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第一部 街角パン屋の訳あり娘

幽霊になった男 1

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「ねえねえサーラ、聞いた? 今日の事件の噂!」
「肉屋のおじさんの青あざのこと?」
「ええ⁉ 肉屋のおじさんの青あざって何⁉」

 パンを買いに来たはずの同じ年のリジーが驚いたようにくるんと大きな茶色の瞳を見張ったのを見て、サーラはどうやらこの噂好きの友人に余計な情報を与えてしまったようだと苦笑した。

 ヴォワトール国の王都の下町。
 中央に走る大通りの東の、南門から三つ目のブロックの角。
「ポルポル」と書かれた看板が掛けられたこの店は、パン屋である。

 店を営んでいるのはサーラの両親で、夜が明ける前に手慣れた様子でパンを焼きはじめるのは父のアドルフだ。
 店を切り盛りするのは母のグレースで、去年まで店番には母が立っていたのだが、腰を悪くして長時間立つことが厳しくなってからは、娘であるサーラが店に立つようになった。

 サーラは緩く波打つ赤茶色の髪に青い大きな瞳をした、このあたりではちょっと有名な美人である。

 しかし美人で名の通っているサーラにとって、自分の評判は必ずしも気分のいいものではない。
 サーラ目当てにやってくる男性客はサーラの顔を見て笑み崩れ、そして顔から三十センチ下を見て何とも言えない微妙な顔をするからだ。
「あれで胸がもう少し大きけりゃあ完璧なのに」などという下世話なつぶやきを、何度耳にしたことか。
 本人の耳に入っていないと思って好き勝手なことを言うスケベな男たちを、何度地中深くに埋めてやろうかと思ったかわからない。

 ちなみにリジーに愚痴れば、けらけらと笑いながら「ぺったんこが好きな男もいるから大丈夫だよ」などという頓珍漢な慰め方をされ、「ぺったんこ」と烙印を押されたサーラは余計に傷ついた。

 アドルフ、グレース夫妻にはサーラのほかに、サーラと一つ違いの今年の年末に十八歳になる息子が一人いるが、こちらはパン屋を手伝わず、市民警察に入って仕事をしていた。

 市民警察とは市営の警邏隊だ。
 国が運営しているわけではないが、国から認可をもらって治安維持や災害救助などの活動をしている。
 サーラはカウンターに頬杖をついて、「肉屋のおじさんの青あざについての情報プリーズ!」と目を輝かせているリジーにやれやれと息を吐いた。

「店の一週間の売り上げを全部賭博ですっちゃって、女将さんに殴られたらしいよ。グーで」
「グーで⁉」
「うん。右目の周りが大きな青あざになって、女将さんが恥ずかしいからって、治るまで息子が店番だってさ」
「なにそれ、おばさん面白すぎ! 自分でやったのにねえ!」

 面白いことを聞いたとリジーがけらけらと笑う。これでこの噂は瞬く間にご近所さんの耳に入るだろう。

 笑い上戸なリジーはひとしきり笑って、ちらりとパン屋の奥を見た。
 リジーのお目当てはお昼のサンドイッチにするバゲットだが、朝一で店に出していたものはすべて完売したので、次に焼けるにはもう少しかかるだろう。

 パン屋「ポルポル」は日の出から十時前までが非常に忙しく、それをすぎれば昼過ぎまで客足が遠のく。
 今は十時十五分で、今のところリジーのほかの客が入ってくる気配はなかった。
 おしゃべりなリジーは、客がいない時間帯を見計らって、両親のお使いにやってくるのだ。

(リジーのところのお菓子屋もこの時間帯は客が少ないから、暇つぶしにはちょうどいいんでしょうね)

