ここは恋する若竹荘

杏西モジコ

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姫と騎士のすれ違い恋心

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 コンコンコン。
 静かなノック音が聞こえた。頭の中はまだぼうっとしていて、どこを叩く音なのかははっきりと分からない。
 コンコンコン。
 次に聞こえたノック音はさっきより少し強めに響く。部屋の主である桃山馨はウーンという小さな唸り声をあげ、被っていた毛布を再び被り直した。
「馨、起きろ」
 今度は音ではなく声が聞こえた。声主はこの若竹荘、寮長の紫田翔平。面倒見が良くて朝はこうやって人を起こして回る事もしばしば。特に馨に至っては朝がめっぽう弱い為、アラームを設定していても起きることが出来ない。そういう時は決まって翔平が部屋まで起こしに来ていた……というのは建前で、それを見計らって寝坊している、という表現の方が正しかったりする。
「おい、いつまで寝てるんだ?」
 とうとうドアを開けられる。廊下の明るい光が暗い部屋の中に差し込み、馨の薄く開きかけた瞼が再び閉じた。
「ん……。しょ、へくん……もう少し」
「お前今日一限あるんじゃないのか。起きれないって分かってて夜遅くまでゲームなんかするなよ、まったく……」
 翔平は溜息混じりに言うと、部屋の中へズカズカと入り込み、積み上げられた漫画本や同人誌、ゲームソフトやゲーム機を器用に避けながら馨のベッドの脇に立つ。ピッタリと閉められたカーテンを開けられ、馨は顔を顰めた。
「眩し……」
 もう一度毛布に包まろうとしたが、翔平に引っぺがされてそれは出来ずに終わってしまった。
「マキさんの朝食、要らないのか」
 耳元でそう呟かれる。低い声がお腹の底にズン、と響き、朝から刺激が強い。
「……いる」
「なら、顔洗ってこい」
「ふぁい」
 欠伸をしながら返事をする。翔平は毛布の角と角をきちんと合わせて綺麗に畳むと、ベッドの上にそれを置いた。のそのそと起き上がり、眠そうな目を擦りながら洗面所へ向かう馨の背中をゆっくりと押す。寝起きでよろよろと足元がおぼつかず、視界もぶれている馨は、翔平の介助無しでこの物で溢れている狭い部屋の中を歩けそうにない。もたれるように身体を預けると、翔平は溜息をつき、馨を横抱きにした。
「まったく……いい加減片付けしないと危ないぞ」
「……やだ」
 馨は両腕で顔を隠す。
 近くて、恥ずかしい。でも、嫌がる気力よりも眠気が勝つ。
「やだって……。ならせめて寝起きでもまともに歩ける部屋にするんだな」
「はぁい」
 馨はまた欠伸をしながら返事をした。怒られているのに、不思議と嫌な気分ではない。お姫様抱っこの体勢で何を言われたって恥ずかしい方が勝る。それに、馨にとって翔平の声は心地が良く、朝の起き抜けでも聞いていて苦ではない。それどころか、ずっと聞いていたいぐらいには彼のことを好いている。早起きは三文の徳と言うが、馨にとっては寝坊こそ三文以上の徳があった。


 洗面所に運ばれると、すでに緑がその場を占領していた。
「あ、馨ちゃん、翔平くんおはよー」
「ん……はよぉ」
「おはよう。緑、馨の様子見といてくれ」
「へーい」
 馨を下ろし、翔平は食堂へ向かう。馨は壁に寄りかかり、目を薄く開けたままぼんやりと天井を見つめていた。
「馨ちゃん、今日もお姫様抱っこしてもらったの?翔平くんも本当、甘いよなぁ」
「いいの……緑、うるさい」
 大きな欠伸をしながら馨が言い返す。以前、緑に相談したことがあり、彼は馨の翔平に対する気持ちを知っていた。
「いい加減伝えちゃえばいいのに」
「ダメ。翔平くんはきっと違う」
「馨ちゃんだってゲイじゃないでしょ」
「……だとしてもダメ」
 馨は洗面所にある引き出しから自分のタオルを取り出し、首に引っ掛けると、目にかかる前髪をヘアゴムで軽く止めて顔を洗った。
 確かに馨はゲイではない。今まで好きになる子は全員女の子だった。どれも結果的には叶わぬ恋だったけれども。それに、今回の相手は翔平だ。男で、同性。同性だから好きになったとかじゃなく、翔平だから好きになった。だが、そんな風に言われたらきっと重いと思われるし、最悪の場合はこの寮にだっていられなくなる。どうしてもそれだけは避けたくて、緑にも口止めをしていた。彼の側に居られなくなるのなら、伝えないままこの関係を続けていた方がマシだ。だが、気持ちは日に日に増すばかりで、どうしようもない。そうやって一人で抱え込むのが辛くなり、緑に打ち明けた。当初はニヤニヤと面白そうに聞いていた緑だったが、馨の真剣に悩む気持ちを汲み、黙っていてくれている。だが、自分の行いで時々ボロが出そうにはなっているのは分かっていたし、緑にも再三突っ込まれている。
 その時はその時だ。でも、まだ大丈夫、まだ……。
 そうやって馨は、自分へ世話を焼いてくれる翔平に打ち明けられない恋心を日々募らせていた。


 食堂へ向かうと既に翔平と成亮が寮母のマキの横で配膳の手伝いをしていた。
「あ、馨くん。おはよう」
「おはよう……ございます」
 静かに答えた馨はマキの顔をチラリと見て挨拶を返すと、いつもの席に着く。
「あれ……廉は?」
 馨は席に着きながら成亮に尋ねた。
「二限からだって言ってまだ寝ています。朝ご飯はギリギリに食べに来るって言ってました」
「そうか。緑はさっき声かけたし、響と崇人さんは相変わらずだしな……」
 翔平の一言で響と崇人はまたゼミ室に泊まり込み作業をしていることが分かる。緑が朝の身支度に時間をかけるタイプということは周知していたので、マキも成亮も深くは聞かなかった。成亮が箸を配り、三人は手を合わせて朝食を食べ始めると、その数分後にきっちり髪のセットまで決めてきた緑が食堂に入ってきた。
「お、みんなおはよーん」
「おはようございます」
「おはよう」
 成亮とマキが代わる代わる緑に挨拶をする。
「緑くん、今日もなんだかおしゃれだね」
「え、わかるー?今日は合コンだからね~」
 マキが緑にお椀に装った白米を手渡すと、ニコニコしながらそれを受け取る。おしゃれ、というのか分からないが、とにかくここに居る人間の中で一番色鮮やかな服を着ているのは確かだった。黒地に大きなレモン柄のオーバーサイズシャツに黒のスキニー。細身の身体がやたらと細く見えるが、緑が着ると何故だか納得してしまう。
「あまり遅くなるなよ」
「はいはい。本当、翔平くんってお父さんみたい。でもどっちかって言ったらオカン?」
「日付け超えたら締め出しだからな」
「はいはい、分かってるってば」
「返事は一回で良い。せめて後輩の手本になれよ」
「いや、俺は緑さんを手本にしようとはしてません」
「ちょっ、シゲ!それ心外なんだけど」
 成亮の真面目な表情に、その場にいた緑意外が吹き出した。
「ったくもぅ」
「翔平くんも心配なのよね」
 不貞腐れる緑を見ながらマキがそう言うと、翔平はさも当たり前だと言うように大きく頷く。
「まぁ、寮長だからな」
 本当、素直すぎというか、直球というか。
 はっきりと答える翔平を横目に、緑も少し口を尖らせる。反論させない作戦なのかは分からないが、こういうところが翔平らしい。
「わかってるよ、気をつけマース」
 と言いつつ、緑は向かい側に座る馨にウィンクを送った。
 はいはい。またですか……。
 大した意味はない。夜中までゲームしてたら助けてね、の合図だ。馨はジト目で緑に視線を送るが、頷くこともしなければ返事を返すことはなかった。



