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命日

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 国主邸の裏手からのびる舗装していない道を行けば、小高い丘の上に黒い建造物が見えてくる。

 多くの石灯篭に囲まれたその建物を、紫藤廟しとうびょうという。

 その名の由来は、その廟のうしろの藤棚に、見事な藤が咲くことから。

 現に今も、藤棚の藤は、いくつもの鮮やかな紫色の花をぶら下げている。

 丘からの眺めも良く、今日はあいにくと曇っているが、天気のいい日は真っ青な海の向こうに大陸の影も拝めるらしい。

 そんな恵まれた場所にあるこの廟に眠るのは、代々の国主たちである。

 短い草を踏みしめて紫藤廟の前に立ったすいは、おのれの身長よりも高いこの廟を、冷たい翡翠色の瞳で見据えた。

 先代の国主――父の命日である。

 皓秀こうしゅうだけを伴って、翆ははじめて父が眠る廟の前に立った。

「父の墓に参ることだけはないと思っていたんだがな……」

 冥福を祈るという雰囲気とはかけ離れた皮肉な表情を浮かべて翆は言う。

「ではなぜ、急に廟に上ると?」

「気が変わったんだ。廟に火でもつけてやろうと思ってな」

 皓秀はギョッとした。

「ご冗談ですよね?」

「ああ、冗談だ」

 あながち冗談でもなさそうな顔をして頷く翆に、皓秀はまだ不安そうだ。

 潮の香りを含んだ柔らかい風が翆の髪を揺らしていく。

(やはり私は、あなたが嫌いだ)

 翆は本当に火をつけてやりたいという気持ちで廟を睨む。

 ――父が憎い。

 それでも。

 もしも、一度でも言葉を交わす機会があったならば、もっと違う感情も持ったのだろうか?

