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旅人と魔王、そして魔獣の秘密
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ナウラがビスカの弟子になり、一年が過ぎた。相変わらず記憶は戻らない振りをしていたが、人間としてはかなり成長を遂げた。読めなかった本も丸々一冊は読めるようになり、文字も書けるようになった。呪文や薬草学の知識量も増え、ランプより使える魔法が増えた。そして驚くべきはぐんぐんと伸びた身長だった。もうビスカを見下ろす程の身長差で、高い木の実をわざわざ魔法で取る必要もなくなった。髪の毛は伸びる度にビスカが切り揃え、後ろで小さく纏まる程度に収まった。ただ、身長や髪が伸びるのは決まってナウラが町へ出かけた日だった。
そんなある日のことだった。最近は甲斐甲斐しくビスカの代わりにナウラが朝食の準備をしていた。今日の朝食は昨晩のうちに仕込んでおいた生地を焼き、庭の木になった林檎で作ったジャムをたっぷりかけたパンケーキと、じゃがいものポタージュだった。テーブルクロスを新しい物に変え、皿を三枚並べた隣にナイフとフォークを置く。水差しを中心に置いて、三人分のグラスにレモンを落としたら水を注いだ。ナウラは食事の準備に魔法は使わない。ビスカのように微調整はまだ出来ず、まじないをかけようものならおかしな食べ物に変わってしまうのだ。
よし、あとはお師匠様達の帰りを待つだけだ。
ビスカとランプはナウラが朝食の準備をしている間、森の中心にある湖の畔へ出掛けている。そこにはたくさんのたんぽぽが生えていて、ビスカとランプはそれを摘みに出掛けていた。片手に収まる程度に詰み、ついでにヨモギやドクダミの葉も摘む。それらは全部ビスカが自ら薬や化粧品、お茶に変えていた。
しかし、その日に限っていつもの時間に二人は帰って来なかった。ナウラは家のドアを開け、湖の方を見つめる。ランプのような聴力は持っていないため、見たところで何かが変わることはない。
どうしたのだろう……。
こうしている間にふっくらと膨らんだパンケーキは萎む一方だ。居ても立っても居られず、ナウラはエプロンを椅子に引っ掛けるとドアを閉めた。湖へと迎えばどこかであえるはずだと、そう思った時だった。
「もう少しよ、頑張って」
聴き慣れた声が聞こえてきたのだ。何かを引き摺っている音と、彼女の弾んだ息も聞こえ、ナウラは駆け寄った。
「あぁ、ナウラ!ちょうどよかったわ。手を貸してちょうだい」
ナウラはギョッとした。ビスカの背中にはナウラと変わらない背丈の人間の男が全体重を彼女に預け、気を失っていたのだ。
「ナウラ、早く代わって!ビスカが潰れちゃいそうなんだ」
男の足を申し訳程度に支えていたランプが下から叫ぶ。しかしビスカはナウラの姿を見て、助かったとその場にへたり込む。咄嗟に手を伸ばし、膝をつく前に彼女を支えると、ナウラは彼女が背負っていた人間を片手で引き離した。
「なんです、それ」
ナウラは顎で男性を指した。ビスカに覆い被さり、全体重を預けたかと思うと苛立ちが増した。
「旅人さんよ。湖で倒れているのを見つけたの。服の紋章が東の国のものだから、きっと遠くからの旅で疲れてしまったんだわ」
東の国だって?
ナウラは顔を顰めながら男性を背負い、ビスカの後ろを歩いた。確かに知らない土地の香りがしたが、東の国というは些か引っかかる。西の国と東の国は大きな山と深い渓谷を挟んで国境を築いているのだと、最近読んだ本で知った。更に言えば、その国境付近に聳え立つ大きな山に魔王が住む館があると言われている。この森のすぐ真横にあった村が焼かれて一年しか経っていないのだ。魔王を恐れているはずの人間が、魔王の動きに敏感にならないはずはない。下手したら旅先の滞在場所で命を落としかねないのだ。
「この者は何用で西の国へ?」
「さぁ、わからないわ」
眉をハの字に寄せてビスカが答えた。家のドアを開けると、甘いパンケーキの香りが頬を撫で、思わずうっとりした表情を見せる。
「まぁ、良い香り!」
「本当だ、早く食べたい!」
「ランプ、少しだけ待ってちょうだい。ナウラ、まずは彼をあなたのベッドに」
「……はい」
ビスカ以外の人間をベッドに寝かせるなど本当は物凄く嫌だったが、ナウラは彼女に従って寝室へ向かうと旅人をベッドの上に下ろした。
「う……うぅ……」
「ランプ、お水をお願い。ナウラは彼の分の食事の準備よ」
ビスカに言われるまま、ナウラとランプは動いた。ランプはテーブルの水差しとグラスを一つずつ魔法で浮かせると、それらをサイドテーブルに置いた。ナウラは鍋のポタージュを温めると、木製のボウルに入れて持ってきた。
「ありがとう」
ビスカは男性を丁寧に抱き起こす。ナウラの目がいつも以上に細くなるのをランプが気まずそうに見上げた。
「彼が作ったポタージュよ。身体も温まるし、それにとても美味しいの。さぁ、食べて」
ビスカはナウラからボウルを受け取ると、男性に手渡すが、彼の手はスプーンを上手く握れないほど震えていた。
「これじゃあ、食べられないんじゃない」
ランプがベッドに乗り出し、心配そうに言った。ならそのまま寝かせておけばいい、ナウラはそう思ったが、ビスカはベッドに落ちたスプーンを拾うと、旅人の口にポタージュを運んだ。
「さぁ、食べて。きっと良くなるから」
小さく開くその口にスプーンを差し込むと、旅人の喉がゆっくりと動いた。
「ほらね、とても美味しいでしょう?」
ふふふ、と嬉しそうに笑うビスカの後ろで、ナウラは下唇を噛む。ランプが罰の悪そうな顔をし、ナウラの腕を引いた。
「なんだよ」
「あれはビスカの得意なお人好しだ。いちいち気にしてたら身が持たないよ。なに、心配ないさ。キミみたいに名前まで忘れてるってことはそうそうないよ」
弟子になることはない、とランプはそう言ってナウラを宥めた。しかし、ナウラの中では弟子が出来る出来ないは実際のところどうでも良かった。彼女が自分の目の前で異性に食べ物を食べさせるという行為を見せたことに苛立っていたのだが、その苛立ちの理由ははっきりとしないことにもまた苛ついた。
「そうかい。君がそう言うならそうかもしれないね」
ナウラは舌打ち混じりで答えた。
どうしてこんなに腹の奥が熱いのかは分からない。ただ、あの男に腹が立ち、その男のそばにいようとするビスカにもむかついた。しばらく彼らの様子を鋭い眼光で見ていたが、そのうち呆れたランプに部屋の外へと連れられた。
旅人の名前はカルフと言って、ビスカの言っていた通り東の国からやって来た旅人だった。頬は痩せこけているが、栗色の短髪が綺麗な青年だった。背丈はビスカよりも少し高いぐらいで、ナウラよりは低い。ビスカとの距離が自分より近くに見え、ナウラは面白くない顔をした。カルフは西の国の様々な地域を回っていたが、ある時山賊に出会って財布を全て盗られてしまったという。魔獣を狩って素材を売るにしろそこまで腕の立つハンターでもないカルフは、木の実などを食べながら移動していたそうだ。
「すぐに国の騎士団に掛け合えば良かったのに」
話を聞いたランプが溜息混じりにそう言った。しかし、カルフは残念そうに首を横に振る。
「ここは東の国じゃないからね、俺がどうこう言ってすぐに対応してもらえる訳ないさ」
「でも西の国で起きたことでしょう?」
困っている人を見捨てるなんて出来るかしら、とビスカは言った。ランプとナウラはその言葉に顔を見合わせ黙り込む。人を見捨てることを簡単にする国だからこそ、魔女の扱いが酷いのだろう。直ぐに気が付かない彼女に、ランプは深い溜息を吐いたが、ナウラは寧ろそういうところこそ微笑ましく思った。
「国同士の問題はそう簡単とはいかないんだ。君は優しいね。他国の俺を不審がらずに助けてくれるなんて」
カルフは頬を赤らめて言う。もちろんビスカにだけでなくナウラやランプにもお礼を言った。彼の話では東の国には嵐の魔女の言い伝えはない。寧ろその力は尊敬され、重宝される国だと言った。その話を聞いてナウラは胸を撫で下ろした。カルフ自身も悪い人間ではないのだろう。ナウラは彼をまじまじと見つめた。ただ東の国から来たというだけで、こっちの人間となんら変わりはない。きっと食べたところで味は変わらないのだ。
まぁ、肉付きは悪そうなやつだが……。
ナウラはゴクン、と一度喉を鳴らした。しかし、いつもと唾液の量が違うことに違和感を覚えた。普段ビスカ以外の人間を見ると、本能が先走って腹の虫が鳴いたりするのだが、カルフ相手には寧ろそんなものは湧かず、代わりに見るだけで苛立ちが込み上げる。
この男は一体、何者なんだ……。
得体の知れないその感情に困惑し、再びカルフを睨んだ。しかし、その視線はビスカの腹の虫によって他へと移された。
「あら、私たち朝ご飯を食べてないわ」
ビスカは頬を赤らめ、口に手を当てた。恥ずかしがった彼女に、ナウラの心臓がまたキュッと掴まれる。それが心地良い痛みと感じ、ナウラは優しく微笑むと、「今朝はパンケーキですよ。直ぐに温め直します」と言ってキッチンへ、いそいそと戻って行った。
カルフはしばらくビスカの家に滞在した。彼は直ぐにでも出立しようとしたのだが、足下がふらついたため、ビスカとランプに止められたのだ。そのせいでナウラの寝室はカルフに暫く占領され、ソファをベッド代わりにしなければならなかった。身長の高いナウラが寝転ぶと膝から下が飛び出るため、ビスカ
は笑った。ビスカが笑うならこのままでも良いとは思ったが、ビスカは一日中カルフの心配ばかりするので、その気持ちは眠る前のほんの一瞬で毎晩萎んでいった。
ある夜のことだった。カルフが眠り、ナウラがソファで眉間に皺を寄せながら眠ったのを確認したランプは、寝支度をしているビスカのもとにやって来た。
「ねぇ、ビスカ。本当に良いの?今日も何もなかったから良いけれど、いったいこれで何人目だい?」
ランプは眉をハの字に寄せ、シーツの皺を隈なく綺麗に伸ばしているビスカに尋ねた。
「……何人目かしらね」
ビスカがとぼけると、ランプは細くて小さな腕を組んだ。
「ボクは心配で言っているんだよ」
「えぇ、わかっているわ。でも、困っている時はお互い様でしょう?」
「だけどさぁ……」
ランプはうんざりだと、言わんばかりの大きなため息を吐いた。
「そのうち本当に連れていかれちゃうよ?」
「あら、その時はランプもついて来てくれるでしょう?」
「まさか。ボクは嫌だよ、あんな人気もない辛気臭い山なんか行きたくないね」
ランプが嫌味をたっぷりと含んで答えると、ビスカはくすりと笑う。
「大丈夫よ。今回もなんとか送り出すだけ。きっとなんとかなるわ」
「本当に?」
「えぇ、本当に。さぁ、もう梟が鳴いているわ。身体を冷やす前に眠りましょう」
ビスカはベッドに潜ると、ランプが入れるように毛布を持ち上げた。ランプは納得のいっていない顔をしていたが、ぴょんとベッドに飛び乗ると、「おやすみ、ビスカ」と一言呟いてビスカの真横で丸くなった。
「おやすみ、ランプ」
きっと、今回も大丈夫よ……。
自分にそう言い聞かせるように、ビスカも静かに瞼を閉じた。
ある日の昼のことだった。カルフがビスカに手伝いを申し出た。
「流石に甘え過ぎた。明日、ここを出て自国へ向かうよ。だから今日はせめて最後に何か手伝わせて欲しいんだ」
「まぁ、もう言ってしまうのね。寂しくなるわ」
ビスカは本当に寂しそうに言った。毎日眠るまで一緒に付き添っていたのだ、彼女の中に親切心とは別の感情があっても、誰も不思議には思わないだろう。そしてまたカルフも同じだと、ナウラは二人を交互に見て思った。ただそれを喜ばしいとは微塵も思えなかった。
「じゃあ、ナウラと一緒に森へ行って林檎を取ってきてくれるかしら」
自分の名前が呼ばれ、ナウラはハッとした。
「あぁ、お安いご用だ。行こう、ナウラ。案内を頼むよ」
カルフはナウラの背中をポンと叩くと、玄関口に置きっ放しのバスケットを持って外へ出た。ナウラが恨むような目でビスカの方を見ると「よろしくね」とにこりと微笑んだ。
林檎の木は湖の近くにあった。ナウラは道中、カルフに尋ねた。
「……どうして旅人に?」
「あぁ、自国だけじゃ退屈でね。色んな国の色んなものや人に出会いたかったんだ」
カルフは一瞬困った顔をしたが、両手を広げて大袈裟に語った。ニカっと笑って見える白い歯が嫌味のように見え、ナウラは眉を顰めた。
「そうですか。西の国はどうでしたか?山賊に魔王、意地悪な町が多くて散々なのでは?」
ナウラの言葉にカルフは苦笑いをした。
「確かに、行く町全てに警戒されたよ。他国の人間はこの国にとって異端なんだろう。それに、東の国は魔王の棲家だと思っている人が多いのも知った。東の人間は魔王の手先だと、そう言われたからね」
ナウラは黙ってその話に耳を傾ける。確かに魔王は東の国寄りの山に、館を建てひっそりと住んでいた。
「仕方ありませんよ。魔王は西の国の人にとって恐怖の象徴ですから」
同情する振りをしてナウラは答えた。カルフは困ったように笑う。
「恐怖か……。まぁ、確かに彼はそういう誤解の下に生まれたやつだものな」
「……どういう意味です?」
ナウラは思わず足を止めた。
誤解だって?ビスカを付け狙うやつが?
「あぁ、実はね、西の国に入って直ぐのことだよ」
カルフは得意気にそう言って続けた。
「俺は西の国の魔王に出会ったんだ。あの山を越えなきゃ他の町や村には行けないだろう?最初はびびったさ。魔王だ、殺される!ってね。でも彼はただ、一人が寂しいだけだったんだ。出会い頭に『西の国を巡るなら、一晩泊まって行け』と言われたんだ」
カルフはまるで自分が魔王だというように、悲しそうに答えた。
「彼は東の国の人間の話を聞きたがったよ。国境は東の国の魔女によって魔王には見えないようになっているから、尚更気になったみたいでね。俺は一宿一飯の恩を返すために一晩で話せるだけたくさんの話をしたんだ。話し相手が飛竜だけだった彼は、俺が返す言葉に心底喜んでいた。その会話の中で聞いたんだ。西の国には魔王にも優しくできる魔女がいるって……。それがビスカなんだろう?」
ナウラは目を丸くした。近くて魚の跳ねる音がし、もう湖の近くまで来ていた。
「まさか。カルフ、あなた魔王という名の別の者に会ったのではありませんか?」
彼が話す魔王は、昔からこの国に伝わる魔王とはまるで人が違い、別人の話を聞いているようだった。しかし、カルフは真剣な顔で首を振る。
「いいや。彼は本物の魔王だったよ。それで、俺は約束したんだ」
「魔王と?それはまた厄介なことを……」
ナウラが呆れながら気の毒そうに言うと、カルフは苦笑いを浮かべた。
「あぁ、君の反応を見てからは厄介な約束をしてしまったって思うよ……」
そして、カルフは溜めるように黙り込む。
ナウラが催促するように「なんです?」と聞くと、観念したように口を開いた。
「魔王に、魔女を見つけたら連れてくる約束をしてしまったんだ」
太陽が沈み始め、空が紫色に変わる。ビスカは不安そうに窓の外を見ていた。
「ビスカ、あの二人なら平気だよ。また山賊が出てもナウラがついているんだから」
ランプが彼女の膝を優しく撫でながら言った。昼に出掛けて行ったナウラとカルフはまだ帰って来ていなかった。
「えぇ……。でもなんだか胸騒ぎがするの。とても、嫌な感じよ」
湖まではそこまで距離があるわけでもない。道中に何かあったのだろうか。不安が募って、ビスカはランプを抱き上げるといつもよりきつく抱きしめた。
それから少しして、ナウラだけが戻って来た。昼間持って行ったバスケットにはぎゅうぎゅうに林檎が入っている。
「お師匠様、ただいま帰りました」
「お帰りなさい。ナウラ、カルフはどうしたの?」
ビスカはドアを閉めながら森の奥へ視線を投げた。もうすっかり当たりは暗くなっていて、目線の先は真っ暗で何も見えない。
「カルフは……もう国へ向かいました」
「えぇっ、荷物も持たずに?」
ランプがバスケットを受け取りながら言った。バスケットに詰められた林檎がポロリと一つ転げ落ちる。
「山賊に殆ど取られてしまったから、何もなくても同じだと言っていたよ」
「そんな……。てっきり明日の出発だと思ってたのに……。せめて最後に挨拶ぐらいしたかったわ」
ビスカの声がだんだんと萎んでいく。寂しそうなその表情に、ナウラの心臓がキリキリと痛んだ。
「山賊に襲われたなら尚の事、朝を待ってから出てけば良いのに」
ランプは眉を顰めてそう言った。
「あぁ、僕もそう思う。でも、お師匠様やランプの顔を見たらもっと出て行けなくなるからって言っていたんだ」
