。
滅多に陳列に並ばない珍しい商品なので、いつもなら朝のうちに売り切れるラスクだが、昨日はバゲットが多めに余ったためいつもよりたくさん作っていた。
「じゃあそれを……全部」
「わかりました」
ラスクは六枚残っていた。
それをすべて皿に移して、飲食スペースに置いてやる。
そして紅茶を淹れるために奥に引っ込むと、表からリジーの「お誕生日おめでとうございます」の一言が聞こえてきた。
「ありがとう。知っていたんだな」
「はい! 昨日、サーラから聞いて。昨日が二十歳のお誕生日だったんですよね?」
「ああ」
ウォレスの口調には、ほんの少しだけ苦いものが混じっていた。
おそらくだが、城で誕生日パーティーが開かれて、嫌と言うほど祝いの言葉をもらって、それに応えて回っていたのだろう。
王子ともなれば、祝われる側が疲弊するほど盛大な祝いであるのは想像に難くない。
届いたプレゼントも、危険物が紛れ込んでいないかの確認が終わった後で、一つずつウォレスも確認して、礼状の手配もしなければならないはずだ。さすがに自分では書かないだろうが、確認だけでも大変な作業であるのは間違いない。
祝いの言葉にもプレゼントにも辟易しているはずだ。
(これなら、プレゼントはいらなかったかしらね)
サーラは、昨日のうちに用意したハンカチの包みを見てそっと息を吐く。
刺繍は無難に植物を模したものにした。さすがに王家の紋章を入れるわけにはいかなかったからだ。
(でもまあ、せっかく準備したし、渡さなかったらリジーもうるさそうだし……)
なんだか自分自身に言い訳している気分になりながら、サーラは紅茶を三つと、それからハンカチの包みを持って飲食スペースへ向かう。
早くプレゼントを渡したくてうずうずしていたらしいリジーが、サーラが席に着いたのを見て、テーブルの上にカフスボタンの入った小さな包みを出した。
「これ、お誕生日のプレゼントです!」
ウォレスは目を丸くして、それからとろけるような笑みを浮かべる。
美丈夫の極上の笑みに、リジーがぽっと赤くなった。
「ありがとう」
そう言いながら、ウォレスはちらりとこちらに視線を向けてくる。
「……おめでとうございます」
サーラもそっとハンカチの包みを差し出した。
ハンカチ自体は絹であるし、刺繍に使った絹糸もいいものを使ったので、王子の普段使い程度ならば大丈夫だろうかと言う品だ。
ウォレスが笑みを深めた。
(この笑顔に二段階目があったとは……)
今まで見たことがないくらいに、とろけきった笑みである。あまりの破壊力に、リジーの顔がさらに真っ赤になった。
「開けてみても?」
「いいですけど……たいしたものではないですよ」
期待しているところ申し訳ないが、どこにでもある刺繍入りのハンカチである。
ウォレスは微笑みを崩さず、リジーとサーラそれぞれの包みを丁寧にあけた。
リジーのは、馬蹄の形の、金色のカフスボタンだ。ああでもないこうでもないと、うんうん唸って悩みながら決めたものである。
サーラは刺繍前提だったので特に迷うこともなく、無難に白い絹のハンカチを買った。
刺繍のモチーフにしたのは、もう少し寒くなってくると実が赤く色づいてくるピラカンサスである。実の赤と葉の緑のコントラストが鮮やかな植物だ。
「……見事な刺繡だな」
ウォレスが目を見張ると、リジーも彼の手元を覗き込んで目をぱちくりとさせた。
「本当。サーラ、刺繍上手だったのね!」
「……たまにお兄ちゃんのハンカチにも刺繍しているからね」
ここまで緻密な刺繍を刺したのは久しぶりだが、意外と覚えているものだ。
ウォレスはそれぞれのプレゼントを丁寧に包みなおすと、ジャケットのポケットに入れた。
「ありがとう。大切にするよ」
王子のウォレスからすれば全然たいしたことないプレゼントなのに、彼は心からそう言っているようにも見えて、サーラはちょっとだけくすぐったくなる。
紅茶を飲みながらラスクを食べはじめたウォレスの顔色は、心なしか少しマシになったようだ。
もしかしたら、第二王子オクタヴィアンとして、大勢の視線にさらされ続けている彼は、ここのように気を張る必要のない場所が必要なのかもしれないと、なんとなく思う。
肩の力を抜いて、お茶と素朴なお菓子やパンを食べながら、のんびりする時間が。
満足そうな顔でさくさくとラスクを食べているウォレスをぼんやり見やっていたサーラは、そこでハッとした。
「忘れるところでした。リジー、あの話!」
ウォレスは、王位継承のための実績を積んでいると言っていた。
ならばリジーが仕入れてきた奇妙な話を耳に入れておいた方がいいだろうと、サーラはリジーに水を向けたのだが、どうやらよくわかっていないらしい。きょとんとした顔で首をひねっている。
「リジー、あの、奇跡の話よ」
「ああ! あれ! そうだったわ!」
噂が大好きなリジーが黙っているのが不思議だったが、どうやら単に忘れていただけのようだった。それだけウォレスの誕生日に夢中になっていたのだろう。
