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プロローグ
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エイジェリンの朝は早い。
三日前にこのブラッド伯爵家に使用人として雇われたばかりの新参者は、主人や同僚たちからの信頼を勝ち得るためには人一倍働き者でなくてはならないからだ。
エイジェリンは主人であるウィリアム・ブラッドの部屋付きメイドとして雇われたけれど、ほかの使用人たちと早く打ち解けるためには、自分の領分でない仕事も手伝うに限る。
鉄錆色と揶揄される髪をきっちりと一つにまとめ、朝早くにキッチンに顔を出したエイジェリンは、朝食に使うジャガイモの皮むきをしていたキッチンメイド頭のドーラに話しかけた。
「おはようございます。ドーラさん。うわあ、すごくたくさんのジャガイモですね。あ、手伝います」
「おはようエイミー。悪いねえ。助かるよ」
エイミーというのはエイジェリンの偽名だった。
エイジェリンはもともとハーパー伯爵家の一人娘で、何不自由ない暮らしをしていたのだが、五年前にのエイジェリンが十五歳のときに父が亡くなり、婚約者にハーパー伯爵家を乗っ取られて家を追い出された。
母は十年前に他界していて、父方の祖父母もいない。母方の祖父母のもとに一年ほど厄介になっていたけれど、その家も伯父が家督を継いでいるためいつまでも居座るわけにはいかず、伯父夫妻に紹介状を書いてもらって貴族の小さな子供向けの家庭教師をしていた。
しかしわけあってその家庭教師先を追い出され、途方に暮れていた時に、ウィリアム・ブラッド伯爵が新しい使用人を探しているという噂を聞きつけたのだ。
ウィリアム・ブラッドは社交界でも有名な変わり者で、生きた鶏を引き裂いてその血を飲んだり、突然豹変して罵声を浴びせたりする男だと、エイジェリンが知っているだけでもいい噂は聞かない。そのせいで、陰では密かに「魔王伯爵」とか「悪魔伯爵」とか言われているらしい。
けれど、背に腹はかえられないエイジェリンは、覚悟を決めてウィリアムに会いに行き、そして見事彼の使用人の座を手に入れたのである。
その際、家庭教師先での一件から、貴族令嬢だった出自は隠しておいた方がいいだろうと、エイミーという偽名を名乗った。平民の、商人の娘だと言うことになっている。
「それにしてもエイミー、あんたは本当に不器用だねえ。そんなことじゃあ、いいお婿さんは見つからないよ。ほら、かしてみな。ジャガイモはこうやってむくんだ」
三人いたキッチンメイドのうち一人が産休に入っているため、人手が足りなくて忙しいのに、面倒見のいいドーラはそう言いながらエイミーにジャガイモの皮むきのコツを教えてくれる。
一昨日もここに来たエイミーは、これまで包丁を持ったことがなく、包丁を使った仕事は邪魔にしかならないからと、皿洗いをすると言ったのだが、ドーラが「包丁を使えなくてどこに嫁に行くつもりだい。そこそこ可愛いのに二十歳になっても一人なのはきっとそのせいだね。教えてやるから覚えな」と言って、包丁の使い方を教えてくれることになったのだ。
ドーラに教えられた通り不器用な手でジャガイモを剥いていると、ドーラがどうして朝からこんなにたくさんのジャガイモを剥いているのかを教えてくれた。
「またいつもの酔狂さね。伯爵さまが、ジャガイモが食べたいから全部ジャガイモ料理にしろって無茶を言い出したんだ。あの方が突然変なことを言うのは今にはじまったことじゃないけどね、おかしなものだよね。あの方、あんまりジャガイモが好きではなかったはずなんだがねえ」
「まあ、そうなんですか」
ジャガイモばかり食べたがるなんて、本当におかしなものだ。
