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突然の解雇宣言 4
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エイジェリンは大通りに向かってとぼとぼと歩いていた。
幸いにして手持ちの金はまだあるから、ホテルを借りられるけれど、早く次の就職先を見つけなければ、それこそ路上で生活することになってしまうだろう。
冬がはじまったばかりとはいえ、朝と夜はとても寒くなった。路上で生活することになったら、凍え死んでしまう。
エイジェリンはコートの襟を立てて、首をすくめながら、冷たい風が通り過ぎていく石畳の道を進む。
(伯父様も伯母様も、もう会ってはくれないわよね。おじい様とおばあ様の耳にも、モーテン子爵の話は届いているでしょうし……二度と会いたくないはずよ)
伯父夫婦も、祖父母も頼ることはできない。ハーパー伯爵家は婚約者に奪われたので、なおのこと戻れなかった。行く当てはない。
一時間ほど歩いて、歩きつかれたエイジェリンは、大通りの近くの噴水公演で休憩することにした。
日は暮れはじめたがまだ明るい。長居はできないだろうが、十分ほど休憩する時間はあるだろう。
噴水の近くは寒いので、離れたところのベンチに座って、エイジェリンはふーっと空に向かって息を吐いた。
解雇されたショックで溢れた涙は落ち着いたけれど、泣いたからか頭がぼーっとする。
エイジェリンは、無意識のうちに左の手首に触れた。そこには、エイジェリンの瞳と同じ色の、小粒のルビーのブレスレットがある。
これは、エイジェリンの父が社交デビューを記念して十四歳の時に贈ってくれたもので、ハーパー伯爵家から持ち出せた唯一のものだった。
もともとは、これはエイジェリンの母の持ち物だったらしい。
エイジェリンの母が逝去したあと、ほどなくして父は再婚し、その時に母の持ち物のほとんどは義母のものとなってしまったが、このブレスレットだけはエイジェリンに渡そうと大切にしまっておいてくれたそうだ。
髪の色はお父様そっくりで可哀そうなことをしたが、瞳の色はお母様と同じでとても綺麗なルビー色だよと言って笑った父も、もういない。
父もまさか、自分が死んだ後に娘が伯爵家を追い出されることになるとは思わなかっただろう。
(このブレスレットは、できれば売りたくないわ……)
どうしても生活に困ったら手放すことになるかもしれないけれど、できればずっと手元に持っておきたい。父と母の、唯一の形見なのだ。これを手放さないで済むように、早く就職先を見つけなくては。
(しっかりしなさい、エイジェリン。追い出されただけじゃない。殴られたわけでも襲われたわけでもないわ。だから大丈夫)
自分を叱咤して、エイジェリンが立ち上がった時だった。
「エイミー!」
遠くからエイジェリンの偽名を呼ぶ声が聞こえてきた。
驚いて顔をあげると、キャメル色のコートの裾を翻しながら、ウィリアムがこちらに向かって走ってくるところだった。
あまりにびっくりしたので、言葉も出ないまま立ち尽くしていると、すぐそばまで駆け寄ってきたウィリアムが、肩で息をしながらエイジェリンの手首をつかんだ。
「よかった。見つけた。心配したんだ。……すまない、少し座ってもいいだろうか」
どれだけ走り回ったのか、苦しそうに息をしながら、ウィリアムがベンチに腰を下ろした。
片手はエイジェリンの手首をつかんだままで、もう片手をベンチの背もたれに回すと、上を見上げて荒い息をくり返す。
「あ、あの……伯爵様?」
状況が読み込めずに困惑するエイジェリンに、ウィリアムが、「まあ、座ってくれ。少し休みたい」と言って、隣に座るように促した。
仕方なくエイジェリンはウィリアムの隣に腰を下ろして、彼の息が整うのを待つことにした。
大通りまで出てホテルを探さなくては行けなかったので、暗くなる前に移動したかったけれど、手首が掴まれたままなのだからどうしようもない。
