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罠
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気が狂いそうなほどに甘ったるい香りが、部屋中に充満していた。
倒れた翆のそばにじっとたたずんでいた皓秀は、こちらにやってくる足音を聞きつけて、肩越しに振り返った。
許可もなく部屋に入ってきた細い目の男は、皓秀と、その足元に横たわる翆の姿を見て、喜色満面で笑い出した。
「は、ははははは! よくやった! よくやったぞ、皓秀!」
どかどかと部屋を横切り、長椅子に腰を下ろして、男は膝を叩いて笑い続ける。
「さすがだ、皓秀!」
「恐れ入ります、趙蔡様」
皓秀は静かに頭を下げる。
趙蔡は上機嫌で言った。
「ほら、そんなところに立っておらんで座れ。酒はあるか? ともに祝杯といこうじゃないか」
「恐れながら趙蔡様、まだすべてが終わったわけではありません」
「なに、終わったも同然だ。この男さえ始末すれば、あとは私が国主になるだけだ。逆らうものなど皆始末してしまえばいい。都合のいいことに、今夜は夜会がある。そこですべては終わりだ。期待しているぞ、皓秀」
「御意に」
皓秀は準備してあった酒を棚から出してきて、趙蔡に杯を手渡す。
「翆様はいかがなさいます?」
「ん? 明日の朝、海にでも投げ捨てておけ。鮫の餌にでもなるだろう」
「かしこまりました」
とくとく、と皓秀は金色の杯の中に白い酒を注いだ。
その杯をぐいっと仰いで、趙蔡はクツクツと肩を震わせる。
「うまいな、皓秀も飲め」
「いいえ、私は結構です」
皓秀は、杯に二杯目の酒を注いだ。
「遠慮するな」
趙蔡が二杯目の酒を喉に流し込む。
皓秀はその様子を見やってから、酒瓶を卓子の上におくと、倒れている翆に近づいた。
趙蔡が怪訝そうな表情になる。
「どうした、皓秀。酒の相手を――」
「いいえ」
皓秀は翆のそばに膝をついて、微笑を浮かべた。
「いいえ―――、私は、毒入りの酒を飲むほど、酔狂ではありませんので」
皓秀の発言の意味がすぐに理解できなかったのか、趙蔡は杯を持ったまま動きを止めた。
「何を言って……、―――っ」
趙蔡の言葉が途中で途切れる。
胸元をかきむしるような動作をしながら、趙蔡が長椅子から転げ落ちた。
「皓秀、お前……っ」
「ご安心ください。毒と言ってもただのしびれ薬です。もっとも、半日ほどは動けないと思いますが」
皓秀は、ふぅ、と息をつくと、翆の肩を揺さぶった。
「翆様、いい加減起きてください! そんなに強い睡眠薬は使ってませんよ」
肩を揺さぶられて、翆は、ころんとその場に寝返りを打った。
趙蔡の細い目が、限界まで見開かれる。
「お、まえ―――」
翆は気だるそうに起き上がって、服の裾を軽く払う。
「はあ……。睡眠薬を盛れとは言ったが、あんなに苦いものだとは聞いていなかったぞ。なにが甘いだ、嘘をついたな、皓秀」
「苦いと言ったら、飲まないでしょう」
対して、皓秀もしれっと答える。
「どういうことだ、どういう―――」
趙蔡は卓子に手をついて、必死に起き上がろうとしたが、体に力が入らないため失敗し、そのまま床に転がった。
「どうもなにも、皓秀は私に命じられてお前と通じていたんだ。『私は翆様に信頼されております。私なら、翆様に疑われることなく毒を盛ることができますよ』どうだ、騙されただろう」
皓秀の声色をまねて翆は愉快そうに笑う。
「まったく阿呆だな、お前は。皓秀がお前のものになるわけないだろう。この男は、はじめから私のものだ」
