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透明人間になったわたしと、わたしに興味がない(はずの)夫の奇妙な三か月間
奇妙な夫婦関係のはじまり 1
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夜になっても、オレリアは帰ってこなかった。
(いったい、どこに行ったんだ……)
ルクレールは、沈痛な面持ちで食後のお茶を口に運ぶ。
オレリアのいないダイニングは、火を消したように静かだ。
それどころか、灯りはともしているのにどんよりと暗く感じる。
昼間、ルクレールはオレリアが実家に帰ったのだろうと当たりをつけて、恥を忍んでアントワーヌ伯爵家へ向かったのだが、オレリアは帰っていないと使用人が教えてくれた。
オレリアの両親や兄は現在領地にいると言う。
オレリアも領地に行ったのかもしれないと思ったが、アントワーヌ家の使用人は、領地に行くにしても一度こちらによるはずだから違うと思うと、訝しそうな顔をして答えた。
(アントワーヌ家にもいないとなると、いったいどこにいるんだ)
ルクレールは、妻だと言うのにオレリアが行きそうな場所にまったく心当たりのない自分がひどく恥ずかしくなった。
貴族社会にはお互い無関心な仮面夫婦はごまんといるけれど、オレリアとルクレールはそれとは違う。
オレリアは何も悪くない。
ルクレールがオレリアを無視し続けたのだ。
「旦那様、その……奥様の捜索は……」
ボリスが遠慮がちに声をかけてきた。
「わかっている」
ルクレールは低い声で応じる。
夜になっても戻ってこなかったのだ。実家にもいないとなると、捜索依頼を出さねばなるまい。
しかしそんなことをすれば、社交界で瞬く間に噂になる。
ルクレールが嗤われるだけならばまだいい。
突然失踪したとなると、オレリアの名前に傷がついてしまう。
「……その件は、明日の朝考える」
オレリアの名誉を気にして捜索依頼を出さないままでいて、万が一ということがあっても大変だ。
ルクレールは重い口調でボリスに告げると、席を立った。
自然と、向かう先はオレリアの部屋だ。
あれだけ探したのだ、部屋に戻っているはずなんてないとはわかっているけれど、もしかしたらという願望がルクレールの足を動かした。
頼むから、帰っていてくれと、祈りながらドアノブに手をかける。
けれども、扉を開いた先の部屋の中はがらんとして暗く、わかっていてもルクレールは落胆した。
(オレリア……君は今、どこにいるんだ……)
ジョゼの報告では、オレリアの部屋からは何も持ち出されていなかったらしい。
ドレスなどの着替えも、旅行カバンも、宝石類も、金も。
つまりオレリアは、身一つでどこかに出かけてしまったと言うことだ。昨夜の夜から朝の間に。
夜と言っても、コデルリエ家の門には必ず一人は夜の番をするものが立っている。
夜中には交代で使用人の誰かが邸を見回るし、夜が明けきる前から料理人が働きはじめるため、誰にも気配を察せられずに邸から出ていくのは至難の業だと思うのだが、オレリアはどのようにして、まるで煙のように姿をくらましたのだろう。
部屋に入って、ベッドの縁に腰をかけようとしたルクレールは、そこでぴたりと動きを止めた。
ぱちぱちと目をしばたたき、ベッドの上を見る。
朝、ルクレールはオレリアの部屋でしばしの間茫然としていたが、部屋から去ったそのあとは、確かジョゼが部屋を整えたと言っていた。
散らかっていた室内は綺麗になっているので、ジョゼが片付けたのは間違いない。
それなのに、ベッドにはまるで誰かが横になったかのような皺が寄っていたのだ。
「オレリア⁉」
ルクレールは思わず声を上げた。
もしかして本当にオレリアが戻ってきているのかもしれない。
ルクレールはバスルームに続く扉を開けた。
「オレリア、ここか⁉」
しかし、バスルームには灯りはともされておらず、誰かがいる気配もない。
(使用人がオレリアのベッドに横になるはずがない。オレリアだ。そうに違いない)
