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霊峰を目指して 1

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 緑色の服に、灰色のローブをかぶった、年齢不詳の妙な女を見かけるようになったのは、四か月ほど前のことだっただろうか。

 子供のころからごくたまに、ユーインは不思議なものを見ることがあった。
 それは小人だったり、動物だったり――それは決まってほかの人には見えなくて、そして、見えたと思ったらすぐに見えなくなったりして、きっと寝ぼけて幻を見たのだと、周りの大人たちは言った。

 そんな不思議な力は、大人になるにつれてなくなっていって、けれども今でも稀に不思議なものを目にすることがあった。
 灰色のローブを着た女も、きっとその不思議なものだったのだろう。
 気がついたら女はユーインの側にいて、最初は気味悪く思っていたけれど、どうにも周囲の他の人間には見えていないのだと気づくと、ユーインは「ああ、またか」と気にならなくなった。

 また変な幻だ。
 きっと自分の頭か目は、少しおかしいのだろう。
 いつも通り、気にせずにいたらそのうち見えなくなるはずだ。

 けれどもそれが、まさかあんなことになるなんて――

「ハミルトン……」

 ユーインは、今日知り合ったばかりの女の子が取ってくれた部屋で、ぼんやりと月を見上げる。

「絶対に、助けるから……」

 そのかすれたつぶやきには、強い悔恨の響きがあった。



     ☆



「ったく何考えていやがるんだこのおせっかいめ! あいつが兎の皮をかぶった狼じゃないってどうして言い切れる? やばいやつだったらどうするんだ! 今からでも遅くない、考え直せ! 断ってこい! いや、何なら夜が明ける前に宿を出ようぜ。逃げるんだ!」

 ユーインのためにあいている部屋を一室取って、その後、エマの部屋に干している服をユーインの部屋に移し、時間つぶしにおしゃべりをした後で夕食を一緒に取った。
そしてエマが部屋に戻った途端、アーサーがすごい勢いでまくし立てるように言うから、エマは思わず耳を塞ぎそうになった。
 いくら妖精の声がほかの人に聞こえないからって、大声を出されたら困る。他の人に聞こえなくともエマにとってはうるさいからだ。ポリーも耳を塞いで迷惑そうにアーサーを睨んだ。

「アーサー、ユーインは善良な人よ。今日、少し一緒にいただけでもよくわかったわ。善良すぎてちょっと心配しなるくらいなんだもの、わたしの荷物やお金を盗んだりするような悪党じゃないわ」
「盗みの心配をしてるんじゃねーよ! 十六の小娘ならもっと他に心配することがあるだろーが‼」
「何の心配よ」
「あーっもう‼ おいポリーばばあ‼ こういうことを教えるのは女の仕事だろ⁉ なんとかしろ‼」
「誰がばばあだい‼ いい加減にしないとあんたのその毛をむしって糸に紡いでやるからね‼」

 ポリーはカッカと怒った後で、「まあ大丈夫だと思うよ」と答えた。

「アーサー、あんたもわかってるだろう。ユーインは妖精に好かれる体質の人間だ。そういう人間は決まって善良なのさ。エマが嫌がるようなことはしないよ」
「だがよ、善良でも頓珍漢だぜ? あいつ金持ってねーんだぞ? お荷物一つ抱えるようなもんじゃねーか」
「そこはまあ、用心棒代ってことでいいわよ」
「エマはお人よしすぎるんだ‼」

 アーサーはそういうが、エマがお人好しでい続けられるのは、アーサーやポリーがいるからだ。
 本当に危険だと思えば、アーサーもポリーも問答無用でユーインを遠ざけるだろう。
 口では文句を言いつつも強硬手段に出ていない時点で、アーサーもユーインが善良であることは理解しているはずだ。

「わたしに何もできないなら一緒に旅をするのはお断りしたかもしれないけど、不治の病でも治せそうな薬に心当たりがあるもの」
「パナセアは実在しねーぞ」
「もちろんそんなことは知っているわ。そうじゃなくて、エルフの秘薬よ」

 アーサーはぴょんとベッドの上に飛び乗って、はーっとため息を吐いた。

「エルフの秘薬は実在するけどよ、エルフは遁世して久しいんだ。どうやってエルフを見つける? 見つけられないって言う時点で、パナセアもエルフの秘薬も一緒だろうが」
「でも、実在するもの。だったら探す前からあきらめてはダメだと思うわ」
「アーサー、諦めるんだね。エマはこういう子だよ」
「……あーっ、もう‼」

 アーサーは両方の前足で器用に頭をガシガシかくと、もう一度ため息をつく。
 エマはにっこりと笑った。アーサーが諦めたのがわかったからだ。アーサーはそれ以上何も言わずにベッドの上でふて寝するように寝転がったが、それは、なんだかんだ言いつつ面倒見のいい彼なりの譲歩だとエマはわかっている。許してくれたみたいだ。

「ありがとうアーサー、今度お酒を買っておいてあげるわ」
「……うまいラムが飲みたいな」
「ええ、わかったわ」

 エマはブッカに約束した通りに、窓辺にパンとエールを置いて、それから仕事道具の入ったカバンの中からポリーが紡いだ絹糸とかぎ針を取り出した。
 今日一日で、商品をすべて売りつくしてしまったから、急いで商品を作っておかなくてはならない。商売のチャンスはいつ訪れるかわからないからだ。この半年で、自分もなかなか商魂たくましくなったものだなと思う。
 ちらりと窓辺を見ると、昼間のブッカがさっそくパンをかじっているのが見えた。