 ただぼーっとカウンターの奥に立っているのも退屈なので、リジーの来訪はサーラにとっても歓迎すべきことである。

「それで、今日の事件って?」
「あ! そうそう!」

 リジーはきらんと茶色の瞳を輝かせた。

「西の娼館通りの事件なんだけどさー」

 娼館通りとは下町の人間が勝手に呼んでいる呼び名で、西の八番通りのことだ。
 西の八番通りはずらりと並ぶ娼館と西を流れる川に挟まれた通りである。
 あのあたりに近づくと酔っぱらいに絡まれたり、娼婦が買えない貧乏人に路地裏に連れ込まれたりして危ないから近づくなと言われているが、市民警察に籍を置く兄のシャルによると、実際のところはなかなか治安のいいところらしい。娼館の男衆たちが昼夜問わず交代で見回っているので、あまり問題も起きないという。

「娼婦をめぐって乱闘沙汰とか?」

 娼婦の取り合いは、たまに起こる娼館通りの珍事だと聞く。
 なかなか盛り上がるので、見世物としても有名で、娼婦の取り合いが起こったと聞くと、大勢の人が面白がって集まるのだそうだ。まったく物好きなものである。

「だったらもっと面白いんだけど、今日は違うの。なんと、川から死体が上がったんだって!」
「それはそれは、血なまぐさい噂を仕入れてきたものね。でもこの時期にはたまに起こることでしょ? 別に珍しくもなんともないじゃないの」

 あのあたりは歓楽街だけあって酔っ払いが多い。
 雨で表面が濡れた石橋で滑って川に転落なんて事件は、毎年、一、二回は起こっている。
 特に季節の変わり目で雨が多くなるこの時期は、川が増水するせいもあってか、川に落ちてそのまま死亡するケースが多いようだ。
 不幸な事故には間違いないが、取り立てて騒ぐほど珍しいものでもない。
 けれどもリジーは、ちっちっち、と小さく舌打ちした。

「リジーさんを舐めないでくださいませ、サーラさん」

 なるほど、事件に付随する面白い情報を仕入れているようだ。

「今朝見つかった死体なんだけどね、実はオードラン商会の商会長だったらしいのよ」
「オードラン商会って、貴族街に近いところに大きな店を構えてる、あの?」

 なるほど、それならば噂が広まっていてもおかしくない。
 オードラン商会はここ数年で急成長を遂げたまだ新しい商会で、商会の名前にもなっている商会長オードランは敏腕な商人だと有名だ。
 オードランは平民だが、かの商会が扱う商品は品がよく、けれどもほかの貴族御用達の商会と比べて価格も抑えられているため、最近は主に下級貴族たちを中心に取引先を増やしていると聞いた。

 価格を抑えていると言っても、相手にしているのは貴族や富豪であるので、下町の南門に近いあたりに居を構えているサーラ達一般市民からすると高級品ばかりであるため、もちろん店には一度も訪れたことはない。

「大きな商会の商会長がなくなったんじゃ、そりゃあ騒ぎになるわよね」
「それもあるけど、そうじゃないのよ」
「どういうこと?」

 リジーは自分以外の客は誰もいないというのに、左右に視線を走らせると、カウンターに身を乗り出して声を落とした。

「それがね、その亡くなった商会長が、幽霊になったって話なのよ!」
「は? 幽霊?」

 またとんでもない眉唾話を持って来たなと思ったが、リジーの話にはそれなりの根拠があるようだった。
 なんでも、西の川でオードランの遺体が見つかった時刻の十数分前に、貴族街に近いところにあるオードラン商会に、彼が向かった姿を見たものがいると言うのだ。しかも複数人。

「商会長は貴族街に近いところの、東のあたりに大きな邸宅を構えているんだけどね、毎朝その邸宅から大通りの近くにあるオードラン商会に歩いて通っていたのよ。なんでも健康のためとかで、歩くのを日課にしていたらしいの。毎朝きっちりとフロックコートを着てシルクハットをかぶって、ステッキを持ってね。いつも決まった時間に同じ格好で歩く商会長は、あのあたりでは結構有名だったらしいわ。挨拶をしたら朗らかに挨拶を返してくれる気さくな人だったんだって!」
「へえ、それで、今朝も商会長が歩いて店に向かうのを見た人がいるっていうのね?」
「そう! しかもオードラン商会の中の、会長室に入るのを店の従業員が目撃しているらしいのよ!」
「それはまた、妙な話ね……」
「でしょう⁉」

