遣らずの雨

杏西モジコ

文字の大きさ
上 下
1 / 1

遣らずの雨

しおりを挟む
あ……いた。
南雲樹は教室全体を見渡すと、窓際列の後ろから二番目の席に目を向けた。そこには顔を隠すように机に突っ伏して眠る男子学生の姿があった。彼の名前は雨崎紬。樹と同い年の大学二年生だ。綺麗な容姿に、長い髪。おまけに高身長で女子学生からの人気は高い。かくいう樹も、彼を見つめる学生の一人だった。

きっかけは入学式だった。
時間に余裕を持って家を出たつもりだったが、通勤ラッシュと被ってしまい、更に人身事故が起きたこともあって樹が大学に着いたのは、入学式が始まる十分前のかなりギリギリな時間だった。乗り込む予定のバスが行ってしまい、運悪くタクシーも捕まらなかったため、駅から必死に走った。四月だというのに汗だくだった樹は、大学に到着しても会場の講堂に入るのをやめた。受付テントで貰った資料を団扇代わりに扇いでいると、樹の後ろから歩いて受付にやってくる人がいた。
こんなギリギリに、暢気なやつだな……。
自分を棚上げしてそう思ったが、入学式に滑り込みでやって来る者同士、何かの縁があるのではと感じた。顔もはっきり見えなかったし、受付が終わった頃合いに声を掛けようと思った。その矢先に、受付を担当していた在学生の声がはっきりと上擦ったのが耳に入った。
自分の時より明らかに声が辿々しく、緊張しているのが分かる。急に体調でも悪くなったのかと勘違いするほどに違う。さっきの調子はどこへ行ったのだろうと、テントを興味本位で覗いた時だった。そこにいたのが雨崎紬だったのだ。長い髪を綺麗に束ねた、スーツの似合う高身長の美形男子。受け答えする声が小さいものの、その声は女性よりも低く、それでやっと男性だと分かる。芸能事務所に所属していると言われても驚きはしない程に眩しくて、綺麗だった。
うわ……。
思わず声が漏れそうになって、慌てて持っていた資料で口元を隠した。誰かを見て心臓が煩く鳴り出したのはこの時が初めてで、樹はごくりと唾を飲む。ジロジロ見ているのは良くないと分かっていても、紬からは目が離せなかった。
すると、樹の視線に気がついたのか、紬とふいに目が合った。どきん、という心臓の音が耳奥で鳴り響く。紬は固まる樹を見て、ふわりと目を細めた。
「あ……」
気まずさが込み上がり、声を掛けようと口を開いたが、その声は小さく掠れて紬には届かない。紬はそのまま受付の資料を持って講堂の方へ向かって行った。その後ろ姿の綺麗さにまた目を奪われた。
何してんだ、俺……。
腕時計を見るともう間もなく式が始まる時刻。完全に遅刻だ、とやっと慌てた時だった。
カラン、と金属がコンクリートの上で転がる音がした。つま先に何かが当たった気がして、その転がった物を拾い上げる。樹が拾ったのはゴールド色のタイピンだった。傷もなく、まだ新しい。よく見ると文字が彫刻されていて、人の名前みたいだった。
「……タツミ、アメサキ?」
筆記体の細かい字を読み上げると、そう書いてあった。その人の落とし物だろう。受付の人にそれを渡そうと思ったのだが時間も時間だ。終わったら渡しに行けばいい、そう思って樹はタイピンをスーツの内ポケットに入れ込むと、講堂へ入っていった。
そして、入学式が終わる頃にはタイピンのことなど頭から抜け落ちてしまい、今に至る。