だから送り出す他なかった、とナウラは肩を落としながら言った。するとビスカは窓の外を見ながら言った。
「……ナウラ、あなたが今帰って来たということはついさっき別れたということかしら?」
「……えぇ、まぁ」
ナウラは一拍おいてそうだと答えた。すると、その答えを聞いたビスカは、玄関に立て掛けていた箒を掴んだ。
「もしかしたら追いかければまだ間に合うかもしれないわ」
「ええっ?今から追いかけるの?」
目を丸くしたランプが、拾ったばかりの林檎をまた床にボトンと落とした。
「もう日も暮れて何も見えませんよ」
「大丈夫、ランプに照らして貰えばいいもの」
「そりゃ、来いと言われるなら一緒に行くけどさぁ、ボクが照らせる光は少しなんだよ?それにビスカだって山賊に襲われるかもしれないじゃないか!」
「知り合いが襲われるよりマシでしょう。ナウラは留守をお願いよ」
ビスカはそう言うと、ランプを抱き上げた。すると、ナウラがその腕を掴む。その拍子にランプが腕から投げ出された。
「お師匠様、行ってはなりません」
「ナウラ、離してちょうだい。嫌な予感がするの。魔女の勘は当たるのよ。さぁ、私を行かせて」
しかしナウラは首を横に振る。窓の外では大きな月が暗い夜空でオレンジ色に光っていた。
「行ってはなりません」
「ナウラ、離して」
ナウラは頑なに離そうとはせず、首をまた横に振った。
「……駄目です」
「お願いよ、行かないと私……っ」
「…………嫌です」
ナウラの声が萎んでいく。必死なビスカの声が胸に痛いほど刺さった。ビスカは恐る恐るナウラの顔を覗き込んだ。眉間を寄せて出来た皺が深い。瞬きを忘れた目が緑色に染まり、切れ長の目がいつも以上に細長く伸び始め、ビスカはハッと息を飲んだ。
「ビスカ?」
ランプが心配そうに駆け寄った。二人の顔を見上げるが、ナウラの顔は彼の長い髪に邪魔されてあまり見えなかった。
「……ナウラ、あなた……」
ビスカの唇は微かに震えていた。するとナウラはビスカの口から何か言われる前に彼女の腕から手を離した。
「カルフは……僕が探します。お師匠様はここにいてください。ランプ、後は頼んだ……」
頭を深く下げたままナウラは捲し立てるようにそれだけ言うと、ドアを思い切り開けて飛び出した。
「ナウラ!」
暗い闇の中に消えて行くナウラに向かって、ランプが叫ぶ。ビスカは目を見開いたまま、その消えて行く背中を見つめるしか出来なかった。
ナウラは走った。暗い森の中をひたすら走った。やがて前方に小さな光が見えた。そこへ向かって走ると、月明かりに反射した湖がキラキラと輝いていた。ナウラは光に誘われるように湖の辺りへ走った。地面がだんだんと抜かるみ、履いていたブーツが重くなった。ナウラはそのまま勢いよく湖に飛び込んだ。
ダン、という音が背面で鳴る。水に空気が入り込み、ぼこぼこと気泡が頭の上を上っていく。
あぁ、終わった……。終わってしまった。僕の弟子入りもここまでだ……。
そしてナウラは沈みながら思った。もっと上手く出来たなら、と。あの時、ナウラは彼女をどうにかして魔王の元へ連れて行く手助けをしてくれないかと頼んできたカルフを食べたのだった。魔獣の姿を晒し、恐怖で震えるカルフを大きな爪で襲った。何も残さないように綺麗に飲み込んだのだが、タイミングを間違えた。ビスカを連れ去ろうとする彼に気が立って、衝動を抑えることが出来ないまま彼を殺したのだ。
あんな分かりやすい嘘、お師匠様はもう全部、気がついているのだろう……。僕が町へ行くたびに少しずつ町人が消えていることも、きっと気がついているに違いない。今日で確信をついて、きっと僕を破門にするはずだ。だったらいっそこのまま湖に沈んでしまった方がましだ。洞窟に戻って引き篭り生活に戻るのも、ビスカとランプを殺して自分の糧にしてしまうのも、もうどちらも選べないのだから……。だったらいっそ、消えてしまった方が良い。それに、あんな必死なお師匠様の顔は、初めて見た。だからこそ胸が苦しくて、締めてもいない首が締まっていく。あの人のそばにいると正常な呼吸など忘れてしまいそうだった。
すると、その時だった。ナウラは大きな音と共に下から水に押し上げられた。勢いよく押し上げられ、水面から身体ごと投げ出された。眼前に広がったのは無数に煌めく星々と、オレンジ色に光る不気味な月。視界に入った全てが眩しくて、思わず声が出た。
「なっ……!」
ナウラが驚いて瞬きを数回ほどした後、耳に入ってきたのはいつもの優しい彼女の声だった。
「ナウラ!」
声の方に視線を向けると、箒の柄をナウラに向けているビスカが立っていた。その足元にはランプがいて、心配そうにナウラを見上げていた。
「今降ろすわ!」
ビスカが箒をゆっくりと湖の辺りへと向けた。すると、宙に浮いたままナウラの身体もそちらへと移動する。抜かるんだ地面に降ろされると、ナウラのもとへビスカが駆け寄った。
「あぁ、良かった……!心配したのよ、夜の森は危険が多いから。あぁ、やっぱり!暗がりで湖に落ちてしまったのね?」
ビスカはナウラの頬に両手を当て、怪我はないかとぶつぶつ呟きながら彼の顔をまじまじと見つめた。
「お師匠様、どうして……」
「……ごめんなさい、ナウラ。あなたにずっと黙っていたことがあるの」
「僕に?」
それは僕の方じゃないのか、とナウラは訝しげに彼女を見た。
「……カルフはきっと東の国の遣いよ。旅人なんてきっと嘘なの。魔王と繋がっているんだわ」
「え?」
どういうことだ?カルフが遣い?魔王と繋がっている?魔王と繋がりがあるなんて、飛竜ぐらいだろう。彼から人間の味がしたはずだった。飛竜の味など知らないが、彼は紛れもなく人間の男だった。
混乱したナウラはぽかんと口を開け、彼女とランプを交互に見た。すると、観念したようにビスカが口を開いた。
「東の国はね、西の国と違って魔法には寛大なのよ」
ビスカはパチンと手を叩いた。ナウラの頭上に大きなタオルが現れ、そのまま頭に落下した。
「きちんと拭かないと、風邪をひいてしまうわ……。えぇ、それであっちの国の王様はね、魔王にも凄く興味があるみたいなの」
「魔王に……ですか?」
ナウラが濡れた髪を言われた通り拭きながら尋ねると、ビスカはゆっくり頷いた。
「えぇ。東の国には魔王はいないの。でも西の国には恐れられている魔王がいる……。これでどういうことか分かるかしら?」
ナウラは黙り込む。なんとなく察したが、きっとビスカはこれを望んではいない。彼女は人一倍お人好しで、人間を愛しているからこそ、この答えをよく思っていないのだ。
「……東の国は魔王の力を欲しがっている……?」
「そう。だから私を連れて行こうとして兵士や雇った国民を旅人と偽らせて何度も送り込んできているの。魔王に私を献上するつもりで……だけど、大抵は魔王の城から出て山賊に襲われてしまうのよ」
ビスカは魔王の住む山の麓には山賊の根城があると言った。そこで見ぐるみを剥がされ、ここへ辿り着いた頃にはだいぶ弱ってしまっているという。カルフも同じだったのだろうと、ビスカは言った。
「どうしてそれをお師匠様が……?」
「ずっと前に助けた旅人の荷物から東の国の王から魔王への書状が出て来たんだ」
勝手にみるのは悪いと思ったけど、玄関の前に落ちていたから誰かからの手紙だと思って見たのだとランプは言った。
「まぁ、ボクらに手紙を寄越す人はいないんだけどさ。その紙っぺらに『魔女を献上します。その代わり、あなた様のお力をお借り出来ませんか』ってさ、そんなことが書いてあったんだ。それに、その紙っぺらには東の国の王家の紋様が入った印が押されてたんだ」
この国で魔女を欲しがっているのは魔王以外にいない。そう思った二人は、助け出した人達を送り出す日に『魔女には出会えなかった』という別の記憶を植え付けるためにある薬を飲ませていたのだと言った。
「カルフの荷物には隣国の王家の紋様があったの。だからきっとね、そういうことでしょう?」
ビスカが悲しそうに眉をハの字に寄せて言った。
「どうして黙っていたんです……?僕も知っていれば何か出来たはずですよ」
ナウラはタオルを握り締めながら言った。微かに唇が震え、心臓がピリっと痛んだ。いつもと違う痛みに、ナウラは思わず胸に手を当てた。
そんな奴らが何度も彼女を連れ去ろうとここへ来ているなんて……!
こんなにも心優しくて温かい人を騙そうとしたカルフやその者達を心底恨んだ。それと同時にナウラは、自分はなんて情けないんだと思った。彼女を想うあまり、自分の感情のままに動いてしまった。カルフを食べてしまう前に、魔王の動向や東の国の真意だって問いただすことが出来たろうに。そうすれば、もっと安全で安心できる生活を送らせてあげれただろうに、と。
「ビスカはナウラに心配させたくなかったんだよ。だから大目に見て欲しいんだ。その……予定よりも一日早くカルフは出てっちゃったんだけどさ」
ランプが前足をナウラの膝に置き、優しく言った。ナウラの怒りに満ちた顔が一瞬で和らいでいく。
「ごめんなさい、ナウラ……あなたにもきちんと話しておくべきだったわ」
「……お師匠様」
肩を落とすビスカにナウラはゆっくりと腕を伸ばす。彼女を引き寄せ抱きしめると、その小さな肩に顔を埋めた。
「ナウラ……?」
「お願いです、お師匠様。僕にあなたの心配をさせてください」
ナウラは強くビスカを抱きしめた。足元で大きく目を見開いたランプが二人を見上げる。ナウラの身体にすっぽり隠れたビスカは、驚きと恥ずかしさに顔を赤らめた。そして、ナウラの背中に腕を回すと、小さな力で抱きしめ返す。少し狭いと感じるだけの力に、ナウラの胸も熱くなった。
「ふふふ。ありがとう、ナウラ」
「弟子は師匠のことをいつも考えていることを忘れないでください……」
「ですって、ランプ」
照れ隠しにビスカはランプへ話を振った。すると、嬉しそうにランプが後ろ足だけで立ち上がると、腰に手を当てふんぞりかえる。
「ボクだってビスカを心配してるよ。もちろんナウラのことだってね。だからその……カルフがいなくなったことだけど、これからどうするの?」
「そうね……魔法薬を飲ませる前にいなくなってしまったし……」
するとナウラはビスカを抱きしめる力を緩めた。
「それには及びません……」
「え?」
オレンジ色の月がナウラを照らす。自分の顔を見上げた二人の顔を交互に見たナウラは再び目尻を下げた。
「あの者は僕が食べてしまいましたから」
ヒュ、という音がビスカの喉から漏れた。冷たい風が三人のそばで過ぎ去った。
「……食べ、食べた?え、今、そう言ったの?」
最初に口を開いたのはランプだった。口をパクパクとさせ、全身の毛が逆立っていた。
「まさか、本当に……食べてしまったの?」
ビスカが恐る恐るナウラに尋ねる。すると、ナウラはゆっくりと頷いた。
「えぇ。ずっと黙っていてすみませんでした...…。僕は人間を食べる魔獣、陸ドラゴンの一種です。あなた達が僕に黙って来たことがあるように、僕にもずっと言えなかったことがありました。ですが、心の底から誓えます。僕はお師匠様とランプは決して食べることはないと」
ナウラが堰を切ったように話し出した。ビスカもランプも黙ってそれを聞いているが、表情はいつも以上に強張り、さっきまでの柔らかさがどこかへ消えてしまっている。その表情を目の当たりにしたナウラは、一瞬だけ目を大きく見開くと、口を噤んだ。途端に鼻の奥がつうんと痛み、目頭が熱くなった。
「……ごめんなさい、きっと何を言っても無駄でしょう。僕は人間を食べてしまいました。今でも人間を欲するのは事実です。ただ、カルフを食べた理由は食欲のためではなかった……。あなた達が話したように、彼は魔王のもとへビスカを連れて行きたいと言った。魔王は良いやつだとも言っていました。ですが、そんなことはどうしたって信じられない……。僕は魔王が村を襲っているところを見ているし、魔王のせいでビスカやランプが傷つけられた事だって知っています。だから……!どうしてもあなた達から遠ざけたくて、その気持ちが止められなかった……止められなくて、彼を一飲みにしたのです……。怖がるのは当然です。僕は虫が良すぎることを言いました……」
ナウラは頭を下げ、ビスカの身体を自分から離した。
「ナウラ……?」
「今まで、ありがとうございました……。人間をずっと食べ物だと思っていた僕に、優しさをくれたのはあなた達です。ですから、僕があなた達を食べないうちに僕から逃げてください……いや、僕を破門にするべきだ」
鼻を啜る音を交え、震える声でナウラは言った。緑に光る瞳に涙がじわりと滲む。嗚咽と共に潤んだその瞳からポタポタと大粒の涙がこぼれ落ちた。
離れたくない、そう強く思うのに、同時に離れなければならないと思う。苦しくて、切なくてやるせなくて、自分のことが憎くて仕方ない。人間を食べる習性さえなければ良かった。彼らを怖がらせたくなかった。
もっと一緒に、傍にいたかった…………。
次々と溢れる感情と涙が追いつかず、またも嗚咽を漏らす。
「まぁ……」
ビスカは泣きじゃくる目の前の魔獣に腕を伸ばすと、その頭を自分の胸へと抱き寄せた。ランプも不安そうな目でそれを見つめていたが、数秒後にはグズグズと鼻を鳴らす魔獣の足に尻尾を巻きつけ抱きついた。
「泣かないで……ナウラ。私達を思ってのことだったのでしょう」
「そうだよ。確かに人間を食べるって怖いことだけどさ……。ボクらとあんなに長い時間一緒にいたのに、食べなかったんだろ。さっきのは嘘じゃないってわかるよ」
ランプの言葉に、ビスカが頷く。小さな手がナウラの頭を撫でた。
「ナウラ、あなたさえ良ければ私達はあなたとまだ一緒に暮らしていきたいの。破門になんかしたくないわ。私が弟子を置いて帰ると思うの?」
ナウラが嗚咽混じりにぐずぐずになった顔を上げた。
「良い……んでしょうか……?また、僕は間違いを犯すかもしれないのに……」
ナウラの声は震えていた。頬から流れる涙をランプが長い尻尾で拭うと、ビスカが優しく微笑み、ナウラの額にキスを落とした。
「良いのよ。それを教えるのが師匠の勤めだもの」
真っ赤に染まったビスカの頬に、ナウラは目を奪われた。自然と込み上げる涙が止まり、代わりにキスを落とされた額が熱くなった。
「でも人間を食べるのはダメだね。カルフみたいなやつでもさ、彼にもボクらみたいに優しい師匠がいたかもしれないんだ」
ランプがナウラの肩に飛び乗り、頬を擦り寄せる。兄弟子としてこれからは厳しくしてやるから、と付け加えた。
「……あぁ、わかったよ。肝に銘じておく」
「ふふふ。なら、また湖に落ちる前に帰りましょう?私達はお腹ぺこぺこなの。ナウラの作る晩御飯が食べたいわ」
ビスカがナウラの手を引いて立ち上がる。片方の手は離さず、その手のひらをぎゅっと握りしめた。同時にナウラの心臓もまたぎゅっと苦しくなる。それはさっきの苦しさとは違い、心地良い痛みだと感じた。
「僕の、ですか?」
「ボクもお腹すいた!ナウラ、今日の晩御飯なに作るの?」
「そうだなぁ……」
すると、ナウラはバスケットいっぱいに林檎をとってきたのを思い出す。
「アップルピザはどうですか?シナモンとはちみつをたっぷりかけて、うんと甘くして……」
すると二人は目をキラキラと輝かせた。ナウラは細くて小さなビスカの手を握り返すと、肩にランプを乗せ、片手にタオルを引っ掛けた。そして「ではさっそく帰って支度をしましょう。こんな夜更けに出歩いていると、魔獣に食べられてしまうのがオチですから」と、調子の良いことを言いながら、三人の暮らす家へと向かったのだった。
そんなある日のことだった。最近は甲斐甲斐しくビスカの代わりにナウラが朝食の準備をしていた。今日の朝食は昨晩のうちに仕込んでおいた生地を焼き、庭の木になった林檎で作ったジャムをたっぷりかけたパンケーキと、じゃがいものポタージュだった。テーブルクロスを新しい物に変え、皿を三枚並べた隣にナイフとフォークを置く。水差しを中心に置いて、三人分のグラスにレモンを落としたら水を注いだ。ナウラは食事の準備に魔法は使わない。ビスカのように微調整はまだ出来ず、まじないをかけようものならおかしな食べ物に変わってしまうのだ。
よし、あとはお師匠様達の帰りを待つだけだ。
ビスカとランプはナウラが朝食の準備をしている間、森の中心にある湖の畔へ出掛けている。そこにはたくさんのたんぽぽが生えていて、ビスカとランプはそれを摘みに出掛けていた。片手に収まる程度に詰み、ついでにヨモギやドクダミの葉も摘む。それらは全部ビスカが自ら薬や化粧品、お茶に変えていた。
しかし、その日に限っていつもの時間に二人は帰って来なかった。ナウラは家のドアを開け、湖の方を見つめる。ランプのような聴力は持っていないため、見たところで何かが変わることはない。
どうしたのだろう……。
こうしている間にふっくらと膨らんだパンケーキは萎む一方だ。居ても立っても居られず、ナウラはエプロンを椅子に引っ掛けるとドアを閉めた。湖へと迎えばどこかであえるはずだと、そう思った時だった。
「もう少しよ、頑張って」
聴き慣れた声が聞こえてきたのだ。何かを引き摺っている音と、彼女の弾んだ息も聞こえ、ナウラは駆け寄った。
「あぁ、ナウラ!ちょうどよかったわ。手を貸してちょうだい」
ナウラはギョッとした。ビスカの背中にはナウラと変わらない背丈の人間の男が全体重を彼女に預け、気を失っていたのだ。
「ナウラ、早く代わって!ビスカが潰れちゃいそうなんだ」
男の足を申し訳程度に支えていたランプが下から叫ぶ。しかしビスカはナウラの姿を見て、助かったとその場にへたり込む。咄嗟に手を伸ばし、膝をつく前に彼女を支えると、ナウラは彼女が背負っていた人間を片手で引き離した。
「なんです、それ」
ナウラは顎で男性を指した。ビスカに覆い被さり、全体重を預けたかと思うと苛立ちが増した。
「旅人さんよ。湖で倒れているのを見つけたの。服の紋章が東の国のものだから、きっと遠くからの旅で疲れてしまったんだわ」
東の国だって?
ナウラは顔を顰めながら男性を背負い、ビスカの後ろを歩いた。確かに知らない土地の香りがしたが、東の国というは些か引っかかる。西の国と東の国は大きな山と深い渓谷を挟んで国境を築いているのだと、最近読んだ本で知った。更に言えば、その国境付近に聳え立つ大きな山に魔王が住む館があると言われている。この森のすぐ真横にあった村が焼かれて一年しか経っていないのだ。魔王を恐れているはずの人間が、魔王の動きに敏感にならないはずはない。下手したら旅先の滞在場所で命を落としかねないのだ。
「この者は何用で西の国へ?」
「さぁ、わからないわ」
眉をハの字に寄せてビスカが答えた。家のドアを開けると、甘いパンケーキの香りが頬を撫で、思わずうっとりした表情を見せる。
「まぁ、良い香り!」
「本当だ、早く食べたい!」
「ランプ、少しだけ待ってちょうだい。ナウラ、まずは彼をあなたのベッドに」
「……はい」
ビスカ以外の人間をベッドに寝かせるなど本当は物凄く嫌だったが、ナウラは彼女に従って寝室へ向かうと旅人をベッドの上に下ろした。
「う……うぅ……」
「ランプ、お水をお願い。ナウラは彼の分の食事の準備よ」
ビスカに言われるまま、ナウラとランプは動いた。ランプはテーブルの水差しとグラスを一つずつ魔法で浮かせると、それらをサイドテーブルに置いた。ナウラは鍋のポタージュを温めると、木製のボウルに入れて持ってきた。
「ありがとう」
ビスカは男性を丁寧に抱き起こす。ナウラの目がいつも以上に細くなるのをランプが気まずそうに見上げた。
「彼が作ったポタージュよ。身体も温まるし、それにとても美味しいの。さぁ、食べて」
ビスカはナウラからボウルを受け取ると、男性に手渡すが、彼の手はスプーンを上手く握れないほど震えていた。
「これじゃあ、食べられないんじゃない」
ランプがベッドに乗り出し、心配そうに言った。ならそのまま寝かせておけばいい、ナウラはそう思ったが、ビスカはベッドに落ちたスプーンを拾うと、旅人の口にポタージュを運んだ。
「さぁ、食べて。きっと良くなるから」
小さく開くその口にスプーンを差し込むと、旅人の喉がゆっくりと動いた。
「ほらね、とても美味しいでしょう?」
ふふふ、と嬉しそうに笑うビスカの後ろで、ナウラは下唇を噛む。ランプが罰の悪そうな顔をし、ナウラの腕を引いた。
「なんだよ」
「あれはビスカの得意なお人好しだ。いちいち気にしてたら身が持たないよ。なに、心配ないさ。キミみたいに名前まで忘れてるってことはそうそうないよ」
弟子になることはない、とランプはそう言ってナウラを宥めた。しかし、ナウラの中では弟子が出来る出来ないは実際のところどうでも良かった。彼女が自分の目の前で異性に食べ物を食べさせるという行為を見せたことに苛立っていたのだが、その苛立ちの理由ははっきりとしないことにもまた苛ついた。
「そうかい。君がそう言うならそうかもしれないね」
ナウラは舌打ち混じりで答えた。
どうしてこんなに腹の奥が熱いのかは分からない。ただ、あの男に腹が立ち、その男のそばにいようとするビスカにもむかついた。しばらく彼らの様子を鋭い眼光で見ていたが、そのうち呆れたランプに部屋の外へと連れられた。
旅人の名前はカルフと言って、ビスカの言っていた通り東の国からやって来た旅人だった。頬は痩せこけているが、栗色の短髪が綺麗な青年だった。背丈はビスカよりも少し高いぐらいで、ナウラよりは低い。ビスカとの距離が自分より近くに見え、ナウラは面白くない顔をした。カルフは西の国の様々な地域を回っていたが、ある時山賊に出会って財布を全て盗られてしまったという。魔獣を狩って素材を売るにしろそこまで腕の立つハンターでもないカルフは、木の実などを食べながら移動していたそうだ。
「すぐに国の騎士団に掛け合えば良かったのに」
話を聞いたランプが溜息混じりにそう言った。しかし、カルフは残念そうに首を横に振る。
「ここは東の国じゃないからね、俺がどうこう言ってすぐに対応してもらえる訳ないさ」
「でも西の国で起きたことでしょう?」
困っている人を見捨てるなんて出来るかしら、とビスカは言った。ランプとナウラはその言葉に顔を見合わせ黙り込む。人を見捨てることを簡単にする国だからこそ、魔女の扱いが酷いのだろう。直ぐに気が付かない彼女に、ランプは深い溜息を吐いたが、ナウラは寧ろそういうところこそ微笑ましく思った。
「国同士の問題はそう簡単とはいかないんだ。君は優しいね。他国の俺を不審がらずに助けてくれるなんて」
カルフは頬を赤らめて言う。もちろんビスカにだけでなくナウラやランプにもお礼を言った。彼の話では東の国には嵐の魔女の言い伝えはない。寧ろその力は尊敬され、重宝される国だと言った。その話を聞いてナウラは胸を撫で下ろした。カルフ自身も悪い人間ではないのだろう。ナウラは彼をまじまじと見つめた。ただ東の国から来たというだけで、こっちの人間となんら変わりはない。きっと食べたところで味は変わらないのだ。
まぁ、肉付きは悪そうなやつだが……。
ナウラはゴクン、と一度喉を鳴らした。しかし、いつもと唾液の量が違うことに違和感を覚えた。普段ビスカ以外の人間を見ると、本能が先走って腹の虫が鳴いたりするのだが、カルフ相手には寧ろそんなものは湧かず、代わりに見るだけで苛立ちが込み上げる。
この男は一体、何者なんだ……。
得体の知れないその感情に困惑し、再びカルフを睨んだ。しかし、その視線はビスカの腹の虫によって他へと移された。
「あら、私たち朝ご飯を食べてないわ」
ビスカは頬を赤らめ、口に手を当てた。恥ずかしがった彼女に、ナウラの心臓がまたキュッと掴まれる。それが心地良い痛みと感じ、ナウラは優しく微笑むと、「今朝はパンケーキですよ。直ぐに温め直します」と言ってキッチンへ、いそいそと戻って行った。
カルフはしばらくビスカの家に滞在した。彼は直ぐにでも出立しようとしたのだが、足下がふらついたため、ビスカとランプに止められたのだ。そのせいでナウラの寝室はカルフに暫く占領され、ソファをベッド代わりにしなければならなかった。身長の高いナウラが寝転ぶと膝から下が飛び出るため、ビスカ
は笑った。ビスカが笑うならこのままでも良いとは思ったが、ビスカは一日中カルフの心配ばかりするので、その気持ちは眠る前のほんの一瞬で毎晩萎んでいった。
ある夜のことだった。カルフが眠り、ナウラがソファで眉間に皺を寄せながら眠ったのを確認したランプは、寝支度をしているビスカのもとにやって来た。
「ねぇ、ビスカ。本当に良いの?今日も何もなかったから良いけれど、いったいこれで何人目だい?」
ランプは眉をハの字に寄せ、シーツの皺を隈なく綺麗に伸ばしているビスカに尋ねた。
「……何人目かしらね」
ビスカがとぼけると、ランプは細くて小さな腕を組んだ。
「ボクは心配で言っているんだよ」
「えぇ、わかっているわ。でも、困っている時はお互い様でしょう?」
「だけどさぁ……」
ランプはうんざりだと、言わんばかりの大きなため息を吐いた。
「そのうち本当に連れていかれちゃうよ?」
「あら、その時はランプもついて来てくれるでしょう?」
「まさか。ボクは嫌だよ、あんな人気もない辛気臭い山なんか行きたくないね」
ランプが嫌味をたっぷりと含んで答えると、ビスカはくすりと笑う。
「大丈夫よ。今回もなんとか送り出すだけ。きっとなんとかなるわ」
「本当に?」
「えぇ、本当に。さぁ、もう梟が鳴いているわ。身体を冷やす前に眠りましょう」
ビスカはベッドに潜ると、ランプが入れるように毛布を持ち上げた。ランプは納得のいっていない顔をしていたが、ぴょんとベッドに飛び乗ると、「おやすみ、ビスカ」と一言呟いてビスカの真横で丸くなった。
「おやすみ、ランプ」
きっと、今回も大丈夫よ……。
自分にそう言い聞かせるように、ビスカも静かに瞼を閉じた。
ある日の昼のことだった。カルフがビスカに手伝いを申し出た。
「流石に甘え過ぎた。明日、ここを出て自国へ向かうよ。だから今日はせめて最後に何か手伝わせて欲しいんだ」
「まぁ、もう言ってしまうのね。寂しくなるわ」
ビスカは本当に寂しそうに言った。毎日眠るまで一緒に付き添っていたのだ、彼女の中に親切心とは別の感情があっても、誰も不思議には思わないだろう。そしてまたカルフも同じだと、ナウラは二人を交互に見て思った。ただそれを喜ばしいとは微塵も思えなかった。
「じゃあ、ナウラと一緒に森へ行って林檎を取ってきてくれるかしら」
自分の名前が呼ばれ、ナウラはハッとした。
「あぁ、お安いご用だ。行こう、ナウラ。案内を頼むよ」
カルフはナウラの背中をポンと叩くと、玄関口に置きっ放しのバスケットを持って外へ出た。ナウラが恨むような目でビスカの方を見ると「よろしくね」とにこりと微笑んだ。
林檎の木は湖の近くにあった。ナウラは道中、カルフに尋ねた。
「……どうして旅人に?」
「あぁ、自国だけじゃ退屈でね。色んな国の色んなものや人に出会いたかったんだ」
カルフは一瞬困った顔をしたが、両手を広げて大袈裟に語った。ニカっと笑って見える白い歯が嫌味のように見え、ナウラは眉を顰めた。
「そうですか。西の国はどうでしたか?山賊に魔王、意地悪な町が多くて散々なのでは?」
ナウラの言葉にカルフは苦笑いをした。
「確かに、行く町全てに警戒されたよ。他国の人間はこの国にとって異端なんだろう。それに、東の国は魔王の棲家だと思っている人が多いのも知った。東の人間は魔王の手先だと、そう言われたからね」
ナウラは黙ってその話に耳を傾ける。確かに魔王は東の国寄りの山に、館を建てひっそりと住んでいた。
「仕方ありませんよ。魔王は西の国の人にとって恐怖の象徴ですから」
同情する振りをしてナウラは答えた。カルフは困ったように笑う。
「恐怖か……。まぁ、確かに彼はそういう誤解の下に生まれたやつだものな」
「……どういう意味です?」
ナウラは思わず足を止めた。
誤解だって?ビスカを付け狙うやつが?
「あぁ、実はね、西の国に入って直ぐのことだよ」
カルフは得意気にそう言って続けた。
「俺は西の国の魔王に出会ったんだ。あの山を越えなきゃ他の町や村には行けないだろう?最初はびびったさ。魔王だ、殺される!ってね。でも彼はただ、一人が寂しいだけだったんだ。出会い頭に『西の国を巡るなら、一晩泊まって行け』と言われたんだ」
カルフはまるで自分が魔王だというように、悲しそうに答えた。
「彼は東の国の人間の話を聞きたがったよ。国境は東の国の魔女によって魔王には見えないようになっているから、尚更気になったみたいでね。俺は一宿一飯の恩を返すために一晩で話せるだけたくさんの話をしたんだ。話し相手が飛竜だけだった彼は、俺が返す言葉に心底喜んでいた。その会話の中で聞いたんだ。西の国には魔王にも優しくできる魔女がいるって……。それがビスカなんだろう?」
ナウラは目を丸くした。近くて魚の跳ねる音がし、もう湖の近くまで来ていた。
「まさか。カルフ、あなた魔王という名の別の者に会ったのではありませんか?」
彼が話す魔王は、昔からこの国に伝わる魔王とはまるで人が違い、別人の話を聞いているようだった。しかし、カルフは真剣な顔で首を振る。
「いいや。彼は本物の魔王だったよ。それで、俺は約束したんだ」
「魔王と?それはまた厄介なことを……」
ナウラが呆れながら気の毒そうに言うと、カルフは苦笑いを浮かべた。
「あぁ、君の反応を見てからは厄介な約束をしてしまったって思うよ……」
そして、カルフは溜めるように黙り込む。
ナウラが催促するように「なんです?」と聞くと、観念したように口を開いた。
「魔王に、魔女を見つけたら連れてくる約束をしてしまったんだ」
太陽が沈み始め、空が紫色に変わる。ビスカは不安そうに窓の外を見ていた。
「ビスカ、あの二人なら平気だよ。また山賊が出てもナウラがついているんだから」
ランプが彼女の膝を優しく撫でながら言った。昼に出掛けて行ったナウラとカルフはまだ帰って来ていなかった。
「えぇ……。でもなんだか胸騒ぎがするの。とても、嫌な感じよ」
湖まではそこまで距離があるわけでもない。道中に何かあったのだろうか。不安が募って、ビスカはランプを抱き上げるといつもよりきつく抱きしめた。
それから少しして、ナウラだけが戻って来た。昼間持って行ったバスケットにはぎゅうぎゅうに林檎が入っている。
「お師匠様、ただいま帰りました」
「お帰りなさい。ナウラ、カルフはどうしたの?」
ビスカはドアを閉めながら森の奥へ視線を投げた。もうすっかり当たりは暗くなっていて、目線の先は真っ暗で何も見えない。
「カルフは……もう国へ向かいました」
「えぇっ、荷物も持たずに?」
ランプがバスケットを受け取りながら言った。バスケットに詰められた林檎がポロリと一つ転げ落ちる。
「山賊に殆ど取られてしまったから、何もなくても同じだと言っていたよ」
「そんな……。てっきり明日の出発だと思ってたのに……。せめて最後に挨拶ぐらいしたかったわ」
ビスカの声がだんだんと萎んでいく。寂しそうなその表情に、ナウラの心臓がキリキリと痛んだ。
「山賊に襲われたなら尚の事、朝を待ってから出てけば良いのに」
ランプは眉を顰めてそう言った。
「あぁ、僕もそう思う。でも、お師匠様やランプの顔を見たらもっと出て行けなくなるからって言っていたんだ」
だから送り出す他なかった、とナウラは肩を落としながら言った。するとビスカは窓の外を見ながら言った。
「……ナウラ、あなたが今帰って来たということはついさっき別れたということかしら?」
「……えぇ、まぁ」
ナウラは一拍おいてそうだと答えた。すると、その答えを聞いたビスカは、玄関に立て掛けていた箒を掴んだ。
「もしかしたら追いかければまだ間に合うかもしれないわ」
「ええっ?今から追いかけるの?」
目を丸くしたランプが、拾ったばかりの林檎をまた床にボトンと落とした。
「もう日も暮れて何も見えませんよ」
「大丈夫、ランプに照らして貰えばいいもの」
「そりゃ、来いと言われるなら一緒に行くけどさぁ、ボクが照らせる光は少しなんだよ?それにビスカだって山賊に襲われるかもしれないじゃないか!」
「知り合いが襲われるよりマシでしょう。ナウラは留守をお願いよ」
ビスカはそう言うと、ランプを抱き上げた。すると、ナウラがその腕を掴む。その拍子にランプが腕から投げ出された。
「お師匠様、行ってはなりません」
「ナウラ、離してちょうだい。嫌な予感がするの。魔女の勘は当たるのよ。さぁ、私を行かせて」
しかしナウラは首を横に振る。窓の外では大きな月が暗い夜空でオレンジ色に光っていた。
「行ってはなりません」
「ナウラ、離して」
ナウラは頑なに離そうとはせず、首をまた横に振った。
「……駄目です」
「お願いよ、行かないと私……っ」
「…………嫌です」
ナウラの声が萎んでいく。必死なビスカの声が胸に痛いほど刺さった。ビスカは恐る恐るナウラの顔を覗き込んだ。眉間を寄せて出来た皺が深い。瞬きを忘れた目が緑色に染まり、切れ長の目がいつも以上に細長く伸び始め、ビスカはハッと息を飲んだ。
「ビスカ?」
ランプが心配そうに駆け寄った。二人の顔を見上げるが、ナウラの顔は彼の長い髪に邪魔されてあまり見えなかった。
「……ナウラ、あなた……」
ビスカの唇は微かに震えていた。するとナウラはビスカの口から何か言われる前に彼女の腕から手を離した。
「カルフは……僕が探します。お師匠様はここにいてください。ランプ、後は頼んだ……」
頭を深く下げたままナウラは捲し立てるようにそれだけ言うと、ドアを思い切り開けて飛び出した。
「ナウラ!」
暗い闇の中に消えて行くナウラに向かって、ランプが叫ぶ。ビスカは目を見開いたまま、その消えて行く背中を見つめるしか出来なかった。
ナウラは走った。暗い森の中をひたすら走った。やがて前方に小さな光が見えた。そこへ向かって走ると、月明かりに反射した湖がキラキラと輝いていた。ナウラは光に誘われるように湖の辺りへ走った。地面がだんだんと抜かるみ、履いていたブーツが重くなった。ナウラはそのまま勢いよく湖に飛び込んだ。
ダン、という音が背面で鳴る。水に空気が入り込み、ぼこぼこと気泡が頭の上を上っていく。
あぁ、終わった……。終わってしまった。僕の弟子入りもここまでだ……。
そしてナウラは沈みながら思った。もっと上手く出来たなら、と。あの時、ナウラは彼女をどうにかして魔王の元へ連れて行く手助けをしてくれないかと頼んできたカルフを食べたのだった。魔獣の姿を晒し、恐怖で震えるカルフを大きな爪で襲った。何も残さないように綺麗に飲み込んだのだが、タイミングを間違えた。ビスカを連れ去ろうとする彼に気が立って、衝動を抑えることが出来ないまま彼を殺したのだ。
あんな分かりやすい嘘、お師匠様はもう全部、気がついているのだろう……。僕が町へ行くたびに少しずつ町人が消えていることも、きっと気がついているに違いない。今日で確信をついて、きっと僕を破門にするはずだ。だったらいっそこのまま湖に沈んでしまった方がましだ。洞窟に戻って引き篭り生活に戻るのも、ビスカとランプを殺して自分の糧にしてしまうのも、もうどちらも選べないのだから……。だったらいっそ、消えてしまった方が良い。それに、あんな必死なお師匠様の顔は、初めて見た。だからこそ胸が苦しくて、締めてもいない首が締まっていく。あの人のそばにいると正常な呼吸など忘れてしまいそうだった。
すると、その時だった。ナウラは大きな音と共に下から水に押し上げられた。勢いよく押し上げられ、水面から身体ごと投げ出された。眼前に広がったのは無数に煌めく星々と、オレンジ色に光る不気味な月。視界に入った全てが眩しくて、思わず声が出た。
「なっ……!」
ナウラが驚いて瞬きを数回ほどした後、耳に入ってきたのはいつもの優しい彼女の声だった。
「ナウラ!」
声の方に視線を向けると、箒の柄をナウラに向けているビスカが立っていた。その足元にはランプがいて、心配そうにナウラを見上げていた。
「今降ろすわ!」
ビスカが箒をゆっくりと湖の辺りへと向けた。すると、宙に浮いたままナウラの身体もそちらへと移動する。抜かるんだ地面に降ろされると、ナウラのもとへビスカが駆け寄った。
「あぁ、良かった……!心配したのよ、夜の森は危険が多いから。あぁ、やっぱり!暗がりで湖に落ちてしまったのね?」
ビスカはナウラの頬に両手を当て、怪我はないかとぶつぶつ呟きながら彼の顔をまじまじと見つめた。
「お師匠様、どうして……」
「……ごめんなさい、ナウラ。あなたにずっと黙っていたことがあるの」
「僕に?」
それは僕の方じゃないのか、とナウラは訝しげに彼女を見た。
「……カルフはきっと東の国の遣いよ。旅人なんてきっと嘘なの。魔王と繋がっているんだわ」
「え?」
どういうことだ?カルフが遣い?魔王と繋がっている?魔王と繋がりがあるなんて、飛竜ぐらいだろう。彼から人間の味がしたはずだった。飛竜の味など知らないが、彼は紛れもなく人間の男だった。
混乱したナウラはぽかんと口を開け、彼女とランプを交互に見た。すると、観念したようにビスカが口を開いた。
「東の国はね、西の国と違って魔法には寛大なのよ」
ビスカはパチンと手を叩いた。ナウラの頭上に大きなタオルが現れ、そのまま頭に落下した。
「きちんと拭かないと、風邪をひいてしまうわ……。えぇ、それであっちの国の王様はね、魔王にも凄く興味があるみたいなの」
「魔王に……ですか?」
ナウラが濡れた髪を言われた通り拭きながら尋ねると、ビスカはゆっくり頷いた。
「えぇ。東の国には魔王はいないの。でも西の国には恐れられている魔王がいる……。これでどういうことか分かるかしら?」
ナウラは黙り込む。なんとなく察したが、きっとビスカはこれを望んではいない。彼女は人一倍お人好しで、人間を愛しているからこそ、この答えをよく思っていないのだ。
「……東の国は魔王の力を欲しがっている……?」
「そう。だから私を連れて行こうとして兵士や雇った国民を旅人と偽らせて何度も送り込んできているの。魔王に私を献上するつもりで……だけど、大抵は魔王の城から出て山賊に襲われてしまうのよ」
ビスカは魔王の住む山の麓には山賊の根城があると言った。そこで見ぐるみを剥がされ、ここへ辿り着いた頃にはだいぶ弱ってしまっているという。カルフも同じだったのだろうと、ビスカは言った。
「どうしてそれをお師匠様が……?」
「ずっと前に助けた旅人の荷物から東の国の王から魔王への書状が出て来たんだ」
勝手にみるのは悪いと思ったけど、玄関の前に落ちていたから誰かからの手紙だと思って見たのだとランプは言った。
「まぁ、ボクらに手紙を寄越す人はいないんだけどさ。その紙っぺらに『魔女を献上します。その代わり、あなた様のお力をお借り出来ませんか』ってさ、そんなことが書いてあったんだ。それに、その紙っぺらには東の国の王家の紋様が入った印が押されてたんだ」
この国で魔女を欲しがっているのは魔王以外にいない。そう思った二人は、助け出した人達を送り出す日に『魔女には出会えなかった』という別の記憶を植え付けるためにある薬を飲ませていたのだと言った。
「カルフの荷物には隣国の王家の紋様があったの。だからきっとね、そういうことでしょう?」
ビスカが悲しそうに眉をハの字に寄せて言った。
「どうして黙っていたんです……?僕も知っていれば何か出来たはずですよ」
ナウラはタオルを握り締めながら言った。微かに唇が震え、心臓がピリっと痛んだ。いつもと違う痛みに、ナウラは思わず胸に手を当てた。
そんな奴らが何度も彼女を連れ去ろうとここへ来ているなんて……!
こんなにも心優しくて温かい人を騙そうとしたカルフやその者達を心底恨んだ。それと同時にナウラは、自分はなんて情けないんだと思った。彼女を想うあまり、自分の感情のままに動いてしまった。カルフを食べてしまう前に、魔王の動向や東の国の真意だって問いただすことが出来たろうに。そうすれば、もっと安全で安心できる生活を送らせてあげれただろうに、と。
「ビスカはナウラに心配させたくなかったんだよ。だから大目に見て欲しいんだ。その……予定よりも一日早くカルフは出てっちゃったんだけどさ」
ランプが前足をナウラの膝に置き、優しく言った。ナウラの怒りに満ちた顔が一瞬で和らいでいく。
「ごめんなさい、ナウラ……あなたにもきちんと話しておくべきだったわ」
「……お師匠様」
肩を落とすビスカにナウラはゆっくりと腕を伸ばす。彼女を引き寄せ抱きしめると、その小さな肩に顔を埋めた。
「ナウラ……?」
「お願いです、お師匠様。僕にあなたの心配をさせてください」
ナウラは強くビスカを抱きしめた。足元で大きく目を見開いたランプが二人を見上げる。ナウラの身体にすっぽり隠れたビスカは、驚きと恥ずかしさに顔を赤らめた。そして、ナウラの背中に腕を回すと、小さな力で抱きしめ返す。少し狭いと感じるだけの力に、ナウラの胸も熱くなった。
「ふふふ。ありがとう、ナウラ」
「弟子は師匠のことをいつも考えていることを忘れないでください……」
「ですって、ランプ」
照れ隠しにビスカはランプへ話を振った。すると、嬉しそうにランプが後ろ足だけで立ち上がると、腰に手を当てふんぞりかえる。
「ボクだってビスカを心配してるよ。もちろんナウラのことだってね。だからその……カルフがいなくなったことだけど、これからどうするの?」
「そうね……魔法薬を飲ませる前にいなくなってしまったし……」
するとナウラはビスカを抱きしめる力を緩めた。
「それには及びません……」
「え?」
オレンジ色の月がナウラを照らす。自分の顔を見上げた二人の顔を交互に見たナウラは再び目尻を下げた。
「あの者は僕が食べてしまいましたから」
ヒュ、という音がビスカの喉から漏れた。冷たい風が三人のそばで過ぎ去った。
「……食べ、食べた?え、今、そう言ったの?」
最初に口を開いたのはランプだった。口をパクパクとさせ、全身の毛が逆立っていた。
「まさか、本当に……食べてしまったの?」
ビスカが恐る恐るナウラに尋ねる。すると、ナウラはゆっくりと頷いた。
「えぇ。ずっと黙っていてすみませんでした...…。僕は人間を食べる魔獣、陸ドラゴンの一種です。あなた達が僕に黙って来たことがあるように、僕にもずっと言えなかったことがありました。ですが、心の底から誓えます。僕はお師匠様とランプは決して食べることはないと」
ナウラが堰を切ったように話し出した。ビスカもランプも黙ってそれを聞いているが、表情はいつも以上に強張り、さっきまでの柔らかさがどこかへ消えてしまっている。その表情を目の当たりにしたナウラは、一瞬だけ目を大きく見開くと、口を噤んだ。途端に鼻の奥がつうんと痛み、目頭が熱くなった。
「……ごめんなさい、きっと何を言っても無駄でしょう。僕は人間を食べてしまいました。今でも人間を欲するのは事実です。ただ、カルフを食べた理由は食欲のためではなかった……。あなた達が話したように、彼は魔王のもとへビスカを連れて行きたいと言った。魔王は良いやつだとも言っていました。ですが、そんなことはどうしたって信じられない……。僕は魔王が村を襲っているところを見ているし、魔王のせいでビスカやランプが傷つけられた事だって知っています。だから……!どうしてもあなた達から遠ざけたくて、その気持ちが止められなかった……止められなくて、彼を一飲みにしたのです……。怖がるのは当然です。僕は虫が良すぎることを言いました……」
ナウラは頭を下げ、ビスカの身体を自分から離した。
「ナウラ……?」
「今まで、ありがとうございました……。人間をずっと食べ物だと思っていた僕に、優しさをくれたのはあなた達です。ですから、僕があなた達を食べないうちに僕から逃げてください……いや、僕を破門にするべきだ」
鼻を啜る音を交え、震える声でナウラは言った。緑に光る瞳に涙がじわりと滲む。嗚咽と共に潤んだその瞳からポタポタと大粒の涙がこぼれ落ちた。
離れたくない、そう強く思うのに、同時に離れなければならないと思う。苦しくて、切なくてやるせなくて、自分のことが憎くて仕方ない。人間を食べる習性さえなければ良かった。彼らを怖がらせたくなかった。
もっと一緒に、傍にいたかった…………。
次々と溢れる感情と涙が追いつかず、またも嗚咽を漏らす。
「まぁ……」
ビスカは泣きじゃくる目の前の魔獣に腕を伸ばすと、その頭を自分の胸へと抱き寄せた。ランプも不安そうな目でそれを見つめていたが、数秒後にはグズグズと鼻を鳴らす魔獣の足に尻尾を巻きつけ抱きついた。
「泣かないで……ナウラ。私達を思ってのことだったのでしょう」
「そうだよ。確かに人間を食べるって怖いことだけどさ……。ボクらとあんなに長い時間一緒にいたのに、食べなかったんだろ。さっきのは嘘じゃないってわかるよ」
ランプの言葉に、ビスカが頷く。小さな手がナウラの頭を撫でた。
「ナウラ、あなたさえ良ければ私達はあなたとまだ一緒に暮らしていきたいの。破門になんかしたくないわ。私が弟子を置いて帰ると思うの?」
ナウラが嗚咽混じりにぐずぐずになった顔を上げた。
「良い……んでしょうか……?また、僕は間違いを犯すかもしれないのに……」
ナウラの声は震えていた。頬から流れる涙をランプが長い尻尾で拭うと、ビスカが優しく微笑み、ナウラの額にキスを落とした。
「良いのよ。それを教えるのが師匠の勤めだもの」
真っ赤に染まったビスカの頬に、ナウラは目を奪われた。自然と込み上げる涙が止まり、代わりにキスを落とされた額が熱くなった。
「でも人間を食べるのはダメだね。カルフみたいなやつでもさ、彼にもボクらみたいに優しい師匠がいたかもしれないんだ」
ランプがナウラの肩に飛び乗り、頬を擦り寄せる。兄弟子としてこれからは厳しくしてやるから、と付け加えた。
「……あぁ、わかったよ。肝に銘じておく」
「ふふふ。なら、また湖に落ちる前に帰りましょう?私達はお腹ぺこぺこなの。ナウラの作る晩御飯が食べたいわ」
ビスカがナウラの手を引いて立ち上がる。片方の手は離さず、その手のひらをぎゅっと握りしめた。同時にナウラの心臓もまたぎゅっと苦しくなる。それはさっきの苦しさとは違い、心地良い痛みだと感じた。
「僕の、ですか?」
「ボクもお腹すいた!ナウラ、今日の晩御飯なに作るの?」
「そうだなぁ……」
すると、ナウラはバスケットいっぱいに林檎をとってきたのを思い出す。
「アップルピザはどうですか?シナモンとはちみつをたっぷりかけて、うんと甘くして……」
すると二人は目をキラキラと輝かせた。ナウラは細くて小さなビスカの手を握り返すと、肩にランプを乗せ、片手にタオルを引っ掛けた。そして「ではさっそく帰って支度をしましょう。こんな夜更けに出歩いていると、魔獣に食べられてしまうのがオチですから」と、調子の良いことを言いながら、三人の暮らす家へと向かったのだった。
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