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突然、モテ期がやってきました 3
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ラルフがやってきたのは昼食を終えて少し経った頃だった。
『求婚』の二文字が脳の九割がたを占めているオーレリアは思わず身構えてしまったが、ラルフの態度は普段と変わらなかった。
「ちゃんと飯を食べているか?」
オーレリアが落ち込んでいた時にひたすらオーレリアの給餌係と化していたラルフは、いまだにオーレリアの食事事情が気になるらしい。
オーレリアが朝も昼もきちんと食事を取ったことを伝えると、ラルフはホッと安堵したように微笑んだ。
「そっか。……その、昨日の今日だったから心配だったんだ。混乱させちまったかと思って」
オーレリアを「何」に混乱させたかという主語はなかったが、なくてもわかる。昨日の求婚のことを言っているのだ。
オーレリアは途端にボッと赤くなって、もじもじと部屋着のワンピースのスカートをいじった。
ラルフは何を思って急に求婚してきたのだろう。訊きたい。訊きたいけども、訊くのが怖い。ラルフは大切な幼馴染で大切なお兄ちゃんで、大切な家族のような存在で――その彼が、突然別人になってしまったような不安を覚えた。
(もしかしてわたしが誰とも結婚できないと思って気を使ってくれたの? ……なんだかそれも、ちょっとやだな……)
ラルフが気を使って求婚してくれたなら、それは彼の優しさからくることだろうが、ラルフの求婚がただの優しさからくるものだったとすれば、オーレリアはどうしようもなくそれを嫌だと思ってしまった。
ラルフは優しいけど……、優しいだけの求婚は、ひどく残酷に感じる。
モテないオーレリアが急にモテはじめることがそもそもおかしいのだ。ラルフもギルバートも、一人ぼっちになって、家まで奪われそうなオーレリアに同情しているのかもしれない。
同情でも、それでどちらかを選んで結婚出来れば家を守れるからいいじゃないかと考える自分と、同情で求婚なんてされたくないと思う自分が心の中に同居して、激しく言い争いをくり返していた。
もやもやする胸の上をそっと抑えると、ラルフが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どうした? 気分が悪いのか?」
ラルフは優しい。優しいから残酷だ。でもその優しさを残酷だと感じてしまうのはオーレリアの身勝手で、彼にやつあたることではない。
「ううん、大丈夫。ちょっと食べすぎたのかな? 胸やけがするような気がしただけ」
できるだけいつも通りに返せば、ラルフがポンっとオーレリアの頭を撫でる。
大きな手。彼に撫でられることは珍しいことではないのに、今日は心臓がどきどきとうるさい。
「ずっとろくに食べてなかったからな。急にたくさん食べたら体がびっくりするのかもな。本当に大丈夫か?」
「うん」
頷けば、ラルフが微笑んだあとでぽりぽりと頬を掻いた。
「……じゃあさ、お前が嫌じゃなかったらだけど、今からちょっと出かけないか?」
「え? どこに?」
「どこにって、どこでもいいんだけど……ええっと、そうだな、うちの管轄の町に最近新しい菓子屋ができたんだよ。焼き菓子なんだけど、なんか女子供の人気だって母上が言っていたから、どう?」
ラルフが菓子屋にオーレリアを誘うなんて珍しい。彼が甘いものを買ってきてくれたことはあるけれど、売っている店に誘われたことは一度もない気がする。
家にいても昨日の二人からの求婚のことで頭がいっぱいで何も手がつかないし、ラルフと一緒に出掛けるのはいいかもしれない。甘いものでも食べたら、気分転換にもなるだろう。
「わかった。支度してくるから、ちょっと待ってて?」
「ああ。急がなくていいからな」
急がなくていいと言われても、支度には時間がかかるものだ。オーレリアはできるだけ早く支度をすまそうと、ドーラとともに二階に上がった。
空色の外出用のドレスに着替えて、髪をさっとハーフアップにしてもらう。パーティーではないから化粧は控えめだ。
