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寂しがり屋の悪戯妖怪

3.

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「一つ聞いて良いか?」
「はい、何でしょうか」
 白い割烹着をワイシャツの上から被り、不機嫌そうな表情をして根津が由依に尋ねた。先程、中村宅で夕飯をねだられ、帰って早々に冷蔵庫の中身を確認にした根津は賞味期限ギリギリの食材ごった煮鍋を作っている最中だった。由依の隣には先程連れ帰ってきた妖少女のさやがキラキラとした期待に満ちた視線を根津に送っている。
「あの夫婦、何でアンタが視える人だって知っている」
 おたまで鍋の汁を掬い、味見をし、眉を少し寄せたと思ったら醤油を足した。
「あぁ、それは……以前お茶会の際に幽霊やその類が視えるという話をさらっとしたことがありまして。それに近所の子供たちも幽霊屋敷として私の家に遊びにくるものですし」
「お化け屋敷扱いまでされてんのかよ……」
 根津は呆れてため息をついた。
「ご近所の大人の方々は、売れっ子作家ともなれば何かしら不思議な力があっても変じゃないって仰ってましたよ」
「まぁ……一理あるな。なんか視えてそうな風貌だし」
 ねー、と言って由依はさやとにこにこと笑い合う。この年頃の娘が居てもおかしくない歳ではあるのに、その由依が大きな子どもに見えて、根津には同じレベルのおかしな奴が増えたとしか思えず、文字通り頭を抱えた。


 数分程経って、鍋ができると根津はこたつテーブルの上に鍋敷きを用意し、その上に大きな土鍋を置いた。お椀と箸を人数分、由依が出すと、さやが進んで受け取りこたつに運ぶ。二人はその可愛いらしい姿に見入ってしまった。
「箸、使えるか?」
「うん。教えてもらったよ」
「そうか」
 根津はさやの前にあったお椀に鍋の中身を装ると、気をつけろよと一言声をかけてやった。そのやりとりを向かい側で微笑ましく見ている由依は、根津にお椀を渡す。
「私にもくださいなっ」
「てめぇでやれ」
「まぁ、そう言わずに」
 仕方なしにお椀を受け取る。横目でさやを見ると、箸で挟んだ白菜に一生懸命に息を吹きかけていた。
「で、どうするんだよ」
「そうですねぇ。さやさんは居たんですけれど……」
「はぁ?」
「居なかったんですよ、私の書いたあの登場人物が」
「……話が違うだろ」
「まぁ、それはご本人に聞く方が早いかと思いまして。とりあえず……今は腹ごしらえですね」
 猫舌ではない由依は、お椀の中をペロリと平らげると、おかわりを根津に強請る。
「自分でやれって言ってんだろ」
「今日の肇くんは意地悪ですねぇ」
 本日二度目の膨れっ面を晒したが、相手にされない。さやはその顔を見上げて不思議そうな表情を浮かべていた。

 その後、鍋の締めはやっぱりラーメンだと由依は騒いだが、麺が無いためその意見は却下に終わりおじやにされた。どの道あっという間に鍋の中身がカラになり、呆れ顔で彼を見上げる根津の疲れた顔はさやにも理解できたようだった。
「さやさん、お鍋どうでしたか?」
 根津に淹れてもらったお茶を啜りながら、由依はさやに尋ねた。
「初めて食べた。とても美味しかった」
「そうですか。それは良かったです」
 にこりと笑ってさやの頭を撫でる。昼間直した時計が低い音を立てて鳴った。
「正常に戻ったな」
「えぇ。肇くんが直してくれたので」
 掛け時計を見上げ、二人が時間通りに作動していることを確認した。すると、さやは何かに気がついた様に「あっ」と声を漏らす。
「どうかしました?」
「えっと……えーっとね」
 困っている様なのだが、あまり表情が崩れない。器用なのか不器用なのか判別が微妙だ。
「ゆっくりで良いですよ」
 にこりと笑う由依の顔を見て、さやはこくりと静かに頷いた。
「わたし、この間ここに来たの。それでその針のやつで遊んだの」