ルクレールは血相を変えて、部屋の中を荒らしはじめた。
せっかく整えられたクローゼットを開けて中を荒らし、ベッドの下を確かめ、窓に鍵がかかっているかを調べて、続き部屋のジョゼの控室も確認する。
けれどもどこにもオレリアの姿がなく、がっくりとうなだれたとき、ルクレールはライティングデスクの上に開かれたままの真新しい日記帳を見つけた。
ふらふらと近寄って覗き込めば、日記帳の一ページ目に、一言こう記されている。
――わたしは、ここにいます。
これは一体何の暗号だろうか。
しばらくその一文を見つめていると、かたんと小さな物音がした。
顔を上げれば、机の上に置いてあるペンが宙に浮いて、インク壺の蓋がひとりでに開く。
「っ」
ルクレールは後ずさり、大きく瞠目した。
ぱくぱくと音もなく口を開閉している間に、ペンはさらさらと日記帳の上を動く。
恐る恐る近づいてみると、日記帳に、ペンがひとりでに文字を刻んでいた。
「どうなって……また『わたしは、ここにいます』?」
日記帳には、同じ「わたしは、ここにいます」という一文が追加されている。
ルクレールはしばしば沈黙し、そして宙に浮かんだままのペンを見やった。
「君は?」
すると、ペンはまたひとりでに動きはじめる。
――オレリア。
ルクレールは、息を呑んだ。
「オレリア⁉」
――はい。
日記帳には、まるでルクレールと会話するように文章が増えていく。
「どういうことだ?」
ペンは、一度インクをペン先につけなおすと、日記帳にさらさらと新たな文字を刻む。
――わけあって、体が透明になりました。ある人によると、三か月はこのままだそうです。
「なんだって⁉」
ルクレールはつい大声をあげてしまった。
その声を聞きつけて、ボリスが部屋にやってくる。
「旦那様、どうなさいました?」
「あ、い、いや、何でもない」
ルクレールは首を横に振って、ボリスを慌てて部屋から追い出した。
この状況をボリスに説明できるほど、ルクレールは今の状況を理解しきれていなかったからだ。
理解できたとしても、ボリスに説明していいかどうかは考えものだが。
ルクレールは咳ばらいをして、見えないオレリアに向かって問いかけた。
「君は本当にオレリアか?」
――はい。
「すまないが、姿が見えないんだ、何か信じられる証拠がほしい」
ペンが迷うように小さく左右に動いて、そして動く。
――一か月後にお義母様がいらっしゃると昨夜お聞きしましたが、どうしましょう。
「そうだった!」
ルクレールは頭を抱えて、それから確信した。
オレリアだ。彼女に違いない。
(というか、ちょっと待ってくれ。オレリアが無事で、どこにもいなくなっていないのはよかったが、三か月はこのままなのか? ……母上になんて説明したら……)
ルクレールはホッとしていいのか慌てていいのかわけがわからなくなった。
オレリアが自分の意志でどこかへ消えてしまったのではないことにはホッとするが、このあまりにも荒唐無稽な現実をどう受け入れていいのか、また、どう周囲に説明していいのか判断に困る。
――ごめんなさい。
ルクレールが困惑しているのが伝わったのだろう、ペンが日記帳に文字を刻む。
「いや……、すまない。動揺してしまった。君を責めるつもりはないんだ」
妻が透明になってしまったという事実はルクレールを確かに困惑させるが、何よりも困っているのはオレリアであるはずだ。
誰にも気づいてもらえず、不安だっただろう。
「事情はわかった。正直まだ混乱しているが、三か月間元に戻らないと言うのならば、母上のことを含めどうにかするしかないだろう。使用人全員に伝えるかどうかはともかくとして、ボリスと、それから君の侍女のジョゼには伝えようと思うがいいだろうか?」
――問題ありません。
「そうか。では少し外すが……」
――あの。その前に一つお願いが……。
「なんだ?」
この三か月の対策を含めボリスに相談しに行こうとしたルクレールは、「お願い」という文字に首を傾げた。
(そういえば、オレリアが願いを口にするのははじめてではないか?)
