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春の午後
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慧凛は憤懣やるかたないという顔で国主邸の回廊をずんずんと歩いていた。
新国主との取引で、国主邸を警護するものを選出することになり、阿片や毒について事情を知っているという理由で、慧凛と飛燕、孫が選ばれた。
叡壮はもう少し人員を割くつもりでいたようだが、翆に、多すぎるのは邪魔だと言われ、今のところこの三人で警護に当たることになった。
正直言って、国主の警護の人数にしては、少なすぎる。
国主邸は謁見時や執務などに利用する邸と、それと廊下でつながっている国主の私邸があるが、慧凛たちはその私邸の方にそれぞれ部屋を与えられた。
警護する立場ではあるが、翆には普段はただ邸で暮らしていればいいと言われているので、慧凛は邸や庭を散策するか、書庫で本を読むくらいしか用事がない。
しかも、邸をふらふらと歩き回っていれば、決まって翆に出くわす。
はじめの印象が悪すぎるだけに、慧凛は翆のことがいまだ苦手なので、翆と接触するのは必要最低限にとどめたい。
それなのに翆は慧凛と鉢合わせすると、決まって「暇そうだな小娘」と厭味を言うのだ。
ついさっきも、邸の中を見回りもかねて歩き回っていると、ゆったりとした服を着て、ふらふらと歩き回っている翆に出くわした。
翆は、たいていいつも、仕事も何もせずにふらふらしている。国主の執務室に届けられる仕事の山を片付けているのはもっぱら皓秀だった。
しかもそれを当たり前だと思っているようなので、あきれるしかない。
まあ、まだ国主に就任していない立場だと言えばそれまでだが――
(だからって、仮にも次期国主として呼ばれてるのに、こんなに堂々と遊んでていいものなの?)
さっき出くわした時に、言わずもがな厭味の一つをもらった慧凛は、苛々と床を踏み鳴らして歩く。
(あの時は、ちょっとは見直したのに……)
四日前、叡壮と翆が取引をした日。
李家の次男が口にした可能性のある毒について、珍しく真剣な顔で語った翆の様子を思い出す。
その毒について花甘露だろうと告げたときの翆に慧凛は感心したのだ。
花甘露という毒は、甘露草という花の根にある毒だそうだ。
その根を干して茶として煎じるが、その茶は琥珀色で、金木犀の花の香りを何倍も甘くしたような、酔いそうなほど甘ったるい香りがするという。
茶で飲めば、二口ほどで致死量に達し、まずは呼吸困難、そのあとしばらくして手足がしびれ、早ければ十数分ほどで死に至る。
死後半日程度で目の下に赤い隈のような痣が浮かび上がるのが特徴で、それが花びらのように見えることから「花甘露」と呼ばれているらしい。
そのように、毒の特徴を淡々と話す翆の様子は知的で、恐ろしく整っている美貌と相まって、何か神聖なものを見ているような気さえして、慧凛は深く尊敬の念を覚えたものだが――
(やっぱりあの男は失礼なだけの男だわ! そりゃあ、初対面で殴ったのは悪かったと思うけど、目の敵みたいに小娘小娘小娘と! 厭味ばっかりで腹が立つ!)
尊敬の念はわずか一瞬で消えた。
相手は新国主だからと、最初はそれでも我慢して、敬意をこめて敬語で話していたが、住み込んで一日がすぎるころには、それすらもやめてしまった。
慧凛は回廊から中庭に出ると、青い空を仰いで大きく伸びをした。
「んんー、いい天気!」
慧凛たちは、この邸では自由に過ごしていいと言われていた。
翆の邪魔にならなければ、邸で何をしてもいいと言われているので、こうして昼下がりに散歩がてら庭に降りることも許されている。
春の花が咲きほこる中庭を散策していた慧凛は、鬱金香が咲き誇っている一角に、栗色の波打つ髪をした、息をのむほどの「美女」がたたずんでいるのを発見した。
だが、美女が実は男で、翆の友人であるということを、一昨日の夜に知った慧凛は、特に驚くことはなかった。
ただ、あまりに絵になりすぎる光景に感嘆するだけだ。
一昨日の夜――
慧凛は就寝前に見回りをしようと、庭を歩いていた。
そのとき、四阿で星を眺めていた彼、葉姫に出会ったのだ。
出会ったとき、なんて綺麗な女性だと思ったのだが、話しているうちに、女性ではなく、女性のように綺麗な男性だと知れたのである。
「こんにちは、慧凛。また見回り?」
葉姫は慧凛に気が付くとにっこりと微笑んだ。
その微笑みはまったく邪気がなくて、あの根性のひねくれまくった翆の友人とはとても思えない。
「見回りというか、散歩のようなものです」
十七歳の慧凛よりも二つ年上だという葉姫は、妹を見るような目で慧凛を見た。
「うん、この邸は広いし、面白いものがたくさんあるから、散歩も楽しいよね」
葉姫は腕一杯に鬱金香を抱えて立ち上がった。
髪の半分をふんわりと束ねている彼の頭に、翡翠と真珠で飾られた、細工の見事な簪がある。
慧凛は、そういえば、一昨日の夜もこれと同じものを身に着けていたなと思い出した。