 全員が食べ終わる頃に廉が下に降り、ゆっくりとマキと二人で朝食を摂りはじめた頃、朝食を食べ終えた四人は大学へと向かった。適当な服を着て、ボサボサの髪を水に濡らし適当に梳かす。前髪は鬱陶しいけど学校内では絶対に上げない。自分ではそうは思った事はないが、馨は側から見ると『可愛い顔』と騒がれる顔立ちだった。初対面の相手からはチヤホヤされる事が多いが、好きなものがアニメやゲームだと言うと、イメージと違うと言われ人が離れていく。そんな事が入学時に繰り返されてしまい、それからは学内にいる間は前髪を下ろして過ごしていた。
 身体に似合わない大きなリュックを背負うと、片手にスマホを持ち、画面を親指で連続タップしてアプリゲームのログインボーナスを回収する。画面を見ながら歩くと翔平に怒られるため、ログインボーナスを回収し終えたらそのままスマホをポケットに入れた。

 この若竹荘に馨が入寮したのは去年の春。大学入学を機会に上京し、大学付近で一番家賃の安い場所を探した末に、ここへ辿り着いた。
 これだけオンボロなら、陽キャなんて絶対にいないだろう。静かにひっそりと大学生活を送りたい。そう思っていた馨は即決でここへ入寮を決めた。だが、やはり人生はそう甘くは無い。入寮初日にして、心が折れかけた。というのも、蓋を開ければ騒がしい先輩が多く住んでいたからだ。それも、今までの馨の人間関係の中で避けていたような人ばかり。喧嘩っ早くて壁を壊した先輩もいれば、後輩を連れ回し、挙句徹夜を強いて自分の研究を手伝わせる人もいる。同級生の緑は見た目からして近寄りがたい上に、なんでもウェイウェイと楽しそうにする意味のわからない生物だ。こんな中で助けを求める隙もない。
 最初はそんな所ばかりに目が入って、ビクビクする日々だったのだが、翔平がそんな馨に世話を焼いてくれ、徐々にここの生活にも慣れていった。もともと趣味以外の友人が少ない馨にとって、翔平という頼れる先輩が身近にいた事は物凄く有り難い。話やすいからこそ、つい甘えてしまう。そんなことが続き、気がついた時には翔平に対して特別な感情を持つようになっていたのだ。
 緑に至っては大して親しくない時から、さっきみたいに、深夜終電を超えて遊んだ時は俺に鍵を開けてと連絡を寄越す。最初は従わなければこのチャラ男に四年間嫌味を言われたり、それ以上の仕打ちをされてしまうと思って仕方なくだったが、今ではそのお礼にって、時々アニメやゲームのコラボカフェに付き合ってくれたりする。偏見を持っていたのは自分だけだったというのを自覚したのは、緑のそういう優しさをきちんと感じられたからだった。
 まぁ、あの時間に起きているのって俺ぐらいだからだろうけど……。
 他の寮生達も基本的にそうやって自分を構ってくれるため、ここに住む人達には自然と素の自分を見せれるようになってきていた。だからこそ、ここでの生活を続けていくためにも、翔平への気持ちを隠さなければいけない気がしていた。


「それじゃあ、また寮でな。緑、帰りは遅くなるなよ」
「分かってるってば。んじゃ、馨ちゃん、行こ」
「うん」
「じゃあ、俺はこっちなので」
 学内で翔平、成亮と別れた緑と馨は必修授業の教室へと移動する。目立つ緑の横を歩くのは気乗りしないが、一限ともなると彼の周りの友人はいつも眠そうで、学生特有のダル絡みもなく、授業前に疲れることはまずない。その方が幾分か過ごしやすくて、馨には有り難かった。
 教室に入り、馨と緑は窓際列の真ん中の方で一つ席を間に空けて隣に座った。時々離れて座る事もあったが、だいたい一緒に来た流れでそのまま近くに座る事が多かった。大した会話もせず、各々スマホを見たりで授業前の時間を潰す。馨はこういう隙間時間にアプリゲームのデイリークエストを進めていた。
「あ、馨ちゃん」
 アプリを起動していると、緑がスマホに視線を落としながら声をかけてきた。
「何?教科書、忘れたの?」
「違くて。今日の合コン参加しない?」
 何を言い出すかと思いきや。
「行くわけないじゃん」
 ばっさりと断り、馨は自分のスマホ画面に再び視線を落とす。
「やっぱりなぁ。でも来たら絶対楽しいよ?」
「やっぱりって、断るの分かってたくせに」
「一人欠けたんだもん。人数合わせだと思ってさ!」
「他をあたってよ。そういうの俺より廉でしょ」
「すぐそばに居たからワンチャンあるかなーって。それにれんれんは飲めないからダメ。未成年の後輩連れ出したら、それこそ翔平くんにドヤされる」
 緑は怖い怖い、と言ってふざけて両腕を摩った。
「じゃあ諦めなよ」
「もー。つれないなぁ」
 わざとらしく頬を膨らませ、緑はまたスマホに齧り付く。思いつく限りに声をかけるのだろう。
「可愛い子がくるかもよ?ほら、萌え系っていうの?話してみたら、以外にも同じゲームやってる場合もあるしさ」
「うるさい」
 しつこく誘う緑に馨はまたはっきりとそう答えた。
「せっかく近所の女子大生と組めたのに……」
 何度言われても馨は興味ないとしか答えない。そもそも二次元ならまだしも、三次元女子なんて無理だと頑なに閉ざす。それに、その飲み会に行ってしまえば、翔平との門限を守るという約束を破ることになりそうだ。古川緑は人当たりは良いが、そういうところが適当すぎる。今日もなんやかんやで深夜を超えての帰寮になるのだろう。あんなに優しくて面倒見の良い先輩を困らせて何が楽しいのだろうか。
 翔平の負担を減らすために一瞬、馨の脳裏に参加の文字が浮かんだが、やはり気乗りはしない。
 行っても後悔しかしないなら、最初から行かないべきだよ、うん。絶対そう。
「あ、翔平くんとか行くかなぁ」
 ニヤリと嫌な笑い方をして緑が馨の顔を覗き込んだ。
「行く訳ないだろ。翔平くんだもん」
「さぁ、どうかなぁ。翔平くんだって男だもん。案外誘ったら行ったりして」
「絶ッッ対ダメ!」
 思わず声を張ってそう返した。心拍数が急に上がるのがわかる。大きく目を見開き、いつも以上に鋭い目で緑を睨んだ。
「じょ、冗談だよ。ビックリした……。ほら、座って」
 緑が慌てて馨を座らせる。周りがざわついていたお陰で、馨の声はかき消されたようだ。気が付かないうちに周りは沢山の学生が席に着き始めている。馨は深呼吸をした。冗談と聞いて少し安心した。絶対に合コンには連れて行って欲しくない。あの世話焼きで俗にいうイケメンが、その辺の女の子に気に入られない訳ないのだ。
「……門限、守りなよ」
 さっきとは真逆の、聞こえるか聞こえないかの声で馨は言った。
「それは盛り上がらなかったら、だね」
 ニッ、と笑って緑が答えたと同時にチャイムがなった。