「あとはあなたにいただいた花甘露を煎れたふりをして、睡眠薬の入った茶を飲んでいただき、眠っていただいただけです。翆様の計画ですが、演技というのはなかなか骨が折れますね。もう二度としたくありません」
「なにを。名演技だったぞ。一瞬、本当に殺されるのかと思った」
「恐れ入ります」
「馬鹿な! だったら、この……、この、香りは……」
「花甘露を部屋の床にこぼしておきました。どの時宜なら疑われないか、その頃合いを見計らうのには、少々神経を使いましたが」
翆は長椅子に腰を下ろすと、しなやかに指を組んだ。
「さて、これで終いだな、趙蔡殿。紅国と取引して阿片と花甘露を手に入れたようだが、その入手経路はすでに特定済みだ。紅国の方では、お前の取引相手にはすでに縄がかけられている」
「馬鹿め、証拠など―――」
「確かに、取引相手は殺された李家の次男の名前になっていた。だがな、どうしてだろうな。お前の邸で大量に見つかったよ。李家の次男と、紅国の取引相手の印が押された阿片や毒が。証拠として一部はすでに押収してある。ああ、ちなみに証人もいる」
「証人だと……?」
「ああ、羽蓮芳義母上だ。少しお願いしたらちゃんと調べてくれた。優しい義母をもって私は幸せ者だな」
「蓮芳が―――っ」
大声を張り上げようとして失敗し、趙蔡はげほげほと激しく咳き込んだ。
「国主暗殺未遂、阿片と花甘露の密輸、その他殺傷事件、あげればきりがないが、どうする、指を折りながらゆっくりと説明してやろうか?」
憐憫を浮かべて、翆は趙蔡を見下ろす。
それを見ていた皓秀は、楽しそうだ、と思った。
趙蔡はぎりっと奥歯をかみしめて、それから思い出したように笑い出した。
「馬鹿はどちらだ! これで終わりだと思っていたのか! もしもの時のために、別の手などすでに……」
「もしものとき、ね。もしかして葉姫のことを言っているのか? それなら……」
足音に気づいて翆が顔を上げると、葉姫と、抜き身の剣を手に持った慧凛がバタバタとやってきた。
髪は乱れているが、目立った外傷はなく、葉姫は翆ににっこりと微笑む。
ひと騒動あったせいで、翆に対して怒っていたことなど、すっかり忘れてるようだった。
翆は葉姫の顔を見て立ち上がり、倒れこんでいる趙蔡のすぐそばまで寄った。
「ああ、もう一つ言い忘れていた。お前は今回、どうやったって、死罪は免れない罪を犯したんだ。救いようがない罪をな」
翆はさっきまで笑っていた瞳を、恐ろしく冷ややかに染めると、ガンッと趙蔡の肩を踏みつけた。
「っ―――」
苦渋に顔を染める趙蔡に向かって翆は身をかがる。
「私が手を下さなくとも、紅国はお前を許さない。ここにいる、葉姫に手を出したんだ。葉姫―――、葉里が何者なのなのか、知らなかったではすまされないぞ」
翆が低く告げると、「ああ」と葉姫が顔を覆った。
その様子に、部屋にいた皓秀、慧凛までもが怪訝そうな表情を浮かべる。
翆は趙蔡の肩を踏む足に力を入れて、告げた。
「葉姫は、紅国の国主―――皇帝の弟だ」
「なんですって!」
真っ先に声を上げたのは慧凛だった。
皓秀も愕然と葉姫を見やる。
葉姫は居心地が悪そうに視線を彷徨わせて、言い訳のようにもごもご言った。
「いや、弟と言っても、俺、一番下の公子だったしさぁ……。そりゃあ、兄様とは母親も同じだけど、べつに、俺自身が偉いわけじゃないしさ……」
最後に、「なんでばらすのさ」と葉姫は翆を睨む。
翆は葉姫に向けて苦笑したあと、趙蔡に最終宣告のように告げた。
「紅国の皇帝は決してお前を許さない。そして私は、この国の国主として、お前の身柄を皇帝に差し出すことを厭わない。―――覚悟、することだな」