思い返してみる限り、オレリアに何か「お願い」をされたことはない。
会話らしい会話がなかったので当然かもしれないが、オレリアからの「お願い」は新鮮で、なんだか少しくすぐったく思える。
ペンは、逡巡するように少し揺れ、そしてほかの文字よりも一段と小さな文字で、こう書き記した。
――お腹がすきました。パンだけでもいいので、何かいただけないでしょうか。
それを見たルクレールは思わず吹き出しかけてから、表情を引き締めた。
そうだ、オレリアは透明になったことで周囲に認知されなくなったのだから、食事も運ばれていないはずだ。
「すぐに持ってこよう!」
ルクレールは慌てて部屋を出て行った。
(いったい、どこに行ったんだ……)
ルクレールは、沈痛な面持ちで食後のお茶を口に運ぶ。
オレリアのいないダイニングは、火を消したように静かだ。
それどころか、灯りはともしているのにどんよりと暗く感じる。
昼間、ルクレールはオレリアが実家に帰ったのだろうと当たりをつけて、恥を忍んでアントワーヌ伯爵家へ向かったのだが、オレリアは帰っていないと使用人が教えてくれた。
オレリアの両親や兄は現在領地にいると言う。
オレリアも領地に行ったのかもしれないと思ったが、アントワーヌ家の使用人は、領地に行くにしても一度こちらによるはずだから違うと思うと、訝しそうな顔をして答えた。
(アントワーヌ家にもいないとなると、いったいどこにいるんだ)
ルクレールは、妻だと言うのにオレリアが行きそうな場所にまったく心当たりのない自分がひどく恥ずかしくなった。
貴族社会にはお互い無関心な仮面夫婦はごまんといるけれど、オレリアとルクレールはそれとは違う。
オレリアは何も悪くない。
ルクレールがオレリアを無視し続けたのだ。
「旦那様、その……奥様の捜索は……」
ボリスが遠慮がちに声をかけてきた。
「わかっている」
ルクレールは低い声で応じる。
夜になっても戻ってこなかったのだ。実家にもいないとなると、捜索依頼を出さねばなるまい。
しかしそんなことをすれば、社交界で瞬く間に噂になる。
ルクレールが嗤われるだけならばまだいい。
突然失踪したとなると、オレリアの名前に傷がついてしまう。
「……その件は、明日の朝考える」
オレリアの名誉を気にして捜索依頼を出さないままでいて、万が一ということがあっても大変だ。
ルクレールは重い口調でボリスに告げると、席を立った。
自然と、向かう先はオレリアの部屋だ。
あれだけ探したのだ、部屋に戻っているはずなんてないとはわかっているけれど、もしかしたらという願望がルクレールの足を動かした。
頼むから、帰っていてくれと、祈りながらドアノブに手をかける。
けれども、扉を開いた先の部屋の中はがらんとして暗く、わかっていてもルクレールは落胆した。
(オレリア……君は今、どこにいるんだ……)
ジョゼの報告では、オレリアの部屋からは何も持ち出されていなかったらしい。
ドレスなどの着替えも、旅行カバンも、宝石類も、金も。
つまりオレリアは、身一つでどこかに出かけてしまったと言うことだ。昨夜の夜から朝の間に。
夜と言っても、コデルリエ家の門には必ず一人は夜の番をするものが立っている。
夜中には交代で使用人の誰かが邸を見回るし、夜が明けきる前から料理人が働きはじめるため、誰にも気配を察せられずに邸から出ていくのは至難の業だと思うのだが、オレリアはどのようにして、まるで煙のように姿をくらましたのだろう。
部屋に入って、ベッドの縁に腰をかけようとしたルクレールは、そこでぴたりと動きを止めた。
ぱちぱちと目をしばたたき、ベッドの上を見る。
朝、ルクレールはオレリアの部屋でしばしの間茫然としていたが、部屋から去ったそのあとは、確かジョゼが部屋を整えたと言っていた。
散らかっていた室内は綺麗になっているので、ジョゼが片付けたのは間違いない。
それなのに、ベッドにはまるで誰かが横になったかのような皺が寄っていたのだ。
「オレリア⁉」
ルクレールは思わず声を上げた。
もしかして本当にオレリアが戻ってきているのかもしれない。
ルクレールはバスルームに続く扉を開けた。
「オレリア、ここか⁉」
しかし、バスルームには灯りはともされておらず、誰かがいる気配もない。
(使用人がオレリアのベッドに横になるはずがない。オレリアだ。そうに違いない)
ルクレールは血相を変えて、部屋の中を荒らしはじめた。
せっかく整えられたクローゼットを開けて中を荒らし、ベッドの下を確かめ、窓に鍵がかかっているかを調べて、続き部屋のジョゼの控室も確認する。
