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追いかけてこないモモンガ 1
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「これで問題なさそうだな」
ピアノの伴奏を止めて、ライオネルは小さく笑った。
最初はどうなることかと思ったが、エイミーは正しい歌詞でも音を外さずに歌えるようになった。
あの出鱈目な歌詞で何とか音を覚えさせた後で、頭の中でその出鱈目の歌詞を歌いながら正しい言葉を発生するように訓練を続けると、正しい歌詞でも正しく歌えるようになったのだ。
(こいつは変だが、能力自体は高いんだよな)
頭の中で違う歌詞で歌いながら、別の歌詞を声に出せなんて、ライオネルが同じことを言われれば大混乱に陥っていただろう。それをわずか数日でマスターしてしまったエイミーは、やはり天才なのかもしれない。
ライオネルが褒めると、エイミーははにかんだように微笑んで、淑女の見本のような礼をした。
「ありがとうございます、殿下」
「あ、ああ……」
いつもならわーきゃー騒いで飛びついてくるエイミーが、ただ静かに微笑む様子にライオネルは戸惑いを隠せない。
エイミーがこうなったのは、風邪を引いた翌日からのことだった。
学園ですれ違っても「おはようございます」「こんにちは」と挨拶をするくらいで飛びついてこない。いつもの理解できないモモンガ語もしばらく聞いていなかった。今のエイミーはどこからどう見ても普通の人間――普通の令嬢だ。うるさくない、奇天烈じゃない、しつこくない。抱き着いても来ないし、匂いも嗅がないし、隙あらば唇を狙って来ようともしない。
(いや……普通の令嬢ではないな)
エイミーの所作はその辺の貴族令嬢の何倍も美しいし、発音にも変な癖は一つもない。
貴族令嬢の見本のような「ご令嬢」。王太子の婚約者はかくあるべきと、誰もが思うだろう完璧さ。
追いかけまわされなくなって万々歳のはずなのに、何故だろう、何故――こんなにももやもやするのか。
「おい、まだ時間があるし茶でも飲んでいくか?」
いつもなら決して自分から誘わないのに、気づけばライオネルはそんなことを口走っていた。
エイミーが少し驚いた顔をした後で、にこりと、これまた手本のような笑みを浮かべる。
「いえ、今日はこれで。殿下もお忙しいでしょうから」
「そうか……」
断られて、胸が痛いのはどうしてだろう。
(そういえば……今日はクッキーがないんだな)
いつも週末には必ず持ってくる手作りクッキーが、今日はない。
エイミーが丁寧に楽譜を片付けると、もう一度ライオネルに向かって一礼して、防音室を出ていく。
「あ……」
つい、待てと呼び止めそうになって、慌てて口をつぐむ。
呼び止めてどうするというのだ。
エイミーがおとなしくなったのなら、ライオネルとしても万々歳だろう。
ライオネルだって、毎日毎日まとわりつかれて迷惑していたのだ。だから、今のエイミーは歓迎されるべきであって、戸惑うことじゃない。
ライオネルはソファに座って、エイミーが出て行った防音室の扉を見つめる。「殿下ぁ!」とうるさいモモンガがあの扉から飛び込んでくるような気がしたが、いつまで待っても扉は開かない。
(なんでもやもやするんだろう……)
ぼんやりしていると、エイミーが風邪を引く前、この部屋でケビンに言われたことを思い出した。
――モモンガは人の言葉を理解しませんが、人間は人の言葉を理解します。そして言葉は、人を喜ばせることもあれば傷つけることもあるのです。
何故今、その言葉を思い出すのか。
(俺はあのモモンガを……エイミーを、傷つけたのか?)
