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透明人間になったわたしと、わたしに興味がない(はずの)夫の奇妙な三か月間
見えない…… 3
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「夏の終わりなら、ここと、ここ、それからこのあたりが比較的涼しくていいと思う」
部屋で地図を広げて、ルクレールが言った。
オレリアも、彼の隣に座って地図を覗き込む。
オレリアが元に戻ったらどこかへ行こうとルクレールが言ったのは昨日の夜のことだ。
そして、朝食を終えると、書斎から地図を持って来たのである。
(ルクレール様と旅行……)
地図を覗き込みながら、オレリアはドキドキと高鳴る胸を押さえた。
透明になってから、やはりルクレールはオレリアとの夫婦関係を修復しようとしてくれている気がする。
透明でなくなってもおしゃべりをしてくれるそうだし、一緒に出掛けてもくれるらしい。
(嬉しい……)
リアーヌはルクレールが女性不信と言っていたが、もしかして彼はそれを克服したのだろうか?
少なくとも、オレリアの姿が元に戻った途端に二人の関係も以前に戻ることはなさそうな気がする。
そーっと手を伸ばして、ルクレールの腕に触れてみる。
もちろんルクレールは気づかないが、こうして当たり前に触れられるのが嬉しい。
触れたところでわからないのだから、どうせならもっと大胆に抱き着いたりすればいいのかもしれないけれど、さすがにそれは恥ずかしくて、こうしてこっそり触れるだけで精一杯だ。
ルクレールは見えないオレリアに向かって優しく微笑んで、「どこにする?」と訊ねてきた。
――どこも素敵なので、わたしではすぐには決められそうにありません。おすすめはどこですか?
「おすすめか……。そうだな、このあたりの高原は、緑が豊かだし涼しくて、なにより静かでゆっくりできると思う。ただし、近くに何もないから、ただのんびりするだけになるが」
――行ってみたいです。
ルクレールとのんびり。考えただけで楽しそうだ。
「わかった、ここにしよう。時間が許せば他のところに行ってみてもいいし」
(え? ほかにも連れて行ってくれるの?)
オレリアは驚いた。
ルクレールはどうしてしまったのだろうか。
「涼しくなったら王都をのんびり歩くのもいいかもしれないな。公園あたりでのんびりするのも、意外と楽しいだろう」
つまりそれは、デート、ということだろうか。
オレリアは真っ赤になった。
(デート……してくれるの?)
嬉しすぎて頭がおかしくなりそうだ。
オレリアは急いで日記帳にペンを走らせた。
――嬉しいです! お散歩、したいです!
「わかった。絶対に行こう」
ルクレールとの約束が増えていく。
旅行して、王都でデートもして、こんなに幸せでいいのだろうか。
ルクレールに抱き着きたくてオレリアがうずうずしはじめたとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「旦那様、お客様がいらしています」
許可を出すと、ボリスが言いにくそうな顔で告げる。
「客? 今日は何の約束もないはずだが……」
「そう申し上げたのですが、その……奥様のお見舞いにいらっしゃったそうで」
「なんだって⁉ いったい誰だ」
「アビットソン子爵夫人でございます」
(え⁉ マルジョリー様⁉)
オレリアはびっくりして目をしばたたいた。
マルジョリーが開催するお茶会には何度も出席したし、ベルジェール公爵の息子の妻なので親しくするようにはしてきたけれど、病気の見舞いの訪問を受けるほど親密な関係ではない。せいぜい何かあったとしても、手紙や贈り物をするくらいの関係だ。
(困ったわ! どうしたらいいの⁉)
オレリアは透明なのだ。見舞いに来られても対応できない。
困っているのはボリスもで、しきりに額の汗を拭うようなしぐさをしていた。
「とにかく理由をつけて追い返すべきだな」
ルクレールも焦って立ち上がる。
ひとまず応接間に通しているというので、ルクレールとオレリアは急いでそちらへ向かった。
部屋に入ると、赤みがかった金髪をリボンで華やかにまとめたマルジョリーが優雅にお茶を飲んでいた。
「まあ、コデルリエ伯爵」