「葉姫は、その簪がお気に入りなんですね」
葉姫はキョトンとした表情を浮かべたのち、微苦笑した。
「ああ、これ? お気に入りというか、身に着けていないと翆が不機嫌になるから」
「どうして新国主が不機嫌になるんです?」
「んー、まあ、いいじゃない」
翆からの贈り物なんだとは言わず、葉姫があいまいに笑う。
誤魔化された気がしたが、追及するようなことでもないので、慧凛は葉姫が抱えている鬱金香の束を指して話題を変えた。
「ところで、そんなにたくさんの花をどうするんです?」
「これ? 翆の部屋に飾るんだよ」
「新国主の部屋に?」
あの翆の部屋に、大量の花――
花に埋もれている翆の様子を想像して、似合っているのかいないのかよくわからなくなった慧凛は、複雑な表情を浮かべて考え込む。
だが、葉姫に思うところはないようだ。
「そ。翆ってば、最近よく部屋にこもってるんだよね。どうしたんだろうね、退屈きらいなのにさ。で、気分転換に花でも活けてあげようと思って」
瞑想を壊すようなことはしても、瞑想にふけるような性格じゃないのにね、と葉姫は冗談を言う。
「本当に、葉姫は新国主と仲がいいんですね」
「俺と翆? んん、そうかな。まあ、仲が悪いとは言わないけどね」
「少なくとも、新国主はびっくりするくらいあなたを大切にしているように見えましたが」
慧凛はしみじみと思った。
他人に対して驚くほど辛辣になることがある翆だが、葉姫に向けられる視線は、明らかに他人に向けるそれとは異なる。
葉姫は複雑そうな表情を浮かべて、ぽりぽりと頬をかいた。
「そうだね……、なんていうのかな、うん、あいつの世界はさ、狭いんだよなぁ」
「狭い?」
慧凛が首をかしげるが、葉姫はそれ以上語らず、かわりにこんなことを言った。
「ねえ、慧凛は今、暇なのかな? 俺の勘だと、あいつ、そろそろ退屈して話し相手がほしくなるころだと思うんだよね。翆のところに一緒に行かない?」
慧凛は翆の他人を小馬鹿にしたような表情を思い出して、思いっきり顔をしかめたが、葉姫の天使のように穢れのない微笑みを前に断ることはできず、しぶしぶ頷いたのであった。
新国主との取引で、国主邸を警護するものを選出することになり、阿片や毒について事情を知っているという理由で、慧凛と飛燕、孫が選ばれた。
叡壮はもう少し人員を割くつもりでいたようだが、翆に、多すぎるのは邪魔だと言われ、今のところこの三人で警護に当たることになった。
正直言って、国主の警護の人数にしては、少なすぎる。
国主邸は謁見時や執務などに利用する邸と、それと廊下でつながっている国主の私邸があるが、慧凛たちはその私邸の方にそれぞれ部屋を与えられた。
警護する立場ではあるが、翆には普段はただ邸で暮らしていればいいと言われているので、慧凛は邸や庭を散策するか、書庫で本を読むくらいしか用事がない。
しかも、邸をふらふらと歩き回っていれば、決まって翆に出くわす。
はじめの印象が悪すぎるだけに、慧凛は翆のことがいまだ苦手なので、翆と接触するのは必要最低限にとどめたい。
それなのに翆は慧凛と鉢合わせすると、決まって「暇そうだな小娘」と厭味を言うのだ。
ついさっきも、邸の中を見回りもかねて歩き回っていると、ゆったりとした服を着て、ふらふらと歩き回っている翆に出くわした。
翆は、たいていいつも、仕事も何もせずにふらふらしている。国主の執務室に届けられる仕事の山を片付けているのはもっぱら皓秀だった。
しかもそれを当たり前だと思っているようなので、あきれるしかない。
まあ、まだ国主に就任していない立場だと言えばそれまでだが――
(だからって、仮にも次期国主として呼ばれてるのに、こんなに堂々と遊んでていいものなの?)
さっき出くわした時に、言わずもがな厭味の一つをもらった慧凛は、苛々と床を踏み鳴らして歩く。
(あの時は、ちょっとは見直したのに……)
四日前、叡壮と翆が取引をした日。
李家の次男が口にした可能性のある毒について、珍しく真剣な顔で語った翆の様子を思い出す。
その毒について花甘露だろうと告げたときの翆に慧凛は感心したのだ。
花甘露という毒は、甘露草という花の根にある毒だそうだ。
その根を干して茶として煎じるが、その茶は琥珀色で、金木犀の花の香りを何倍も甘くしたような、酔いそうなほど甘ったるい香りがするという。
茶で飲めば、二口ほどで致死量に達し、まずは呼吸困難、そのあとしばらくして手足がしびれ、早ければ十数分ほどで死に至る。
死後半日程度で目の下に赤い隈のような痣が浮かび上がるのが特徴で、それが花びらのように見えることから「花甘露」と呼ばれているらしい。
そのように、毒の特徴を淡々と話す翆の様子は知的で、恐ろしく整っている美貌と相まって、何か神聖なものを見ているような気さえして、慧凛は深く尊敬の念を覚えたものだが――
(やっぱりあの男は失礼なだけの男だわ! そりゃあ、初対面で殴ったのは悪かったと思うけど、目の敵みたいに小娘小娘小娘と! 厭味ばっかりで腹が立つ!)
尊敬の念はわずか一瞬で消えた。
相手は新国主だからと、最初はそれでも我慢して、敬意をこめて敬語で話していたが、住み込んで一日がすぎるころには、それすらもやめてしまった。
慧凛は回廊から中庭に出ると、青い空を仰いで大きく伸びをした。
「んんー、いい天気!」
慧凛たちは、この邸では自由に過ごしていいと言われていた。
翆の邪魔にならなければ、邸で何をしてもいいと言われているので、こうして昼下がりに散歩がてら庭に降りることも許されている。
春の花が咲きほこる中庭を散策していた慧凛は、鬱金香が咲き誇っている一角に、栗色の波打つ髪をした、息をのむほどの「美女」がたたずんでいるのを発見した。
だが、美女が実は男で、翆の友人であるということを、一昨日の夜に知った慧凛は、特に驚くことはなかった。
ただ、あまりに絵になりすぎる光景に感嘆するだけだ。
一昨日の夜――
慧凛は就寝前に見回りをしようと、庭を歩いていた。
そのとき、四阿で星を眺めていた彼、葉姫に出会ったのだ。
出会ったとき、なんて綺麗な女性だと思ったのだが、話しているうちに、女性ではなく、女性のように綺麗な男性だと知れたのである。
「こんにちは、慧凛。また見回り?」
葉姫は慧凛に気が付くとにっこりと微笑んだ。
その微笑みはまったく邪気がなくて、あの根性のひねくれまくった翆の友人とはとても思えない。
「見回りというか、散歩のようなものです」
十七歳の慧凛よりも二つ年上だという葉姫は、妹を見るような目で慧凛を見た。
「うん、この邸は広いし、面白いものがたくさんあるから、散歩も楽しいよね」
葉姫は腕一杯に鬱金香を抱えて立ち上がった。
髪の半分をふんわりと束ねている彼の頭に、翡翠と真珠で飾られた、細工の見事な簪がある。
慧凛は、そういえば、一昨日の夜もこれと同じものを身に着けていたなと思い出した。
「葉姫は、その簪がお気に入りなんですね」
葉姫はキョトンとした表情を浮かべたのち、微苦笑した。
「ああ、これ? お気に入りというか、身に着けていないと翆が不機嫌になるから」
「どうして新国主が不機嫌になるんです?」
「んー、まあ、いいじゃない」
翆からの贈り物なんだとは言わず、葉姫があいまいに笑う。
誤魔化された気がしたが、追及するようなことでもないので、慧凛は葉姫が抱えている鬱金香の束を指して話題を変えた。
「ところで、そんなにたくさんの花をどうするんです?」
「これ? 翆の部屋に飾るんだよ」
「新国主の部屋に?」
あの翆の部屋に、大量の花――
花に埋もれている翆の様子を想像して、似合っているのかいないのかよくわからなくなった慧凛は、複雑な表情を浮かべて考え込む。
だが、葉姫に思うところはないようだ。
「そ。翆ってば、最近よく部屋にこもってるんだよね。どうしたんだろうね、退屈きらいなのにさ。で、気分転換に花でも活けてあげようと思って」
瞑想を壊すようなことはしても、瞑想にふけるような性格じゃないのにね、と葉姫は冗談を言う。
「本当に、葉姫は新国主と仲がいいんですね」
「俺と翆? んん、そうかな。まあ、仲が悪いとは言わないけどね」
「少なくとも、新国主はびっくりするくらいあなたを大切にしているように見えましたが」
慧凛はしみじみと思った。
他人に対して驚くほど辛辣になることがある翆だが、葉姫に向けられる視線は、明らかに他人に向けるそれとは異なる。
葉姫は複雑そうな表情を浮かべて、ぽりぽりと頬をかいた。
「そうだね……、なんていうのかな、うん、あいつの世界はさ、狭いんだよなぁ」
「狭い?」
慧凛が首をかしげるが、葉姫はそれ以上語らず、かわりにこんなことを言った。
「ねえ、慧凛は今、暇なのかな? 俺の勘だと、あいつ、そろそろ退屈して話し相手がほしくなるころだと思うんだよね。翆のところに一緒に行かない?」
慧凛は翆の他人を小馬鹿にしたような表情を思い出して、思いっきり顔をしかめたが、葉姫の天使のように穢れのない微笑みを前に断ることはできず、しぶしぶ頷いたのであった。
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