 今日の授業が一通り終わると、馨はコンビニに寄ってから寮へと向かった。アルバイトは今日は休みで、夕飯の時間までいつもやっているオンラインゲームのレベル上げをする予定だった。
 少し余裕あったら素材回収して……暇そうならまた廉でも誘ってみよう。でもあいつ、操作下手なんだよなぁ……。誘う前に薬草枯渇問題どうにかしなきゃだ……。
 寮の玄関に入ろうと、引き戸に手を掛けると、廊下で話す緑と翔平の声が聞こえてきた。
「翔平くん、良いじゃん!めっちゃ似合う、すっげぇカッコイイ!」
「本当にこれで良いのか?こういうのあまり使った事なくて」
「うんうん、大丈夫!これ良いよ!めちゃくちゃ良いっ!良い以外何も言えない!」
「なんだそれ」
 楽しそうな笑い声が聞こえ、馨は思わず手を引っ込めた。二人の声がだんだんと近づいてくるのがわかり、咄嗟にその場を離れて寮の裏へと回る。別に悪い事も気まずい事も何もないのだが、身体が勝手に動いてしまった。壁に身体をピタリとくっつけ、玄関から出て行く二人の様子を眺めた。
 あ……。
 視界に入った翔平の格好に目を奪われる。いつもの髪型とは違い、ゆるいウェーブがかかり、よく緑や廉が読んでいる雑誌のモデルのような髪型にセットされていた。
 格好、いい……!
 普段見慣れない翔平の一面に思わず釘付けになった。
 時々でも良いから、普段からやれば良いのに……。でもなんで、突然あんなオシャレをし始めたんだ?
 馨は今朝の緑とのやり取りを思い返した。彼は飲み会に欠員が出たからその場にいた馨に声をかけたのだ。彼曰く、ワンチャンいけると思って。
 もしかして……俺が断った後、翔平くんを……?でもあれは冗談って……。
 頭の中が混乱する。緑は俺の気持ちを知っているはずなのに。
 そもそも何で翔平くんが合コンなんかに……?
 合コン、だからなのか。それとも、緑に頼み込まれたから断れなくて行ったのか。だとしても、さっきの会話の流れは絶対に断れなかったなんて理由じゃないだろう。
 しかもあんなに楽しそうに……。
 ヒヤリとした冷たい風が、馨の胸の隙間に入り込む。嫌な感じがして喉元あたりが気持ち悪い。モヤモヤとした意味のわからない感情と変な苛立ちが込み上げた。馨は二人の姿が見えなるまでその場から動くことができず、難しい顔をしたまま、寮から出て行った翔平の背中をじっと見つめた。