 針のやつ、と言って彼女は掛け時計を指差した。
「やはり、そうでしたか。ちなみにこれは時計と言って時間を教えてくれる便利な道具なんです。針を触るとその時間が分からなくなってしまうのですが、それは今後気をつけくださればよろしいので気になさらないでくださいね」
 由依の言葉にさやは「うん」と答えた。
 根津は催促するよう、目に力を込めて由依をを見た。彼にとって問題は掛け時計ではない。これがどうあれ残業には変わらないのだ。
「ところで、さやさん。この家で遊ばれた時、他の物では遊ばなかったのですか?」
「ううん。あっちの方にいた、母様と遊んだの」
「母様?」
 由依と根津は顔を見合わせた。ここに女の人の霊や、妖の類など由依が視えた試しはない。
「ここに、居たのですか?」
彼女はコクリと頷いた。
「その、お母さんのお名前、分かりますか?」
「うん。『さき』って言うって聞いたよ。わたしと一文字違いだから運命だって。だからきっと母様なのかもしれないの」
 根津は昼間の由依から聞いた話を思い出していた。消えた登場人物の名前は春原咲。名前が一致していて、彼女はそれを母親かもしれないと言う。
「かもしれないって、それは違う可能性もあるってことだろ」
「肇くん」
「今はどこに居るんだ、その母様は」
「肇」
 静かな声で由依が根津を呼び捨てた。空気が冷やりと凍る。表情だけで根津を黙らせた由依はニコリとも笑わない。彼が引き下がるまでその態勢を崩すことはないようで、根津は小さく舌打ちをすると、乗り出していた身体をゆっくり引っ込めた。
「今は」
 さやが口を開いた。
「一緒に住んでるの。あっちの、お家で。でもね、母様いつも寂しそうな顔でここのお家見てるの」
「そう、でしたか……。咲さんは何か言ってましたか?」
 由依はにこりと笑って聞いた。横でその顔を見た根津に悪寒が走る。
「ここには大事な人がいるから戻らないといけないって。でも、わたしは戻って欲しくないからもう少しだけってお願いしてるの」
 大事な人、というのは由依と根津にはあの小説に出てくる恋人だというのがわかったが、さやにはきっと話をしていないのだろう。
「やっぱり、帰ってもらわないと行けないのかな」
 すると、由依はさやの頭を優しく撫でた。
「さやさん、彼女の大事な人は確かにここにいます。もし宜しければなのですが一度彼女をここに連れてきてあげてはどうでしょうか」
「……そんなことしたら、母様はいなくなっちゃう」
 嫌々、と言う様にさやは首を横に振った。下を向いて今度は由依の方も見ない。苛立ちこそ増してきたが、相手は子どもの妖。下手に刺激しては後が大変になってしまう。由依はまたふわりと笑って言った。
「心配しなくても消えません。ただ、今のままだと彼女は居なくなってしまいます」
「えっ、どうして?」
「さやさんは、咲さんと少しだけ違うところがあるのをご存知でしょうか?」
 根津とさやが同時に首を振った。
「違うって……生まれ方的な、そういうことか?」
「強ち間違いではありませんが……つまりは霊力の違いです。さやさんは完成された身体がありますが、咲さんは未完成のまま浮遊している……極めて危険な状態です」
 危険な、というところを強調して由依は答えた。先程までのにこやかな表情は消え、真剣な表情が説得力を持たせる。
「母様、どうなるの……?」
「このままだと、お会いすることが出来なくなってしまいます」
「えっ」
 さやの大きな目が、更に大きく見開いた。母親と呼ぶ、親しい者が自分の前からいなくなってしまうというのはあまりにも大きな衝撃だったのだろう。表情は強張り、涙を目に薄ら浮かべ、身体を震わせている。
「ですが、それを防ぐ方法があります」
「本当っ?」
「えぇ。肇くん、私の部屋から原稿を持ってきてください。さやさんは咲さんをここへ。出来ますか?」
 さやは頷いて、襖を開けると、縁側から勢いよく飛び出して暗闇に消えていった。
「おい、嘘じゃないだろうな」
