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透明人間になったわたしと、わたしに興味がない(はずの)夫の奇妙な三か月間

見えない…… 2

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 まったく不愉快な噂だと、ルクレールは今日の昼のことを思い出して舌打ちしたくなった。
 オレリアは今、風呂に入っている。
 オレリアを待つ間読んでいようと本を開いたが、苛立ちのせいか全然頭に入ってこなかった。

 ベルジェール公爵家での集まりは、もともとルクレールはあまり好きではない。
 父を失って、ベルジェール公爵領内に領地を持つ貴族たちから、若輩者と侮られていることを知っているからだ。
 アビットソン子爵も、ルクレールと同年齢で領主の座についているが、彼の場合は父親という後ろ盾がある。

 ルクレールには父も父方の祖父もおらず、後見として母方の祖父がいるが、あちらはベルジェール公爵領に領地を持っている貴族ではない他領の人間だ。ゆえにベルジェール公爵家の内輪の集まりでは、その名前はまるで効力を発揮しない。
 加えて、ルクレールにはまだ跡継ぎはおらず、オレリアとの結婚生活がうまくいっていないのではないかと、以前から揶揄われてはいた。

 これまでは適当に流してきたその揶揄が、今日は無性に腹が立って、怒りを我慢するのが大変だった。
 加えて、新しいあの噂だ。

 ――別居されているんだって?

 ルクレールより一回り年上の子爵が面白そうに言ったのが発端だった。
 ルクレールとオレリアの新しい噂は、どうやら当人たちが与り知らないところで面白おかしく広まっていたらしい。

 離婚はいつなのかとか、新しい妻はどうするのかとか、果ては夜の生活がうまくいっていなかったのではないかなどと下世話なことを言い出す輩もいて、ルクレールにとって怒りを通り越して吐き気すらしそうな時間だった。
 人のことをとやかく言うが、あの場にいた人間で、夫婦円満な家庭はいったいどれほどあるというのか。ほとんどが何か問題を抱えているくせに、他人をとやかく言う資格なんてないだろう。

(わかっている。俺がまいた種だ。だが、よその夫婦関係が破綻するのが、それほど面白いものなのだろうか。理解に苦しむ)

 オレリアが透明になって、ようやく、少しずつ距離が縮まっている気がするのだ。
 情けなくもオレリアとの夫婦関係を修復できずにいたルクレールがせっかく手に入れたチャンスなのに、妙な噂で外野に騒がれたくはない。

(オレリアには元に戻れば噂も切れるなんて言ったが、俺自身があと二か月、この噂に耐えられるかどうかわからないな)

 ルクレールがため息をついたとき、ジョゼがバスルームから出てきた。オレリアが風呂から上がったようだ。
 よくよく観察していると、ライティングデスクの上に置かれていたベルが宙に浮く。
 オレリアは、自分がどこにいるのかを知らせるように、ベルか日記帳のどちらかを持って歩くことが多い。
 日記帳はベッドサイドのテーブルの上に置いてあるので、ベルを手に取ったのだろう。

 ベルがふわふわと宙を移動してベッドまでくる。
 オレリアがもぐりこみやすいように布団をめくってやると、見えなくとも、オレリアがベッドに横になったのがわかった。
 日記帳とペンが浮いて、おそらくオレリアが膝の上に乗せたのだろう、ベッドの上に、少し浮いた状態で止まる。
 ルクレールは本を閉じて、見えないオレリアを探すように隣を見た。

「さっきも言ったが、オレリアが元に戻ったらどこかへ遊びに行こう。二か月後だと夏の終わりごろか……。そのころなら余裕があるから遠出もできると思うよ。どこに行ってみたい?」

 すると、開いた日記帳の上でペンが迷うように揺れて、遠慮がちな小さな文字でこう返ってきた。

 ――どこでもいいんですか?
「もちろん」
 ――だったら、ゆっくりできるところがいいです。ルクレール様とおしゃべりできるところ。……観劇は、お話しできないから、嫌です。
「…………そうか」

 思いもしなかった言葉が帰ってきて、ルクレールは少し言葉に詰まった。
 ルクレールと喋りたいと、オレリアが思っているとは思わなかったのだ。
 オレリアが透明になる前までろくに会話をしてこなかったルクレールは、過去の自分を殴りたいような衝動に駆られる。
 二年間のルクレールの行動が、オレリアをどれほど苦しめていたのかと、今更ながらに突き付けられた気がした。

「じゃあ、少し遠出して、湖とか……森林浴ができそうな、避暑地にでも行こうか」
 ――楽しみです!
「うん。わかった。絶対に連れていく」

 ルクレールは、そっと日記帳に触れる。
 オレリアには触れられないが、せめて彼女に近い何かに触れていたい。

(この二年……オレリアは何を思ってすごしてきたんだろうか)

 オレリアが透明になってから、ルクレールは単純に、彼女との距離が縮まったと安心していた。
 オレリアを見ることはできないし、本当に元に戻るのかと不安はあったけれど、彼女ときちんと向き合えるようになったと喜んでいた面もある。
 だが、ここにきて、無性にこの二年間が気になってきた。
 ルクレールが拒絶し続けた二年間。
 オレリアは一体何を思い、何を感じ――ルクレールに対して、どういう想いを抱いてきたのだろう。

 傷つけたのだろうか。
 悲しませたのだろうか。
 向き合おうとしない夫を、オレリアはどのように見ていたのだろう。

 ルクレールは、オレリアを撫でられない代わりに、日記帳を指先で撫でる。

「たくさん出かけよう。たくさん話をしよう。こうして、文字からではなく君の口で、君の声で、君の表情を見ながら、話がしたい」

 オレリアの姿が見たい。
 声が聞きたい。
 触れて、抱きしめて、――はじめから全部やり直したい。
 どうしようもなく、彼女が恋しい……。




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