ウィリアムの呼吸が整うまで何気なく空を眺めて、ああ、もう遠くが夕闇色に染まりはじめたなと小さな焦りを覚える。
火が傾くごとに気温が下がっていって、ふわりと足元に吹いた風に小さなくしゃみをすれば、ウィリアムが首にマフラーを巻いてくれた。彼が身に着けていた柔らかいマフラーだ。とても暖かくて嬉しかったが、解雇されたとはいえ主人の身に着けているものを借りるわけにもいかず、外そうとすれば、「風邪を引くから」と言って、手首が掴まれていない方の手も捕らわれてしまった。
エイジェリンの両手を封じたウィリアムが、紫色の瞳を少し困ったように細めていた。
「ルーベンスから聞いたんだ。すまない。あいつの変な勘違いのせいで、君をこの寒空の下に放り出すようなことをしてしまった。君の前に雇っていたサーラは、あいつが採用した人物で、そのせいもあってか、若い女性のメイドにひどく警戒していてね。あいつも反省しているし、たまに暴走するが根は悪い奴じゃないんだ。何なら気が済むまで殴らせてやるから許してやってほしい」
「あの……」
「荷物はこの鞄だけか? 待たせてしまった俺が言うのもなんだが、いつまでもここにいたら寒いだろう? 帰ろう」
「……わたし、解雇じゃないんですか?」
帰ろうと言われて、エイジェリンが戸惑っていると、ウィリアムが薄く笑った。
「もちろん。……君がもう俺の家で働きたくないというなら話は別だけど、嫌じゃないなら戻ってほしいと思っているよ」
「でも……」
戻っていいと言われるのは嬉しかったけれど、本当にいいのだろうかと不安を覚えていると、ウィリアムはエイジェリンの鞄を持って立ち上がりながら続けた。
「君がルーベンスが疑うような人間でないことは、俺がよく知っているんだ。だから、何も問題ない。帰ろう」
(知っている?)
どうにも違和感の残る言葉に首をひねっていると、ウィリアムはくすりと笑った。
「歩きながら話そう。……俺だって、雇おうとする人のことくらい、ちゃんと見ているよ」
幸いにして手持ちの金はまだあるから、ホテルを借りられるけれど、早く次の就職先を見つけなければ、それこそ路上で生活することになってしまうだろう。
冬がはじまったばかりとはいえ、朝と夜はとても寒くなった。路上で生活することになったら、凍え死んでしまう。
エイジェリンはコートの襟を立てて、首をすくめながら、冷たい風が通り過ぎていく石畳の道を進む。
(伯父様も伯母様も、もう会ってはくれないわよね。おじい様とおばあ様の耳にも、モーテン子爵の話は届いているでしょうし……二度と会いたくないはずよ)
伯父夫婦も、祖父母も頼ることはできない。ハーパー伯爵家は婚約者に奪われたので、なおのこと戻れなかった。行く当てはない。
一時間ほど歩いて、歩きつかれたエイジェリンは、大通りの近くの噴水公演で休憩することにした。
日は暮れはじめたがまだ明るい。長居はできないだろうが、十分ほど休憩する時間はあるだろう。
噴水の近くは寒いので、離れたところのベンチに座って、エイジェリンはふーっと空に向かって息を吐いた。
解雇されたショックで溢れた涙は落ち着いたけれど、泣いたからか頭がぼーっとする。
エイジェリンは、無意識のうちに左の手首に触れた。そこには、エイジェリンの瞳と同じ色の、小粒のルビーのブレスレットがある。
これは、エイジェリンの父が社交デビューを記念して十四歳の時に贈ってくれたもので、ハーパー伯爵家から持ち出せた唯一のものだった。
もともとは、これはエイジェリンの母の持ち物だったらしい。
エイジェリンの母が逝去したあと、ほどなくして父は再婚し、その時に母の持ち物のほとんどは義母のものとなってしまったが、このブレスレットだけはエイジェリンに渡そうと大切にしまっておいてくれたそうだ。
髪の色はお父様そっくりで可哀そうなことをしたが、瞳の色はお母様と同じでとても綺麗なルビー色だよと言って笑った父も、もういない。