小さなパールのイヤリングをつけて、首にはレースのチョーカー。歩き回るだろうからローヒールの白い靴を選ぶ。
小さなバックに、生前の父からもらって、あまり使わずにためていたおこずかいの中から金貨を三枚と、ハンカチを入れると、急いで階下へ降りた。
ラルフはダイニングで紅茶を飲んでいた。オーレリアがダイニングに顔を出せば、にこりと笑って席を立つ。
「昨日の格好もよかったけど、お前はそのくらいの自然な感じの方が似合うな」
それはつまり、化粧はあまりに合わないと言っているのだろうか。
褒められているのかけなされているのか微妙な気分になったが、オーレリアの手をそっと取ったラルフが耳元で小さく「可愛いよ」と言うから顔が真っ赤になった。
(ラルフって、女性にさらりと可愛いとかいうタイプだった⁉)
ほかの人にはどうかは知らないが、なんだか急に女の子扱いをされたようでドキドキしてしまう。
ドキドキしたせいか動作がぎくしゃくしてしまって、手と足を同時に動かせば、ラルフがきょとんとした。
「お前、やっぱどこかおかしいのか?」
(おかしいのはラルフよ‼)
そう言い返せればどんなにいいか。
そんなことを言い返せば「俺の何がおかしいんだ?」と訊き返してくるに決まっている。訊き返されても恥ずかしすぎて答えられる自信がないから、文句は心の中だけにとどめておいた。
ラルフが乗ってきたカルフォード伯爵家の馬車で、カルフォード家が代官を務めている隣町へ向かう。
カルフォード家が管理している一帯には大きな街があり、どちらかと言えば商業が盛んなところだ。対してバベッチ家が管理している区画には大きな街はなく、代わりに農業が盛んで、最近ではジャムやドライフルーツなど保存のきく食品加工にも力を入れていた。
街に到着すると、ラルフは人の邪魔にならないところに馬車を停めさせて、散歩がてら歩こうと言って馬車を降りた。
目的地のすぐ近くまで馬車で乗り付けることも可能だが、せっかく街に来たのだから、目的の店以外にもいろいろな店を見て回りたい。
ほら、と言って手を差し出されたから、自然に手をつないだけれど、つないだ後でものすごく照れくさくなってきた。
ラルフとの距離は昔から近かったはずなのに、この距離はいつもとちょっと違う気がする。よくわからないけれど。
「何か欲しいもの、ある?」
「急に訊かれても……」
もともとそれほど物欲がある方ではないから、訊かれてもパッと思いつかない。
オーレリアはうーんと唸って、それからパッと顔をあげた。
「じゃあ、ハンカチ」
「ハンカチ?」
ラルフが不思議そうな顔をした。
「今朝ね、ギルバート様から花束が届いたの。何かお返ししなきゃ失礼でしょ? だから、ハンカチが無難かなと思って」
「……ギルバート様から花束が届いた?」
ラルフの声が少し低くなった。
それには気づかず、オーレリアは続ける。
「そうなの、ピンクと白の薔薇の花束でね、とってもかわいいの。花束なんてもらったの、はじめてだからびっくりしちゃった」
「お前、花なんか好きだったか?」
「それなりに好きよ? ……お母様みたいにすっごく好きってわけじゃないけど、可愛いものはもらったら嬉しいじゃない。あ、あった! あそこに寄りましょう!」
ハンカチなどの小物や雑貨を扱っている店を見つけて、オーレリアはラルフの手を引いた。
ラルフが急に仏頂面になった気がするけど、きっとこの店が女の子好みの可愛らしい店だったから入りにくかったのかもしれない。これは早く選んで店を出ないと、ラルフが居心地悪い思いをするだろう。
ハンカチが置いてある棚に向かうと、ラルフがオーレリアの隣に立った。なんか、手をつないで歩いていたときより距離が近い。
「なあ。俺も花を贈ったらハンカチをくれるのか?」
「なに? ラルフもハンカチがほしいの? 花なんて贈ってくれなくても、そのくらいプレゼントするわよ」
そんなに欲しいなら自分で買えばいいのにと思いながらも、オーレリアはくすくすと笑ってハンカチを選ぶ。ギルバートに贈るものと、ラルフのものだ。ここに並んでいるハンカチは高いものでも一枚あたり銀貨一枚程度で買えるから、二人分買っても持って来たお金で充分間に合う。
