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突然の解雇宣言 2
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それは、つい二週間ほど前のことだ。
婚約者にハーパー伯爵家を乗っ取られたエイジェリンは、伯父夫婦の紹介で、モーテン子爵家の家庭教師として働いていた。
十六歳から働いで四年。当時五歳だった女の子は九歳になって、あと一年で約束の五年が終わるので、次の勤め先を探さなくてはいけないなと考えていた矢先のことだった。
エイジェリンが教えられるのは、せいぜい貴族女性としての一般教養やマナーくらいなので、幼い女の子しか相手にできない。次も小さな女の子の入る家に紹介状を書いてもらおうと、契約が満了した時のことを相談するために訪れた主人の書斎でそれは起きた。
主人であるモーテン子爵は、三十歳になったばかりの口数の少ない紳士で、エイジェリンが話すのはもっぱら夫人の方だったので、彼と二人きりになるのははじめてのことだった。
娘の学習具合を見に来ることはあったけれど、その時もただ黙って様子を見ているだけで、特別何かを言われたことはほとんどない。
だからか、少しの緊張を覚えながら、エイジェリンが契約満了後のことについて相談を持ち掛けると、最初は彼もにこやかに対応してくれていたのだ。
しかし、契約が満了しても更新してそのままここにいればいいだろうとまで言ってくれたモーテン子爵に、エイジェリンがこれ以上は彼の娘に教えられることはないと固辞した途端、それは起こった。
何が起こったのか、エイジェリンはすぐには理解できなかった。
わかったよエイジェリン――そう言って彼が立ち上がり、エイジェリンの隣に腰を下ろした。そして彼がにこりと笑った、次の瞬間、エイジェリンの視界はぐるりと回転していた。
ハッとした時はソファの上に押し倒されていて、モーテン子爵が馬乗りになっていた。
真っ青になったエイジェリンに、モーテン子爵は笑みを崩さずに、家庭教師が嫌ならば自分の愛人になればいいだろうと言い出した。
――君は婚約者に捨てられて伯爵家まで奪われたんだろう? 社交界では有名な話だ。まともな嫁ぎ先なんて見つかりっこないし、君もそれがわかっているから家庭教師なんてしているんだろう? でも大丈夫だ。私が君の一生を面倒見てあげるよ。もし妻が先立つことがあれば後妻にだってしてあげよう。悪い話ではないだろう?
耳元でささやかれて、エイジェリンは動転した。
モーテン子爵は男性にしては細い方だけれど、男性であることには変わりなく、エイジェリンをソファに押さえつける力は相当なものだった。
逃れようとするけれどビクともせず、震えながら離してくださいと頼むと、彼はまるで怯えているエイジェリンを楽しむように頬を撫でてきた。
ぞわりと肌が粟だって、カチカチと奥歯が鳴る。
モーテン子爵がエイジェリンのドレスのボタンに手をかけたとき、ガチャリと部屋の扉が開く音がして、「何をしているの⁉」と金切り声が聞こえてきた。
泣きながら首を巡らせれば、部屋に入ってきたのはモーテン子爵夫人だった。
モーテン子爵は慌てて起き上がり、エイジェリンが誘惑してきたのだと言い訳した。
エイジェリンは否定したが夫人には信じてもらえず、その日のうちにモーテン子爵家を追い出されることになったのである。
去り際に「二度と社交界に出られないようにしてあげるわ!」とまくしたてられて、頭から水をかけられた。
エイジェリンは住み込みの家庭教師として働いていたからモーテン子爵家を追い出されると住むところがなく、また、きっと伯父夫婦のもとにはモーテン子爵家から苦情が入っただろうと考えると合わせる顔もなくて、将来のためにとためていた賃金でホテルを借りて次の仕事先が見つかるまでを過ごすことにした。
エイジェリンの名前を出せば、きっとどこも雇ってくれないからと、エイミーと言う偽名と偽の経歴を考えて――新しい就職先の魔王伯爵と呼ばれるウィリアム・ブラッドは噂とは違う優しい青年でホッとしていたのに。
(荷物……まとめなくちゃね)
まさか、ウィリアムに色仕掛けをかけたなどという冤罪で解雇されることになるとは思わなかった。
エイジェリンはごしごしと目をこすりながら顔をあげて、のろのろとベッドから起き上がる。
夜までに出て行けと言われたから、早くしないといけない。
お仕着せを着替えて、持って来ていた少ない荷物を鞄に詰め終わると、エイジェリンは大きく深呼吸をした。
せめてドーラにはお別れを言いたかったけれど、解雇された人間が邸をうろうろしていたら見とがめられるだろう。
