魔封都市マツリダ

杏西モジコ

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移りゆく気持ち

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 なぜこうタイミングが悪いのだろうか。ボスと呼ぶ男に忠誠を誓った私の元同僚がここを突き止めた。やっと今生きる人間への嫌悪や憎悪を失くすことができたというのに。
「……本当に、いつもいつも私の邪魔ばかりするんですね」
 ニヤリと笑うハルジの顔が脳裏に浮かぶ。一緒に仕事をしていた時は、一切悪気を感じなかったその表情に初めて苛立ちを覚えた。住み慣れた部屋の本棚から必要な書物を手に取ると、紫苑は適当に鞄へと詰め込んでいく。
「おい、支度できたのか」
「すみません、もう少しかかりそうで」
「……残せねぇものは燃やす他ねぇぞ」
 乱雑に散らかった部屋を呆れた目で見渡しながら乃亜は言った。その手には自分の荷物と簡易鉄板が見える。
「相変わらずあなたは荷物が少ないですね」
「重い荷物はてめぇだけで十分だっつーの」
「おや、私はあなたの荷物になった覚えはありませんよ」
 薬の精製に必要な道具を引っ張り出し、紫苑は答えた。乃亜の言う通り、ここに残していけるのは人間が使うものだけだ。持っていけない魔法具や書物は処分していかなければならない。
「……こんなことなら来太くんに預ければ良かったですね」
「やめとけ。またあの脳筋魔法使いが匂いであいつの家に辿り着くのがオチだ」
「そうでした……。本当に、あの人には困ったものです」
 紫苑は溜息を吐き、再び本棚に向き直った。すると、一冊の古びた日誌に目が止まった。それは、ステビアを引き取って身を隠して生活してきた時の日誌だった。長年手に取らずにいたために、背表紙の色が焼けて変わり、背の上部分が捲れてくたびれているが、中を捲るとまだ読めなくはない。
「……一冊ぐらいなら大丈夫でしょうか」
「は?」
「来太くんに、一つ託していこうと思います」
「……それをか?」
「えぇ……。先程彼には私達がどんな生活をしてきたか話しましたが、きっと彼の中で混乱していると思いまして。ほら、一気に話を聞いて情報処理が追いついていないかと。私、来太くんにはきちんと知っていて欲しいんです。私達魔法使いの人間に対する憎悪は消えて無くならない。それでも我々がここで暮らすことを選んだのは、その憎悪の対象だった人間の変化だったことを……。勿論、あなたのことだってここに記していますし、プライベートなことだって書いた覚えもあります。私の我儘で渡すつもりはありません。反対と言うならばこの日誌は燃やします」
 乃亜は荷物を床に下ろして溜息を吐いた。
「お前に俺のプライベートだなんだを語られるのは腑に落ちねぇが、人間のアイツだからこそ理解して欲しい気持ちは分かる。魔法使いは人間全てを恨んだ訳じゃねぇ。それをアイツに分からせるには、そいつを見せるのが一番手取り早い手段なんだろ……。おい、なんだよその顔は」
 てっきり嫌味の一つでも返されると思っていた紫苑は、予想外の返答にぽかんと口を開けてしまった。
「……すみません。ちょっと驚きました……」
「お前な……」
「ですがノアくん。そんなに格好良く決めても、私の心は簡単に奪えませんよ?」
「……てめぇごと部屋、燃やしてやろうか」