ルクレールが部屋に入ると、マルジョリーはにこりと微笑んで立ち上がる。
親しい友人にするように、マルジョリーはルクレールの腕に触れて、そしてほぅっと憂いを帯びた息を吐く。
「突然来てしまい申し訳ございません。でもわたくし、オレリア様のことが心配で……」
「そのことだが、夫人。オレリアは今、人と面会できる状況でないんだ」
「そんなにお悪いんですの?」
「季節性の風邪をこじらせてね。とりあえず座ろう」
ルクレールはマルジョリーの手をやんわりと腕から引きはがして、彼女のティーセットが用意されている対面に腰を下ろす。
オレリアも、ルクレールの隣に座った。
そして、なんとなく落ち着かなくてルクレールの腕を取る。
(どうしてかしら……マルジョリー様の、ルクレール様を見る目が、なんだか嫌だわ)
うっとりと、まるで恋人に向けるように甘い視線をルクレールに送っているような気がするのである。気のせいだろうか。
「一目だけでも顔を見ることはできませんの?」
「すまないが、夫人に妻の病気が移っては大変だ」
「でも、ただの風邪なのでしょう? ……風邪が、予定しているお茶会の日まで長引くのかしら?」
含みのある声で言って、マルジョリーがにこりと笑った。
「コデルリエ伯爵。もしかしなくても、オレリア様は今、こちらにいらっしゃらないのではないですか?」
「何が言いたい?」
「そんなに怖い顔をなさらないで。わたくし……ちょっと、噂を耳にしましたのよ」
ルクレールが眉間にしわを寄せたけれど、マルジョリーは逆に嫣然と微笑む。
オレリアは、ぎゅうっとルクレールの腕を抱きしめた。
なんだか胸の奥が嫌な感じにざわざわする。これは一体何だろう。
(マルジョリー様は、こんな風に笑う方だったかしら?)
マルジョリーは美人だ。それを自分も自覚しているのだろう、いつも自身に満ち溢れた笑顔を浮かべている。しかし今マルジョリーがルクレールに向けている笑顔は、オレリアが見たことのあるどの笑顔とも違う気がした。
マルジョリーの笑顔を見ていると落ち着かなくなる。
妙な焦燥に駆られるのだ。
マルジョリーはゆったりと、まるで誘うようなしぐさで艶やかな髪をかき上げた。
「奥様と、うまくいっていないのでしょう?」
部屋で地図を広げて、ルクレールが言った。
オレリアも、彼の隣に座って地図を覗き込む。
オレリアが元に戻ったらどこかへ行こうとルクレールが言ったのは昨日の夜のことだ。
そして、朝食を終えると、書斎から地図を持って来たのである。
(ルクレール様と旅行……)
地図を覗き込みながら、オレリアはドキドキと高鳴る胸を押さえた。
透明になってから、やはりルクレールはオレリアとの夫婦関係を修復しようとしてくれている気がする。
透明でなくなってもおしゃべりをしてくれるそうだし、一緒に出掛けてもくれるらしい。
(嬉しい……)
リアーヌはルクレールが女性不信と言っていたが、もしかして彼はそれを克服したのだろうか?
少なくとも、オレリアの姿が元に戻った途端に二人の関係も以前に戻ることはなさそうな気がする。
そーっと手を伸ばして、ルクレールの腕に触れてみる。
もちろんルクレールは気づかないが、こうして当たり前に触れられるのが嬉しい。
触れたところでわからないのだから、どうせならもっと大胆に抱き着いたりすればいいのかもしれないけれど、さすがにそれは恥ずかしくて、こうしてこっそり触れるだけで精一杯だ。
ルクレールは見えないオレリアに向かって優しく微笑んで、「どこにする?」と訊ねてきた。
――どこも素敵なので、わたしではすぐには決められそうにありません。おすすめはどこですか?
「おすすめか……。そうだな、このあたりの高原は、緑が豊かだし涼しくて、なにより静かでゆっくりできると思う。ただし、近くに何もないから、ただのんびりするだけになるが」
――行ってみたいです。
ルクレールとのんびり。考えただけで楽しそうだ。
「わかった、ここにしよう。時間が許せば他のところに行ってみてもいいし」
(え? ほかにも連れて行ってくれるの?)
オレリアは驚いた。
ルクレールはどうしてしまったのだろうか。
「涼しくなったら王都をのんびり歩くのもいいかもしれないな。公園あたりでのんびりするのも、意外と楽しいだろう」
つまりそれは、デート、ということだろうか。
オレリアは真っ赤になった。
(デート……してくれるの?)