後々、所属したサークルの女の子達から彼の話を聞き、彼の名前が雨崎紬だと知った。あのタイピンを拾ったことも、彼の名前を聞くまですっかり忘れていた。
なんだ、あいつの落とし物だったのか。
刻印された名前は違うが、きっと兄弟か父親から借りた物なのだろう。
そう思うと、あの時と同じように何かの縁を感じ、腹の下あたりがソワソワと落ち着かなくなる。
次に会ったら、その時に返そう。
樹はそう決めた。何コマか同じ授業をとっているようだったし、あの目立つ容姿だ、学内にいればすぐに分かる。そう高を括っていたのだが、自分から彼に話しかける勇気はなかった。それに、彼は今のように突っ伏して居眠りをしていることのが多い。昼休み後の授業は眠気のピークだが、紬はどの時間も講義前は眠っていた。話しかけて良いのかも分からないし、何よりも遠目から彼を見つめる女子学生の視線も気になった。だが、これを失くして困っているのは紬のほうだ。やはり、ちゃんと返してやらないといけない。
そうして、樹は紬と同じ授業の教室へ入ると、話しかけるタイミングを探れるように、すぐ近くの席に着いた。ここまでが毎度の流れである。
だから今日も、居眠りをする彼の斜め後ろに座った。鞄の中にはいつでも手渡せるようにタイピンを忍ばせている。相変わらず気持ちよさそうに眠っており、その寝息に当てられてこっちまで居眠りしそうだった。


授業の開始直前になると、教室の喧騒が一層強くなり、流石に紬も目を覚ました。長くてしなやかな身体を、座りながら伸ばし、首を回す。樹はその動きだけでも魅入ってしまう。一瞬、こちらの方に視線を向けられた気がして、慌てて目を泳がせた。そんな樹を余所に、紬は首をもう一度ゆっくり回すと、座り直して窓の外を見上げる。樹も同じく窓を見た。黒い雲が遠くに見える。今朝の天気予報で夕方は雨だと言っていたが、こんなに早く雨雲が到達するとは思っておらず、樹は鞄の中の折り畳み傘を手探りで確認した。最近まで天気予報を見る習慣がなかったが、この前の夕立予報があった際、大学から土砂降りの中傘を差さずに帰宅して風邪を引いたのが相当堪えた。一人暮らしで風邪を引くとこんなにも心細く、何より薬を買いに行くのも病院に行くのも一苦労だとは考えもしなかった。あの時ほど「どうにかなる」という言葉を少し恨んだほどだ。それ以来、樹は天気予報だけでも必ず確認するくせをつけた。おかげで洗濯物も溜め込まずに済んでいる。
今日はバイトもないし、食料を買い込もうと思っていたけど……雨が強かったら明日に回した方が良いな。
授業後の予定を立て、黒板前に吊るされたスクリーンに目を向ける。ちらりと紬の様子を伺うと、彼はまた机に突っ伏していた。
まぁ、雨の日って眠くなるよな……。
樹は適当なことを心の中で言って、紬の居眠りを肯定した。


結局、授業中に彼が顔を上げることはなかった。それも終業の鐘が鳴っても突っ伏したまま。一つ飛んで隣の席に座っていた学生も、もう席を立っている。教壇の周りで片付けをしている教授も気がついていたようだったが、次の講義があるようで片付けを済ますとそそくさと教室を出て行った。声をかけるべきか悩んだが、樹は今日もそれが出来ずに教室から出た。
あんなに気持ち良さそうに眠っているのを起こすのは悪い。そんな気持ちが強く渦を巻く。話したことのない相手に眠りを邪魔される方が嫌だろう。幸い、次の授業にあの教室は使われないようで誰かが入ってくる様子もない。
そうこうしているうちに、振り向いて教室の中を見ると誰かによって電気も消されていた。
あぁ、やっぱり。今日もダメだった。
普段極度の人見知りという訳でもないのにそんなことを思う。だったら起こしてでも声をかければ良いのだが、そんなことをやる勇気はやっぱり浮かばない。
樹は教室からすぐの階段を降りた。踊り場の窓に小さな水滴が付いているのが見える。さっき教室から見かけた雨雲が、小雨を降らし始めていた。まだ奥に黒い雲が見え、樹は溜息を漏らす。
「マジかよ、早いって……!」
樹は階段を足早に駆け降りた。少しでも早くバス停に着けば、屋根の下でバスを待つことができる。校門前のバス停は広いつくりではあったが、授業後のバス待ち列に関してはそんな広さなど全く意味のないものだった。どうせ待つだけなら傘を差すのは面倒だったし、なにより折り畳み傘であの雨雲を凌げるとは思えなかった。 