エイジェリンは人目に付かないように裏口から出ると、とぼとぼとあてもなく歩き出した。
婚約者にハーパー伯爵家を乗っ取られたエイジェリンは、伯父夫婦の紹介で、モーテン子爵家の家庭教師として働いていた。
十六歳から働いで四年。当時五歳だった女の子は九歳になって、あと一年で約束の五年が終わるので、次の勤め先を探さなくてはいけないなと考えていた矢先のことだった。
エイジェリンが教えられるのは、せいぜい貴族女性としての一般教養やマナーくらいなので、幼い女の子しか相手にできない。次も小さな女の子の入る家に紹介状を書いてもらおうと、契約が満了した時のことを相談するために訪れた主人の書斎でそれは起きた。
主人であるモーテン子爵は、三十歳になったばかりの口数の少ない紳士で、エイジェリンが話すのはもっぱら夫人の方だったので、彼と二人きりになるのははじめてのことだった。
娘の学習具合を見に来ることはあったけれど、その時もただ黙って様子を見ているだけで、特別何かを言われたことはほとんどない。
だからか、少しの緊張を覚えながら、エイジェリンが契約満了後のことについて相談を持ち掛けると、最初は彼もにこやかに対応してくれていたのだ。
しかし、契約が満了しても更新してそのままここにいればいいだろうとまで言ってくれたモーテン子爵に、エイジェリンがこれ以上は彼の娘に教えられることはないと固辞した途端、それは起こった。
何が起こったのか、エイジェリンはすぐには理解できなかった。
わかったよエイジェリン――そう言って彼が立ち上がり、エイジェリンの隣に腰を下ろした。そして彼がにこりと笑った、次の瞬間、エイジェリンの視界はぐるりと回転していた。
ハッとした時はソファの上に押し倒されていて、モーテン子爵が馬乗りになっていた。
真っ青になったエイジェリンに、モーテン子爵は笑みを崩さずに、家庭教師が嫌ならば自分の愛人になればいいだろうと言い出した。
――君は婚約者に捨てられて伯爵家まで奪われたんだろう? 社交界では有名な話だ。まともな嫁ぎ先なんて見つかりっこないし、君もそれがわかっているから家庭教師なんてしているんだろう? でも大丈夫だ。私が君の一生を面倒見てあげるよ。もし妻が先立つことがあれば後妻にだってしてあげよう。悪い話ではないだろう?
耳元でささやかれて、エイジェリンは動転した。
モーテン子爵は男性にしては細い方だけれど、男性であることには変わりなく、エイジェリンをソファに押さえつける力は相当なものだった。
逃れようとするけれどビクともせず、震えながら離してくださいと頼むと、彼はまるで怯えているエイジェリンを楽しむように頬を撫でてきた。
ぞわりと肌が粟だって、カチカチと奥歯が鳴る。
モーテン子爵がエイジェリンのドレスのボタンに手をかけたとき、ガチャリと部屋の扉が開く音がして、「何をしているの⁉」と金切り声が聞こえてきた。
泣きながら首を巡らせれば、部屋に入ってきたのはモーテン子爵夫人だった。
モーテン子爵は慌てて起き上がり、エイジェリンが誘惑してきたのだと言い訳した。
エイジェリンは否定したが夫人には信じてもらえず、その日のうちにモーテン子爵家を追い出されることになったのである。
去り際に「二度と社交界に出られないようにしてあげるわ!」とまくしたてられて、頭から水をかけられた。
エイジェリンは住み込みの家庭教師として働いていたからモーテン子爵家を追い出されると住むところがなく、また、きっと伯父夫婦のもとにはモーテン子爵家から苦情が入っただろうと考えると合わせる顔もなくて、将来のためにとためていた賃金でホテルを借りて次の仕事先が見つかるまでを過ごすことにした。
エイジェリンの名前を出せば、きっとどこも雇ってくれないからと、エイミーと言う偽名と偽の経歴を考えて――新しい就職先の魔王伯爵と呼ばれるウィリアム・ブラッドは噂とは違う優しい青年でホッとしていたのに。
(荷物……まとめなくちゃね)
まさか、ウィリアムに色仕掛けをかけたなどという冤罪で解雇されることになるとは思わなかった。
エイジェリンはごしごしと目をこすりながら顔をあげて、のろのろとベッドから起き上がる。
夜までに出て行けと言われたから、早くしないといけない。
お仕着せを着替えて、持って来ていた少ない荷物を鞄に詰め終わると、エイジェリンは大きく深呼吸をした。
せめてドーラにはお別れを言いたかったけれど、解雇された人間が邸をうろうろしていたら見とがめられるだろう。
エイジェリンは人目に付かないように裏口から出ると、とぼとぼとあてもなく歩き出した。
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