「うわ!またやられた……」
 画面上のキャラクターが倒れ、ゲームオーバーの表示が映し出される。悔しそうな声を上げる廉の横で、馨はやれやれと溜息をついた。
「だから、装備変えてから来てって言ったじゃん」
「いけると思ったんですぅー!てか何スか、今日めちゃくちゃ苛ついてません?」
 隣で画面をじっと見つめたまま文句を言う馨に、廉はコントローラーを置き、ベッドに寄りかかりながら天井を仰いだ。馨は帰寮後、真っ直ぐ二階へ上って昼寝中の廉を叩き起こし、自室に連れ込むと同時にコントローラーを渡してきたのだ。
「ねぇ、いい加減何があったか教えてくれません?俺、先輩のサンドバッグじゃないんスけど」
「別に、何も。廉の操作が下手なだけ」
「じゃあ俺の事、別に誘わなくたって良かったじゃん……!」
 唇を尖らせ、廉はそのままスマホを弄り始める。いつもと同じ対応をしているつもりでいたが、確かに無理矢理ゲームに誘うことはなかった。誤算というか、失敗というか。だとしても、ここまで苛々が態度に出てしまうとは思っても見なかった。
「……ごめん。当たった」
 馨は手に持っていたコントローラーをその場に置いた。
「……で、何があったんスか」
「……翔平くんが合コン行ったから……。それでなんな、モヤモヤっとしてて……」
「は?ちょ、待って……え、翔平さんが?な、なんでっ」
 崩していた体勢から、廉は大きな声を出して座り直す。その目は大きく見開いているのを見て、馨同様に翔平が参加する場としては似つかわしくないと思っているようだった。
「緑が連れて行った。髪の毛も、いつもと違う感じにして……」
 言葉に出すたびに胸が痛い。何故だかは全く分からない。こんな痛みは初めてで、どう対処して良いのか分からないのに、誰かに話すことで少しずつ消えていく気もした。
「俺……朝、緑に誘われたんだ。でも、断った。興味ないって。そしたら俺の代わりに翔平くんが行っちゃって……。それが凄く嫌で、モヤモヤして……この辺が凄く気持ち悪くて、苦しい」
 馨は着ている服の胸部をグシャリと掴んだ。
「翔平くんが行くなら、俺が行けば良かった……。無理してでも、座ってるだけならなんとかなったし、どうせ俺に興味ある人なんて出てくる訳ないし……。でも翔平くんは絶対違う。あんなに優しくて格好良い人いないもん。絶対、放っておく女の子なんていない。緑も狡いよ……。あんな翔平くん俺、初めて見たし、それに誘わないって、冗談だって言ったのに……!やっぱり、最初から俺が断らないで行けばよかったんだっ……!」
 するすると口が回る。好きなものを話す時と同じぐらい饒舌で止まらない。
「ちょ、待って!馨ちゃん、落ち着いて」
 馨は泣きそうな顔で廉を見た。話せば緩和されると思っていた痛みは、どんどん膨れ上がっていく。
「な……」
 廉が眉を寄せて困った顔を見せるが、馨は廉を見て離さない。
「それ……」
 廉は言いかけて一旦口を噤む。
「ヤキモチ……じゃないんスか?」
「……あ」
 馨は咄嗟に口に手を当てた。
「緑くんに翔平さんを取られたーとか、翔平さんに彼女出来ちゃうーとか。それで何か変に焦っちゃって」
「ヤキモチ……」
 繰り返し馨は呟いた。
 どうしよう……ヤキモチなんか妬いてしまった。それも、緑以外の前で……。
 というか、そもそも翔平くんは俺のものじゃない。誰のものでもないのだ。だからその感情はおかしい……と思う。それに、彼は楽しそうに緑と出て行ったし……。
 胸が熱くなり、苦しい。不意に目頭が熱くなって、涙が溢れ出た。
「え、あ……あれ……」
「ちょっ、馨ちゃん?マジでもう、どうしちゃったんスか!」
 ぽたぽたと涙を落とす馨に、慌てて廉は部屋の隅に置かれたティッシュボックスを手渡すが、受け取ったは良いが涙を拭く余裕がない。止まらない涙に自分自身でもどうして良いのか分からず、嗚咽を漏らす。
「あーっ、もうっ!」
 廉は乱暴にティッシュを抜き取ると、馨の顔にそれを当てた。
「ぶぇっ」
 力を多少緩めてくれてはいたが、廉の乱暴な拭き方に馨がもがいた。
「い、痛いっ」
 鼻をズビっと鳴らしながら、廉の腕を掴み、顔を拭くのをやめさせる。流れ落ちるほどの涙は止まったが、目頭はまだ熱くて、些細なことでまた泣き出しそうだった。
「どう考えも先輩にいきなり泣かれる後輩のがかわいそうでしょ」
「う……。ごめん」
 廉に嫌味ったらしくそう言われて、馨はしゅんと小さくなる。
 情けない。感情のコントロールができなくて、後輩に泣きついて……。
「ていうか、馨ちゃん」
「……何」
 馨はティッシュで鼻をかみながら返事をした。
「もしかして……翔平さんの事好き……なの?」
 また泣き出されても面倒で、廉は恐る恐る馨に聞いた。馨が一瞬、ピクリと反応し、そのまま固まる。数秒後、馨は丸めたティッシュをゴミ箱に投げ込むと、下を向いて黙り込んだ。
「あ……えっと……。違ったら違ったで俺の勘違いなんですけど……」
「そう、だよ」
 馨は食い気味に答えた。
 この訳の分からない苛立ちも、焦りも、全部ひっくるめて翔平を思う気持ちから出てきたものなのはハッキリと自分でも分かっていた。誰のものでもないのに、誰かのものになるのは酷く嫌だと感じるほどに。
「どう、したら良い……の」
「え……?」
「俺、どうしたら良いのかわからない」
 先輩にそう言われて廉はそんなの、こっちのセリフだと言わんばかりの表情をした。成亮との関係はまだ全員に伏せていた上に、また勝手に行動して怒られて口をきかない日々が続くのを避けたい廉は、眉を寄せて苦笑いを浮かべると、馨の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「だ、大丈夫……っしょ。たぶん……いや、全然あの人は遊び人には見えないし、それに」
「それに?」
「人の好意を嫌がる人じゃないですよ。馨ちゃんが一番分かっているんでしょ?」
 廉はそう言うと、コントローラーを拾い上げて、続きをやろうと馨に言った。
 正直、不安が募りゲームどころではないが、馨はコントローラーを受け取ると、服の袖で目を擦り、座り直した。



 夕飯後、色々と落ち着いてから、廉とのやり取りを思い出し、消えたくなった。
 バレた……全部。もう無理だ、終わった。俺の平穏な若竹荘はなくなった……。
 何度も溜息をつき、思い出しては赤面し、枕に顔を埋める。日課だった夜のクエスト周回も集中出来ず、オンラインゲーム仲間の誘いも断って途中でゲームもやめてしまった。
 あぁ……どうかしてるじゃん……。
 恋だの愛だの、自分には無縁の領域だと思っていたから尚更へこんだ。そもそもどうしてこうなった。去年の……いつ頃だ?いつからこんな風に彼を見ていたのだろう。考えても分からない。それでも、翔平の横を誰かが独占すると思うだけで、また苦しくなる。溜息が何度も出て、嫌なことばかり浮かんで、胸のあたりが掴まれるようにキュッと縮こまる。いつだかハマったライトノベルの主人公の気持ちがようやく理解できた。あれは異性同士の恋愛だったけれど、主人公の心理描写と今の自分の状況が完全に重なっている。苦しい、しんどい、いっそこの気持ちをぶつけて楽になりたい。でも……怖い。自分は翔平が好きなんだと、身体全体が叫んでいる。そう感じた。
 翔平と緑はまだ帰って来ない。日付が変わるまであと二時間はあった。翔平の事だし、きっとそれまでには帰ってくるだろう。廉にはさっきそう言われたが、一緒に行ったのはあの緑だ。何かと理由をつけて引き伸ばす事も考えられる。
 あのチャラ男め……!本当にそんなことしてたら絶対中になんて入れてやるか……!
 そんなことを考えていると、ガラガラという玄関の引き戸が開けられる音がした。音に反応した馨は勢いよく身体を起こし、部屋の扉まで移動する。ほんの数センチだけ扉を開き、狭い隙間から廊下を覗いた。
「あーもぅ!やっと着いたっ!ほら、降りて!」
 床が何かに当たる鈍い音がして、馨はその扉の隙間を更に広げた。
「ったくもう……何徹目ですか。こんなに歩けなくなるなんて。まったく……倒れるまでやって良い結果なんて出るわけ無いでしょう。そんなに切羽詰まってる訳じゃないのに、なにをそんなに焦っているんだか……」
「ごめんって、もう何回も言ってるじゃないか。全部響が正しいから。ね、許してよ。今度美味しいもの食べに連れて行ってあげるし、何でも言うこと聞いてあげるからぁ」
 帰ってきたのは響と崇人だった。大方、後で寝ると言っておきながら響を仮眠室に追いやって、ずっと起きて作業をしていたのだろう。以前にもこうやって響に怒られる崇人を見たことがあった。
「嫌です。もう部屋まで自分で行ってください」
「えぇ……僕もう動けないよぉ」
「知りません」
 両眉を寄せ、眉間にくっきりといつまでも残りそうな皺を作り、響が廊下を歩いて部屋の方へやってくる。すると、小さな隙間から見ていた馨と目があった。
「あ……。えと、おかえり……なさい」
「あぁ、馨。ごめん、起こしたか?」
 馨は静かに首を振った。
「良いの?崇人さん」
「たまには放っておいてもバチは当たらないよ」
 響は心配そうに尋ねる馨に、優しい笑顔を返す。
「響ぃ、ごめんってばぁ」
 欠伸をしながら玄関で寝っ転がっている崇人が腕を伸ばして助けを求めている。本当に良いのだろうかと、馨が双方の顔を交互に見るが、響の決心は硬いようだ。
「響ぃ~」
「あーもう!はいはい、わかりましたよ!ったく……。悪い、薫ちょっと手伝ってくれ」
「あ、うん」
 馨は部屋から出ると、響と一緒に崇人のもとへ向かう。フラフラとしている崇人を近くで見ると、顔色も悪く目の下にくっきり深い隈を作っていた。
「あはは、ごめんね。馨まで」
「ううん。大丈夫」
「馨、俺がこの人背負うから、後ろで支えてくれ」
「うん」
 響は顰めっ面のまま崇人の手を取る。怒っていながらも優しく自分の方へと引き寄せて、崇人を立たせた。踏ん張りが効かず、よろよろとしている崇人を二人で支え、なんとか響が背負う体勢に持ち込むと、ゆっくりと階段の方へと進む。響も仮眠をとったとはいえ、十分に寝ていないのだろう。ふらふらしているその後ろで支えてくれだなんて、無茶な頼みだと思いながら、馨は崇人の腰に手を当て、二人を支えた。