あー……。しくった。
通りでバス停へ駆け込む他の学生がいない訳だ。樹は深い溜息を吐いた。
いつもならこの時間にバスが来るはずで、もう数分で発車時刻だったのだが、樹以外の学生がバス停に来る様子がない。バス停に設置された時刻表を見るも、なにかが変わった様子はなかった。
あと少しだけ待ってみるか……。今動いたらそれはそれで後悔しそうだし。
小雨だった雨が少しずつ強くなっているのを見ると、この屋根から出るのは我慢した方が良いと踏んだ。
ふと、今日は校舎ロビーの掲示板も大学の事務連絡用のアプリも確認していないことを思い出した。途端に嫌な予感がした。
……いや、まさか。
その、まさかだった。アプリを起動すると、バスのダイヤ改正の文字がトップにでてきたのだ。そうして、冒頭に戻る。雨は更に強さを増し、辺り一帯が先程よりも暗くなり、あの黒い雲が丁度真上に来たのがわかった。
アプリに出てきた新しい時刻表を見ると、次に来るバスは三十分後だ。これより早く駅の方へ向かいたい場合は、校門から少し歩いたバス停に移動する必要がある。この土砂降りの雨の中、そこへ移動しようなんて考えには至らず、樹は諦めてバス停に設置されたボロボロのベンチに腰掛けた。
「最っ悪……」
せっかく走って階段を下りたのに。こればかりは今朝の自分に腹が立つ。余裕を持ってアパートから出てきてもこれだ。まったく、ついていない。
樹はまだ変更前のまま放置されているバス停の時刻表を睨む。
あー、もう。せめてここも変えておけよ、そしたらすぐ気がついたのに……!
樹が舌打ちをしようとした時だった。
バシャバシャと勢いのある水音と共に、一人の学生がバス停の屋根の下へ滑り込んだ。
「せ、セーフ……。あー、うそ。びっちゃりだ……」
駆け込んだ人物は膝に手をついて咳き込んだ。この土砂降りにやられ、結んでいた長い髪は重そうに垂れている。荒い息を肩で整え、深呼吸をすると、長い髪をかき上げながら顔を上げた。その人物の顔を見て、樹は思わずギョッとした。
雨崎、紬……!
樹の目が大きく見開かれた。
「まだバスって来てないよね……?」
着ていたシャツの裾を絞り、抱えてきた鞄からタオルを出しながら紬は樹に尋ねた。
「あ、いや……」
樹は慌ててスマホを取り出すと、先ほど見ていたアプリを開いて紬に見せた。
「ダイヤ改正?じゃあまだ来ないってこと?」
眉を寄せた紬はスマホから視線を上げると、樹の顔を覗き込む。長い睫毛に水滴が付き、キラキラと光って見えた。
樹が返事の代わりに頷くと紬は「そっか」と、潔く諦めがついたようで、ベンチに鞄をどかりと乗せた。
「じゃあ、やっぱりセーフだ」
こんな雨だけど、ラッキーだ。と間伸びした声で言うと髪の毛をぎゅっと絞る。校舎からバス停までは大した距離はなかったが、紬の姿を見て樹は戻らなくて良かったと安堵した。
「ねぇ君、どっかで会ったよね?」
「…………え?」
紬の問いに樹の背筋がぴんと張る。
「ここまで出てきてるんだよね、どこだったかなぁ」
紬は喉の辺りに手を持ってきて、上下に動かす。何度も会っていると思っていたのは自分だけだと思っていたが、微かに彼の記憶の片隅に存在を残していたことに口角が上がる。
これは、チャンスかもしれない。
「……あ、あのさ」
「なぁに、ヒントくれるの?」
わしゃわしゃとタオルで髪の毛を拭く。見た目と反して雑な部分を持ち合わせているのに驚くが、紬に覗き込まれた視線から逃れようと、樹は鞄に手を突っ込んだ。ずっと渡そうと思っていた物を手探りで探す。すると、樹がタイピンを探し当てる前に「あっ」と紬が声を上げた。
「思い出した、さっきの授業だ」
でしょ?と言ってにこりと笑う。くしゃりと崩した笑顔はまるで子どものようで、こんな風に笑うとは想像をしていなかった樹は、思わず鞄の中で動かす手を止めた。
「当たり?」
「え、あ……あぁ」
「やっぱり。君、後ろにいたよね。ていうか、いつも近くの席な気がするんだけど……気のせいかな」
また顔を覗き込まれ、樹は身体を逸らす。
「あー……」
気のせいではないから返答に困った。近づきたくて近くの席に座っていた、なんて口が裂けても言えるはずがない。そんなことを突然言われたら困惑どころか恐怖に近いだろう。
だって俺、男だし……!
何か別の言い訳を口にしようと思った樹は顔を上げた。紬と視線ががっつりとぶつかって、心臓が一度ドンと鳴り、目が泳ぐ。
近くで見るとやはり綺麗で、その長い睫毛の下に見えた澄んだ瞳に目を奪われる。タイピンのことを話そうにも、口を開いたら心臓の音が漏れ出そうだった。
「あ、えと……」
「ん、なぁに」
紬は濡れた長い髪を耳にかけ直した。さっきまでしなかったはずの甘い香りがフワッと樹の鼻腔を擽る。吃りながら樹は口を開いた。
「実はずっと言いたいことというか……わ、渡したいものがあって」
耳の奥で響く心音と、強く打ち付ける雨音で樹には自分の声が聞こえない。
「ごめん、ちょっとよく聞こえなくて……」
眉を寄せ、紬が答えながら身を更に樹に近づけてる。その声もまた強い雨音によって消され、樹は紬の様子に大きく見開いた。
「もう一回、言ってくれる?」
一瞬、樹の耳には紬の声だけがはっきりと聞こえた。雨音が強いのは変わりないが、その優しいゆったりとした口調がさっきの甘い香りと一緒に樹を撫でる。心音が激しい音に鳴り変わり、樹は理性が一瞬で飛んでいくのが分かった。
「……アンタを、ずっと見てた」
そう口にした時には、自然と紬の手の握っていて、紬の雨で少し冷たくなった手のひらが次第にじんわりと熱くなるのを感じる。次の瞬間、勢いで口走った自分の台詞があまりにも唐突で、そして恥ずかしいことに気がついた。手のひらは更に熱くなり、手汗が滲んだ。
「悪い……」
途端に合わせていた目を逸らす。顔など見ている余裕がなかった。情けない上に恥ずかしい。しかし、樹はそれでも手を離さなかった。手を離したらまた話しかけるのも憚れる遠い存在になってしまう気がして、離す決心がつかない。
「……ふふ。いいよ」
くすくすと笑い出す紬に驚いた樹は、逸らした視線を戻した。濡れた頬を赤らめ、はにかみながら紬は樹に握られた手を握り返す。
「僕も今、君しか見えないよ」
それは囁くような声だった。雨音で消されても仕方ないような、小さくて恥じらいがあり、すぐにどこかへ隠れてしまいそうな声だった。
「……なあ」
「なに?」
「君に……渡さないといけない物があるんだ」