嬉しすぎて頭がおかしくなりそうだ。
オレリアは急いで日記帳にペンを走らせた。
――嬉しいです! お散歩、したいです!
「わかった。絶対に行こう」
ルクレールとの約束が増えていく。
旅行して、王都でデートもして、こんなに幸せでいいのだろうか。
ルクレールに抱き着きたくてオレリアがうずうずしはじめたとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「旦那様、お客様がいらしています」
許可を出すと、ボリスが言いにくそうな顔で告げる。
「客? 今日は何の約束もないはずだが……」
「そう申し上げたのですが、その……奥様のお見舞いにいらっしゃったそうで」
「なんだって⁉ いったい誰だ」
「アビットソン子爵夫人でございます」
(え⁉ マルジョリー様⁉)
オレリアはびっくりして目をしばたたいた。
マルジョリーが開催するお茶会には何度も出席したし、ベルジェール公爵の息子の妻なので親しくするようにはしてきたけれど、病気の見舞いの訪問を受けるほど親密な関係ではない。せいぜい何かあったとしても、手紙や贈り物をするくらいの関係だ。
(困ったわ! どうしたらいいの⁉)
オレリアは透明なのだ。見舞いに来られても対応できない。
困っているのはボリスもで、しきりに額の汗を拭うようなしぐさをしていた。
「とにかく理由をつけて追い返すべきだな」
ルクレールも焦って立ち上がる。
ひとまず応接間に通しているというので、ルクレールとオレリアは急いでそちらへ向かった。
部屋に入ると、赤みがかった金髪をリボンで華やかにまとめたマルジョリーが優雅にお茶を飲んでいた。
「まあ、コデルリエ伯爵」
ルクレールが部屋に入ると、マルジョリーはにこりと微笑んで立ち上がる。
親しい友人にするように、マルジョリーはルクレールの腕に触れて、そしてほぅっと憂いを帯びた息を吐く。
「突然来てしまい申し訳ございません。でもわたくし、オレリア様のことが心配で……」
「そのことだが、夫人。オレリアは今、人と面会できる状況でないんだ」
「そんなにお悪いんですの?」
「季節性の風邪をこじらせてね。とりあえず座ろう」
ルクレールはマルジョリーの手をやんわりと腕から引きはがして、彼女のティーセットが用意されている対面に腰を下ろす。
オレリアも、ルクレールの隣に座った。
そして、なんとなく落ち着かなくてルクレールの腕を取る。
(どうしてかしら……マルジョリー様の、ルクレール様を見る目が、なんだか嫌だわ)
うっとりと、まるで恋人に向けるように甘い視線をルクレールに送っているような気がするのである。気のせいだろうか。
「一目だけでも顔を見ることはできませんの?」
「すまないが、夫人に妻の病気が移っては大変だ」
「でも、ただの風邪なのでしょう? ……風邪が、予定しているお茶会の日まで長引くのかしら?」
含みのある声で言って、マルジョリーがにこりと笑った。
「コデルリエ伯爵。もしかしなくても、オレリア様は今、こちらにいらっしゃらないのではないですか?」
「何が言いたい?」
「そんなに怖い顔をなさらないで。わたくし……ちょっと、噂を耳にしましたのよ」
ルクレールが眉間にしわを寄せたけれど、マルジョリーは逆に嫣然と微笑む。
オレリアは、ぎゅうっとルクレールの腕を抱きしめた。
なんだか胸の奥が嫌な感じにざわざわする。これは一体何だろう。
(マルジョリー様は、こんな風に笑う方だったかしら?)
マルジョリーは美人だ。それを自分も自覚しているのだろう、いつも自身に満ち溢れた笑顔を浮かべている。しかし今マルジョリーがルクレールに向けている笑顔は、オレリアが見たことのあるどの笑顔とも違う気がした。
マルジョリーの笑顔を見ていると落ち着かなくなる。
妙な焦燥に駆られるのだ。
マルジョリーはゆったりと、まるで誘うようなしぐさで艶やかな髪をかき上げた。
「奥様と、うまくいっていないのでしょう?」
応援ありがとうございます!
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