 崇人をベッドに寝かせると、響はその場に座り込んだ。
「大丈夫……?」
「あぁ。慣れてるからさ」
「やだなぁ、僕がいつもこんな感じだと思われちゃうよ」
「いつもでしょうが」
 呆れた響は盛大な溜息をつく。
「それよか、崇人さん。ちゃんと寝てくださいよ。明日は絶対大学行っちゃダメですからね」
「はいはい。分かったよ……ちゃんと休むから。響、馨も、ありがとうね」
 馨は返事をせずにぺこりと頭を下げ、小さく「おやすみなさい」と答えると響に続いて部屋を出た。
「悪かったよ。邪魔したよな、ゲームしてたんだろ?」
「ううん。今日は……やってなかった」
「そうなのか。珍しいこともあるもんだなぁ」
 不思議そうな顔をして響が階段を降りていく。
「珍しいといえば……翔平の靴もないな。あいつ今日、バイトだったか?」
 響のその言葉に馨は足を止めた。
 思い出しちゃった……。せっかく、忘れかけれていたのに。
 考えたくなかったモヤモヤがまた胸の内に沸々と込み上げてくる。
「馨?」
「え、あぁ……ごめん。少し、考えごと」
「そうか。ここの階段暗いんだから、ぼうっとするなよ」
「う、うん」
 そう言われて不安になり、手すりに手をかけた時だった。
 玄関が開き、翔平と緑が帰ってきたのだ。
「あ、おかえり」
「ただいまー!ひびきん!てか、ひびきんこそおかえりー!」
 大きな声で緑が返事をした。
「こら、近所迷惑だろ」
 行きがけと同じ見慣れない髪型の翔平が大声を出す緑を嗜める。よく見ると緑の頬がほんのり赤い。余程楽しい飲み会だったのが分かって、更に馨の中の苛立ちが増した。
「てか、なんだ翔平、その頭」
「良いでしょ、俺がやったんだー!」
 へにゃりと嬉しそうに笑った緑が、翔平の髪を触りながら言った。
「へぇ、似合ってる」
「合コンだし気合い入れてあげたんだよねぇー!」
「えっ、合コン?翔平、お前が?」
 合コンと聞いて目を丸くする響に、翔平は苦笑いを返した。その後ろで馨は着ているシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
「ただの人数合わせだって」
「でもその割にめちゃくちゃモテてたよね?」
「へぇ、そうなんだ?」
「緑、黙れ」
 やっぱり……。
 馨は何者かに胸を思いっきり掴まれたような感覚を覚えた。聞きたくない話が耳に入ってきて、三人の声をかき消すほど叫びたくなる。
「あはは。確かにその髪型で翔平ならモテる気がするわ。なぁ、馨」
 急に話を振られた馨はビクンと身体を揺らした。
「あ、え……うん」
「あら……馨ちゃん……い、いたの?」
 罰の悪そうな顔をして、緑が馨を見上げて言った。冗談だと言った手前、結果的に連れ出した挙句、翔平がモテただの馨の聞きたくもない話をペラペラと喋ったのだ、気不味くない訳がない。
「あぁ、崇人さんを運ぶの手伝ってもらったんだ」
「そうか、崇人さん帰ってきたのか」
「倒れ込むほどだったから明日の夕方ぐらいまで寝てると思うよ。本当、世話が焼けるったら……俺だって眠いのに」
「相変わらず危ない人だな」
 やれやれと肩を落とす響きを見て、翔平が言った。脱いだ靴を下駄箱に綺麗に入れ、軋む床に足を乗せる。
「そうだ、ひびきん。久々に一緒に風呂入ろ!」
「え、あぁ。良いけど」
 靴をしまった緑が響に肩を組みながら言った。そそくさとその場から身を消したいのが目に見えて分かる。
「よっしゃ!じゃ、面白い話してあげるねん」
「面白い話?」
「緑、余計なこと話すなよ」
「余計なこと?なんのことだろうねぇ。あ、今日のモテ伝説とか?いやぁ、女の子達の反応ったらさぁー」
「緑、いい加減にしてくれ」
「はいはい。モテ男は怖いですねぇー」
 ニヤニヤと笑う緑に翔平は鋭い目を送る。そんな翔平には目もくれず、緑と響の二人は、ケラケラと笑いながら着替えを取りに部屋へと向かった。
「馨、何ぼうっとしてるんだ?」
 階段で全部のやりとりを眺めていた馨に、翔平が声をかけた。
「……別に。なんでもない」
 そう、なんでもない。翔平くんが合コンでモテるのは想定内だった。関係のない俺が騒ぐようなことじゃない。そしてなにより……この気持ちは、悟られちゃいけない。
「そうか。風呂、入ってないなら俺と一緒に入るか?」
 ドキっとして馨は咄嗟に首をぶんぶんと振る。
「さ、さっき入った、から!」
 今まで翔平相手にこんなにも上擦った声を出したことはなかった上に、そんな事をいきなり言われた馨の心臓はばくんばくんと暴れ出した。
「そうか」
 平然とした顔で翔平はそう答えると、部屋へ向かう。真っ赤になった顔を見られたくなかった馨が、ほっと胸を撫で下ろした時だった。馨はふわっとした一瞬の浮遊感を感じた。
「うわっ!」
 気を抜いた馨は階段を降りようとした際に誤って段を踏み外してしまった。
 ドタン!という大きな音が寮内に響く。近くにいた翔平が馨の元に駆け寄った。
「馨っ!」
「痛……っ!」
 腰から思いっきり落ちたため、頭は打っていないが、下半身と変に床に着けてしまった右手に激痛が走る。
「どうした!」
「何の音?」
 部屋に戻ったはずの響と緑が慌てて戻ってくる。二階の部屋からは廉と成亮がなんの騒ぎだと、同時に部屋から飛び出てきた。
「ごめ……滑って、落ちた」
「立てるか?」
 翔平の差し出した手を掴み、いつものように立ち上がろうと右手をついて身体を起こそうとした。
「痛っ」
 激痛が右手に走り、馨はまたその場に座り込んだ。
「右手か……。誰か、氷嚢作ってきてくれ」
「俺、やります!」
 二階から降りてきた成亮が答え、バタバタと食堂へ向かった。
「とりあえずお前らは風呂入って来い。廉、念のためマキさんに連絡してくれ」
「あ、はい」
 廉の返事を聞くと、翔平は馨を今朝のように軽々と持ち上げた。
「え、ちょ……やだっ」
「暴れるなよ」
「……うぅ」
 心配そうに見つめる響と緑を置き、横抱きのまま部屋に向かわれる。恥ずかしさと痛みが同時に込み上げ、また目に涙が浮かんだ。
 あぁ、もう、やだ……最悪。
「こんなんで泣くなよ、ったく……大丈夫だから」
 そりゃ、こんなんじゃ死ぬ訳ないけど……。
 だんだんと強い痛みはなくなり、右手はじんじんと熱を感じ始めた。同時に顔や頭もぼうっとし、涙が溜まった視界は更に霞み始める。馨はぎゅっと目を強く瞑った。
 こんな状況下で照れるなんて……自分、本当にどうかしてるだろ……。