 ステビアの荷物は大した量ではなかったが、来太とラディは大量に育てた薬草達を見て唖然とした。
「この量、一体どうします?」
 植物部屋いっぱいに敷き詰められたプランターを見て、来太が嘆く。頻繁に出入りしていたのだが、この部屋のことをすっかり失念していた。紫苑のことだ、残して行くことに首を縦に振るう訳もないだろう。ラディに視線を投げるが、植物は門外漢だと首を横に振った。
「誰がお前らに頼むと言った」
 ステビアは溜息を吐きながら言った。
「ここに来る前、ヨハンに貰ったものがあるんだ」
 そう言って、植物部屋の奥にある埃の被った棚へ向かう。何の躊躇いもなく、埃まみれの棚へ腕を伸ばすと、ステビアは小さな銅製の箱と錆だらけのスコップを取り出した。
「何ですか、これ」
「……古い魔法道具だな」
 ラディの言葉にステビアは頷いた。
「ヨハンのお古だ。このスコップで掘り出した植物は収縮してこの箱に収まるようになっている」
「うわ、まるで魔法ですねぇ」
「何言ってんだ、魔法に決まっているだろ」
 呆れ気味なツッコミに来太は思わず苦笑いを返した。
「見てろ」
 ステビアがスコップを使い、近くのプランターから植物の根本を掘り起こすと、そのスコップに乗った植物はだんだんと縮み始めた。
「わ、本当だ……!」
 植物の大きさは一センチほどの小さなサイズに代わり、ステビアは先程取り出した銅製の箱にそれを入れ込んだ。
「ラディ、少し代わってくれ」
「忘れ物かい?」
「あぁ、そんなところだ。こい、ポンコツ」
「あ、はいっ」
 ステビアは来太を連れ、自室へ向かうと、壁にかけられた額縁を指差した。大きさは来太の手のひらより少し大きいぐらいで、いつも着ているつなぎのポケットにすっぽり収まりそうなものだった。この部屋に来た時から目にしてはいたが、随分放置されていたのだろう、来太が見上げてもそれは何を飾った物か全く検討がつかないほど真っ白い埃が全体を覆っていた。
「あれ、取れるか?」
「あ、はい。取れます」
 背伸びをして届く高さにかけられた額をゆっくりと取り外す。長年に渡って積もらせた小さな埃が舞い、思わず来太がくしゃみをした。
「どうぞ」
 鼻を啜ながら来太はステビアに額縁を手渡した。ステビアは黙って受け取ると、まじまじと額縁を見つめた。
「シオンのヤツに掛けてもらったから、ずっと背が届かなくてな……。埃まみれにしていたのが気掛かりだったんだ」
「なんですか、それ」
「花の球根だ。標本だけどな」
「……花ですか。それもあの箱に入れていくんですか?」
 来太がしゃがんでステビアに尋ねると、ステビアは首を振る。
「こいつはまだ眠り足りないはずだ。連れていけば無理に起こしそうで、気が進まない」
 愛おしそうに縁をなぞり、ステビアは言った。
「無理に起こすって……標本でしょう?」
「化石を復元できる可能性があるって言われた以上、何とも言えないだろ。だからこれはお前に預ける」
 差し出された額縁を来太はおずおずと受け取ると、ステビアは言った。
「そいつは他の魔法植物とは違うものなんだ。オレが戻るその時まで、こいつを頼む」
「……わかりました。大事に預かります」
「あぁ。そいつはオレの大事な友人の一人だからな」
 ステビアはもう一度目を細め、愛おしそうに額縁をなぞった。
「それからもう一つ、頼みがある」
「……なんでしょう?」
「戻ってきたら、村上屋の大福と…………。お前のおにぎりが食いたい……」
 最後の方は口籠ったステビアに、思わず来太が吹き出した。
「おい、オマエなっ!」
「あははは、すみません。でも、ふふふっ……!わかりました、ちゃんと用意しておきます。だから」
 来太はしゃがんでステビアの手を握った。
「絶対無事に会いましょうね」
「……あぁ。約束だ」
 


 紫苑と乃亜、そしてステビアはその数時間後にマツリダを去った。来太は紫苑からは一冊の日誌とステビアからは標本を預かり、一度家に戻ると、状況説明のためにラディと霧ヶ山へ向かった。トト爺はこの話を聞くと、「何かあれば頼れ」とだけ二人に伝えた。