ギルバート用に淡いグリーンのハンカチと、ラルフ用に濃いめの青いハンカチを選ぶ。どちらも絹で、何の刺繍も入っていなかったから、ハンカチの隅にイニシャルでも刺繍してプレゼントしたらどうだろう。
(うん、その方がいいわよね? イニシャルくらい、わたしでもそれほど時間もかからず刺繍できるし)
刺繍したハンカチも売っているけれど、貴族社会では刺繍がされていないハンカチを買って、家族や恋人が刺繍をするのが最近の流行りだ。父も母が刺繍したハンカチを持っていたし、オーレリアも兄のハンカチに刺繍をしたりした。オーレリアは二人の家族でも恋人でもないけれど、プレゼントなのだからそのくらいはした方がいい。
オーレリアがハンカチを二枚持って会計しようとすると、ラルフが財布を出したのでそっと押しとどめる。二人のプレゼントなのに、ラルフに払ってもらうのはおかしい。そう言えば、彼は渋々財布をおさめた。
(刺繍は……うん、ラルフが銀糸で、ギルバート様が金糸かな?)
二人の目の色に合わせて選んだハンカチだ。刺繍も二人の髪の色の糸を使うのがいい。銀糸も金糸も家にあった気もするが、なかったら困るので念のため買っておこうと一緒に会計を頼んだ。
「糸なんてどうするんだ?」
会計を終えてハンカチと糸をバッグに収めていると、ラルフが目ざとく見つけて訊ねてくる。
「刺繍するの。ラルフが銀で、ギルバート様が金ね」
「……ギルバート様のにも刺繍をするのか?」
「そりゃ、お返しだもの。少しでも心がこもっていた方がいいでしょ?」
「こもりすぎだと思う」
よくわからないが、ラルフはオーレリアがギルバートにハンカチを贈るのは反対なのだろうか。
「何を刺繍するんだ」
「イニシャルよ」
「……俺もギルバート様のも、等しくイニシャル?」
「違うのがよかった?」
店を出て、のんびりと石畳の道を歩きながら首をひねれば、ラルフがほんの少し口角を持ち上げた。
「違うのがいいって言ったら、それを刺繍してくれるのか?」
「そんなに難しいのじゃなかったら」
「じゃあさ、イニシャルと一緒に、うちの家紋を刺繍してよ」
「家紋? ラルフのところは比較的簡単だから大丈夫だけど、ギルバート様のところはちょっと難しいんだけど……」
「うちだけ。俺のだけでいい」
「そう?」
それならまあいいだろう。カルフォード家の紋章は百合を象ったもので、複雑ではないから、時間もかからないと思う。
オーレリアが頷けば、ラルフが嬉しそうに破顔する。そんなに家紋の入ったハンカチがほしかったのだろうか? ラルフに女兄弟はいないが、きっと彼の母親に頼んだら刺繍くらいしてくれると思うのに。
「あ、オーレリア、ここだ」
目的の菓子屋に到着して、ラルフが足を止めた。
それほど広い店ではなかったが、ショーケースにはたくさんの焼き菓子が並んでいて、焼き立ての菓子の美味しそうな香りが店いっぱいに漂っている。
オーレリアはぱっと顔を輝かせた。
「美味しそう!」
店内には二つほど机があったから、店内で飲食もできるようだ。
ここの紅茶もおすすめだと言うから、買って帰るだけではなく、ちょっと食べて行こうとラルフとともに席に着く。
「こちらが当店おすすめのクロカンブッシュになります」
せっかくだから一番おすすめのものをとお願いすると、小さなシュークリームがこんもりと山になった皿が出てきた。表面に粉砂糖がかかっていて、イチゴもトッピングされている。少し多いなと思ったら、これは二人前らしい。取り分けて食べる用の皿が、ラルフとオーレリアの前にそれぞれ置かれた。
ラルフがオーレリアの皿に、小さなシュークリームとイチゴをいくつか取り分けてくれる。ラルフも同様に数個のシュークリームとイチゴを皿にのせて、二人そろってまずイチゴから口に入れた。ラルフもオーレリアもイチゴが大好物なのだ。子供のころはよく取り合いをしたものである。
イチゴの甘酸っぱさを存分に楽しんでから、小さなシュークリームを口に入れる。外の皮はサックサクで、噛めば中からバニラのいい香りのするカスタードクリームが溢れ出てきた。
(んー! おいしーい!)
これは持ち帰りには向かないが、かわりにクロカンブッシュに使われている小さなシュークリームが単体で売られていた。ドーラたちにはそれをお土産に帰ってあげよう。
イチゴと交互に食べるとまた美味しい。イチゴの酸味がいいアクセントになる。
ラルフも気に入ったようで、紅茶を飲みながら黙々と食べすすめている。
最初に皿にのせた分がなくなると、またラルフが皿に取り分けてくれて、食べすすめること十分。クロカンブッシュはすっかりなくなって、皿の上にイチゴが一粒だけ残った。
「オーレリア」
ラルフがそう言って、フォークに刺したイチゴをオーレリアの口元に近づけた。
「くれるの?」
昔は、最後の一粒を誰が食べるのかでもめたのに、今日のラルフはオーレリアにイチゴの最後の一粒をくれるらしい。
「えへへっ」
嬉しくなって、笑いながら「あーん」と口を開けて、ラルフが差し出したフォークからイチゴを食べた。
皿を片づけに来た二十代半ばほどの女性の店主が、その姿を見てくすくすと笑う。
「まあ、仲がよろしいのですね。ご夫婦ですか?」
オーレリアは、ボッと火がついたように赤くなった。
『求婚』の二文字が脳の九割がたを占めているオーレリアは思わず身構えてしまったが、ラルフの態度は普段と変わらなかった。
「ちゃんと飯を食べているか?」
オーレリアが落ち込んでいた時にひたすらオーレリアの給餌係と化していたラルフは、いまだにオーレリアの食事事情が気になるらしい。
オーレリアが朝も昼もきちんと食事を取ったことを伝えると、ラルフはホッと安堵したように微笑んだ。
「そっか。……その、昨日の今日だったから心配だったんだ。混乱させちまったかと思って」
オーレリアを「何」に混乱させたかという主語はなかったが、なくてもわかる。昨日の求婚のことを言っているのだ。
オーレリアは途端にボッと赤くなって、もじもじと部屋着のワンピースのスカートをいじった。
ラルフは何を思って急に求婚してきたのだろう。訊きたい。訊きたいけども、訊くのが怖い。ラルフは大切な幼馴染で大切なお兄ちゃんで、大切な家族のような存在で――その彼が、突然別人になってしまったような不安を覚えた。
(もしかしてわたしが誰とも結婚できないと思って気を使ってくれたの? ……なんだかそれも、ちょっとやだな……)
ラルフが気を使って求婚してくれたなら、それは彼の優しさからくることだろうが、ラルフの求婚がただの優しさからくるものだったとすれば、オーレリアはどうしようもなくそれを嫌だと思ってしまった。
ラルフは優しいけど……、優しいだけの求婚は、ひどく残酷に感じる。
モテないオーレリアが急にモテはじめることがそもそもおかしいのだ。ラルフもギルバートも、一人ぼっちになって、家まで奪われそうなオーレリアに同情しているのかもしれない。
同情でも、それでどちらかを選んで結婚出来れば家を守れるからいいじゃないかと考える自分と、同情で求婚なんてされたくないと思う自分が心の中に同居して、激しく言い争いをくり返していた。
もやもやする胸の上をそっと抑えると、ラルフが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どうした? 気分が悪いのか?」
ラルフは優しい。優しいから残酷だ。でもその優しさを残酷だと感じてしまうのはオーレリアの身勝手で、彼にやつあたることではない。
「ううん、大丈夫。ちょっと食べすぎたのかな? 胸やけがするような気がしただけ」
できるだけいつも通りに返せば、ラルフがポンっとオーレリアの頭を撫でる。
大きな手。彼に撫でられることは珍しいことではないのに、今日は心臓がどきどきとうるさい。
「ずっとろくに食べてなかったからな。急にたくさん食べたら体がびっくりするのかもな。本当に大丈夫か?」
「うん」
頷けば、ラルフが微笑んだあとでぽりぽりと頬を掻いた。
「……じゃあさ、お前が嫌じゃなかったらだけど、今からちょっと出かけないか?」
「え? どこに?」
「どこにって、どこでもいいんだけど……ええっと、そうだな、うちの管轄の町に最近新しい菓子屋ができたんだよ。焼き菓子なんだけど、なんか女子供の人気だって母上が言っていたから、どう?」
ラルフが菓子屋にオーレリアを誘うなんて珍しい。彼が甘いものを買ってきてくれたことはあるけれど、売っている店に誘われたことは一度もない気がする。
家にいても昨日の二人からの求婚のことで頭がいっぱいで何も手がつかないし、ラルフと一緒に出掛けるのはいいかもしれない。甘いものでも食べたら、気分転換にもなるだろう。
「わかった。支度してくるから、ちょっと待ってて?」
「ああ。急がなくていいからな」
急がなくていいと言われても、支度には時間がかかるものだ。オーレリアはできるだけ早く支度をすまそうと、ドーラとともに二階に上がった。
空色の外出用のドレスに着替えて、髪をさっとハーフアップにしてもらう。パーティーではないから化粧は控えめだ。
小さなパールのイヤリングをつけて、首にはレースのチョーカー。歩き回るだろうからローヒールの白い靴を選ぶ。
小さなバックに、生前の父からもらって、あまり使わずにためていたおこずかいの中から金貨を三枚と、ハンカチを入れると、急いで階下へ降りた。
ラルフはダイニングで紅茶を飲んでいた。オーレリアがダイニングに顔を出せば、にこりと笑って席を立つ。
「昨日の格好もよかったけど、お前はそのくらいの自然な感じの方が似合うな」
それはつまり、化粧はあまりに合わないと言っているのだろうか。
褒められているのかけなされているのか微妙な気分になったが、オーレリアの手をそっと取ったラルフが耳元で小さく「可愛いよ」と言うから顔が真っ赤になった。
(ラルフって、女性にさらりと可愛いとかいうタイプだった⁉)
ほかの人にはどうかは知らないが、なんだか急に女の子扱いをされたようでドキドキしてしまう。
ドキドキしたせいか動作がぎくしゃくしてしまって、手と足を同時に動かせば、ラルフがきょとんとした。
「お前、やっぱどこかおかしいのか?」
(おかしいのはラルフよ‼)
そう言い返せればどんなにいいか。
そんなことを言い返せば「俺の何がおかしいんだ?」と訊き返してくるに決まっている。訊き返されても恥ずかしすぎて答えられる自信がないから、文句は心の中だけにとどめておいた。
ラルフが乗ってきたカルフォード伯爵家の馬車で、カルフォード家が代官を務めている隣町へ向かう。
カルフォード家が管理している一帯には大きな街があり、どちらかと言えば商業が盛んなところだ。対してバベッチ家が管理している区画には大きな街はなく、代わりに農業が盛んで、最近ではジャムやドライフルーツなど保存のきく食品加工にも力を入れていた。