濡れた服が乾かないまま、樹と紬は待ちに待ったバスに乗り込んだ。バスを待っている間は名前を教え合ったり、他愛のない話をした。というか、していなければまたおかしな行動をとりそうな気がして、樹はとにかく口を動かした。そんな樹に、紬は楽しそうに相槌を打つ。話に夢中になりすぎて、握った手はバスが来るまで重ねたままだった。
冷房の効いた車内に入った途端、紬は腕をさする。無理もない、あの土砂降りの中をかけてきたのだ。いくらこの季節が夏だとしても身体が濡れている中でこの冷房はかなりの毒だ。流石に見ていられなかった樹は、自分の着ていたシャツを紬の肩にかけた。
「ちょ……濡れちゃうよ」
「寒そうだし、俺は大丈夫だから」
羽織っていたシャツの下はちゃんとTシャツだと伝えるが、紬は「そういうことじゃないんだけど」と、少し困ったように笑う。
「じゃあ……。遠慮なく使わせてもらうね」
樹はゆっくりと頷いた。
本当は座って乗りたいところだったが、紬が濡れた服では申し訳ないからと、頑なに座らないのでそのまま樹も横に並ぶ。別に合わせなくて良いと言われたが、そうはいかなかった。
「これ、ちゃんと洗って返すから」
「いや、降りた時で……あ、この後電車?」
「うん。二駅先のアパート。樹は?」
「俺も。二駅先のアパート」
「そうなんだ。なんか……偶然。ふふふ、嬉しい」
くすくすと嬉しそうに笑う。こんな風に笑う紬を見る日が来るは思っていなくて、樹はまた胸の奥が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、すぐ洗って返すよ。今日は予定あったりする?君が何を僕に渡そうとしてるのかは分からないけど、今日はこっちを優先してよ」
樹は首を横に振る。
「予定はないよ。でも、どうせ洗濯は他とやるから気にしないで。それに返す物はちゃんとこの中にあるんだ。その、すぐに出ないだけで……」
申し訳なさそうに樹が答えた。タイピンはこの中にある。それはさっきの授業中に確認済みで、失くした訳ではない。
「だめ。僕の気が収まらない」
吊り革の手掛け部分にまで頭を屈めながら、頑なに紬は言った。自分より身長の高い男が、視線を屈める姿に喉の奥が唸るのを初めて感じ、樹は気まずそうに顔を逸らすと「わかった」と、小さな声で返事をした。
「良かった……。僕、こういう雨の日は一人で居たくないから……」
最後の一言はバスのエンジン音でかき消され、樹にはうまく聞き取れなかった。



