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ドアを開く。階下から聞こえて来る物音に、相変わらず早起きだと眉を跳ね上げて階段を降り始めた。
水を流す音と食器のぶつかる微かな音。厨房と言うには些か小さく、台所と言うには少しばかり大きな部屋を覗き込めば、見慣れた女の背中。
「おはようございます、リズ」
声を掛ければ、振り返った女が笑う。
「お早うございます、ガレン様。昨夜はお勤めお疲れ様でした」
「労いは結構。つい今しがた、美味なる『食事』で労われたところです」
にこりと微笑む美貌にリズ、リーゼ・ハインは呆れたように息を吐き出した。ウィリスの母親でハイン家の現当主である。艶やかな白銀の髪、煌めく夜空の双眸。四十代後半には見えない、美しさ。
「あなたの『食事』が契約者によって変わるのは存じ上げておりますが、毎度毎度、息子が動けなくなってしまうほど『精』をお食べになられるのは困ります」
元契約者の小言に、ガレンが軽やかに笑うだけ。
ガレンがリーゼと契約をしていた時は、彼女の血を糧としていた。『食事』と言ってもそれほどの量は必要としない為、貧血になる事も無く、次期当主にと選ばれたウィリスと仮契約をして以降はリーゼからの『食事』は徐々に減って行った。ウィリスが十五を迎えた日に完全に契約を切り替えたのだが、ここ半年ほど『食事』の翌日にウィリスが動けなくなる事が増えて来た。
「お小言とは心外ですね。本来なら、毎日『食事』をする契約です。それをひと月に一度に減らした私の慈悲に感謝していただきたいものです」
テーブルに置かれたハーブティー。腰に手を当ててため息を吐き出すリーゼに礼を述べ、カップを鼻先に近付けてスンと香りを楽しむ。
「うん、今日もいい香りですね」
そう言って微笑む人外の男は、お気に入りの花の香りにほうと息をついた。
その時、馬の嘶きが早朝の空気を裂く。同時にリーゼの顔が喜色に彩られた。ガレンの眉も、おやと跳ねる。
「伯爵は今頃お帰りですか」
「昨夜、いつに無い早い時間の『合図』でしたでしょう?丁度訓練の最中だったようで、昨夜は城でノウェル様とラングシード様の晩酌に付き合わされたそうですよ」
ノウェル・ウィズ・リグリシオン。リグリシオン王国を治める今代の女王である。そして、ラングシード・ウィズ。ノウェル女王の夫君で騎士王とあだ名される軍の若き元帥である。
ハイン家は王族とその親類を除けば、一番近しい存在だ。リグリシオン王国建国時代からの主従関係は、血よりも濃い縁。まるで呪いのようだとガレンは嗤う。そして、その呪いを楔に繋がれているのは自分だと胸中で自嘲した。
「母上、ただいま戻りました」
「ただいま。いやー、参った参った」
玄関から聞こえたのは二つの声。リーゼの夫、クラウド・フォン・ハイン伯爵と長男のロベルト・ハインだ。
慌ただしく迎えに出たリーゼの後を追い、ガレンも玄関先へと向かう。
「お帰りなさい、あなた、ロビン」
リーゼが声を掛ければ、くすんだ金髪を後ろに撫で付けた男―クラウドとリーゼと同じ銀色の髪の青年―ロベルトが再び「ただいま」と声を揃えた。
「お帰りなさい、二人とも」
帰参の歓迎をしたガレンに、クラウドは笑みを浮かべ、ロベルトは僅かに表情を歪めて見せる。
「ただいま戻りました、ガレン殿。昨夜は何事もございませんでしたか?」
「うん?私が居て何事か起きるとお思いですか?」
この通り、と腕を広げればそれもそうですねとクラウドは笑う。
「あなたが人型を模していると言う事は、ウィズは寝込むと言う事ですね」
確定的な言い方ではあるが、間違いではないのでガレンは笑むだけにする。
リーゼは台所へ、他の面々は大広間へと足を向けた。
「それで?昨日は何故夕刻に?」
ガレンに問い掛けるクラウドは最奥の家長席に腰を下ろし、ロベルトはその右横の席に、ガレンはロベルトの正面に腰を据える。
「珍しく『聖痕』の残滓が活発に放出されていました。恐らく、これからその頻度は増えるでしょうね」
「…ガレン様、それは『血の満月』が近いと言う事でしょうか?」
ロベルトの問いに、ガレンは頷く。『血の満月』は数年に一度起こる現象だ。常よりも大きな満月が深紅に染まって大地を赤く染める。『聖痕』の残滓が最も多く放出される夜であり、一つの『聖痕』が神の恩恵を失う夜でもある。
