紅蓮の獣

仁蕾

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青藍の章

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 意識が浮上する。
「ん……っ?」
 呻いた望はゆっくりとその身を起こした。視線を巡らせたそこは、自室。ほの暗い夕闇の中、隣に居る知った気配にのろのろと首を動かした。
「目、覚めた?」
 聞きたくて、聞きたく無かった声が、安堵を含んで鼓膜を震わせる。
「アイリーン…」
 吐息で呟いた言葉は容易に大気に溶け込んだ。
「どっか痛いトコとかねーか?具合悪くねー?」
「あんた…謹慎中じゃねーの…?」
 回らない頭を無理に動かし、記憶を呼び起こすが、問うた言葉にアイリーンは拗ねたように唇を尖らせた。
「んなもん知るか。クソガキが、お前が大広間で倒れてるからって知らせに来たんだよ。あいつかなり顔色悪かったけど、何かあったのか?」
 何もない。
 そう答えようとした瞬間。
 ―ポロ…
 琥珀の双眸から溢れた涙。それは本人の意思を孕まず、次から次へと流れ落ちては頬を濡らす。目の前で泣かれたアイリーンは、反応する事も出来ずに石のように固まった。
 望は流れる涙をそのままに、シーツを強く握り締めて泣き顔を見せまいと俯いた。
「ちょ、ちょ…ノン様?どうしたの、急に」
 一分ほど経った頃、アイリーンはようやっと自分を取り戻し、ワタワタと焦り出す。俯く望の唇が何かの言葉を発した。よく聞こえなくてもう一度と聞き返せば、睨み付ける勢いで顔を上げた。が、その頬には未だ涙が流れている。
「だから!ごめんって言ってんの!」
 今度は違う意味で驚いた。目が点である。
「ってかさ、普通あんだけ拒否られたら諦めるでしょ!?」
「あ、それは思った」
 何でかね。と力無く笑う始末。
 その態度が癪に障った望は、拳骨を一発お見舞いした。
「おっふ…」
「やっぱお前キライ」
 その目は完全に据わっており、アイリーンは乾いた笑いを漏らした。
 そこで、望がふと気付く。
「ね、龍馬は?」
「あ?知らねーよ。部屋にいんじゃねーの?」
 痛む頭を押さえつつ言えば、望が考える素振りをする。
 意識を失う前の記憶。
『俺は、貴方の苦しみ…少しは癒してあげれるかな…?』
 優しき母のように柔らかな微笑を湛え、額に触れられた感触を思い出す。
『目が覚めたら、少しはアイリーンに寄り添ってあげてね?』
 闇に塗り潰される直前に聞こえたからかう声。
 その後、龍馬はアイリーンのところへ行き、自分の事を伝えた。
 ―…その後は…?
「っ、アイリーン!トラ隊長に連絡入れて!」
「は!?」
「早く!龍馬が…っ!」
 取り乱した物言いは、アイリーンを急かすには十分で。アイリーンは詳細を聞く事もせずに慌てて部屋を飛び出した。
「あの、馬鹿…っ!」
 望は急いでベッドを降り、僅かな眩暈に襲われながらも康平の部屋へと急いだ。 

   ***

 死の砂漠。
 足を踏み入れた者には、過酷な試練が課せられると言う砂漠。燃える太陽は煌々と照り付け、人を喰らう凶暴な異形の生物が生息する場所。
 その砂漠に存在する蜃気楼のオアシス。それは今、龍馬の為に姿を現していた。
 湖に半身を浸し、伏せるコクマーの腹部を枕に瞼を閉じる龍馬。その顔色は真っ青である。体温はやはり低い。
 今、龍馬の体内は苦痛に満たされていた。その根源は、端的に言えば『望から引き受けた念』だ。痛み、悲しみ、苦しみ、憎悪、嫌悪、後悔。数多の感情が龍馬の中で荒れていた。
 時折、痛みに眉を寄せる以外は何の動きも無い。否、僅かに動く気力すらとうに無い。コクマーも主を刺激せぬよう、ピクリとも動かない。
 ―どくん…
「っ…!」
 ヒュッと喉が鳴った。
 龍馬の心臓が強く脈打つ。それは徐々に徐々に早くなっていく。叫びたくても声が出ないのか、口を開閉するだけで何も言葉を発しない。
 コクマーの姿が徐々に薄れていくのは、龍馬の意識が失われて行くからなのか。仕舞いには龍馬の体から力が抜け切り、コクマーの姿が消えてなくなった。残ったのは、意識の無い龍馬だけ。
 ―ザッ
 人影が、龍馬に降り注ぐ陽光を遮った。

   ***

「ぅ、う…」
 小さな呻き声と共に龍馬の睫毛がフルリと震え、ゆっくりと金の目が現れた。
 一番に認識したのは、青。起きる力もなく、視線だけを室内に彷徨わせる。そこは青を基調とした室内だった。
「ここ、は…」
 水の気がたゆたい、尖っていた神経を沈めて行くのが分かる。ぼんやりと天井を見上げていると、大きな扉が静かに開き、誰かが入室して来るのが分かった。
「おや、目が覚められたか」
 覗き込んで来た女性は、安堵の息を吐き出した。
 水色の波打つ髪は左寄りに高く結い上げられ、大きく開かれた胸元の左胸には精霊の紋章が浮かんでいる。
 手にしていた水桶をサイドテーブルに置くと、ベッドサイドに置いてあった椅子に腰掛けた。
「だ、れ…?」
 掠れた声。喉が張り付いたように渇ききっているのに気が付き、ケホリとひとつ咳き込んだ。
 女性は眉尻を下げて優しく微笑んだ。
「あまり無理をして喋らない方がいい。私は、ディアナ・クライ・シース。水神族ウンディーネ女帝の側近の役職に就いている」
 そこで「あ…」と思う。
「ティア…さんの…」
「ああ、ティアナの姉だ」
 ディアナはそっと手を伸ばし、龍馬の額に触れる。ひんやりとした手が気持ちいい。
「ふむ…まだ熱は下がりきらんか…」
 ふわふわとした無重力感の中、龍馬の瞼が次第に重くなっていく。
「安らかにお眠りなさい、『花嫁』殿。次に目が覚めた時には、愛しい人の腕の中だ…」
 その声はまるで催眠術のよう。声に導かれるまま、龍馬は意識を手放した。 

 静かな寝息が静寂の中に響く。
 薄闇の中、さらりと龍馬の前髪をかき上げる手は、女性のものではなく男性のもの。
 紅蓮の髪と色違いの目の持ち主、ヒガディアルである。
 部屋を彩る色とは正反対の色を纏う彼は、異質と言っても過言では無いようにも窺える。
「ドゥーラ…お前は、いつも痛みや辛い事…苦しい事を一人で抱えてしまうな…」
 苦笑交じりの声が、静寂に空しく響く。
 そっと入室して来たディアナは、ヒガディアルの姿を認めると口角と吊り上げた。
「ようこそ、精霊王」
「ディア…すまないな…」
「いえ。寧ろ、ご連絡が遅くなり申し訳ございません」
「いや…お前の所に居ると聞いて安心した」
 龍馬の頬を撫でた手は、ずれたシーツをそっと直す。
「精霊王」
「何だ…」
「無礼を承知でお聞きしますが…『花嫁』殿は何ゆえ、此処まで人に迷惑をかけまいとされるのでしょう。このままでは、いずれ重圧に耐え切れなくなり、潰れてしまう可能性が…」
 ディアナの進言はもっともな事である。が、ヒガディアルにすらどうする事も出来ないのもまた事実。
「本人に甘えよ、と申しても…この子は『十分に甘えている』と言って距離を置いてしまう。…私はそれ程までに信頼されていないのだろうか…」
 精霊王が。世界の統治者が漏らした、たった一つの弱音。
「いいえ、精霊王。貴方は十分な信頼を得ておられます」
 サイドテーブルに甘く香るお茶を静かに置きながらも、その表情は穏やかに微笑んでいる。
 ディアナへ礼を述べ、冷えた手に温かな茶器を持つ。
「『花嫁』殿はご自分に対して厳しく在られる。恐らく、異世界でも同じ…もしかしたら、今以上にご自分を虐め抜いてこられたのでしょう。それだけ深い闇を有しておられる。…一度甘えれば、二度と己の足で立てなくなる。その考えが根底にあるからこそ、甘えたが為に貴方の隣に立てなくなるのが恐ろしいからこそなのでしょう。今は周りに気が回らないのですよ。温かく見守られるのが一番です」
「それでも…少しは頼ってもらいたい…そう思うのは、私の我儘だろうか」
 愁いを帯びたその微笑みに、ディアナからは苦笑が零れ落ちた。
 ふと火の気配が強くなる。
《気に病むな、王よ》
 男の声が室内に響いた。
 炎の塊から現れたのは、一つに結われた金の髪に赤の目をした長身の男。ヒガディアルの三人目の高等精霊である。
「螢…」
《王も龍馬様同様、ご自分に厳しすぎるのだ。もう少し気楽に物事を捉えれば良いものを。それに、我儘の一つや二つを言ったところで、他の者からすればそんなもの我儘の内に入りはせん》
「…お前は、相変わらずズケズケと言うな」
《私が言わねば、他の誰が言えるというのだ》
 螢はヒガディアルが幼少の頃に契約した最初の精霊である。必然的に付き合いも一番長い。だからなのか。精霊王となった今でも、主であるヒガディアルに色々とものを言う。しかし、だからこそ有り難い存在でもあった。
「王だからこそ、己を厳しく律する。我儘など以ての外だ」
《言うておるだろう?そんなもの、我儘の内になぞ入らん。好いた者に頼られたいとは、誰もが思う事。龍馬様はまだ成長途中故に、焦る事も無い》
「解っているのだがな…」
 主従らしからぬやりとりに、ディアナはくすくすと吐息で笑っている。
 ヒガディアルも苦笑をひとつ浮かべると、椅子から腰を上げた。
「お帰りになられますか?」
「ああ。城を長く空ければ元老院共が五月蝿くてかなわぬ。すまないが、ドゥーラを泊まらせてくれぬか?」
「勿論で御座います。わたくしが責任を持って、お世話をさせて頂きます」
 ディアナが深く腰を折り、頭を下げる。顔を上げた時には、そこにヒガディアルの姿はなかった。
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