使用人の面接のときにはじめて会ったウィリアム・ブラッドは、黒髪に濃い紫色の、凛々しいけれど優しそうに微笑む青年だった。背が高いせいで威圧感はあったけれど、エイジェリンは彼を怖いとは思わなかったし、穏やかな彼の雰囲気から、噂は信憑性のないものがほとんどだろうと安心していたのだが、ドーラの口ぶりでは伯爵が変わっているのは本当らしい。
目をぱちくりさせていると、ドーラに「手が止まっているよ」と指摘されて、エイジェリンはハッとしてジャガイモの皮むきを再開する。
「あの方はいい方なんだが、少し変わっているからねえ。本人もそれを自覚していて、あまり王都の邸には寄り付かないんだが、国王夫妻の結婚十周年のパーティーは欠席できなかったようだね」
ドーラの言う通り、ウィリアム・ブラッド伯爵は滅多に王都にやってこない。
一年のほとんどを、北の、広いけれど領地の半分以上が岩山ばかりの領地に引きこもっていて、二十四歳でそろそろ結婚してもおかしくないというのにいまだ婚約者もいなかった。
そう言った背景がさらに噂を誇張させるのだろうが、おそらく本人の耳にも入っているだろうに、噂を否定したことは一度もないらしい。
「国王夫妻の結婚十周年のパーティーということは……十日後ですね」
「そうだよ。たぶんパーティーに出席した後は、すぐに領地に帰るんだろうねえ。エイミーも今から覚悟しておきな。ここから領地まで、馬車で一か月もかかるからね。三日でお尻が痛くなって、あとは領地につくまで地獄だよ」
冗談ではないようなしかめ面で言って、ドーラが剥いたジャガイモを手に立ち上がった。
「もういいよ。これだけあれば足りるだろう。あんたも、そろそろ仕事に戻った方がいいんじゃないのかい?」
「本当ですね。そろそろ伯爵様の起床時間です」
キッチンの時計を確認して、エイジェリンは立ち上がった。手がジャガイモ臭いので、丁寧に洗って、急いでキッチンを飛び出す。
ウィリアムの寝室は二階の真ん中の部屋だ。
小さくノックをしてから中に入ると、天蓋を下ろしたベッドの中で、ウィリアムはまだ微睡みの中にいた。
冷えた初冬の部屋を暖めるために暖炉に火を入れて、部屋が暖まってきたところでカーテンを開ける。
白いぼんやりとした日差しが差し込んできて、曇ったガラスから空を見上げれば、まだ柔らかい色をした青空が広がっていた。
ウィリアムの部屋付きメイドは先月辞めたばかりだそうで、現在はエイジェリンただ一人。
冬の重たい天蓋を開けて、枕を抱きしめて眠っていたウィリアムに声をかけると、彼は綺麗な紫色の瞳をぼんやりと開いて、ふにゃりと子供のような顔で笑った。寝ぼけているのかもしれない。
「伯爵様、朝ですよ。起きてくださいませ」
ウィリアムは、着替えは一人でやりたがる。だから起こして、彼が顔を洗うためのぬるま湯を用意し、目覚めのハーブティーを入れるまでが朝のエイジェリンの仕事だ。
笑ったまま再び枕に顔をうずめて眠りにおちようとしたウィリアムを揺さぶる。
昨日も一昨日も、彼はスッキリ目覚めていたはずなのに今日はどうしたのだろうかと少し心配していると「むーっ」とくぐもった声を上げた彼が、むんず、とエイジェリンの手首をつかんだ。
そのまま、ぐいっと強い力で引っ張られて、エイジェリンはベッドの上に投げ出された。
ぎくりと肩に力が入り、喉の奥で悲鳴が凍る。
目を見開いたまま、金縛りにあったように硬直したエイジェリンを、ウィリアムの太い腕が抱きしめた。
ひくっと喉の奥が鳴り、エイジェリンのルビーのような赤い瞳の表面を涙の膜が覆ったとき、エイジェリンの胸に顔を押し付けたウィリアムがもにゃもにゃと寝言のような声で言った。
「んー、ママ……僕はマッシュポテトが食べたいよ……」
「は?」
こぼれかけた涙が瞬く間に引っ込んだ。