「なるほど…ガレン殿、その夜はいつ頃か検討はつきますか?」
「こればかりは、さすがの私でも分かりません」
答えれば、クラウドは「そうですか…」と息をついた。
「ノウェル様にお目通り願うしかないでしょう」
カチャカチャと陶器がぶつかり合う音と共に、リーゼのため息交じりの声が僅かに沈んだ空気に割り込んだ。
野菜たっぷりのスープが手際よく三人の前に並べられ、ロベルトの隣に腰を下ろしたリーゼ自身にはハーブティー。
食前の祈りを捧げ、それぞれがスプーンを手に取る。
「昨夜の内に原因がわかっていれば良かったなー…」
クラウドが悔いるように息をついた。
「正式な面会は手続きが面倒ですからね…」
申請したその日の内に謁見が叶えば奇跡である。許可が出るまでに最短でも五日を要するだろう。
「騎士王にお伝えすれば宜しいじゃないですか」
ガレンの言葉は、それこそ無理だと却下される。
「現在、騎士王は遠征に出られております。同盟国の援軍として召喚されたそうです」
出発は明日夕刻、帰還は三ヶ月後だと言う。
「私が行きましょうか?」
弧を描く双眸に、三人のハインは即座にノーを突き付けた。
「あなたが女王ないし騎士王と謁見できるのは、ハイン家当主が傍に居る時のみ。つまり、現当主のあたしか次期当主のウィリスが居なければ排斥されてしまいます」
リーゼの言葉に、ガレンは頬杖を付いて「知っていますよ…」とため息を吐き出した。
「クラウド、とりあえず、あたしの名で申請しておきます。至急の謁見と言う事で、ハインの当主が申請をすれば長くとも三日以内には通るかと…」
「うん、済まないけれど頼むよ、リズ」
ハイン家当主はリーゼだが、最終的な決定はクラウドが下すのが常である。お任せをと微笑むリーゼは早々に席を立った。
「急ぎ書を認めます。ロベルト、片付けをお願いしてもいいかしら?」
「承知しました」
「では、お先に失礼いたします」
優雅に一礼してリーゼは足早に大広間を後にする。
沈黙を裂くように深くため息を吐き出したのは、クラウドだった。リーゼよりは若くとも、二歳ほどの差しかないのだが、眉尻を下げるその表情は子供のようにも見える。
水を流す音と食器のぶつかる微かな音。厨房と言うには些か小さく、台所と言うには少しばかり大きな部屋を覗き込めば、見慣れた女の背中。
「おはようございます、リズ」
声を掛ければ、振り返った女が笑う。
「お早うございます、ガレン様。昨夜はお勤めお疲れ様でした」
「労いは結構。つい今しがた、美味なる『食事』で労われたところです」
にこりと微笑む美貌にリズ、リーゼ・ハインは呆れたように息を吐き出した。ウィリスの母親でハイン家の現当主である。艶やかな白銀の髪、煌めく夜空の双眸。四十代後半には見えない、美しさ。
「あなたの『食事』が契約者によって変わるのは存じ上げておりますが、毎度毎度、息子が動けなくなってしまうほど『精』をお食べになられるのは困ります」
元契約者の小言に、ガレンが軽やかに笑うだけ。
ガレンがリーゼと契約をしていた時は、彼女の血を糧としていた。『食事』と言ってもそれほどの量は必要としない為、貧血になる事も無く、次期当主にと選ばれたウィリスと仮契約をして以降はリーゼからの『食事』は徐々に減って行った。ウィリスが十五を迎えた日に完全に契約を切り替えたのだが、ここ半年ほど『食事』の翌日にウィリスが動けなくなる事が増えて来た。
「お小言とは心外ですね。本来なら、毎日『食事』をする契約です。それをひと月に一度に減らした私の慈悲に感謝していただきたいものです」
テーブルに置かれたハーブティー。腰に手を当ててため息を吐き出すリーゼに礼を述べ、カップを鼻先に近付けてスンと香りを楽しむ。
「うん、今日もいい香りですね」
そう言って微笑む人外の男は、お気に入りの花の香りにほうと息をついた。
その時、馬の嘶きが早朝の空気を裂く。同時にリーゼの顔が喜色に彩られた。ガレンの眉も、おやと跳ねる。
「伯爵は今頃お帰りですか」
「昨夜、いつに無い早い時間の『合図』でしたでしょう?丁度訓練の最中だったようで、昨夜は城でノウェル様とラングシード様の晩酌に付き合わされたそうですよ」
ノウェル・ウィズ・リグリシオン。リグリシオン王国を治める今代の女王である。そして、ラングシード・ウィズ。ノウェル女王の夫君で騎士王とあだ名される軍の若き元帥である。
ハイン家は王族とその親類を除けば、一番近しい存在だ。リグリシオン王国建国時代からの主従関係は、血よりも濃い縁。まるで呪いのようだとガレンは嗤う。そして、その呪いを楔に繋がれているのは自分だと胸中で自嘲した。
「母上、ただいま戻りました」
「ただいま。いやー、参った参った」
玄関から聞こえたのは二つの声。リーゼの夫、クラウド・フォン・ハイン伯爵と長男のロベルト・ハインだ。
慌ただしく迎えに出たリーゼの後を追い、ガレンも玄関先へと向かう。
「お帰りなさい、あなた、ロビン」
リーゼが声を掛ければ、くすんだ金髪を後ろに撫で付けた男―クラウドとリーゼと同じ銀色の髪の青年―ロベルトが再び「ただいま」と声を揃えた。
「お帰りなさい、二人とも」
帰参の歓迎をしたガレンに、クラウドは笑みを浮かべ、ロベルトは僅かに表情を歪めて見せる。
「ただいま戻りました、ガレン殿。昨夜は何事もございませんでしたか?」
「うん?私が居て何事か起きるとお思いですか?」
この通り、と腕を広げればそれもそうですねとクラウドは笑う。
「あなたが人型を模していると言う事は、ウィズは寝込むと言う事ですね」
確定的な言い方ではあるが、間違いではないのでガレンは笑むだけにする。
リーゼは台所へ、他の面々は大広間へと足を向けた。
「それで?昨日は何故夕刻に?」
ガレンに問い掛けるクラウドは最奥の家長席に腰を下ろし、ロベルトはその右横の席に、ガレンはロベルトの正面に腰を据える。
「珍しく『聖痕』の残滓が活発に放出されていました。恐らく、これからその頻度は増えるでしょうね」
「…ガレン様、それは『血の満月』が近いと言う事でしょうか?」
ロベルトの問いに、ガレンは頷く。『血の満月』は数年に一度起こる現象だ。常よりも大きな満月が深紅に染まって大地を赤く染める。『聖痕』の残滓が最も多く放出される夜であり、一つの『聖痕』が神の恩恵を失う夜でもある。
「なるほど…ガレン殿、その夜はいつ頃か検討はつきますか?」
「こればかりは、さすがの私でも分かりません」
答えれば、クラウドは「そうですか…」と息をついた。
「ノウェル様にお目通り願うしかないでしょう」
カチャカチャと陶器がぶつかり合う音と共に、リーゼのため息交じりの声が僅かに沈んだ空気に割り込んだ。
野菜たっぷりのスープが手際よく三人の前に並べられ、ロベルトの隣に腰を下ろしたリーゼ自身にはハーブティー。
食前の祈りを捧げ、それぞれがスプーンを手に取る。
「昨夜の内に原因がわかっていれば良かったなー…」
クラウドが悔いるように息をついた。
「正式な面会は手続きが面倒ですからね…」
申請したその日の内に謁見が叶えば奇跡である。許可が出るまでに最短でも五日を要するだろう。
「騎士王にお伝えすれば宜しいじゃないですか」
ガレンの言葉は、それこそ無理だと却下される。
「現在、騎士王は遠征に出られております。同盟国の援軍として召喚されたそうです」
出発は明日夕刻、帰還は三ヶ月後だと言う。
「私が行きましょうか?」
弧を描く双眸に、三人のハインは即座にノーを突き付けた。
「あなたが女王ないし騎士王と謁見できるのは、ハイン家当主が傍に居る時のみ。つまり、現当主のあたしか次期当主のウィリスが居なければ排斥されてしまいます」
リーゼの言葉に、ガレンは頬杖を付いて「知っていますよ…」とため息を吐き出した。
「クラウド、とりあえず、あたしの名で申請しておきます。至急の謁見と言う事で、ハインの当主が申請をすれば長くとも三日以内には通るかと…」
「うん、済まないけれど頼むよ、リズ」
ハイン家当主はリーゼだが、最終的な決定はクラウドが下すのが常である。お任せをと微笑むリーゼは早々に席を立った。
「急ぎ書を認めます。ロベルト、片付けをお願いしてもいいかしら?」
「承知しました」
「では、お先に失礼いたします」
優雅に一礼してリーゼは足早に大広間を後にする。
沈黙を裂くように深くため息を吐き出したのは、クラウドだった。リーゼよりは若くとも、二歳ほどの差しかないのだが、眉尻を下げるその表情は子供のようにも見える。
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