「奇跡? 何の話だ?」
四枚目のラスクを食べ終えたウォレスが、手を止めて怪訝そうな顔をした。
「神の子ですよ、ウォレス様!」
「……神の子?」
プレゼントをもらって上機嫌だったウォレスの表情がこわばる。
「詳しく教えてくれ」
「はい!」
噂を仕入れることも広めることも大好きなリジーが、胸を張って語り出した。
「ルイスによると、ルイスの友達が『神の子』を見たのは、第一王子殿下夫妻の成婚パレードの三日前のことらしいんです。彼――一応『彼』としますが、実は彼は男か女かもわからない外見をしていて、白くて長い髪に、赤に近い茶色の瞳をした背の高い人物だそうです。全身を黒いローブで覆っていて、声も高すぎず、でも低すぎない、男性とも女性ともつかない声色だったとか」
聞くだけで怪しさ満点の人物である。
「『神の子』はセレニテと名乗ったそうですが、これは人の世界で使う仮初の名前だと言っていました」
「セレニテ……、なるほど、自分は清らかであるって言いたいわけね」
セレニテには空や空気が清澄であるという意味がある。
そんなものを神の子を名乗る自分の偽名にするなんて、どれだけ自信家だろうか。
「セレニテは、人々の前でたくさんの奇跡の技を見せたそうです。それが何なのかまではわかりません。ルイスの友達も、最初から居合わせたわけではなくて、人だかりができていたのが気になって見に行ったらしいですから。セレニテの奇跡の技を見ていた人たちは口々にすごいと騒ぎ立てていたそうです」
コツコツ、と小さな音がしたのでウォレスの方を向くと、彼は指先で小さく机の上を叩いていた。明らかに機嫌が降下している。
(そりゃそうか。王家の威信に関わるもんねえ)
神の子を名乗る人物に人々が傾倒しはじめると、時には国家権力をも脅かす事態に発展することがある。
国は神を認め、信仰を許しているが、それらは国家の威信を脅かさないように緻密に計算、管理された上でのことだ。
王の上に神がいるとしながらも、その神は王制を脅かしてはならない。
王は神を王制に正当性をもたらす存在として利用しているだけなのだ。王制を揺るがす存在になったとき、神は神ではなくなる。少なくとも、国にとって。
歴史を紐解けば、為政者にとって都合が悪くなった神を信仰する人々が迫害され改宗させられたケースなど数えきれないほどあるものだ。
政治と宗教は別々のようで密接に絡み合い均衡を保っている。
今回の「神の子」は、その繊細な均衡を崩しかねない危険な存在だった。
「そして、ルイスの友達がセレニテの周りに集まっている人たちの輪に加わってすぐ、見物していた人達の中で、一人の男が突然お腹を押さえて呻き出し、その場に倒れこみました。男はぴくぴくと痙攣を起こしたように小刻みに全身を震わせて、それからくたりと死んだように動かなくなったそうです。集まっていた人たちが悲鳴を上げる中、セレニテはゆっくりと男に近づいて、首元に手を当て、口元に耳を当てて、『お可哀想に……』と呟いたとか。ルイスの友達は、その一言で男が死んだのだと確信しましたと言ったそうです」
「ねえ、その男は本当に死んだの?」
「え? 知らないよ。だってあたしが見たわけじゃないもん。でも、他の人も死んだと思ってたみたいよ。市民警察を呼べとか、医者を呼べとか大騒ぎだったんだって」
まあそれはそうだろう。
というか男の生死にかかわらず、そのような倒れ方をすれば医者を呼ぶのは当然である。
「それでどうなった?」
気が急いているのか、ウォレスの声が少しだけ低い。
「セレニテが生き返らせました」
「は?」
「ええっと、男を抱き起したセレニテは、『神の慈悲を与えましょう』と言って、小瓶に入った水を男の体に振りかけたそうです。『聖水』とセレニテは言っていたらしいですけど、ルイスの友達にはただの水に見えたと言っていたらしいです。それで、その聖水をかけて、彼が羽織っていた黒いローブを男の体にかけたそうです。そして、セレニテは五分くらいでしょうか、神に祈りをささげていたんだそうです。その間に近くの診療所から医者が連れてこられたそうですが、セレニテは医者に男に触れることを禁止して、待つようにと言ったとか。すると、男はひゅうっと大きく息を吸い込んで、目を覚ましたらしいです」
ウォレスは目を見張って沈黙した。
リジーは続ける。
「セレニテはその後、『神の慈悲が与えられました。よかったですね』と微笑んで、その場から去ったそうです。医者は狐につままれたような顔をしていたと言っていました」
「……そんなことがあるのか?」
「ね、奇跡ですよね!」
リジーが無邪気に笑っているが、ウォレスとしてはその奇跡を認めるわけにはいかないだろう。何が何でも否定したいはずだ。
サーラはウォレスを横目で見やりながらティーカップに口をつける。
(リジーが話したことがすべてなら、同じことをする方法はあるけど……)