「えぇ。私、嘘はつきませんよ。さぁ、原稿をお願いします。これ以上の残業は、貴方も不本意でしょう?」
 自分の家なのに自分で取りに行かない、ということに納得がいかないが、由依の態度も考えも変わりそうにないため、根津は渋々離れの書斎へと向かった。



 原稿の入った茶封筒を持ち、寒い離れの書斎から震えながら居間に戻ってきた根津は、白く薄い靄のかかった何かが部屋にいるのを目の当たりにした。それが咲だというのは、その横に小さなさやがいるのを見て瞬時に理解をしたが、ここまで淡い存在だったことには驚いた。
「遅いですよ、先生はいつも五分前行動を心がけるようにと言っているのに」
「何が五分前行動だ。締切も守れないくせに。廊下が寒くて書斎に行きたがらないジジイめ」
 こたつの上にパン、という音を立て茶封筒を置くと、根津はこたつに足を入れた。暖かい空気でホッとする。寒かった廊下は靴下を通り越して足の裏全体までを冷やし、感覚が消えそうだった。いい加減、たんまりと入る印税があるのだから床暖房にリフォームぐらいはしてほしい。
「口が悪いと嫌われますよ、私に」
「そうですか。それはそれは光栄でございますっ」
 悪態を返し、ポットを引き寄せると急須にお湯を入れ、三人の湯のみを出した。
「あぁ、もう一つお願いしますよ。ここに咲さんが、いますので」
 白い靄の上部分が動いた様に見えた。根津は文句を返すことなく、黙ってもう一つ湯のみを用意する。
「さやさん、彼女を連れてきてくれてありがとうございます」
 頭を優しく撫でられると、さやは嬉しそうに目を細めて笑い、白い靄の方を見上げる。靄が揺れ、彼女と会話をしている様にも見えた。
「咲さん、貴方には貴方の役割を果たして頂いた後に、本の中と外の行き来をある条件で許しましょう」
 由依はその白い靄に向かって原稿を差し出した。
「ここに戻ってまずは製本されなければなりません。本という形になって頂くのが最優先事項。その条件が飲めなければ、原稿はここで未完成のまま。貴方は消え、この小説も世に出ることもありません」
 白い靄がまた小さく揺れた。細長い靄は丸く小さくなり、さやの周りを包み込んだ。
「なんて言ってるんだ」
 根津はさやに聞いた。さやは不安そうな顔をして根津と由依の顔を見比べる。
「母様は……すぐ戻るって言ってる」
 下を向いて少し寂しそうな顔をしていた。
「えぇ。製本まで少しかかりますが、大丈夫です。私の友人は優秀ですから。今夜中にでも印刷所に駆け込んでくれますよ」
 くすりと笑って根津の方を見る。
「やってねぇよ、こんな時間」
「もうっ!ここは任せろとか言えないんですか、貴方は!見損ないました、もう知りませんよ本当に」
「ったく……」
 根津はこたつから立ち上がり、さやの近くにしゃがみ込むと、片手を彼女の頭に置きクシャクシャっと髪の毛が少し乱れる強さで撫でた。
「肇、痛い」
「呼び捨てかよ……。まぁ、いい。その、なんだ。悪いようにはならねぇから、由依さんのこと信じろ。な?」
 さやは自分を纏っていた白い靄の方を見上げ、もう一度根津の方に向き直る。
「……うん。わかった」
「偉いな」
 根津はもう一度クシャッとさやの髪の毛を乱しながら頭を撫でる。その姿を見てにこりと笑った由依は、原稿を片手に持ち、さやの周りを包み込んでいた白い靄に手を触れた。
「では咲さん。少しの間、私のためにお勤めください」
 白い靄はさやから離れ、小さな光を放ちながら由依の手に集まっていく。光が完全に手の平に集まり、由依がその光を原稿用紙の束にかざした。すると、数秒光りを放ったが徐々に光量を萎ませ、紙の束の中に入り込むように消えていった。
 由依は原稿用紙をそのまま根津に手渡して中を確認する様に言う。
「……入ったな。うん、今朝見た空欄はこれで無くなった」
「ええ。これで残業は終了です。あ、見込み残業は関係ないのでしたっけ?」
 由依の言葉に根津は舌打ちを返す。突っかかりたいのを我慢して、茶封筒に原稿をおとなしく入れ直した。昼間に直した時計を見ると、まだ社内に人が残っていそうな時間だ。
「とりあえず、俺はこのまま社に戻る」
「はい。分かりました。夜道にはくれぐれも、気をつけてください」
「ガキじゃねぇんだから」
 玄関へ行こうとする根津と、それを見送ろうとする由依の服の裾が下の方に引っ張られた。視線を下に向けると、眉を寄せたさやが二人を見上げている。
「肇、千歳、母様をおねがい」
 か細い声を出した彼女は、大粒の涙をぽろぽろと大きな瞳から溢れ落とす。
「大丈夫です。さやさんの元にかならずまた来ますから。それに、寂しかったらいつでもこの屋敷に来てくれて良いんですよ」
「い、いいのっ」
「えぇ、もちろん!ここに来れば肇くんの美味しいお料理も食べれますしね」
「少しはてめぇでやれ」
 さやは着物の袖で涙を拭いながら赤く腫れた目をにっこりと細め、えへへ、と声を上げて笑った。溢れてくる涙はまだ止まることが出来ず、時折鼻から鼻水も垂れてしまう。
「でもさやさん。何個か約束をお願いします」
 由依はティッシュボックスから数枚ティッシュを抜き取り、少し乱暴にさやの顔を拭いた。
「やく、そく?」
「はい。人様のものは持ってきてはいけません。まだ手元にあるものはきちんと元の場所にお返ししてください。どうしても欲しいというものは、私達にきちんと相談をすること。良いですか」
 さやはゆっくり頷いた。
「ごめ、んなさい……」
 ぽたぽたと落ちる涙を、由依が拭き取りながら続ける。人の物を盗ってはいけないということは、分かっているようだった。
「それと……あのお家から決して離れてはだめですよ。遊びに来る分には構いません。あそこには優しい方々が住んでいます。きっと気に入りますから、ね」
「……うん」
「約束ですよ」
 ぽんぽん、と彼女の頭を撫で、由依はまた根津に向き直った。
「これで依頼は完了ですね」
「そうだな。あとは製本を待つだけだろ」
「はい。よろしくお願いします」
 根津はふぅ、と深呼吸すると玄関へ向かうため居間と廊下を隔てる襖を開ける。冷んやりとした冷気が身体を包み、コートを着てこなかった今朝の自分を呪ったのだった。






 暗闇の中で少年は横たわっていた。首のあたりが苦しくて、息が出来ない。喉仏のあたりに何かが触れて噎せてしまったのに、声が出ない。
『もう少しだけ、待ってあげる。思い出してくれるまで……』
 子どものようなその声は、暗闇のどこから聞こえてくるのかも分からなかった。



 ふわりと香る醤油の匂いが鼻をかすめた。目を開けると、見知った天井が視界いっぱいに広がる。肘をついて身体を起こすと、こたつに潜って寝たためか、身体の節々がパキパキと小さな悲鳴をあげた。
「おはようございます。魘されてましたけど……大丈夫でしたか?」
 醤油の香りの正体は、向かい側に座る由依が啜っていたカップ麺であることが分かった。
「最近、変な夢を見ることが多くてな……」
 根津は大きく伸びをした。先程よりもはっきりと関節が鳴る。
「変な夢ですか。夢魔でも現れましたかねぇ」
「似たようなモノかもな……。さっきはふわっとしか覚えてないが……殺されかけた」
「聞き捨てなりませんね」
 由依はこたつに身を乗り出した。
「スープ、こぼすなよ。ただの夢だろ。放っておいて平気だ」
「ただの夢で魘されて、千歳さぁあん、怖いよぅ、助けてぇっ!って、叫んでたのはどなたでしょうか」
「それが本当なら殺された方がマシだよ。それより、次の原稿は進でいるんだろうなぁ?」
 由依はにこりと笑いながらカップ麺を啜った。表情を変えずに黙々と食べすすめている。その様子を見て根津は額に手を当て、盛大にため息をついた。
「そういえば、中村さんのところ宝くじ当てたらしいですよ。明後日からそのお金で旅行に行くとおっしゃってましたが……さやさんのお力ってつくづく凄いなぁって思いますよねぇ」
「原稿は」
「……野暮ですねぇ」
「ったく……」
 この間もギリギリに印刷所へ脱稿したため、今回は数分でも待ってくれるか分からないというのに。目の前の呑気な男を見て仕事のことを考えるのが馬鹿馬鹿しくなる。
「そんなすぐにポンポン出てきませんよ。私、ロボットじゃないんですから」
「だから数ヶ月も前から言ってんだろーが。こっちの身にもなれ」
 麺がなくなったカップに由依が口をつけてスープを飲み干そうとするのを見計らい、根津はカップを取り上げた。
「あぁっ!何するんですか。食べたければ台所のストックからどうぞ」
「いい加減身体気にしろって言ってんだよ」
 そう言うと根津は立ち上がって台所のシンクにスープを流してしまった。
「あぁっ!私の命の源がっ!」
「なら、くたばる前に出すもの出せ」
 空いた容器をそのまま軽く水洗いをし、根津はゴミ袋に入れる。がっかりと肩を落としす由依の腕を引っ張り、離れの書斎へ向かう。
 少し冷んやりはするが昼間は陽が差し込み、廊下も暖かい。その長い廊下を歩いて一番奥の部屋を開け、散らかった原稿用紙を足で退けた。
「んもぅ、野蛮ですねぇ」
「期限を守らないアンタが悪い」
 掴んだ腕を離して、椅子に座るよう顎で示すと、由依はむすっと膨れっ面をして椅子に座った。腰掛けると同時に、器用に足で椅子を揺らしながら引き出しから少し薄めの茶封筒を出した。
「まぁ、半分は書き終わってるので先にこちらを。もう半分は明日まで時間ください」
「朝一な」
「なら肇くん、お泊まりでしょうか。一緒に寝れますね?」
「良いからさっさと」
「本当に、泊まってくださいね」
 強めの口調で由依が言った。その強さに思わず根津は黙る。由依の目は怒った時のそれと同じで、尖った針のような鋭さがあった。
「……何もねぇよ」
「あなたのそれ、全然信用出来ませんからね」
 言い返すようにギロリと強い目を向ける。しかし、由依はそんなものには目もくれず、腰に手を当てると、今度はふざけて唇を尖らせた。
「もうっ。全然可愛くないですねぇ」
「お前に可愛がられても嬉しくねぇよ」
「こんなに優しくてイケメンなお兄さんが可愛がってあげてるんですから、少しは言うこと聞いてもバチは当たりませんよ」
「ジジイみたいな生活してるくせによく言う」
「四捨五入するとまだぴちぴちですよ」
「うるせぇよ、オッサン」
 机の上に置かれた茶封筒を持ち上げ、根津は部屋のドアノブを回した。
「……定時に上がるから食べたいもの考えとけ」
「ふふふ、今日は素直ですね。さやさんと一緒に考えておきます。あぁ、それと」
 由依は部屋の奥にある埃を被った背の高い箪笥から、紙を取り出した。それを机に置き、愛用の万年筆で何かを書き込む。覗き込んだ根津には何を書いたのか全く読めなかった。
「これを持って行ってください」
「何だよこれ」
「お守りです。最近は暗くなるのが早いですから、くれぐれも夜道には気をつけて」
 根津はそれを渋々受け取ると、ジャケットの内ポケットにしまい込んだ。きちんとしまい込んだのを確認し、由依はまたにっこりと笑う。
「サボるなよ」
「えぇ。わかりました」
「んじゃ、また後でな」
「はい」
 離れのドアを閉め、根津が廊下を歩くの音が部屋にも聞こえた。合鍵を渡しているため、玄関まで見送る必要は無いが、由依は離れの窓から玄関の戸を閉めていく根津の後ろ姿を見送った。
「……さやさん、肇くん行きましたよ」
 由依がそう言うと部屋の隅からひょっこりとおかっぱ頭の女の子が顔を出した。
「千歳。肇、なんかおかしい。背中に黒い変なもやもやがあって……嫌な感じする」
 さやは由依の足元に駆け寄り、脚に抱きついた。
「心配いりませんよ。肇くんは強いですから。それに……」.
 ぽんぽんと頭を優しく撫で、由依はまた窓の方に視線を向けた。
「私が大事な肇くんを簡単には渡しませんよ……」



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