(ふふ、可愛い)

 エマはくすりと笑って、比較的短時間で完成して、なおかつ一番よく売れる商品のコサージュを作りに取り掛かる。

「ねえ、ポリー。エルフだけど、どのあたりに暮らしているのかしら? 妖精界ではなくて、人里離れた人間界のどこかで暮らしているエルフがいるって聞いたことはあるんだけど……」
「そうさねえ……妖精女王様の夫の妖精王様はエルフだがねぇ」
「そうなの?」
「ああ、知らなかったかい? まあ、妖精女王様と違って、あんまり表に出てくる方じゃないからねえ。ま、エルフは総じて人前には姿を現したがらないから、珍しくはないんだが」
「……でも、さすがに王様に薬を作ってくださいなんて言えないわよね。会えるかどうかもわからないし。やっぱり人間界で暮らしているエルフを探すしかないと思うんだけど……手掛かりはどこで得られるかしら」
「エルフの居場所は、妖精たちでも知っているもんは少ないからねえ。それこそ、確実な居場所を知っているのは妖精女王様や妖精王様くらいなものだろうさ」
「妖精女王や妖精王に訊くしかないってこと?」
「無駄足をつかまされたくないならそれがいいだろうねえ。ピクシーなんかはふざけて偽情報を掴ましそうだし、真実を知ってるもんは少ないと思うからね。ただ、さっきも言ったけど妖精王様はあんまり外に出てこないんだよ。ここだけの話、妖精女王様は気の強い方でね、ちょっとほかの妖精と妖精王様が仲良くしただけで嫉妬なさって大喧嘩になるから、普段はお城の中でおとなしくしているのさ」
「まあ、妖精王は完全に妖精女王の尻に敷かれているのね」
「人間も妖精も、それが夫婦円満のコツだと言うやつもいるけどねえ。まあともかく、そういうわけだから妖精王様には会えないだろうよ。ただ、妖精女王様なら会ってくださるかもしれないね。あの方は気まぐれだが、根は優しい方だからねえ」

 エマは絹糸の色を変えながら、「妖精女王ね……」とつぶやく。
 昔々、人間の目に妖精の姿が映らなくなるという、とんでもない大魔法をかけた妖精女王。人間は、妖精女王の逆鱗に触れ、妖精を見ることができなくなったのだ。

「……なんとなく、妖精女王は人間嫌いなんじゃないかしらって思っていたんだけど」
「好きか嫌いかって言えば嫌いかもしれないけどね、エマなら大丈夫だと思うよ」
「根拠は?」
「あたしの勘さね」
「勘かぁ」

 あてにしていいのかどうか少々怪しいところだが、ポリーの勘はなかなかよく当たる。

(それに、今のところ有力な手掛かりは妖精女王だけみたいだし)

 ユーインは、友人が罹患している病は、すぐに彼の命を刈り取るようなものではないと言ったけれど、楽観視してのんびりしていていいはずもない。闇雲に探し回るよりは確実な線を当たるべきだ。
 のんびりしていてもしものことがあったら、ユーインは大きな心の傷を負うだろう。自分を責めるかもしれない。

(……大切な人を失うのはつらすぎるもの)

 世の中にはどうしようもないことも存在するが、助けられる可能性があるのならば――その方法をエマだけが見つけられる可能性があるのならば、助けてあげたい。

「妖精女王はどこに行けば会えるの?」
「そうさねえ……ここから少し行った先にある霊峰アリス山の頂上にあるカルデラ湖に行けば、もしかしたら、月の綺麗な夜なら呼びかけに応じてくれるかもしれないね。たまにそこで水浴びと月光浴をなさることがあるんだよ」
「アリス山、ね」

 エマはかぎ針を置いて立ち上がると、クローゼットの中に納めている旅行鞄からこのあたりの地図を取り出した。安物の地図なので質が悪く、ところどころいい加減ですべて鵜呑みにできないものだが、大体の位置を把握するくらいには役に立つ。

「運よく乗せてくれる馬車とかが見つかればだけど、ここから南東に……十日から二週間ってところかしら?」

 半年も旅をしていたからか、一日に進める距離もおおよその検討がつくようになってきた。とはいえ、エマはお金を節約するために、通りかかった農家の荷馬車の後ろに乗せてもらったり、歩いたりすること多いので、曖昧な計算しかできないが。

「そうと決まればさっそく明日出発しましょ」

 ひとまず目的地が決まって安心したエマは、レース編みを再開する。今日中にコサージュを二つは仕上げておきたいところだ。コサージュは、商品として売る以外にも、ここの旅籠の女将に渡したように、何かのお礼に渡すこともあるので、たくさん用意しておくに越したことはない。
 ベッドの上でごろごろしていたアーサーが、むくりと体を起こして、エマのそばまで飛んできた。

「なあエマ、もう決めちまったんだろうけどさ、なんてお前はそうやって無関係な人間のために頑張るんだ」

 エマはレース編みの手を止めずに、静かに答える。

「……失って、後悔するのがどれだけつらいことなのか、わたしはよく知っているもの。そんな思いをするのはわたしだけで充分よ」
「「…………」」

 アーサーとポリーはそっと目を伏せて黙り込む。
 エマは笑った。

「そんな顔をしないで! わたし、大丈夫だから!」




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