エイジェリンはぱちぱちと目をしばたたいて、先ほどは違った意味で硬直した。
三日前にこのブラッド伯爵家に使用人として雇われたばかりの新参者は、主人や同僚たちからの信頼を勝ち得るためには人一倍働き者でなくてはならないからだ。
エイジェリンは主人であるウィリアム・ブラッドの部屋付きメイドとして雇われたけれど、ほかの使用人たちと早く打ち解けるためには、自分の領分でない仕事も手伝うに限る。
鉄錆色と揶揄される髪をきっちりと一つにまとめ、朝早くにキッチンに顔を出したエイジェリンは、朝食に使うジャガイモの皮むきをしていたキッチンメイド頭のドーラに話しかけた。
「おはようございます。ドーラさん。うわあ、すごくたくさんのジャガイモですね。あ、手伝います」
「おはようエイミー。悪いねえ。助かるよ」
エイミーというのはエイジェリンの偽名だった。
エイジェリンはもともとハーパー伯爵家の一人娘で、何不自由ない暮らしをしていたのだが、五年前にのエイジェリンが十五歳のときに父が亡くなり、婚約者にハーパー伯爵家を乗っ取られて家を追い出された。
母は十年前に他界していて、父方の祖父母もいない。母方の祖父母のもとに一年ほど厄介になっていたけれど、その家も伯父が家督を継いでいるためいつまでも居座るわけにはいかず、伯父夫妻に紹介状を書いてもらって貴族の小さな子供向けの家庭教師をしていた。
しかしわけあってその家庭教師先を追い出され、途方に暮れていた時に、ウィリアム・ブラッド伯爵が新しい使用人を探しているという噂を聞きつけたのだ。
ウィリアム・ブラッドは社交界でも有名な変わり者で、生きた鶏を引き裂いてその血を飲んだり、突然豹変して罵声を浴びせたりする男だと、エイジェリンが知っているだけでもいい噂は聞かない。そのせいで、陰では密かに「魔王伯爵」とか「悪魔伯爵」とか言われているらしい。
けれど、背に腹はかえられないエイジェリンは、覚悟を決めてウィリアムに会いに行き、そして見事彼の使用人の座を手に入れたのである。
その際、家庭教師先での一件から、貴族令嬢だった出自は隠しておいた方がいいだろうと、エイミーという偽名を名乗った。平民の、商人の娘だと言うことになっている。
「それにしてもエイミー、あんたは本当に不器用だねえ。そんなことじゃあ、いいお婿さんは見つからないよ。ほら、かしてみな。ジャガイモはこうやってむくんだ」
三人いたキッチンメイドのうち一人が産休に入っているため、人手が足りなくて忙しいのに、面倒見のいいドーラはそう言いながらエイミーにジャガイモの皮むきのコツを教えてくれる。
一昨日もここに来たエイミーは、これまで包丁を持ったことがなく、包丁を使った仕事は邪魔にしかならないからと、皿洗いをすると言ったのだが、ドーラが「包丁を使えなくてどこに嫁に行くつもりだい。そこそこ可愛いのに二十歳になっても一人なのはきっとそのせいだね。教えてやるから覚えな」と言って、包丁の使い方を教えてくれることになったのだ。
ドーラに教えられた通り不器用な手でジャガイモを剥いていると、ドーラがどうして朝からこんなにたくさんのジャガイモを剥いているのかを教えてくれた。
「またいつもの酔狂さね。伯爵さまが、ジャガイモが食べたいから全部ジャガイモ料理にしろって無茶を言い出したんだ。あの方が突然変なことを言うのは今にはじまったことじゃないけどね、おかしなものだよね。あの方、あんまりジャガイモが好きではなかったはずなんだがねえ」
「まあ、そうなんですか」
ジャガイモばかり食べたがるなんて、本当におかしなものだ。
使用人の面接のときにはじめて会ったウィリアム・ブラッドは、黒髪に濃い紫色の、凛々しいけれど優しそうに微笑む青年だった。背が高いせいで威圧感はあったけれど、エイジェリンは彼を怖いとは思わなかったし、穏やかな彼の雰囲気から、噂は信憑性のないものがほとんどだろうと安心していたのだが、ドーラの口ぶりでは伯爵が変わっているのは本当らしい。