 翌日、翔平が付き添って病院に向かうと、右手は捻挫で、腰は軽い打撲程度だと診断を受けた。階段から落ちたと言っても大した段差でなかったことが不幸中の幸いだろう。
 だとしても、今朝の寮生の心配の仕方は尋常ではなかった。完徹を二、三日続けていた崇人は起きてこなかったが、緑に至っては気を利かせてマキに朝食はパンにしてくれと頼んでいたし、廉は治るまで荷物を持つと言い出した。廉の申し出は一度断り、とりあえず今日は大事をとって病院に行くことを優先すると伝えると、翔平も同行すると言い出したのだ。
「いいよ、一人で行けるってば」
「ダメだ」
 翔平は強めにそう答えた。
「そうだよ、馨ちゃん。途中で痛みが出たらどうするのさ」
「食堂まで……歩けたし。つーか手じゃん……。足が動くなら一人で問題ないってば」
 どうにか断ろうと色々と適当な理由を述べるが、誰一人としてくすりとも笑ってはくれない。
 そりゃ、怪我人がなに言ったところで心配されるのは分かるんだけどさ……。
「食堂と病院とじゃ距離の比較に値しないですね」
「シゲ、マジレスすんなよ」
 廉の溜息で一同が黙る。
「本当に大丈夫だって。子供じゃないし、一人で行ける」
 もう一度馨が断りを入れた。しかし、誰一人首を縦に振る者はいない。ふざけてかわしても、真面目に断ったとしても無理そうだった。
「馨。翔平についてってもらえよ。お前、昨日様子変だったし」
 響の一言にそうしろと、他の寮生が頷く。ここには馨側の意見に肩を持つ者はいないらしい。馨は仕方なく、渋々頷いたのだった。