――趙蔡は、もはや何も言えなかった。
倒れた翆のそばにじっとたたずんでいた皓秀は、こちらにやってくる足音を聞きつけて、肩越しに振り返った。
許可もなく部屋に入ってきた細い目の男は、皓秀と、その足元に横たわる翆の姿を見て、喜色満面で笑い出した。
「は、ははははは! よくやった! よくやったぞ、皓秀!」
どかどかと部屋を横切り、長椅子に腰を下ろして、男は膝を叩いて笑い続ける。
「さすがだ、皓秀!」
「恐れ入ります、趙蔡様」
皓秀は静かに頭を下げる。
趙蔡は上機嫌で言った。
「ほら、そんなところに立っておらんで座れ。酒はあるか? ともに祝杯といこうじゃないか」
「恐れながら趙蔡様、まだすべてが終わったわけではありません」
「なに、終わったも同然だ。この男さえ始末すれば、あとは私が国主になるだけだ。逆らうものなど皆始末してしまえばいい。都合のいいことに、今夜は夜会がある。そこですべては終わりだ。期待しているぞ、皓秀」
「御意に」
皓秀は準備してあった酒を棚から出してきて、趙蔡に杯を手渡す。
「翆様はいかがなさいます?」
「ん? 明日の朝、海にでも投げ捨てておけ。鮫の餌にでもなるだろう」
「かしこまりました」
とくとく、と皓秀は金色の杯の中に白い酒を注いだ。
その杯をぐいっと仰いで、趙蔡はクツクツと肩を震わせる。
「うまいな、皓秀も飲め」
「いいえ、私は結構です」
皓秀は、杯に二杯目の酒を注いだ。
「遠慮するな」
趙蔡が二杯目の酒を喉に流し込む。
皓秀はその様子を見やってから、酒瓶を卓子の上におくと、倒れている翆に近づいた。
趙蔡が怪訝そうな表情になる。
「どうした、皓秀。酒の相手を――」
「いいえ」
皓秀は翆のそばに膝をついて、微笑を浮かべた。
「いいえ―――、私は、毒入りの酒を飲むほど、酔狂ではありませんので」
皓秀の発言の意味がすぐに理解できなかったのか、趙蔡は杯を持ったまま動きを止めた。
「何を言って……、―――っ」
趙蔡の言葉が途中で途切れる。
胸元をかきむしるような動作をしながら、趙蔡が長椅子から転げ落ちた。
「皓秀、お前……っ」
「ご安心ください。毒と言ってもただのしびれ薬です。もっとも、半日ほどは動けないと思いますが」
皓秀は、ふぅ、と息をつくと、翆の肩を揺さぶった。
「翆様、いい加減起きてください! そんなに強い睡眠薬は使ってませんよ」
肩を揺さぶられて、翆は、ころんとその場に寝返りを打った。
趙蔡の細い目が、限界まで見開かれる。
「お、まえ―――」
翆は気だるそうに起き上がって、服の裾を軽く払う。
「はあ……。睡眠薬を盛れとは言ったが、あんなに苦いものだとは聞いていなかったぞ。なにが甘いだ、嘘をついたな、皓秀」
「苦いと言ったら、飲まないでしょう」
対して、皓秀もしれっと答える。
「どういうことだ、どういう―――」
趙蔡は卓子に手をついて、必死に起き上がろうとしたが、体に力が入らないため失敗し、そのまま床に転がった。
「どうもなにも、皓秀は私に命じられてお前と通じていたんだ。『私は翆様に信頼されております。私なら、翆様に疑われることなく毒を盛ることができますよ』どうだ、騙されただろう」
皓秀の声色をまねて翆は愉快そうに笑う。
「まったく阿呆だな、お前は。皓秀がお前のものになるわけないだろう。この男は、はじめから私のものだ」
「あとはあなたにいただいた花甘露を煎れたふりをして、睡眠薬の入った茶を飲んでいただき、眠っていただいただけです。翆様の計画ですが、演技というのはなかなか骨が折れますね。もう二度としたくありません」