目をぱちくりさせていると、ドーラに「手が止まっているよ」と指摘されて、エイジェリンはハッとしてジャガイモの皮むきを再開する。
「あの方はいい方なんだが、少し変わっているからねえ。本人もそれを自覚していて、あまり王都の邸には寄り付かないんだが、国王夫妻の結婚十周年のパーティーは欠席できなかったようだね」
ドーラの言う通り、ウィリアム・ブラッド伯爵は滅多に王都にやってこない。
一年のほとんどを、北の、広いけれど領地の半分以上が岩山ばかりの領地に引きこもっていて、二十四歳でそろそろ結婚してもおかしくないというのにいまだ婚約者もいなかった。
そう言った背景がさらに噂を誇張させるのだろうが、おそらく本人の耳にも入っているだろうに、噂を否定したことは一度もないらしい。
「国王夫妻の結婚十周年のパーティーということは……十日後ですね」
「そうだよ。たぶんパーティーに出席した後は、すぐに領地に帰るんだろうねえ。エイミーも今から覚悟しておきな。ここから領地まで、馬車で一か月もかかるからね。三日でお尻が痛くなって、あとは領地につくまで地獄だよ」
冗談ではないようなしかめ面で言って、ドーラが剥いたジャガイモを手に立ち上がった。
「もういいよ。これだけあれば足りるだろう。あんたも、そろそろ仕事に戻った方がいいんじゃないのかい?」
「本当ですね。そろそろ伯爵様の起床時間です」
キッチンの時計を確認して、エイジェリンは立ち上がった。手がジャガイモ臭いので、丁寧に洗って、急いでキッチンを飛び出す。
ウィリアムの寝室は二階の真ん中の部屋だ。
小さくノックをしてから中に入ると、天蓋を下ろしたベッドの中で、ウィリアムはまだ微睡みの中にいた。
冷えた初冬の部屋を暖めるために暖炉に火を入れて、部屋が暖まってきたところでカーテンを開ける。
白いぼんやりとした日差しが差し込んできて、曇ったガラスから空を見上げれば、まだ柔らかい色をした青空が広がっていた。
ウィリアムの部屋付きメイドは先月辞めたばかりだそうで、現在はエイジェリンただ一人。
冬の重たい天蓋を開けて、枕を抱きしめて眠っていたウィリアムに声をかけると、彼は綺麗な紫色の瞳をぼんやりと開いて、ふにゃりと子供のような顔で笑った。寝ぼけているのかもしれない。
「伯爵様、朝ですよ。起きてくださいませ」
ウィリアムは、着替えは一人でやりたがる。だから起こして、彼が顔を洗うためのぬるま湯を用意し、目覚めのハーブティーを入れるまでが朝のエイジェリンの仕事だ。
笑ったまま再び枕に顔をうずめて眠りにおちようとしたウィリアムを揺さぶる。
昨日も一昨日も、彼はスッキリ目覚めていたはずなのに今日はどうしたのだろうかと少し心配していると「むーっ」とくぐもった声を上げた彼が、むんず、とエイジェリンの手首をつかんだ。
そのまま、ぐいっと強い力で引っ張られて、エイジェリンはベッドの上に投げ出された。
ぎくりと肩に力が入り、喉の奥で悲鳴が凍る。
目を見開いたまま、金縛りにあったように硬直したエイジェリンを、ウィリアムの太い腕が抱きしめた。
ひくっと喉の奥が鳴り、エイジェリンのルビーのような赤い瞳の表面を涙の膜が覆ったとき、エイジェリンの胸に顔を押し付けたウィリアムがもにゃもにゃと寝言のような声で言った。
「んー、ママ……僕はマッシュポテトが食べたいよ……」
「は?」
こぼれかけた涙が瞬く間に引っ込んだ。
エイジェリンはぱちぱちと目をしばたたいて、先ほどは違った意味で硬直した。
応援ありがとうございます!
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