「さてと……。僕はマツリダ付近に他の魔法使いがいないか探ってみるよ。運が良ければ助力が貰えるかもしれない。君はどうする?」
 ラディが腕を組み来太に尋ねた。
「俺は明日結斗のところへ向かう。人手不足はたぶん本当だろうしさ。どっちにしろ、紅愛さんはあそこに行かないと会えない気がするし」
 来太はスクーターに跨りながら答えた。日も暮れて、あたりはすっかり真っ暗だ。今日はもう大人しくしていろとステビアに言われていたし、その言い付けを守る約束をしていた。ライトをつけ、サドルに腰を下ろすと、荷台に括り付けられた荷物が大きく揺れる。
「……分かった。後で君の家に向かう。怪しい奴が来てもドアを開けるなよ」
「そんなに子どもじゃないよ」
「……そうだったな」
 ラディはクスリと笑った。昔からそういった物言いは彼の癖だと思っていたが、本気で自分より幼い者に対してそう接しているのだと察し、なんだかむず痒い。
「それじゃ、また後でね」
「あぁ」
 来太はエンジンをかけると。霧ヶ山の山道へ向かってスクーターを走らせた。暗い山の中に消えて行くその後ろ姿を見て、ラディは小さく微笑んだ。



 ノアくんとステビアさんを引き取り、マツリダから遠く離れたところに一時身を潜め、人間として暮らすことにしたあの時は、まだ人間と対峙することに気を張った。何故、自分達がわざわざ名前を紫苑、乃亜と改めてまで彼らに溶け込まなければならないのかと毎日口に出さないだけで納得出来ないことが沢山あった。目が覚めたステビアさんは酷く人間を怖がり、外に出ようとしなくなった。そんな彼を抱えて身を隠す生活は、想像以上に大変だった。

 それから数十年は細々と生きていた。生き残った魔法使いを見つけては、薬を売って少しずつお金を貯めた。そうやって知り合った魔法使い達とは、今でも交流を続けている。そんな生活の途中で出会ったヨハンという希少植物を扱う商人は、ステビアさんの魔法を非常に買っていた。彼のおかげでステビアさんも魔法を再び使うようになり、私とノアくんも彼の魔法を知ることができた。その力の大きさには驚いたが、彼の育てる魔法薬草は質が良く、人間にも使用が可能なほど。私達は以前よりも仕事の幅を広げられるようになり、ステビアさんを中心に仕事を進めていた。そうした生活の中で出会ったのは、自分達を殺そうとしたり、傷付けようとする人間ではなく、ただ優しい人間達だった。
 
 やがて、マツリダが重っ苦しいほどの霧に包まれた頃。黒服集団の暴動は終わりを迎え、世間から魔法使いの存在が消され始める。当時身を寄せていた町でそんな新聞を読み、更に憤りを感じたのを今も覚えている。人々は揉み消された魔法使いのお伽話を聞かされて育ったのだろう。そんなお伽話を描いた絵本が書店に並ぶのを見て胸が痛んだ。だが、その絵本を開く子どもの顔は、きらきらと輝いていた。
 その当時、出会う人間はやはり皆優しく、誰かのために何かをしようと協力を惜しまないような人達だった。眩しくて温かい彼らに、どこか懐かしさすら覚えた。人を選ばない彼らは、昔自分達を追い回した者達とは違う。誰にでも手を差し伸べ、親切心と感謝を忘れない。そんな強くて優しい彼らが、どうしてあんなことを……と考えると、胸が詰まる。ただはっきりと分かるのは、時代は変わり、進む人も、生きる人の価値観も考え方も全部違うということ。それを勝手に押し付けてはいけないということ。同じことが二度と、どちらの世界にもあってはいけない。存在を忘れられたとしても、それは必ず守るべきことなのだと思う。
 私の考えをノアくんに話すと、彼はいつものように小憎たらしく鼻で笑った。

 数十年各地を転々とする生活を繰り返していたが、ステビアさんはこのまま人間を怖がるだけの生活も苦しさを増すだけだと踏み、私達はマツリダに戻ることにした。勿論、無理矢理ではない。何度も何度も話し合った。彼は人間への恐怖とは別に何か大事なことを忘れていると言った。どうしても思い出さなければならないとこだと。たが、どうしても人間への恐怖感が拭えず、記憶へも自ら歩み寄れないと。このままではいけないと分かっているからこそ、行かないといけない。だけど、外に出るのは怖い……。そんな思いが行ったり来たりを繰り返し、ようやく決心がつき、マツリダへ戻ると決めたのだ。だが、ヨハンとはそこで意見が割れてしまい、別れることになってしまった。どうしても彼は人間を許せないと言う。そういう考え方も致し方ない。私とて、当時の人間は全員呪ってやりたいほどに憎らしかった。ヨハンとはそれきり会うことはなくなったが、魔法薬草を扱う身として離れることはできず、手紙のやり取りだけの間柄となった。勿論、今でもそのやり取りは続いている。

 世間からパッタリと魔法使いの話題が消えた頃、私たちはマツリダに戻り、商店街に店を構えた。当初は薬屋を開店する予定でいたが、私達はノアくんたっての希望でたい焼き屋を開店した。彼が壊した研究所の近くに、妹さんが大好きだったたい焼き屋があったそうで、きっとあの時自分は少なくとも妹と同じ年頃の子ども達を傷つけてしまったと、彼は悔やんでいた。罪のない子どもに、たい焼きを焼いてやるのが最大の償いだと彼は言い、その仕事を選んだ。そんなことを聞かされては、反対などできる訳がない。表の家業を彼に任せ、私は魔法使い専門の薬師として開業を始めたのだった。


 来太は紫苑から手渡された日誌を閉じ、その場に寝転んだ。久しぶりに寝転んだ畳から、藺草の香りが鼻を抜ける。書いてあった内容は、殆ど紫苑の口から直接聞いたものと合致していた。違ったのは、人間について彼が思ったことを綴っていたことだった。
 本当に……人間は身勝手だ。
 彼らの言葉を借り、来太は奥歯を噛み締めた。悲痛で悲惨なその過去は、自分達人間が作り出したもの。その上、彼らの存在すら否定して生きていた。何も知らずにいた自分が悔しくて、憎いほどに。人間は欲まみれだ。そんな人間の一部である自分に嫌悪感さえ覚えてしまう。
 それなのに………。
 来太は再び日誌を開いた。当時の人間を呪ってやりたいほどだと書く紫苑のその心情に、胸が抉られる。じわりと鼻の奥が痛み、自然と目頭が熱くなった。
 魔法使いの方こそ、強くて……優しいじゃないか。
 ぐすりと鼻を啜る音が部屋に響いた。頭がぼうっとし、また天井を見上げる。時計の針の音がやたら大きく聞こえた。来太は身体を起こすと、ゆっくりと伸びをし、両手で頬をバシンと叩いた。
 しっかりしなきゃ。明日は結斗に会うんだ、この顔のまま行ったら揶揄われること間違いない。
 日誌をこたつの上に置くと、それを合図にしたかのように玄関の呼び鈴が鳴った。
「遅くなった」
 引き戸を開けると、白い息を吐いたラディが立っていた。
「収穫、あった?」
 中へと促しながら、来太が聞く。ラディは眉を寄せ、小さく首を振った。
「だが、やっぱり地下道付近には変に魔力が渦巻いてる気がした」
「え、地下道に行ったの?」
 あれほど慎重にと言われたばかりだかりだと、来太はラディを嗜める。
「明日は僕も結斗のところへ行くよ」
「どうして」
 すると、ラディは溜息を吐いた。
「彼の事務所の敷地内にも地下道があるだろう?ハルジという魔法使いが来たら厄介だ」
「まぁ、そうかもしれないけど……。むしろ魔法使いが対峙した方が厄介じゃない?」
「その時はその時さ。それに久々に結斗の顔も見たいんだ」
「……見ても別に大したことないけど」
 来太の返しにラディは笑うと、「会える時に会うのが一番良いんだよ」そう小さく呟いた。



 次の日の早朝、来太は昨日の晩にセットしておいた炊飯器を開けると、手早く大量のおにぎりを作り始めた。手ぶらで行くと何かと文句を付けられそうなので、簡単に言えば結斗対策の賄賂だ。「そんなに食べれるのかい?」と心配そうにラディは言ったが「あれは人間だけど胃袋だけ人間離れしているから」と伝えると、苦笑いを返された。綺麗に白米を使い切ると、ラディは感嘆の声を漏らす。全て来太の手のひらサイズにきっちりと綺麗に仕上がっていた。
「ステビアさんで練習したんだ」
「なるほどな……」
 嬉しそうにラディが笑うと、来太は一つ朝食用としてラディに差し出した。
 早めの朝食を終えた二人は、いつもの掃除機を背負い、大きな包みをラディに持たせ、来太とラディは結斗の働く貯水タンクの管理事務所へ向かった。大きな煉瓦塀で囲われた門のベルを鳴らすと、中のカメラで覗いていたのだろう結斗が、相変わらずふざけた返をしてきた。
『献上品はあるのかね?』
「常人三日分のおにぎり」
『宜しい!入りたまえ!』
「……まったく、朝から面倒くさい……」
 来太の溜息と同時に門が開く。ラディがくすくす笑うと、こんなもので済むと思うなよと釘を刺した。