「なにを。名演技だったぞ。一瞬、本当に殺されるのかと思った」
「恐れ入ります」
「馬鹿な! だったら、この……、この、香りは……」
「花甘露を部屋の床にこぼしておきました。どの時宜なら疑われないか、その頃合いを見計らうのには、少々神経を使いましたが」
翆は長椅子に腰を下ろすと、しなやかに指を組んだ。
「さて、これで終いだな、趙蔡殿。紅国と取引して阿片と花甘露を手に入れたようだが、その入手経路はすでに特定済みだ。紅国の方では、お前の取引相手にはすでに縄がかけられている」
「馬鹿め、証拠など―――」
「確かに、取引相手は殺された李家の次男の名前になっていた。だがな、どうしてだろうな。お前の邸で大量に見つかったよ。李家の次男と、紅国の取引相手の印が押された阿片や毒が。証拠として一部はすでに押収してある。ああ、ちなみに証人もいる」
「証人だと……?」
「ああ、羽蓮芳義母上だ。少しお願いしたらちゃんと調べてくれた。優しい義母をもって私は幸せ者だな」
「蓮芳が―――っ」
大声を張り上げようとして失敗し、趙蔡はげほげほと激しく咳き込んだ。
「国主暗殺未遂、阿片と花甘露の密輸、その他殺傷事件、あげればきりがないが、どうする、指を折りながらゆっくりと説明してやろうか?」
憐憫を浮かべて、翆は趙蔡を見下ろす。
それを見ていた皓秀は、楽しそうだ、と思った。
趙蔡はぎりっと奥歯をかみしめて、それから思い出したように笑い出した。
「馬鹿はどちらだ! これで終わりだと思っていたのか! もしもの時のために、別の手などすでに……」
「もしものとき、ね。もしかして葉姫のことを言っているのか? それなら……」
足音に気づいて翆が顔を上げると、葉姫と、抜き身の剣を手に持った慧凛がバタバタとやってきた。
髪は乱れているが、目立った外傷はなく、葉姫は翆ににっこりと微笑む。
ひと騒動あったせいで、翆に対して怒っていたことなど、すっかり忘れてるようだった。
翆は葉姫の顔を見て立ち上がり、倒れこんでいる趙蔡のすぐそばまで寄った。
「ああ、もう一つ言い忘れていた。お前は今回、どうやったって、死罪は免れない罪を犯したんだ。救いようがない罪をな」
翆はさっきまで笑っていた瞳を、恐ろしく冷ややかに染めると、ガンッと趙蔡の肩を踏みつけた。
「っ―――」
苦渋に顔を染める趙蔡に向かって翆は身をかがる。
「私が手を下さなくとも、紅国はお前を許さない。ここにいる、葉姫に手を出したんだ。葉姫―――、葉里が何者なのなのか、知らなかったではすまされないぞ」
翆が低く告げると、「ああ」と葉姫が顔を覆った。
その様子に、部屋にいた皓秀、慧凛までもが怪訝そうな表情を浮かべる。
翆は趙蔡の肩を踏む足に力を入れて、告げた。
「葉姫は、紅国の国主―――皇帝の弟だ」
「なんですって!」
真っ先に声を上げたのは慧凛だった。
皓秀も愕然と葉姫を見やる。
葉姫は居心地が悪そうに視線を彷徨わせて、言い訳のようにもごもご言った。
「いや、弟と言っても、俺、一番下の公子だったしさぁ……。そりゃあ、兄様とは母親も同じだけど、べつに、俺自身が偉いわけじゃないしさ……」
最後に、「なんでばらすのさ」と葉姫は翆を睨む。
翆は葉姫に向けて苦笑したあと、趙蔡に最終宣告のように告げた。
「紅国の皇帝は決してお前を許さない。そして私は、この国の国主として、お前の身柄を皇帝に差し出すことを厭わない。―――覚悟、することだな」
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