 サーラの同意を得て、リジーは勢いづいた。
 さっきまで落とし気味だった声を大きくして、ぐっと拳を握り締める。

「きっと幽霊なのよ! 商会長は死んだ後も店が心配で様子を見に行ったんだわ! だって商会長の姿を見た人が言ったらしいのよ! いつもは挨拶したら挨拶を返してくれるのに、今日に限ってはずーっと黙ったままだったんですって! 幽霊だからきっとしゃべれないのね!」

 いや、幽霊はしゃべれないと決めつけるのは、それはそれでいかがなものだろう。
 幽霊がいるかいないかの議論をするつもりはないので、幾人かが見たというオードランが幽霊であるの否かについては触れないけれど、普通に歩いていたのならば喋れてもおかしくないではないか。

(幽霊だとか喋れないだとかは置いておくとしても……、貴族街の近くの通りから娼館通りの川までは、歩けば一時間くらいはかかるでしょうし、馬車を使えば誰かが気づくから、時間的に考えればあり得ないのは確かなのよね……)

 確かにリジーが興奮するだけある、妙な事件だ。

「発見された遺体が実は商会長ではなかったってことはないの? ほら、損傷が激しくて、見間違えたとか……」
「ううん、遺体はそこまで損傷していなかったらしいの。発見が早かったからなのかしら? よくわかんないけど、死んでいたのは商会長で間違いないらしいわ」
「……そうなんだ」

 不思議である。
 サーラは眉を寄せると、顎に手を当ててうつむいた。

「商会長は、会長室に入ったのよね? 部屋には誰もいなかったの? もしくは出て行くのを誰か見たりはしていないのかしら?」
「それがね、会長室から商会長が出て行くのは誰も見ていないし、死んでいたのが商会長だってわかって市民警察の人が店に行ったらしいんだけど、会長室には誰もいなくて、暖炉だけが燃えていたんですって。怖いでしょー?」

 絶対に幽霊よ、とリジーが目を輝かせる。怖いと言いながら大きな瞳は好奇心に爛々と輝いていてちっとも怖そうではなかった。
 ふむふむと話を聞いていたサーラは、ふと、ここであることが気になった。

「ねえ、今朝起きた事件でしょう? ずいぶんと詳しいけど、いったいどこで情報を仕入れたわけ?」
「むふふふふ」

 訊ねると、リジーが口元に手を当ててにまにまと笑い出した。

「実はね、今朝、お得意様のブルダン男爵夫人がいらっしゃったの! なんでも、もうじきお嬢様のお誕生日だとかでケーキの予約に……って、あ! サーラももうすぐ誕生日ね! もちろんケーキはうちで買うでしょう? 今度注文しに来てね」

 ぱちんと片目をつむるリジーに、サーラは商売上手だわと苦笑しつつ頷く。
 ブルダン男爵夫人は、そう呼ばれている通り、貴族街の端っこに邸宅を構えているブルダン男爵の妻で、十五歳になる娘が一人いるらしい。
 貴族だがあまり裕福ではなく、使用人もそれほど多く抱えていない。また、男爵夫人本人が買い物がとても好きな性分らしく、リジーの両親が営む菓子店にもよく足を運んでくれるそうだ。リジーの両親の営む菓子店は、舌の肥えた貴族にも評判がよく、下級貴族を中心に何人かのお得意様がいるらしい。うらやましいことである。

「そのブルダン男爵夫人が下町の端っこの事件を知ってたの?」
「そうなの! それがね、ブルダン男爵夫人は、つい数日前にお嬢様のドレスをオードラン商会に注文したんですって! 今日、デザインの候補が上がってくる予定だったから、朝早くにお店に向かったらしいのよ。そこで知ったんですって」
「なるほどね」
「それでね、貴族の注文だからブルダン男爵夫人の注文は商会長自ら対応されたみたいなんだけど、こんなことになったでしょう? 事故か自殺かはまだわかんないけど、縁起がよくないからドレスの注文を取り消そうと思っているのよっておっしゃってたわ」
「あー……」