けれどもどこにもオレリアの姿がなく、がっくりとうなだれたとき、ルクレールはライティングデスクの上に開かれたままの真新しい日記帳を見つけた。
ふらふらと近寄って覗き込めば、日記帳の一ページ目に、一言こう記されている。
――わたしは、ここにいます。
これは一体何の暗号だろうか。
しばらくその一文を見つめていると、かたんと小さな物音がした。
顔を上げれば、机の上に置いてあるペンが宙に浮いて、インク壺の蓋がひとりでに開く。
「っ」
ルクレールは後ずさり、大きく瞠目した。
ぱくぱくと音もなく口を開閉している間に、ペンはさらさらと日記帳の上を動く。
恐る恐る近づいてみると、日記帳に、ペンがひとりでに文字を刻んでいた。
「どうなって……また『わたしは、ここにいます』?」
日記帳には、同じ「わたしは、ここにいます」という一文が追加されている。
ルクレールはしばしば沈黙し、そして宙に浮かんだままのペンを見やった。
「君は?」
すると、ペンはまたひとりでに動きはじめる。
――オレリア。
ルクレールは、息を呑んだ。
「オレリア⁉」
――はい。
日記帳には、まるでルクレールと会話するように文章が増えていく。
「どういうことだ?」
ペンは、一度インクをペン先につけなおすと、日記帳にさらさらと新たな文字を刻む。
――わけあって、体が透明になりました。ある人によると、三か月はこのままだそうです。
「なんだって⁉」
ルクレールはつい大声をあげてしまった。
その声を聞きつけて、ボリスが部屋にやってくる。
「旦那様、どうなさいました?」
「あ、い、いや、何でもない」
ルクレールは首を横に振って、ボリスを慌てて部屋から追い出した。
この状況をボリスに説明できるほど、ルクレールは今の状況を理解しきれていなかったからだ。
理解できたとしても、ボリスに説明していいかどうかは考えものだが。
ルクレールは咳ばらいをして、見えないオレリアに向かって問いかけた。
「君は本当にオレリアか?」
――はい。
「すまないが、姿が見えないんだ、何か信じられる証拠がほしい」
ペンが迷うように小さく左右に動いて、そして動く。
――一か月後にお義母様がいらっしゃると昨夜お聞きしましたが、どうしましょう。
「そうだった!」
ルクレールは頭を抱えて、それから確信した。
オレリアだ。彼女に違いない。
(というか、ちょっと待ってくれ。オレリアが無事で、どこにもいなくなっていないのはよかったが、三か月はこのままなのか? ……母上になんて説明したら……)
ルクレールはホッとしていいのか慌てていいのかわけがわからなくなった。
オレリアが自分の意志でどこかへ消えてしまったのではないことにはホッとするが、このあまりにも荒唐無稽な現実をどう受け入れていいのか、また、どう周囲に説明していいのか判断に困る。
――ごめんなさい。
ルクレールが困惑しているのが伝わったのだろう、ペンが日記帳に文字を刻む。
「いや……、すまない。動揺してしまった。君を責めるつもりはないんだ」
妻が透明になってしまったという事実はルクレールを確かに困惑させるが、何よりも困っているのはオレリアであるはずだ。
誰にも気づいてもらえず、不安だっただろう。
「事情はわかった。正直まだ混乱しているが、三か月間元に戻らないと言うのならば、母上のことを含めどうにかするしかないだろう。使用人全員に伝えるかどうかはともかくとして、ボリスと、それから君の侍女のジョゼには伝えようと思うがいいだろうか?」
――問題ありません。
「そうか。では少し外すが……」
――あの。その前に一つお願いが……。
「なんだ?」
この三か月の対策を含めボリスに相談しに行こうとしたルクレールは、「お願い」という文字に首を傾げた。
(そういえば、オレリアが願いを口にするのははじめてではないか?)
思い返してみる限り、オレリアに何か「お願い」をされたことはない。
会話らしい会話がなかったので当然かもしれないが、オレリアからの「お願い」は新鮮で、なんだか少しくすぐったく思える。
ペンは、逡巡するように少し揺れ、そしてほかの文字よりも一段と小さな文字で、こう書き記した。
――お腹がすきました。パンだけでもいいので、何かいただけないでしょうか。
それを見たルクレールは思わず吹き出しかけてから、表情を引き締めた。
そうだ、オレリアは透明になったことで周囲に認知されなくなったのだから、食事も運ばれていないはずだ。
「すぐに持ってこよう!」
ルクレールは慌てて部屋を出て行った。
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