「捻挫で良かったな。骨折だったら大変だぞ」
「うん……」
 馨は翔平の言葉に頷く。確かにそうだった。骨折は治るのに時間がかかるし、ただでさえ今朝の大騒ぎだ。みんなへの迷惑を考えると捻挫で安心した。それに、大好きなゲームも当分お預けになる。それだけはどうしても避けたかった。
 二人は病院を後にし、寮へと帰寮途中だった。結局、レントゲンを撮ったりして診察が長引き、午後に食い込んでしまった。授業は全部休む他なく、翔平も今日は仕方ない、と言って笑ってくれていたが、迷惑をかけてしまったと馨は翔平に何度も謝った。
「でも、ゲームは暫くお預けだな」
「えっ。骨折じゃないんだし、少しなら……」
「安静にしろって言われたんだから、酷使するようなことはさせられない」
「う……」
 言い返す言葉も見つからない。コントローラーを持つだけでも、きっと変に痛むのは目に見えていた。
 暫くはスマホアプリの作業ゲーメインにシフトチェンジだな……。
 小さな溜息を漏らすと、余程ガッカリしているように見えたのか、翔平が馨の優しく頭を撫でた。
「手持ち無沙汰になったら俺が相手するから……な?ノートとか誰かに頼むなら俺も一緒に頼んでやるし」
 柔らかい表情を向けられ、頬が熱くなるのを感じる。顔を隠す様に下を向き、静かに翔平の横を歩いていると、翔平のスマホの音が鳴った。
「馨、ちょっと電話しても良いか?」
「あ、うん」
 馨に断りを入れて取り出したスマホの画面には『奈々美』と名前が表示されていたのがはっきりと見えた。
 あぁ、そっか……そうだよなぁ。
 変な期待を持つ方がおかしかったのだ。その名前の彼女は、きっと昨日仲良くなった女の子だろう。
 緑も翔平くんはモテたって言ってたし、連絡先のひとつやふたつ、交換していてもおかしくない。方や俺は男で……根暗なオタクだ。そもそも傍にいれるのもレアな存在なんだ。翔平くんがいつも俺を構うのなんて、寮長なんだから当たり前だ。そんなのずっと前から分かってたことじゃん……。気持ちも悟られない様にって生活してきたんだから、こんなことでへこんでてどうすんだよ……。
「翔平くん、俺……ちょっと寄る所あるから。先、帰ってて」
 電話中の翔平にそう言うと、馨は足早にその場から離れた。
「おい、馨っ!」
 背後から翔平の声が聞こえたが、馨は振り向かずに寮への道を逸れて駅の方へと向かう。ちょうど欲しかった漫画でも買えばいい。なんなら漫画喫茶に入って適当に時間を潰しても良いし、それから……。
「痛……っ」
 早歩きをしたせいで、昨晩強打した腰に変な痛みが走った。散々安静にしていろと言われたばかりなのに、情けない。腰に左手を当て、ゆっくりと歩き出す。
 なにが、歩ければ一人で良い、だ……。
 動くたびにじわじわと痛みが増す。今朝の強がった自分を思い出して恥ずかしくなった。ここまで痛むと病院で貰った湿布じゃ足りない気がして、本屋をやめて薬局へと足を向けた。丁度、目の前の横断歩道を渡ればすぐにドラッグストアが見えていた。
「馨ちゃん?何してんの」
「……緑」
 信号待ちをしていると、横から声をかけられた。大学の講義を終えた緑が、不思議そうな顔をして馨を見た。
「あれ、一人?翔平くんは?」
「……女の子と電話中」
「えっ、嘘ぉ」
 緑が素っ頓狂な声をあげたため、周りにいた他の信号待ちの歩行者の視線が一気に集まった。
「嘘じゃない……。どうせ、昨日仲良くなった女の子でしょ」
「いやいや、マジでないってそれはない!」
「はぁ?」
「だって、翔平くん自己紹介の時点で『人数合わせです』って公言した上に、交換迫られても全部断ったんだよ?」
「どこにそんな面白ド真面目人間いる訳?翔平くんはシゲじゃないんだよ?」
「バカ、それがうちの寮長だって!あー、もぅ」
 緑は大きな溜息をつきながら、文字通り頭を抱えていた。
「昨日は確かに俺が時間もなくてさ……。友達からも頼まれてたからたまたま側にいた翔平くんを無理矢理誘っちゃって……。馨ちゃんに嫌な思いをさせたのは謝るよ……本当、気持ち知ってるのにごめん。でも、さっきの話は全部本当だよ。俺は、嘘なんて言っていない」
 なんとなく想像がつく。自己紹介でそんな事を言ってしまうところも、無理矢理頼まれればそれに応じてしまうことも……。
 信号が青になり、二人の周りにいた人達が歩き出した。
「……なんで断ったんだろ」
「そ……そんなん」
「他に気になる奴がいるからに決まってるだろ」
 緑が言いかけた所で、翔平が二人の間に割って入った。荒げた呼吸を整え、眉間に皺を寄せている。
「しょ、翔平くん!」
「まったく……安静にしろって言われたばかりだろ。なんで勝手に動くんだ」
 怖い顔をしながら、翔平は馨の左手を取った。
「ちょっ」
「緑も、どうしてすぐ連絡してくれないんだ。馨は怪我してるんだぞ。今朝散々一人で行くのを止めたんだ、馨一人でいたら疑問に思うのが普通だろ」
「いや、そうだけど……!なに俺、とばっちりじゃんっ!馨ちゃんとは今会ったばかりだっつーの!」
 知らん、と一言で緑との会話を終わらせると、翔平は馨の方に向き直った。
「場所を変えよう。あぁ、どっかに寄る予定あったって言ってたな?どこだ、着いて行くから」
 馨は首を横に振った。
「もう良い。用事、なくなった……から」
 すると、翔平はその場でしゃがみ込んだ。
「じゃあ、帰ろう。医者の言う事は聞いとくべきだ。悪化してゲーム再開も遠くなるぞ」
「……うん」
「とりあえず、おぶされ。まだ痛いんだろ」
「え……いや、でも」
 横断歩道の近くで、駅前だ。人通りが多くて流石に羞恥心が勝る。
「馨ちゃん、甘えときなさい」
 緑が背中を押し、最終的に渋々と翔平の肩に手を置いて身体を預けた。こんな場所でお姫様抱っこよりはマシでしょ、と言いたいような緑の視線が鬱陶しい。
 それでもやっぱりこの背中を独り占めできるのが嬉しいなんて思ってしまう。
 あぁ、本当……。俺が可愛い女の子だったら。きっとこの背中も、その腕も。気持ちだって全部、独り占め出来るのに……。



「さっきの電話だけど」
「……うん」
 これからバイトだという緑をあの場に残し、また寮に向かって歩いている最中、翔平が先に口を開いた。
 正直、本人の口から「気になっている子」の話をされたらまた泣きそうだ。ギリギリを保っている涙腺が、また崩壊する。しかも相手の背中の上で。重苦しいことこの上ない。
 馨は意を決して唾をゴクリと飲み込んだ。
「あれは妹だ」
「い、妹……?」
 馨が力の抜ける様な声を出して、翔平が笑った。
「そう。来年受験だから、ここの大学見に来るってさ。ほら、今週末にオープンキャンパスやるだろ?」
 言われてみれば、講堂や学内の廊下にポスターが貼られていたのを思い出す。スタッフメンバーでもなければ、部活やサークルにも所属していない馨には縁のない話だったため、最早念頭にさえなかった。
「だから、昨日一緒にいた子達の誰かでもない。というか、連絡先は誰にも教えなかった」
「それは……気になる子が……い……たから?」
 馨はゴクリと唾を飲み込んだ。無意識に翔平の肩を掴む手に力が入った。
「あぁ。馨がいたからな」
「…………え?」
 馨は予想外の答えに、口をぱくぱくとさせる。固まって何も言わない馨に、翔平はくすくすと笑い始めた。
「あはは。なんだお前……。気づいてるのかと思ってたのに、違うのか」
「え、待って、だって」
 心臓が煩くて耳の奥がぼわんとする。脈の打つ音が反響して翔平の声が幻聴みたいだった。
「馨がいつも甘えてくれるのは、俺の好意を分かってるからだと思っていたんだが」
「そんなの……知らないんだけど……」
 顔が熱くて、みるみるうちに赤くなっていくのがわかった。
 言われなきゃ……全然分かる分けない。俺にだけじゃなくて、いつもみんなに世話ばっかり焼いてるじゃないか。全員が遅刻しないように朝だって起こして回ったり……そうやってみんなだって翔平くんに甘えていたのに。俺の気持ちバレバレだったなんて……!
 翔平の背中で顔を伏せるが、かえってそれが翔平を煽っている事など知るよしもない。
「まぁ、言ってないからなぁ」
「翔平くんって……こんなにタチ悪い人なの」
「お前が言うなよ。俺だってなぁ……。本当はこの気持ちも言うつもりはなかった。言ったらお前もみんなも困ると思ってたしな」
 馨は翔平の肩に置いていた手を彼の首に回して、軽く自分の方に抱き寄せる。
「でも、昨日緑に誘われて行った合コン中も、まぁ楽しかったって言えば楽しかったけど……。ずっと、今頃馨はゲームしてるのかなぁとか、飯食ったかなぁとか……そればっかり考えててさ。あぁ、やっぱり他じゃ無理だなぁって、再認識しただけだった」
 翔平は言い切ってすっきりとした顔をする。ずっと秘めていようと思っていたのは馨だけではなく、翔平も同じ理由で同じ気持ちを押し込めていた事を知り、尚胸が苦しくなった。
「な、なにそれ……ずるい」
「あはは。狡くて悪かったな」
「俺は……翔平くんに彼女、出来ちゃうって思って……気が気じゃなくて。廉に当たり散らしたし、昨日、緑からモテたとか聞いて動揺しちゃって、翔平くんの目の前で怪我までして……本当に情けなくて……」
 歯切れも悪く、段々と尻窄みになっていく馨の背中を、翔平は片手で軽く撫でた。
「情けないのは俺だろ。俺のせいで不安にさせた上に怪我までさせたんだ……」
 馨は「そんなことない」と、黙ったまま大きく首を振った。
「あの……さ」
「ん、なんだ?」
 二人がいる少し先に若竹荘が見えてきていたが、翔平の歩くペースが先程よりゆっくりになった。
「俺、もっと甘えて良いの……?」
「今更だろ」
「……みんなよりも……?」
「俺は今までずっと、お前だけを甘やかしてきたつもりだけど?」
「う……」
 首に回した腕に力が入り、より一層馨がぴたりと翔平の背中にくっついた。
「怪我が治るまでアーンもしてやるし、風呂も一緒に入ってやる。一緒に添い寝だってしてもいい」
「そ、そんな事っ……し、しなくていい!」
 あははと大きな声で笑い、翔平の歩くペースがまた戻り始める。
「馨」
「……なに」
「ちゃんと、お前が好きだよ」
 馨の喉がきゅうっと音を立てた。聞きたくて仕方なかった翔平の気持ちが、自分の耳を通って胸に到達する。
 苦しい、でも、嬉しくて……溶けてしまいそうだ。
「……やっぱ、翔平くん、ずるい……っ」
「はいはい。で、俺は言ったけど?」
「……俺も。翔平くんが好き……」
 馨は翔平の頬に自分の頭を寄せ、肩に顔を埋めながら、静かにそう告げた。