「いやぁ、渡りに船とはまさにこの事だよ。ラディまで来てくれたのは大助かりだ!」
 結斗にこやかに迎えられた二人は、恐る恐る事務室へと入る。しかし、その事務室に入るなり、部屋の現状を見て来太はぎょっとした。
「なっ……何これ」
 並べられた机の上には敷き詰められないほどの書類や書物の山、そしてそこかしこに書類が足の踏み場もないほどに散らばっている。
「空き巣……か?」
「あははは、んなアホな」
 唖然とするラディに結斗が笑って答えた。
「クレアが長期休みを取った事なかったからさぁ、彼女に任せていたものが積もりに積もって爆発しちゃったんだよね。部下たちは部下たちで地下のタンクの水質管理とかもっと細かい仕事があるから基本俺に回ってきたんだけどさぁ」
「だからってこの量……」
 思わず顔が引き攣り、来太が肩を落とす。てっきり力仕事が溜まっているのだろうと踏んでいたのだが、これは予想外だった。
「ていうか、もう少し配分考えて色々出来たんじゃないの……?」
 人の上に立つぐらいなんだから、もっとしっかりしろよ……と口達者に来太が漏らすと、結斗はにんまりと微笑んだ。
「まぁいつもの俺ならね。そりゃ上手くやっただろうさ。でもねぇ、放流祭の事後処理が大変だったんだ。頼んでもしないトラブルがあって、そのせいでいつも口煩いおじいちゃん達が余計にうるさくてねぇ。魔法使い、千年龍、人間の世界が崩れるとか、色々まぁボケてくれちゃって。そんな訳の分からない会議に引っ張りだこになったんだから、仕方ないって思わない?」
 結斗はにこにこと笑いながら、捲し立てるように答えた。
「……ごめん……なさい……」
 視線を逸らし、来太が小さな声で答えると、結斗は「分かれば宜しい」と言って、ラディの持っていたおにぎりの包みを受け取ると早速かぶりつきながら自席に座った。人間である結斗の口から魔法使いという言葉を聞き、ラディの顔が一瞬険しくなったのだが、「後で説明する」という来太の耳打ちでその場を収めた。
「それで……俺たちはこの書類を整理すれば良い?」
「うん、早い話がまずそれだ。書類の左上に議題やらが書いてあるから、ノンプル通りに集めて欲しい」
「分かった」
 来太とラディが揃って答える。荷物を適当な所に下ろすと、来太とラディは早速足元に散らばった書類を拾い上げた。
「紅愛さんはいつまで有休なの?」
「今週いっぱいかな。本当はまだ有休残数はあるんだけど、それ以上は俺の手も限界だし。何より来年の放流祭開催も危ぶまれるからなぁ……。とにかく早く戻ってきてくれないと、色々困るんだよ」
「そういう割にはだいぶ長い休みを許可したんだな」
 ラディがくすりと笑いながら言うと、結斗は丁度五つめのおにぎりにかぶりつこうとしていた。
「まぁね……。彼女はいつも色々やってくれるから。たまには上司として労わないと、そのうち刺されそうで怖いじゃない」
 悪態を混ぜながら結斗は答えると、大きなファイルを引き出しから引っ張り出し、おにぎり片手に何かを確認し始めた。
「ちなみに、それが終わったら、期日の早い案件ごとに書類を……あれ?」
 結斗が顔を上げ、間抜けな声を出した。来太とラディの後ろを見つめながら首を傾げている。
「……あ、紅愛さん」
 来太が振り向くと、事務室の入り口前に紅愛が立っていた。
「こんにちは、来太くん。酷い事務所にようこそ」
 眉を寄せ、事務所を見渡しながら紅愛が言った。
「たった数日でこんなに散らかせるなんて……。最早才能ね」
「あははは、嫌だなぁ。褒めないでよ」
「褒めてないわよ」
 大きな溜息が部屋中に響く。来太とラディは手を止めずに二人の様子を見ていた。
「でも、想定内だったんだろう?助けにきてくれたってわけだ。さすがクレア、俺の最高の部下だよ!他の奴らに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいな!」
 嬉しそうににこにこと喋る結斗に、紅愛はもう一度溜息を漏らす。呆れて物も言えないと言うのはことことだ、と来太が憐みをこめてその背中を見つめていると、紅愛は一通の封筒を結斗に突き出した。
「新しい仕事依頼?」
「冗談はやめて。ちゃんと見なさい。辞表よ」
「じ、辞表?」
「来太っ」
 思わず大きな声を出したのは来太だった。慌てて口を手で塞ぐと、振り向いた紅愛が来太とその横にいるラディに微笑む。
「二人も薄々そうなるって思ってたんでしょう?」
「あ、いや……」
 口籠る来太に、ラディはジト目を向ける。確かに思わなかったことはないが、なんだかんだで楽しそうに結斗の補佐を勤めていたのを間近で見ていたし、不満があっても結斗について行く人だと思っていた。そんな彼女が上司に辞表を突きつける瞬間を目の当たりにすると思っても見なかったのだ。
「冗談はこっちのセリフだな。クレア、なんのつもりだ」
「なんのつもりも、アンタが一番分かってるでしょう?それにもうこの休みで次の就職先も見つけているの。有休消化でそのまま消えさせてちょうだい」
「何言ってんだ。やだよ、認めない」
「はぁ?やだって、アンタね!」
 紅愛がデスクを思いっきり両手で叩く。嫌な音が響いて、来太とラディは互いに目配せした。
「悪いけど、クレア以上の部下はいない。俺の仕事は君がいるから成り立っているんだ。それに、現状を見てみてよ。君が数日いなかっただけでこの有様なんだよ?辞めて一人俺を残したらこんなんじゃ済まないんだよ?それでも辞めるって君言えるの?」
 うわぁ……。
「……あれは無理だな」
 ラディの呟きに来太は頷く。まさに火に油。紅愛の額に青筋が立つ。不満を持つ人に対しての言葉として非常にまずい。しかし、その言葉を発した主の顔からは悪気一つ見えないのが最大の難点だった。
「とにかく、私は今日でここに来るのを最後にするわよ」
 何を言っても無駄と判断したのか、紅愛は溜息き混じりにそう言うと、辞表を結斗のデスクに置いた。
「……受け取らないって言ってるだろ」
「労働者には平等に辞める権利があるの」
 紅愛はそう言うと、眉間に寄せていた皺を緩めると、深々と頭を下げた。
「ちょっ……」
「長い間お世話になりました。私の荷物は処分して結構です」
「クレア!」
「それじゃあね、結斗。事務所に寝泊まりはほどほどにしなさい。来太くんと、ラディくんも面倒なことに首突っ込むのそろそろやめなさいよ」
 長い髪を綺麗に翻し、言いたい事を言うだけ言って、紅愛が事務室を出ていく。口をぽかんと開けたまま、その後ろ姿を見送っていた結斗が、急に膝から崩れ落ちた。
「結斗、大丈夫か」
 ラディが駆け寄るのを横目にすると、来太は手に持っていた書類を投げ捨て、出て行った紅愛の後ろを追いかけた。
「まっ、待って紅愛さんっ!」
 階段の踊り場で紅愛が振り向いた。
「来太くん」
 急いで踊り場まで駆け降りると、紅愛が申し訳なさそうに眉を寄せた。
「変なとこ見せてごめんなさいね」
「あ、いや……。でも、急すぎるなぁって……。そりゃ、誰もが結斗みたいなのを得意としている訳じゃないけど」
「ふふふ。それ全然フォローになってないわよ」
「あっ」
 しまった、と思わず口に手を当てる。来太の表情にくすくすと紅愛が笑った。
「別に不満が溜まっていた訳じゃないのよ。結斗の性格はここじゃ私が一番扱えるのも分かっていたし、やる時はやる人だもの。ただね、私に色々事情が出来ちゃって……。今までの仕事が出来きそうにないの。勝手なことだとは分かっているんだけど、本当のことを言ったら、結斗はそっちに乗り込んでくるでしょう?だから憎まれ口叩いたの。巻き込んでごめんなさいね」
「事情……ですか?」
「そう。詳しくは言えないけど巻き込みたくないの。休みを貰ったのは考える時間が欲しかったからよ。決心がついたから、辞表を出しに来たってとこ。これ、結斗には内緒よ?」
 ふふふ、と微笑んで紅愛は人差し指を唇に当てた。その仕草に思わずどきりとして、来太は目を逸らす。
「……どうしても、言えないんですか」
「えぇ。どうしてもよ」
「……じゃあ、一つ聞いても良いですか?」
「えぇ。何かしら」
 来太はゴクリと唾を飲み込んだ。
「地下道の……占い師ってご存知ですか……?」
 来太の問いに紅愛は眉をぴくりと動かしたように見えた。しかし、すぐさま首を横に振って口を開いた。
「……何かと思えば占い?私、そういうの興味ないのよ。なぁに、今度は占いに興味があるの?」
「いや、俺は別に……」
「ふぅん」
 紅愛の分厚い唇が、たじろぐ来太の顔に近寄った。彼女の纏う甘い香りが鼻腔をくすぐり、来太は一歩後ろに下がる。
「地下道はまだ変な噂があるの。未成年は一人で行ってはだめ。それから、また変なことに首を突っ込んでもだめよ。人間のつくりは脆いの。放流祭の時のアレも、助かったのは奇跡に近いんだから」
「……はいっ」
 なんとなく、はぐらかされたように感じだが、紅愛の勢いに圧倒して来太は何も言い返せなかった。
「それじゃあ、私はもう行くから。来太くん、元気でね」
 紅愛は最後にもう一度微笑むと、踵を返して階段を降りて行く。
「紅愛さん、あの……っ。また会えますよね……?」
 離れて行く彼女の背中に、来太が言った。紅愛は足を止めず、振り向くことなく手を振ると、来太の最後の問いには何も言わずに去っていった。

 
 
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岡本剛也
ファンタジー
駆け出しの冒険者であるシルヴァ・ベルハイスは、ダンジョン都市フェルミでダンジョン攻略を生業としていた。 順風満帆とはいかないものの、着実に力をつけてシルバーランク昇格。 そしてついに一つの壁とも言われる十階層の突破を成し遂げた。 仲間との絆も深まり、ここから冒険者としての明るい未来が待っていると確信した矢先——とある依頼が舞い込んできた。 その依頼とは勇者パーティの荷物持ちの依頼。 勇者の戦闘を近くで見られることができ、高い報酬ということもあって引き受けたのだが、この一回の依頼がシルヴァを地獄の底に叩き落されることとなった。 ダンジョン内で勇者達からゴミのような扱いを受け、信頼していた仲間にからも見放され……ダンジョンの奥地に放置されたシルヴァは、匂いに釣られてやってきた魔物に襲われた。 魔物に食われながら、シルヴァが心の底から願ったのは勇者への復讐。 そんな願いが叶ったのか、それとも叶わなかったのか。 事実のほどは神のみぞ知るが、シルヴァは記憶を持ったままとある魔物に転生した。 その魔物とは、最弱と名高いゴブリン。 追い打ちをかけるような最悪な状況に常人なら心が折れてもおかしくない中、シルヴァは折れることなく勇者への復讐を掲げた。 これは最弱のゴブリンに転生したシルヴァが、最強である勇者への復讐を果たす物語。

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