父もまさか、自分が死んだ後に娘が伯爵家を追い出されることになるとは思わなかっただろう。
(このブレスレットは、できれば売りたくないわ……)
どうしても生活に困ったら手放すことになるかもしれないけれど、できればずっと手元に持っておきたい。父と母の、唯一の形見なのだ。これを手放さないで済むように、早く就職先を見つけなくては。
(しっかりしなさい、エイジェリン。追い出されただけじゃない。殴られたわけでも襲われたわけでもないわ。だから大丈夫)
自分を叱咤して、エイジェリンが立ち上がった時だった。
「エイミー!」
遠くからエイジェリンの偽名を呼ぶ声が聞こえてきた。
驚いて顔をあげると、キャメル色のコートの裾を翻しながら、ウィリアムがこちらに向かって走ってくるところだった。
あまりにびっくりしたので、言葉も出ないまま立ち尽くしていると、すぐそばまで駆け寄ってきたウィリアムが、肩で息をしながらエイジェリンの手首をつかんだ。
「よかった。見つけた。心配したんだ。……すまない、少し座ってもいいだろうか」
どれだけ走り回ったのか、苦しそうに息をしながら、ウィリアムがベンチに腰を下ろした。
片手はエイジェリンの手首をつかんだままで、もう片手をベンチの背もたれに回すと、上を見上げて荒い息をくり返す。
「あ、あの……伯爵様?」
状況が読み込めずに困惑するエイジェリンに、ウィリアムが、「まあ、座ってくれ。少し休みたい」と言って、隣に座るように促した。
仕方なくエイジェリンはウィリアムの隣に腰を下ろして、彼の息が整うのを待つことにした。
大通りまで出てホテルを探さなくては行けなかったので、暗くなる前に移動したかったけれど、手首が掴まれたままなのだからどうしようもない。
ウィリアムの呼吸が整うまで何気なく空を眺めて、ああ、もう遠くが夕闇色に染まりはじめたなと小さな焦りを覚える。
火が傾くごとに気温が下がっていって、ふわりと足元に吹いた風に小さなくしゃみをすれば、ウィリアムが首にマフラーを巻いてくれた。彼が身に着けていた柔らかいマフラーだ。とても暖かくて嬉しかったが、解雇されたとはいえ主人の身に着けているものを借りるわけにもいかず、外そうとすれば、「風邪を引くから」と言って、手首が掴まれていない方の手も捕らわれてしまった。
エイジェリンの両手を封じたウィリアムが、紫色の瞳を少し困ったように細めていた。
「ルーベンスから聞いたんだ。すまない。あいつの変な勘違いのせいで、君をこの寒空の下に放り出すようなことをしてしまった。君の前に雇っていたサーラは、あいつが採用した人物で、そのせいもあってか、若い女性のメイドにひどく警戒していてね。あいつも反省しているし、たまに暴走するが根は悪い奴じゃないんだ。何なら気が済むまで殴らせてやるから許してやってほしい」
「あの……」
「荷物はこの鞄だけか? 待たせてしまった俺が言うのもなんだが、いつまでもここにいたら寒いだろう? 帰ろう」
「……わたし、解雇じゃないんですか?」
帰ろうと言われて、エイジェリンが戸惑っていると、ウィリアムが薄く笑った。
「もちろん。……君がもう俺の家で働きたくないというなら話は別だけど、嫌じゃないなら戻ってほしいと思っているよ」
「でも……」
戻っていいと言われるのは嬉しかったけれど、本当にいいのだろうかと不安を覚えていると、ウィリアムはエイジェリンの鞄を持って立ち上がりながら続けた。
「君がルーベンスが疑うような人間でないことは、俺がよく知っているんだ。だから、何も問題ない。帰ろう」
(知っている?)
どうにも違和感の残る言葉に首をひねっていると、ウィリアムはくすりと笑った。
「歩きながら話そう。……俺だって、雇おうとする人のことくらい、ちゃんと見ているよ」
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