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 ――それは、葉姫ようきとはじめて出会った時のことだった。

 春安しゅんあんの、そう家の邸。

 部屋の中にいても息が詰まりそうな気がして、翆は自室から抜け出してこっそり庭先へと降りた。

 そこで、人形のようにかわいらしい女の子を発見したのだ。

 波打つ栗色の髪に、大きく、濡れたように艶々している瞳。

 桜色の唇と、ふっくらとした白い頬。

 自分よりも三つくらい年下だろうと思われる、見たこともない女の子だった。

「ここでなにをしている?」

 まだ、十にも満たなかった翆は、人に頭を下げたことがないような尊大さで彼女に近づいた。

 女の子はふんわり微笑むと、

「にぃ様を待っていたんだけど、桜の花が、とてもきれいだったから」

「桜? ああ、母上が一昨年に植えた桜桃か」

「おうとう? じゃあ、実がなる?」

「初夏あたりには、なっているんじゃないか?」

 彼女はぱぁっと顔を輝かせた。

「ほんとう? ねえ、また来てもいい?」

 翆は彼女の無邪気な問いに、大きく目を見開いた。

「また、来るのか……?」

「うん。だめ?」

 翆は視線を彷徨わせて、ぎこちなく首を振った。

「だめ、ではないと思う。母上も異父兄上あにうえも、だめとは言わないと思う」

「じゃあ、また会いに来てもいいの?」

「……会いに?」

「うん! あなたに会いに来てもいい?」

 その言葉に、翆は目に見えて狼狽した。

「わたしに、会いに……?」

「うん!」

「こんな、わたしに……?」

「うん?」

 彼女は折れそうなほど細い首を傾げた。

「うん、来たい! おともだちになって! ぼく、おともだち、少ないから」

「こんな目をした、わたしと……、友達?」

「目? うん! きれいだよね、その色しってるよ! たしか、宝石の……」

「翡翠」

「そう! にいさまが、ここにきれいな目をした男の子がいるって言ってた! あなたのことだっだんだね」

 ふわふわとまるで春の日差しのように彼女は笑う。

「きれい? ―――ばかな」

 翆は舌打ちして、ふいっと顔をそらした。

「どこがきれいなものか、こんな『けがれた』色の瞳」

「けがれたってなぁに?」

「汚いって意味だ。わたしのこの目を見た大人は、みんな『けがれた』色だという」

「どうして? すごくきれなのに! ぜんぜん汚くなんてないよ!」

「うそだ」

「ほんとうだもん!」

「わたしは、こんな色の瞳、きらいだ」

「どうして?」

「わたしも、この色を『けがれた』色だと思うからだ。この瞳が、わたしが、『けがれた』子供だからだ。―――生まれてくるべきではなかった、いらない子供だからだ」

 彼女はむぅっと頬を膨らませた。

「よくわかんない! どうして? ぼくはこの色好きだもん! ぼくが好きじゃだめなの? それに、いらなくなんて、ないもん! もしみんながいらないって言うんだったら、ぼくがもらってあげる。だから、きれいな色なんだよ!」

 わかるような、わからないようなことを、地団太を踏みながら言う彼女に、翆は驚いた。

「……おまえが?」

「うん、ぼくが!」

「……、はは…。お前、ばかだな。子供が、どうやってわたしを養うんだ……」

 あの時、笑ったのか、泣いたのか――

 それはよく覚えていない。

 彼女はそれから、毎日のように翆に会いに来た。

 翆は最初、名前も知らなかった彼女のことを「姫」と呼んだ。

 姫と出会って半月ほどがすぎたころ、実は姫は男で、名を葉里ようりと言い、わけあってこの家に出入りしていたということを知ったが、翆にとって「姫」は「姫」のままだった。

 相手が男であろうと女であろうと、翆にとっては関係なかった。

 あの時、姫に出会っていなかったら、おそらく今の自分はないだろう。

 ただ翆は、性別なんて関係なく、ただ、姫のことを愛した。

 それは、恋愛感情とは少し違う。

 そんな、ちっぽけな言葉で言い表せるようなものではない。

 あのとき出会った、陽だまりのような微笑みを浮かべた女の子が、翆にとってはすべてだった――
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