ただ、実際に見ていないのだからただの憶測だ。
そして、それは現実的に考えたときの可能性の一つであって、本当に奇跡が起こったかどうかを否定できるものではない。
しかし、茫然としているウォレスをこのままにしておくのは忍びなく、サーラは「たとえばですけど」と前置きして口を開いた。
「今のリジーの話が、その時の状況のすべてであるのなら、わたしでも同じことができます」
「え⁉」
「どういう意味だ⁉」
リジーとウォレスがほぼ同時に叫んだ。
「簡単なことです。セレニテの周りに集まっていた人は、セレニテが男を生き返らせる前に様々な奇跡を起こして見せたことで、彼のことをすごい人間だと、本当に神の子かもしれないと信じる気持ちが生まれていました。これができていたからこそ、成功した方法だとも言えます。これは、簡単な心理トリックですよ」
「心理トリック?」
「セレニテは本当に奇跡を起こせる人間だと信じる気持ちが、集団心理として植え付けられていたら、彼の行動を邪魔する人はいないでしょう。そしてその状況で、男が倒れ、セレニテが近づき、男が死んだと暗示させる。男が生きているか死んでいるかを確かめたのはセレニテ一人で、他の誰も男には近づいていない。ここまで言えばわかりませんか?」
「……つまり、男は本当は死んでおらず、セレニテとグルだった、と?」
「そうです。男は死んだふりをする。そしてセレニテがパフォーマンスを行い、男を生き返らせる。医者に触らせなかったのは触られたらすぐに気づかれてしまうからですよ。呼吸をすると胸部や腹部が動きますが、呼吸を浅くし、セレニテが男の胸部や腹部が周りから見えにくくなるように隠しさえすればいい。ローブをかけたのも、男が生きていると気づかれないようにするための措置でしょう。そして少し経って、男はさも生き返ったかのように大仰に息を吸って目を開く」
「詐欺じゃないか‼」
「そうかもしれませんが、ここで忘れてはいけないのが、セレニテは一言も、男が死んだとも、生き返らせるとも言っていないことです」
セレニテは倒れた男に向かって『お可哀想に……』、といい『神の慈悲を与えましょう』と言った。
男が死んだと勘違いしたのは見ていた人間で、神の慈悲が男を生き返らせることだと勘違いしたのも、やはり見ていた人間だ。
一言も言っていないのだから、これを詐欺とするのは難しい。
しかも、セレニテはお金を取った見世物をしていたわけではない。
ふらりとやってきて、ちょっとした芸を見せて去っただけ、そう言われれば終わりだ。
「でもさあ、もし誰かが倒れた男に近づいて、男が死んでいないことに気が付いたら?」
「そのときは、男が病気で腹痛を訴えているってことにすればいいんじゃない? そして同じようなパフォーマンスをして『治った』なんていえば、神の奇跡で治ったって見ている人は勘違いしてくれる」
セレニテが男が死んだと明言しなかったのはこのためでもあるだろう。死んだと言っていないのだから、どうとでも調整可能なのである。
「もっとも、これはあくまでわたしの想像です。実際にこの目で見ていないのですから、その場で何が起こったのか、確実なことは言えません」
「いや、有意義な意見だった」
奇跡を否定する材料ができたからか、ウォレスの顔色はいい。
(ただまあ、その前にもいくつかの奇跡を起こしているらしいからね、それが何なのかは、見て見ないと何とも言えないけど)
この世に本当に奇跡があるのならば見てみたい気もする。
けれど、リジーが語ったことを奇跡と信じるほど、サーラは純粋ではない。
サーラがもし、この世の汚いことを何も知らなかったサラフィーネ・プランタットのままであれば、信じたかもしれないけれど。
「なあんだ、つまんな~い」
奇跡が奇跡でないと言われて、リジーが口を尖らせた。
「でもまあ、同じようなことが続くなら、対策は必要でしょうか」
「そうだな。必要だ」
「え? どういうこと?」
リジーがきょとんとする。
サーラは小さく笑った。
「この国には、神の子は必要ないと言うことよ」
ウォレスは同意を示すように、深く頷いた。
121
お気に入りに追加
706
あなたにおすすめの小説
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。
尾道小町
恋愛
登場人物紹介
ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢
17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。
ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。
シェーン・ロングベルク公爵 25歳
結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。
ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳
優秀でシェーンに、こき使われている。
コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳
ヴィヴィアンの幼馴染み。
アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳
シェーンの元婚約者。
ルーク・ダルシュール侯爵25歳
嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。
ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。
ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。
この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。
ジュリアン・スチール公爵令嬢18歳デビット王太子殿下の婚約者。
ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳
私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。
一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。
正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?
もうすぐ、お別れの時間です
夕立悠理
恋愛
──期限つきの恋だった。そんなの、わかってた、はずだったのに。
親友の代わりに、王太子の婚約者となった、レオーネ。けれど、親友の病は治り、婚約は解消される。その翌日、なぜか目覚めると、王太子が親友を見初めるパーティーの日まで、時間が巻き戻っていた。けれど、そのパーティーで、親友ではなくレオーネが見初められ──。王太子のことを信じたいけれど、信じられない。そんな想いにゆれるレオーネにずっと幼なじみだと思っていたアルロが告白し──!?
「本当に僕の子供なのか検査して調べたい」子供と顔が似てないと責められ離婚と多額の慰謝料を請求された。
window
恋愛
ソフィア伯爵令嬢は公爵位を継いだ恋人で幼馴染のジャックと結婚して公爵夫人になった。何一つ不自由のない環境で誰もが羨むような生活をして、二人の子供に恵まれて幸福の絶頂期でもあった。
「長男は僕に似てるけど、次男の顔は全く似てないから病院で検査したい」
ある日ジャックからそう言われてソフィアは、時間が止まったような気持ちで精神的な打撃を受けた。すぐに返す言葉が出てこなかった。この出来事がきっかけで仲睦まじい夫婦にひびが入り崩れ出していく。
婚約破棄されたら魔法が解けました
かな
恋愛
「クロエ・ベネット。お前との婚約は破棄する。」
それは学園の卒業パーティーでの出来事だった。……やっぱり、ダメだったんだ。周りがザワザワと騒ぎ出す中、ただ1人『クロエ・ベネット』だけは冷静に事実を受け止めていた。乙女ゲームの世界に転生してから10年。国外追放を回避する為に、そして后妃となる為に努力し続けて来たその時間が無駄になった瞬間だった。そんな彼女に追い打ちをかけるかのように、王太子であるエドワード・ホワイトは聖女を新たな婚約者とすることを発表した。その後はトントン拍子にことが運び、冤罪をかけられ、ゲームのシナリオ通り国外追放になった。そして、魔物に襲われて死ぬ。……そんな運命を辿るはずだった。
「こんなことなら、転生なんてしたくなかった。元の世界に戻りたい……」
あろうことか、最後の願いとしてそう思った瞬間に、全身が光り出したのだ。そして気がつくと、なんと前世の姿に戻っていた!しかもそれを第二王子であるアルベルトに見られていて……。
「……まさかこんなことになるなんてね。……それでどうする?あの2人復讐でもしちゃう?今の君なら、それができるよ。」
死を覚悟した絶望から転生特典を得た主人公の大逆転溺愛ラブストーリー!
※最初の5話は毎日18時に投稿、それ以降は毎週土曜日の18時に投稿する予定です
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
何を間違った?【完結済】
maruko
恋愛
私は長年の婚約者に婚約破棄を言い渡す。
彼女とは1年前から連絡が途絶えてしまっていた。
今真実を聞いて⋯⋯。
愚かな私の後悔の話
※作者の妄想の産物です
他サイトでも投稿しております
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる