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 一通りの挨拶と食事が終わると、宴に招待された人々は、ばらばらと帰途につきはじめた。

 慧凛は主催側として帰宅する人々を見送っていたが、半数以上が帰ったころ、皓秀が玄関先にやってきた。

「慧凛、翆様を見かけませんでしたか?」

新国主しんこくしゅですか……、いいえ、ここにはいらしていないと思います」

「そうですか……」

「どうかなさったんですか?」

 慧凛は小さく首をひねる。

 皓秀はかぶりを振ると、「見かけたら教えてください」とだけ告げて、広間の方に戻っていく。

 慧凛は不思議に思ったが、まだ招待客が残っていたため、見送りを放り出すわけにもいかない。

 気になりつつ、ほとんどの招待客が帰るまで見送ったところで、残りの数名は広間で酒を飲んでいるのを確認すると、広間の隅でただ棒のように立っている皓秀を見つけて話しかけた。

「新国主は見つかりました?」

「いいえ……、帰られてはいないとは思うんですが」

 少し目を離したすきに、ふらりといなくなったのだと皓秀は額をおさえた。

「わかりました。皓秀殿はここにいてください。わたし、探してみます」

 そう言って、慧凛は広間を出ながら考えた。

 凌家の邸はそれなりに広いが、迷子になるほど広いわけではない。

 二階に上がるには玄関先の階段を上る必要がある。

 慧凛はさきほどまで玄関にいたが、翆の姿は見なかった。

 あれだけ目立つ男に気づかないはずはないので、二階の線は消える。

 とすれば一階のどこかだが、さきほどまで、一階は招待客であふれかえっていた。

 翆がうろうろしていたら誰かが気づくだろう。

(もしかして……)

 慧凛はふと思いついて、広間に戻り、庭先へと続く扉から外に出た。

 凌家の庭は広く、当主の趣味で様々な木や花が植えられている。

 その間を抜けながら、奥へと進んでいくと、小さな庭池の前に、つややかな黒髪を背に流した背の高い男がいた。

(やっぱり!)

 慧凛は翆に背後から近づきながら声をかけた。

「こんなところで何をされているんですか?」

 池の水面を静かに見下ろしていた翆は、緩慢な動きで振り返った。

 翆の片手には、葡萄酒の入った盃がある。

「区長の娘か」

「慧凛です。それで、ここで何を……?」

「月を見ていただけだ」

「月?」

 慧凛は空を仰いだ。

 朧がかった月が、弱々しく空に浮かんでいた。

 だが、翆は先ほど下を見ていたはずだ。

 そう思い、先ほどの翆の視線を追うように近づいていくと、庭池の水面にうっすらと月が映りこんでいるのが見えた。

 なるほど、どうやらこれを見ていたようだ。

 しかし、なぜ月を見ていたんだろうと首をかしげるが、翆に説明する気はないようである。

 かわりに、皓秀が探していたことを伝えるが、翆はそうかとうなずいただけで、葡萄酒の盃をあおると、再び水面に視線を落とした。

 慧凛はじっと翆の横顔を見つめた。

 翆の肌は、まるで陶器のようだった。白く、つるんとしていて、こうして黙っていたらまるで作り物のようにも見える。

 何を考えているのか、まったくわからない表情も、余計に彼を作り物めいて見えさせていた。

 今日実際に会うまで、彼のいろんな噂を聞いた。

 傍若無人で無礼、放蕩者、怠惰―――、その噂は、何を聞いてもまともなものがなかったが、聞かされた噂で出来上がっていた翆の像と目の前の男が一致しない。

 何か一つ、慧凛が感じた翆を形容しろと言われれば―――「形容しがたい」と言うだろう。

 わからない、つかめない、理解できない。

 表現できない。

 慧凛が感じた翆の印象は、まるで、この池の水面に移った月影のようだった。

 ほんの少し水面に波を立てるだけで消えてしまう。

 そんな不確かな印象。

 ―――だからだろうか。

 慧凛は聞いてみたくなった。

「―――あなたは、どうしてこの国に来たんですか?」

 翆が横目で慧凛を一瞥した。

 その冷ややかな視線にひるむことなく、彼女は続けた。

「何を思ってこの国に来たんですか? 国主になって、この国をどうするつもりで来たんですか? どういう国主になりに来たんですか?」

 翆はようやく慧凛の顔をまともに見た。

「何が言いたい」

 翆の表情には変化は見られなかったが、その声が一段低くなった気がした。

「言葉のままです。あなたは国主としてわたしたちを好きにできるでしょう。でも、わたしたちは、あなたが何をしようと、従うしかないんです」

 心の底で、慧凛は、不敬罪になるかもしれないと思った。それでも言いたかったから言った。どうしても訊きたかったから訊いた。

 しかし、翆は数秒黙り込んで、そのあと嗤笑ししょうして吐き捨てた。

「馬鹿馬鹿しい」

 慧凛は細く息を吸い込んで、何かを堪えるように拳を握りしめた。

「馬鹿馬鹿しい……?」

 おうむ返しに返した声が、震えた。

 翆はつまらないことを聞いたとばかりに慧凛から視線をそらすと、からになっていた盃を、ぽいっと放り投げた。

 それは小さな放物線を描いて水面に吸い込まれるように落ちていくと、ばしゃんと水しぶきを立てて池に沈んでいった。

「馬鹿馬鹿しいって、言うんですか? あなたは、わたしたちがどういう気持ちなのかまるでわかってない。わたしたちが、どういう気持ちであなたをこの国に迎えたか、まるでわかってない!」

 思わず声を荒げる慧凛に、翆は氷のように冷たい一瞥を投げる。

「なぜ私がお前たちの感情を汲んでやる必要がある」

「あなたにはその義務がある!」

 義務と口にした瞬間、翆を取り巻く気温がぐっと下がった気がした。

「お前の方こそ、まるでわかっていないようだ」

 翆がゆっくりと腕を伸ばし、慧凛の喉元に指をかけるふりをした。

 もちろんその指は実際に慧凛の喉の触れてもいないのだが、それでも慧凛は呼吸が苦しくなるような錯覚を覚えた。

「教えてやる。私はこの国に興味がない。この国がどうなろうと、たとえ滅びて塵のように消え失せようと、私の心は痛まない。これっぽっちもな」

「ふざけないで!」

 パンッ

 慧凛は衝動的に翆の頬を叩いていた。

 手が震えていたのでそれほど力は入っていなかっただろうが、叩かれたことに驚いたのが、翆がわずかに目を見張ったと、ぐっと眉を寄せた。

 慧凛は翆をたたいた手のひらを抑えながら、沸き起こってきた怒りに声を震わせた。

「ふざけないでよ! あんた、何様なの? この国、どうするつもりよ! 滅ぼしに来たなんて言ったらぶっ殺すわよ! わたしたちを何だと思ってるのっ」

 怒り任せにまくしたてるが、翆はその様子を冷淡にに見下ろし、

「お前の方こそ、ふざけるのも大概にしろ。突然やってきて私の平穏をぶち壊し、勝手に新国主などに祭り上げようとしているのはお前たちだ。なぜ私が昨日きたばかりのこの国のために心を砕く必要がある。勝手に都合を押し付けるな。お前の方こそ何様のつもりだ、小娘が」

 吐き捨てると、翆は瞠目して立ち尽くした慧凛をおいて踵を返した。

 そのまま、一度も振り返ることなく歩いていく翆の背中を、慧凛は一歩も動くことも、何を言い返すこともできないまま、ただ見つめることしかできなかった。

 ―――翆をたたいた手のひらが、ひどく痛かった。
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