 腕を伸ばして廟のつるりとした壁に手をおく。

 口を持たない廟は、ただただ日差しに照らされて生暖かくなった感触を、翆の手のひらに返すだけだ。

 父の日肖像画を前にしたときは、いくらでも悪態をつくことができたのに、不思議とこの廟を前にすると何の言葉も出てこない。

 感慨のような感情が沸き起こり、ともすれば今まで抱いていた怨嗟や憎悪を緩く溶かしていきそうな気さえして、翆は微かな苛立ちと虚無感を覚えた。

「皓秀……、なんだか虚しくなってきたぞ」

「虚しい、ですか?」

「ああ。私がどれほど父を憎もうと、黄泉路へ下ったこの男へは、怨嗟も罵倒も届かない。どれだけ憎もうと、何の感情も、言葉も帰ってこない―――」

「翆様……」

「会っておけばよかった。一度くらい。一目だけでも。その機会が、なかったわけじゃない―――」

 十を少しすぎたころ。

 母がまだ生きていたころ――。

 会いに行くかと、母が言ったことがある。

 そのときはじめて、望めば父に会えるのだと知り、同時に意地になって会ってやるものかと拒絶した。

 なぜ自分から会いに行かなければいけないのか、と。

 父の方からくるのが筋だろう、と。

 珍しく素直な感情を口にする翆に、皓秀は何も言えなかった。

 翆は廟の壁から手を放し、空を仰ぐ。

「私好みの曇天だ。雨が降ればいい。少し、濡れたい気分だ……」

「いけません、お風邪を召されます」

「硬いことを言うな。一日二日、風邪で寝込んだところで、どうということもないだろう」

葉姫ようきが心配しますよ」

「それなら、看病でもしてもらうさ。私のことを心配する葉姫の顔は好きだ」

 雨が降るまで待つと言い出して、皓秀がいさめる言葉も聞かずに、翆は廟の近くにある丸い岩へ腰かけると、片膝を立てて空を見上げた。

 やむなく主に付き合って、皓秀もその場に黙ってたたずむ。

 ややして、そこへ、草を踏みしめるような小さな足音が聞こえて、皓秀の表情に緊張が走った。

 脅迫文や、不審者が侵入したあとである。

 まさか――、と警戒して首を巡らせると、金の刺繍が見事な黒い襟詰めの服を着た女が、緩い坂を上ってくるところであった。

 翆も、けだるげにそちらに視線を投げる。

 黒の面紗ベールで顔半分を隠している女は、翆の姿を見つけると、その場に立ち尽くした。

「―――あなた……!」

 愕然とした小さな叫び声に、皓秀がハッとする。

「奥様!」

 皓秀は慌てたように女に駆け寄ると、軽く会釈をしてから訊ねた。

「奥様、どうしてこちらへ……」

 だが、小柄な女は、皓秀の問いかけには答えず、茫然と翆を見つめるばかりだ。

 翆が億劫そうに岩から立ち上がり、女の方へ歩き出すと、彼女は堪えられない感情を持て余したように走り出して、突進するように翆に抱きついた。

「まぁ、あなた……、あなた……! わたくし、夢を見ているのかしら……」

 抱きつかれた翆は、怪訝そうな視線を皓秀に投げる。

「皓秀、この女は?」

 皓秀は困惑した表情を浮かべて、翆にしがみついている女の肩にそっと手を添えた。

「奥様、落ち着かれてください。この方は旦那様ではございません」

 なだめすかして翆から腕を外させると、女は皓秀の存在に今気が付いたとばかりに、おっとりと頬に手を添えて小首をかしげた。

「まあ、皓秀、あなたもいたの?」

「ええ、奥様。どうしてこちらへ?」

「お墓参りに来たのよ。だって、今日はあの人の命日ですもの。でも、やっぱり、わたくし夢を見ているのかしら? だってほら、ここにあの人がいるの」

 そう言って再び翆に手を伸ばそうとする女の手首を、皓秀がやんわりつかんで引き留める。

「いいえ、奥様。この方は旦那様ではございません。こう国にいらっしゃった、旦那様のもう一人のご子息でございます」

「皓秀、彼女は父の奥方か」

 ようやく合点がいったと嗤う翆に、皓秀が首肯する。

「先代の奥方の、羽蓮芳うれんほう様です」

「そうか。はじめまして、義母上。お目にかかれて光栄です」

 翆がおよそ友好的ではなさそうな冷たい表情で義母と呼べば、蓮芳はぱちぱちと目を瞬かせてから、ほぅっと気を吐きだした。

「まぁ……、あの人ではなかったのね。そうよね、あの人がこんなに若いわけないわ。わたくしも、こんなにおばさんになってしまったし……。夢でもいいから、もう一度会いたかったけれど。―――でもあなた、心臓が止まりそうなほどあの人に似ているわ」

 翆の頬に手を伸ばして、蓮芳は「お名前は?」と訊ねる。

「翆―――、いえ、縷蘭るらと言います」

「縷蘭……。まあ、綺麗なお名前。ねぇ、縷蘭さん。ちょっとかがんでくださらない。……ああ、あの人と同じ翡翠色の瞳。もう一度、この色に出会えるとは思わなかったわ」

 蓮芳は翆の頬に手を添えたまま、突然ぽろぽろと泣きはじめた。

「奥様、どうなさいました?」

 皓秀が子供をあやすように蓮芳の背中を撫でる。

 子供のように泣きながら、蓮芳は翆にすがりついた。

「ごめんなさい、止まらないの……。もう疲れちゃったのよ。どうやって生きていけばいいのかわからない。どしたらいいのかもわからないの。―――ねえ、縷蘭さん。あの人のふりをして、もういいよって言ってくださらない? もう休んでいいと言ってちょうだい……」

「奥さ―――」

 翆はすっと手を挙げて皓秀の言葉を遮ると、ひたすら泣きじゃくる蓮芳の肩を撫でた。

「何があったんですか?」

 皓秀は驚いた。

 皓秀が今まで聞いた翆のどの声よりも優しい声だったからだ。

 翆は手巾を取り出すと、蓮芳の手に握らせて、先ほどまで自分が腰かけていた岩へ彼女を座らせる。

 蓮芳は手巾で涙をぬぐいながら、すがるように翆を見上げた。

「聞いてくださる? わたくしを助けてくださる? わたくし、もう疲れちゃったの……」

 夫に似ている翆に触れていると落ち着くのか、蓮芳は翆の手を握りしめる。

 翆は蓮芳がしたいようにさせておいた。

「わたくしね、今、兄の邸に住んでいるんだけど、その兄が何か、危ないことをしているようなの」

 兄、と聞いて皓秀が険しい表情を作ったが、翆は辛辣な普段の様子からは信じられないほど穏やかな顔を作って、微塵もそれを崩さなかった。

「わたくしの息子も、とってもお馬鹿さんだったけど、兄も負けず劣らずお馬鹿さんなのよ。くだらないことばかりするの。どうしてなのかしら? この前の夜も、誰か相手にすごく怒鳴っていて……、ああ、思い出したくもないわ。きっと兄は、その人を殺してしまったのね」

 おっとりとした口調なのに、恐ろしいことを平然と言って、蓮芳は翆の腕にすり寄った。

「ねえ、あなた。あなたはわたくしを助けてくださるんでしょう? きっとあなたは、あの人がわたくしを助けるためによこしてくださったんだわ。ずっとずっと、待っていたのよ……」

 わたくし、あなたのような息子を産めばよかったわ、と蓮芳はうっとりとささやく。

 それを聞いた皓秀が静かに瞑目するのを見て、翆はなるほどと思った。

「義母上、あなたは自分の息子が道を踏み外そうとしていたとき、どうされました? たしなめなどしましたか?」

「いいえ? どうして? だってわたくしには、殿方がなさることなんてわからないわ。そんなことよりも、ねぇ……、息子のことなんかより兄よ。何とかしてくださるんでしょう? わたくし、もう兄には、あの邸には堪えられないの」

「何とか、ですか……。ですが、もう、警告程度で済まされる段階ではないかもしれませんよ? あなたの兄上は、死罪にすらなりうる。どうします? それでも、私に助けてくれといいますか?」

 蓮芳は少しだけ考えるようなそぶりを見せたが、あっさりと頷いた。

「仕方がないわ。だって、兄が悪いんですもの」

 翆はすっと表情を消すと、黙って立ち尽くしている皓秀を見やった。

 皓秀はだた、沈痛な双眸で翆の視線を受け止めただけだった。

「……わかりました、義母上。しかし、あなたにも協力いただかなくてはいけませんよ? 手伝っていただけますか?」

 人のいい笑顔に戻った翆は、優しく蓮芳の両手を握りしめた。

 蓮芳はぱぁっと花が咲いたように微笑んだ。

「ええ! わたくしができることなら、なんだってするわ。何をすればいいのかしら?」

 翆は満足そうに頷くと、蓮芳の耳に口を寄せる。

「では―――……」
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