「聞いてないっ」
「まぁ、言ってなかったからねぇ。てか口止めされてたし」
 むすっと膨れっ面をする馨の横でニヤニヤと悪戯っぽく緑が笑った。どうも、馨からだけでなく、翔平側からも以前に相談を受けていたらしい。アルバイトから帰ってきた緑は、馨と翔平のことを心配して自室ではなく真っ直ぐ馨の部屋に入ってきた。
「馨ちゃんもあんなに好き好きオーラ出してたのにさ、翔平くんってばまだダメだ、まだダメだって。仕方ないからダメ元で丁度欠員出た合コン誘ったんだよねぇ。これできっと馨ちゃんが動くからって」
 自分の気持ちを完全に見透かされていて、なにも言えない。というか、緑のこの態度にイライラが増した。横断歩道で謝ったあの態度はなんだったというのだ。それに、無理矢理誘って連れて行った訳ではないのが少し気に食わない。
「ちゃんと話してくれれば怪我なんてしなかったのに……」
「それ、俺と翔平くんのせいにする分け?」
「罰として俺の必修ノートは緑がとること」
「げ……それ、マジで言ってる?」
「大マジ」
 下唇を突き出し、ジト目を向けながら馨が言った。右手は絶対安静。腰もまだ痛むし、病院の帰りに無茶をしたせいで翔平からは再度釘を刺されていた。
「あれ、緑来てたのか」
 翔平がコンコンとノックをしながら部屋の扉を開けて入ってきた。
「翔平くんのお姫様からお説教受けてたんですぅー」
「あはは。馨、手加減してやれ」
「はーい」
 さっきまでの不機嫌だった表情がころっと変わる。ローテンションな返事だが、機嫌が良いの目に見えてわかった。
「うわぁ、やだやだイチャついちゃって」
 うげぇ、と言いながら緑は立ち上がる。
「戻るのか?」
「やっとくっついたとこ、邪魔したくないし。ていうか馨ちゃんの部屋、漫画とゲームで狭いんだもん。男三人でいるのは無理でしょ」
 緑はそう言いながら翔平と場所をチェンジしてドアノブを回した。
「あ、翔平くん」
「なんだ?」
「ここ、壁薄いから。その辺よろしくね」
 ニヤリと笑って緑はそれだけ言うと、手を振りながら部屋から出て行った。
「壁……薄いから何があるの?」
 馨がきょとんとした顔で隣に座る翔平の顔を覗きこむと、翔平は見たこともない程に顔を真っ赤に染め上げていた。
「……何でもない」
「でも、顔赤い……けど」
 不安そうに見つめてくる瞳に当てられて、翔平は馨の左手を掴むと、自分の方に抱き寄せて唇を重ねた。
「ん……っ!」
 触れるだけのキスを何度も離しては重ねていく。考える隙も与えてもらえず、馨は恥ずかしさと緊張でされるがまま受け入れた。
「ふ……ぁ、んっ」
 小さな隙間から舌を入れられ、上顎を撫でられる。小さな舌が辿々しく翔平に答えるように絡まった。唇を離すと、銀色の線が二人を繋ぎ、プツンと切れる。荒くなった馨の息が翔平の頬にかかり、再度唇を塞がれそうになったのを、馨が制した。
「い……いきなりとかっ!む、無理……っ」
「じゃあ、今度からは聞いてからする」
 キスを拒まれ、ムッとした顔で翔平が言った。
「そ、それもダメっ」
 熱く火照った身体を翔平から離しながら言うが、すぐに引き戻され、抱きしめられる。
「じゃあ、怪我が治ったら……続き、しても良いか?」
 耳元に当たる翔平の吐息が、続々と背中を刺激した。
「治ったら……だからね。それまでは……その」
 言いかけた馨の唇に、翔平は触れるだけのキスを落とした。目の前で益々赤くなる顔に、自然と笑みが溢れてしまう。
「可愛いな」
「か、可愛いとか言わないでよ……!」
 馨が真っ赤な顔で悪態を返すと、またぎゅっと抱きしめられる。苦しいのに嬉しくて、幸せで、心臓が破裂しそうだ。
「翔平くん」
「ん、どうした?」
「またあの髪型、やってね」
「……仰せのままに」
 二人はまた触れるだけのキスをし、額と額を寄せ合ってベッドにねっ転がった。



「翔平くん。昨日静かだったけど、あれからシたの?」
「シてない」
「え!シてないの!?え、じゃあ、キスは?」
「…………」
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「煩い」
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