 縁起もよくないだろうが、本音は別だろうなとサーラは思った。
 貴族と言うのは面倒くさい生き物だ。こんな気味の悪い事件が起こった商会のドレスを着たりしたら、噂好きの貴族が何を言い出すかわかったものではない。要するに世間体の問題だ。

「まだデザイン段階なら取り消しも簡単よね」
「そうでもないらしいのよ、これが」
「え?」
「実はね、ブルダン男爵夫人はすでにドレスの代金として金貨数十枚を会長に支払っていたんですって。取り消すんだからお金を返してもらわないといけないでしょう? だから返してって言ったらしいんだけど、バタバタしているからって今日は無理だって言われたらしいのよ。すっごく怒ってらしたわ」
「まあ、仕方がないとは思うけど……」

 突然商会長が他界したのだ。オードラン商会は今てんやわんやだろう。お金の問題なのですぐに対応してほしかったのかもしれないが、さすがに今日の今日ですぐに対応は無理なはずだ。

「でも金貨何十枚ね……。こう言ったらなんだけど、よくそんなお金があったわね」

 ブルダン男爵家は裕福ではなく、リジーから得た情報から察するに、貧乏貴族と言っても過言ではないような状態だろう。
 そんな貧乏貴族が、金貨数十枚もするようなドレスを作るだろうか?
 オーダーメイドでドレスを作ってもらうにしても、金貨数枚あればそれなりのものが作れるだろう。それなのに金貨何十枚も出したなんて、今回作るドレスはそれほど気合を入れて作らなければならないものだったのだろうか。

「やーだ、サーラってば! なんたってお貴族様よ! お貴族様にとっての金貨なんて、あたしたちで言うところの銅貨と同じよ!」
(それはないと思うけど……)

 リジーは貴族に夢を持ちすぎているのかもしれない・
 底辺の貧乏貴族などより、平民の富豪の方が圧倒的に金持ちだと教えてあげたら、リジーの夢は壊れてしまうのだろうか。

(うん。黙っておいてあげよう……)

 リジーにとって貴族社会はとてもきらびやかなものなのだろう。実際のところはそれほどキラキラした世界ではないのだが、せっかくの夢だ、壊すのは忍びない。

「サーラ、バゲットが焼けたよ」

 奥から父アドルフの声がした。
 焼いたばかりのパンは蒸気を飛ばすという意味でも少し冷ましてから店に出すのだが、焼きあがるのを待っているリジーの分だけ母グレースが持ってくる。

「お待たせしました。まだ熱いから気を付けてね」

 サーラがバゲットを専用の紙袋に入れて手渡すと、リジーは嬉しそうに受け取って「じゃーね!」と手を振って去って行く。
 出入り口のガラス窓越しに遠ざかっていくリジーの姿を見つめながら、サーラは小さく息を吐いた。

「幽霊、ね。……もし本当に幽霊が実在するのなら、会ってみたいものだわ…………」

 ぽつん、と呟いたサーラの独り言は、新しい客を告げるチリンと言うベルの音にかき消された。

「いらっしゃいませ」

 顔を上げたサーラは、入って来た男の顔を見て思わず目を見開く。
 艶やかな黒髪に、神秘的な青銀色の瞳をした背の高い男は、驚くほど整った顔立ちをしていたからだ。
 品のある雰囲気も、上質なコートも、下町とは似ても似つかない上流階級のものだと一目でわかる。

 パン屋ポルポルは、それなりに賑わっている店ではあるけれど、それは下町の、それも一般市民が暮らしているあたりでのことだ。
 いまだかつて上流階級の人間が訪れたことはない。

 こくり、とサーラは唾を飲んで、引きつりそうになる顔に何とか笑みを張り付ける。
 どこか中性的な雰囲気を漂わせる美しい男は、店の中を軽く見まわした後で、サーラへ艶やかな流し目を送った。

「少し、訊ねたいことがあるんだが」

 リジーから聞いた不可解な事件といい、今と言い、今日は少し不思議な日だなとサーラは思った。



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