街に到着すると、ラルフは人の邪魔にならないところに馬車を停めさせて、散歩がてら歩こうと言って馬車を降りた。
目的地のすぐ近くまで馬車で乗り付けることも可能だが、せっかく街に来たのだから、目的の店以外にもいろいろな店を見て回りたい。
ほら、と言って手を差し出されたから、自然に手をつないだけれど、つないだ後でものすごく照れくさくなってきた。
ラルフとの距離は昔から近かったはずなのに、この距離はいつもとちょっと違う気がする。よくわからないけれど。
「何か欲しいもの、ある?」
「急に訊かれても……」
もともとそれほど物欲がある方ではないから、訊かれてもパッと思いつかない。
オーレリアはうーんと唸って、それからパッと顔をあげた。
「じゃあ、ハンカチ」
「ハンカチ?」
ラルフが不思議そうな顔をした。
「今朝ね、ギルバート様から花束が届いたの。何かお返ししなきゃ失礼でしょ? だから、ハンカチが無難かなと思って」
「……ギルバート様から花束が届いた?」
ラルフの声が少し低くなった。
それには気づかず、オーレリアは続ける。
「そうなの、ピンクと白の薔薇の花束でね、とってもかわいいの。花束なんてもらったの、はじめてだからびっくりしちゃった」
「お前、花なんか好きだったか?」
「それなりに好きよ? ……お母様みたいにすっごく好きってわけじゃないけど、可愛いものはもらったら嬉しいじゃない。あ、あった! あそこに寄りましょう!」
ハンカチなどの小物や雑貨を扱っている店を見つけて、オーレリアはラルフの手を引いた。
ラルフが急に仏頂面になった気がするけど、きっとこの店が女の子好みの可愛らしい店だったから入りにくかったのかもしれない。これは早く選んで店を出ないと、ラルフが居心地悪い思いをするだろう。
ハンカチが置いてある棚に向かうと、ラルフがオーレリアの隣に立った。なんか、手をつないで歩いていたときより距離が近い。
「なあ。俺も花を贈ったらハンカチをくれるのか?」
「なに? ラルフもハンカチがほしいの? 花なんて贈ってくれなくても、そのくらいプレゼントするわよ」
そんなに欲しいなら自分で買えばいいのにと思いながらも、オーレリアはくすくすと笑ってハンカチを選ぶ。ギルバートに贈るものと、ラルフのものだ。ここに並んでいるハンカチは高いものでも一枚あたり銀貨一枚程度で買えるから、二人分買っても持って来たお金で充分間に合う。
ギルバート用に淡いグリーンのハンカチと、ラルフ用に濃いめの青いハンカチを選ぶ。どちらも絹で、何の刺繍も入っていなかったから、ハンカチの隅にイニシャルでも刺繍してプレゼントしたらどうだろう。
(うん、その方がいいわよね? イニシャルくらい、わたしでもそれほど時間もかからず刺繍できるし)
刺繍したハンカチも売っているけれど、貴族社会では刺繍がされていないハンカチを買って、家族や恋人が刺繍をするのが最近の流行りだ。父も母が刺繍したハンカチを持っていたし、オーレリアも兄のハンカチに刺繍をしたりした。オーレリアは二人の家族でも恋人でもないけれど、プレゼントなのだからそのくらいはした方がいい。
オーレリアがハンカチを二枚持って会計しようとすると、ラルフが財布を出したのでそっと押しとどめる。二人のプレゼントなのに、ラルフに払ってもらうのはおかしい。そう言えば、彼は渋々財布をおさめた。
(刺繍は……うん、ラルフが銀糸で、ギルバート様が金糸かな?)