だが、何で傷つけたのか、ライオネルはわからなかった。
何故ならライオネルはずっといつも通りだったはずだ。いつも通り、何も変わらない。今更あのモモンガが傷つくことなんて何一つないはずなのに――
「……俺は、傷つけてなんか、ない」
ライオネルは、自分自身に言い聞かせた。
そうしないと――何故だが、幼い日に転んで泣いたエイミーの泣き顔が頭の中をちらついて、離れなかったからだ。
ピアノの伴奏を止めて、ライオネルは小さく笑った。
最初はどうなることかと思ったが、エイミーは正しい歌詞でも音を外さずに歌えるようになった。
あの出鱈目な歌詞で何とか音を覚えさせた後で、頭の中でその出鱈目の歌詞を歌いながら正しい言葉を発生するように訓練を続けると、正しい歌詞でも正しく歌えるようになったのだ。
(こいつは変だが、能力自体は高いんだよな)
頭の中で違う歌詞で歌いながら、別の歌詞を声に出せなんて、ライオネルが同じことを言われれば大混乱に陥っていただろう。それをわずか数日でマスターしてしまったエイミーは、やはり天才なのかもしれない。
ライオネルが褒めると、エイミーははにかんだように微笑んで、淑女の見本のような礼をした。
「ありがとうございます、殿下」
「あ、ああ……」
いつもならわーきゃー騒いで飛びついてくるエイミーが、ただ静かに微笑む様子にライオネルは戸惑いを隠せない。
エイミーがこうなったのは、風邪を引いた翌日からのことだった。
学園ですれ違っても「おはようございます」「こんにちは」と挨拶をするくらいで飛びついてこない。いつもの理解できないモモンガ語もしばらく聞いていなかった。今のエイミーはどこからどう見ても普通の人間――普通の令嬢だ。うるさくない、奇天烈じゃない、しつこくない。抱き着いても来ないし、匂いも嗅がないし、隙あらば唇を狙って来ようともしない。
(いや……普通の令嬢ではないな)
エイミーの所作はその辺の貴族令嬢の何倍も美しいし、発音にも変な癖は一つもない。
貴族令嬢の見本のような「ご令嬢」。王太子の婚約者はかくあるべきと、誰もが思うだろう完璧さ。
追いかけまわされなくなって万々歳のはずなのに、何故だろう、何故――こんなにももやもやするのか。
「おい、まだ時間があるし茶でも飲んでいくか?」
いつもなら決して自分から誘わないのに、気づけばライオネルはそんなことを口走っていた。
エイミーが少し驚いた顔をした後で、にこりと、これまた手本のような笑みを浮かべる。
「いえ、今日はこれで。殿下もお忙しいでしょうから」
「そうか……」
断られて、胸が痛いのはどうしてだろう。
(そういえば……今日はクッキーがないんだな)
いつも週末には必ず持ってくる手作りクッキーが、今日はない。
エイミーが丁寧に楽譜を片付けると、もう一度ライオネルに向かって一礼して、防音室を出ていく。
「あ……」
つい、待てと呼び止めそうになって、慌てて口をつぐむ。
呼び止めてどうするというのだ。
エイミーがおとなしくなったのなら、ライオネルとしても万々歳だろう。
ライオネルだって、毎日毎日まとわりつかれて迷惑していたのだ。だから、今のエイミーは歓迎されるべきであって、戸惑うことじゃない。
ライオネルはソファに座って、エイミーが出て行った防音室の扉を見つめる。「殿下ぁ!」とうるさいモモンガがあの扉から飛び込んでくるような気がしたが、いつまで待っても扉は開かない。
(なんでもやもやするんだろう……)
ぼんやりしていると、エイミーが風邪を引く前、この部屋でケビンに言われたことを思い出した。
――モモンガは人の言葉を理解しませんが、人間は人の言葉を理解します。そして言葉は、人を喜ばせることもあれば傷つけることもあるのです。
何故今、その言葉を思い出すのか。
(俺はあのモモンガを……エイミーを、傷つけたのか?)
だが、何で傷つけたのか、ライオネルはわからなかった。
何故ならライオネルはずっといつも通りだったはずだ。いつも通り、何も変わらない。今更あのモモンガが傷つくことなんて何一つないはずなのに――
「……俺は、傷つけてなんか、ない」
ライオネルは、自分自身に言い聞かせた。
そうしないと――何故だが、幼い日に転んで泣いたエイミーの泣き顔が頭の中をちらついて、離れなかったからだ。
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