最寄り駅の北口から徒歩十分。線路下に連なる商店街を抜け、向かいにコンビニの建っている横断歩道を渡ると、住宅地に踏み入れる。コンビニから歩いて数分後に綺麗なアパートが建っていた。外壁はグレーで、オートロック式のセキュリティが完備された高そうなアパートで、樹は小雨に打たれて細めていた目を大きく見開いた。
「アパート……?」
「うん、アパートだよ」
首を傾げながら、紬は答えた。手に持っている鍵はタッチセンサーが内蔵してあるようで、エントランスの黒いパネルにそれをかざすと、ガチャンと鍵の外れる音がした。
「すっげぇ……」
樹は感嘆の声を漏らした。自分の住むアパートは南口から出て、すぐの築十五年は超えているだろうアパートだ。クリーム色の外壁はよく見れば黒ずんでいるところがあるし、大して綺麗とは言えない。同じ大学生で、同い年。そして同じ最寄り駅。違うのは北口と南口から歩くというだけの話なのに、ここまで段違いの差があるとは思っても見なかった。口をぽかんと開けたままでいると、紬はくすくすと笑って、ロックの解除されたドアを開けて樹を呼んだ。
「樹、僕が風邪ひいちゃうよ」
「えっ、ああ、悪い」
ハッとして自分に向き直る樹を見て、紬はまた笑う。やはり、こうやって笑う紬を見るのは不思議な感じがすると樹は思った。入学式で見たモデルのような歩き方、凛とした表情、授業中の綺麗な寝顔を思い出すとやはり違う。ずっと、自分に向けられる視線はきっと冷ややかで、他人になど興味のない雰囲気がある気がしていた。それがこんなにも人懐こくて、彼の言動全てに熱が篭る。ただ部屋までの案内をするその後ろ姿だって、見るだけで心臓が痛かった。

紬の部屋は三階の角部屋だった。玄関は一人暮らしの部屋にしては広々としていて、樹の部屋には無いお洒落な観葉植物や傘立てが置かれていた。
「どうぞ、入って」
「お……お邪魔します」
促されて足を床に付け、リビングへ通される。部屋は二つ分かれていて、もう一方は寝室らしい。ゆったりとした大きなソファの前に、小さなテーブル。テレビは樹の部屋にある物よりも、値段も大きさも倍はありそうだった。
「今、タオル持ってくるね」
「あぁ、ありがとう」
いそいそとバスルームの方へ向かう紬の背を見送り、樹は鞄の中をもう一度確認した。今度は手探りだけでなく、中身もいくつか出して念入りに。
あ、あった……!
張り詰めていた物が解れ、肩の力が一瞬で抜ける。
良かった、ちゃんとあった……。
渡す物があると言いながらすんなり出すことが出来なくて正直焦っていた。樹は筆記体で彫刻された文字を見直し、安堵する。
「樹、このタオル使って。あとこれも」
戻ってきた紬はタオルと着替えを持っていた。
「いや、タオルだけで」
「風邪ひくから。ほら、そのシャツも濡れてるし、ついでだから洗うよ」
「そんな。大丈夫だってば」
「もぅ。脱がすっ」
「えっちょ、た、タンマっ!」
拒む樹の手を払い、紬はシャツの裾を掴むとその隙間から手を入れた。
「んっ」
雨に打たれて冷えた手が腰を滑り、樹は思わず声を漏らす。
「あ。今、えっちな声出したでしょ……?」
「……誰のせいだよ」
口元に手を当てた樹が答える。紬はくすくすと小さく笑い、わざとゆっくり手を這わせ、シャツを捲った。
「ねぇ……。このまま一緒にお風呂も入っちゃう?」
熱い息が胸に落ちて、樹の背中に電気が走る。紬の誘いにゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだが、樹は紬の腕を掴んだ。
「渡すもの……あるって言ったろ」
「そんなの、後で良いのになぁ」
わざとらしく膨れながら紬が言った。
「ダメ。俺の気が収まらない」
「ふふふ。それって……どっちの?」
「あーもぅ。いいから、これ」
ふざける紬の手のひらに、樹は持っていたタイピンを握らせた。
「あ……これ」
するりと、紬の腕が樹のシャツの下から抜け落ちる。
「入学式の時に拾ったんだ。紬がいたところに落ちていて、ずっと渡そうと思ってた。でも、タイミングとかきっかけとか探してたら全然声かけれなくて…………え?」
樹はギョッとした。紬はタイピンを見ながらポロポロと涙を零していた。
「ご、ごめん!俺がすぐ返せば……!」
樹が慌てて謝ると、紬は首を振った。背の高い紬から流れる涙が、ぽたぽたと落ちて樹の手の甲を濡らす。
「ごめっ……、よ、良かっ……たぁっ」
紬はタイピンを大事そうに胸に抱き、片手で涙を拭った。長い睫毛が濡れ、蛍光灯の明かりに反射して光る。樹は嗚咽を漏らす紬の背中を摩った。
泣いている姿も綺麗だなんて、聞いてねぇ……。
この状況でこんなことを言っては失礼だと思っているのに、視線は目の前で涙を零し続ける紬から離せなかった。
「ごめん、いきなり泣いて……。これ、ずっと探していたから……」
「いや……まぁ、驚いたけど……。俺がすぐ返すなかったのが悪かった」
樹はぐずぐずになった紬の頭に、先ほど彼から借りたタオルを被せる。自分が拾ってすぐに声を掛けていれば、こんな風に紬を泣かせてしまうことはなかったのだろう。
「ううん。拾ってくれたのが樹で良かった……」
紬は項垂れていた顔を上げ、赤くなった目で樹を見るが、顔の半分はタオルで隠していた。
「これは、兄の……形見なんだ」
「形見……」
樹は彫刻された名前を思い出す。
「雨崎達己っていうんだ。ここに名前があってさ」
紬はタイピンに彫られた名前を指でなぞりながら言った。愛おしそうにゆっくりと動く指の動きに合わせて眉が下がっていく。
「卒業祝いに僕がプレゼントしたんだ。兄さんはこれを付けて卒業式に向かった。その日は朝から今日みたいな酷い雨が降っててね。出て行く時に『こんな日に卒業式って、日頃の行いが悪かったかなぁ』って。兄さんは真面目で、優しくて……そんなことないのに、変な冗談を言ってたんだ」
樹は黙って紬の話に耳を傾ける。寂しそうな紬の声が胸にチクチクと刺さって、吸い込んだ息が肺の中で反発を繰り返した。
「僕、言ったんだ。『そんなこと言ってると、今にバチが当たるよ』って、呆れながらさ……。そんなことないって、兄さんは笑った。でも……結局その日、兄さんは卒業式に行けなかったんだ」
紬が鼻を啜り、被っていたタオルで涙を拭う。
「あの雨で……スリップした車に、轢かれて……っ」
紬のタオルを掴む手に力が入った。肩が揺れ、話す度に涙の決壊が進んでいく。
もう、無理に話さなくても良い……。
胸が締め付けられ、樹は紬の背中に腕を回した。
「ごめ……っ」
「……いいよ」
紬が樹の肩に顔を埋めた。肩が熱く濡れた。樹はもう一度紬の背中を優しく撫でた。



「……ごめん。これじゃあ本当に風邪ひいちゃうね」
もう大丈夫、そう言って紬は顔を上げた。赤く腫らした目が痛々しくて、樹は紬の頬に手を伸ばし、親指で瞼を撫でた。目を瞑る紬の目尻にキスを落とす。くすぐったそうにする紬を見て、樹は小さく笑うと今度は頬にキスをした。
「……いいよ。俺、頑丈だから。風邪なんて滅多に引かないし」
「……ふふふ。樹は優しいなぁ」
「いや、優しいって訳じゃ……」
ずっと見ていただけだって。今も、泣いている紬を見てるしか出来なかった。
それに、断りもなくキスをして……。
無自覚に行動していたことにハッとして、今度は樹の顔に熱が昇る。
「い、今、俺っ……!」
「あっ、雨……」
一人焦る樹を飛び越え、視線をベランダに向けた紬が呟いた。
「……ねぇ、樹」
「……なに」
紬は樹の背中に腕を回し、肩に顔を埋める。樹の心臓が跳ね上がった。ついさっき自分から抱きしめたくせに、心臓が爆速で脈を打つ。
「もう少し、一緒にいて」
肩の上で紬の唇が動くのを感じ、ぴんと背筋が張った。
「…………風呂、別なら……」
「ふふふ。だめ、僕の気が収まらない」
くすくすと耳元で笑う紬の声に、樹は頬が緩む。
ほんと……もっと早く、君に声をかけていれば。
もっと早く君に触れていたのだろうか。
樹は腕を紬の背中に回すと、長い髪を手で梳きながら背の高い紬の耳たぶにキスをした。
「分かった……良いよ。でも条件がある」
「条件?」
紬が顔を上げ、首を傾げた。
「俺に、紬のことをもっと教えて」
「……ん。良いよ、全部教えてあげる」
紬の答えを合図に、樹はその泣き腫らした彼の唇を塞いだ。雨に濡れたはずのその唇は、涙に濡れて塩辛い。角度を変えてキスをして、どんどん甘さを重ねていった。
「ん……んぁ、んんっ……い、いつ…待っ……」
紬が唇を離そうとするのを追いかけて、樹はどんどん深いところを探ろうとした。
「待っ……は、はぁっ、くしゅっ!」
紬は無理矢理顔を逸らすと、大きなくしゃみをした。
「……もうっ。待ってって言ったのに」
紬は鼻を擦りながら、恨めしそうに樹の顔を見た。そんな顔をされても怖くない、そう言おうと思ったが、樹は我慢できずに吹き出した。
「やっぱり、風呂に入ろうか」
「一緒に?」
「紬からに決まってるだろ」
「頑なだなぁ……」
「行っておいで。ちゃんとここで待ってるから」
「本当?勝手に帰っちゃダメだよ」
「分かったから」
後ろ髪を引かれるように、渋る紬の背中を樹は文字通り押してやった。脱衣所の前に来ると、紬も観念して扉に手をかける。
「樹」
「ん?」
「……拾ってくれて、ありがとうね」
「おぅ」
紬は頬を染めてにこりと笑うと「綺麗にしてくるね」と言ってバスルームへ入って行った。
綺麗って……。一目見た時からずっと綺麗なくせに。
閉じられた脱衣所の扉に向かって樹はため息を漏らした。
「どうすんだよ、この後……っ」





「紬、もう寝ろって」
「やだ。まだ樹と話してたい」
「まーた講義中に爆睡するつもりか?」
「ふふふ。ほんと、僕のことよく見てる。でも、大丈夫。今日からは探しにいく必要ないから」
「探しに……?」
「言ったでしょ、ずっとこれ探してたって」
安心した顔で、紬はベッド脇のテーブルに置いたタイピンを手に取った。
「特に雨の日はね、全然眠れなかった。探しに行かないといけない気がして」
「……そうか」
樹は紬の方に手を伸ばし、頭を優しく撫でる。気持ち良さそうに紬は目を細めた。
「でも、これからは樹がいるから。そうなると、違った意味で夜ふかしすることが増えるから……どっちにしても講義中起きてられないかも……?」
「あのなぁ……」
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

美形×平凡の子供の話

めちゅう
BL
 美形公爵アーノルドとその妻で平凡顔のエーリンの間に生まれた双子はエリック、エラと名付けられた。エリックはアーノルドに似た美形、エラはエーリンに似た平凡顔。平凡なエラに幸せはあるのか? ────────────────── お読みくださりありがとうございます。 お楽しみいただけましたら幸いです。

君はさみしがり屋の動物

たまむし
BL
「ウォンバットは甘えるの大好き撫で撫で大好き撫でてもらえないと寿命が縮んじゃう」という情報を目にして、ポメガバースならぬウォンバットバースがあったら可愛いなと思って勢いで書きました。受けちゃんに冷たくされてなんかデカくてノソノソした動物になっちゃう攻めくんです。

好きの距離感

杏西モジコ
BL
片想いの相手で仲の良いサークルの先輩が、暑い季節になった途端余所余所しくなって拗ねる後輩の話。

罰ゲームって楽しいね♪

あああ
BL
「好きだ…付き合ってくれ。」 おれ七海 直也(ななみ なおや)は 告白された。 クールでかっこいいと言われている 鈴木 海(すずき かい)に、告白、 さ、れ、た。さ、れ、た!のだ。 なのにブスッと不機嫌な顔をしておれの 告白の答えを待つ…。 おれは、わかっていた────これは 罰ゲームだ。 きっと罰ゲームで『男に告白しろ』 とでも言われたのだろう…。 いいよ、なら──楽しんでやろう!! てめぇの嫌そうなゴミを見ている顔が こっちは好みなんだよ!どーだ、キモイだろ! ひょんなことで海とつき合ったおれ…。 だが、それが…とんでもないことになる。 ────あぁ、罰ゲームって楽しいね♪ この作品はpixivにも記載されています。

俺達の関係

すずかけあおい
BL
自分本位な攻め×攻めとの関係に悩む受けです。 〔攻め〕紘一(こういち) 〔受け〕郁也(いくや)

合鍵

茉莉花 香乃
BL
高校から好きだった太一に告白されて恋人になった。鍵も渡されたけれど、僕は見てしまった。太一の部屋から出て行く女の人を…… 他サイトにも公開しています

思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった

たけむら
BL
「思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった」 大学の同期・仁島くんのことが好きになってしまった、と友人・佐倉から世紀の大暴露を押し付けられた名和 正人(なわ まさと)は、その後も幾度となく呼び出されては、恋愛相談をされている。あまりのしつこさに、八つ当たりだと分かっていながらも、友人が好きになってしまったというお相手への怒りが次第に募っていく正人だったが…?

僕は君になりたかった

15
BL
僕はあの人が好きな君に、なりたかった。 一応完結済み。 根暗な子がもだもだしてるだけです。

処理中です...