二人の目の色に合わせて選んだハンカチだ。刺繍も二人の髪の色の糸を使うのがいい。銀糸も金糸も家にあった気もするが、なかったら困るので念のため買っておこうと一緒に会計を頼んだ。
「糸なんてどうするんだ?」
会計を終えてハンカチと糸をバッグに収めていると、ラルフが目ざとく見つけて訊ねてくる。
「刺繍するの。ラルフが銀で、ギルバート様が金ね」
「……ギルバート様のにも刺繍をするのか?」
「そりゃ、お返しだもの。少しでも心がこもっていた方がいいでしょ?」
「こもりすぎだと思う」
よくわからないが、ラルフはオーレリアがギルバートにハンカチを贈るのは反対なのだろうか。
「何を刺繍するんだ」
「イニシャルよ」
「……俺もギルバート様のも、等しくイニシャル?」
「違うのがよかった?」
店を出て、のんびりと石畳の道を歩きながら首をひねれば、ラルフがほんの少し口角を持ち上げた。
「違うのがいいって言ったら、それを刺繍してくれるのか?」
「そんなに難しいのじゃなかったら」
「じゃあさ、イニシャルと一緒に、うちの家紋を刺繍してよ」
「家紋? ラルフのところは比較的簡単だから大丈夫だけど、ギルバート様のところはちょっと難しいんだけど……」
「うちだけ。俺のだけでいい」
「そう?」
それならまあいいだろう。カルフォード家の紋章は百合を象ったもので、複雑ではないから、時間もかからないと思う。
オーレリアが頷けば、ラルフが嬉しそうに破顔する。そんなに家紋の入ったハンカチがほしかったのだろうか? ラルフに女兄弟はいないが、きっと彼の母親に頼んだら刺繍くらいしてくれると思うのに。
「あ、オーレリア、ここだ」
目的の菓子屋に到着して、ラルフが足を止めた。
それほど広い店ではなかったが、ショーケースにはたくさんの焼き菓子が並んでいて、焼き立ての菓子の美味しそうな香りが店いっぱいに漂っている。
オーレリアはぱっと顔を輝かせた。
「美味しそう!」
店内には二つほど机があったから、店内で飲食もできるようだ。
ここの紅茶もおすすめだと言うから、買って帰るだけではなく、ちょっと食べて行こうとラルフとともに席に着く。
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ラルフがオーレリアの皿に、小さなシュークリームとイチゴをいくつか取り分けてくれる。ラルフも同様に数個のシュークリームとイチゴを皿にのせて、二人そろってまずイチゴから口に入れた。ラルフもオーレリアもイチゴが大好物なのだ。子供のころはよく取り合いをしたものである。
イチゴの甘酸っぱさを存分に楽しんでから、小さなシュークリームを口に入れる。外の皮はサックサクで、噛めば中からバニラのいい香りのするカスタードクリームが溢れ出てきた。
(んー! おいしーい!)
これは持ち帰りには向かないが、かわりにクロカンブッシュに使われている小さなシュークリームが単体で売られていた。ドーラたちにはそれをお土産に帰ってあげよう。
イチゴと交互に食べるとまた美味しい。イチゴの酸味がいいアクセントになる。
ラルフも気に入ったようで、紅茶を飲みながら黙々と食べすすめている。
最初に皿にのせた分がなくなると、またラルフが皿に取り分けてくれて、食べすすめること十分。クロカンブッシュはすっかりなくなって、皿の上にイチゴが一粒だけ残った。
「オーレリア」
ラルフがそう言って、フォークに刺したイチゴをオーレリアの口元に近づけた。
「くれるの?」
昔は、最後の一粒を誰が食べるのかでもめたのに、今日のラルフはオーレリアにイチゴの最後の一粒をくれるらしい。
「えへへっ」
嬉しくなって、笑いながら「あーん」と口を開けて、ラルフが差し出したフォークからイチゴを食べた。
皿を片づけに来た二十代半ばほどの女性の店主が、その姿を見てくすくすと笑う。
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