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15・予感
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カーシェスは握ったコップに口をつけ、喉を鳴らして水を飲み干してから、空を見上げた。
「あいつは基本、人の話を聞くような女じゃないけど、それはあいつのことだから。だけどさ、俺の行動に関してはすべて、俺が引き受けたいからな。俺、あいつに「行くな」って、一言かけることをサボったんだ。怠けたそのときの自分に、俺は納得していない」
「どうして、言わなかったの?」
「そうなんだよ、聞いてくれよ! 土地がこんな風にすさんだせいで、俺はまともに動けないくらい、具合が悪くなったんだ! あいつはなんとかしなくてはいけないと思ったんだろうな……本当にいい女だよ! 俺もあいつが、ちょっと出かけてくる程度というか、軽く考えていた。だから、行くと言われても、たいして気にしてなくてな! 結果、もう何年会っていないんだか」
「さみしいの?」
カーシェスはあっさりと、否定的に首を振った。
「今は、そうでもない。正直、あいつが幸せにしていてくれたら、別に帰ってこなくてもいいんだ、俺は。だけど、ミリムがな……まだ小さかったから。母親の記憶がないって思うと、俺はそのことの方が、どうしようもなくさみしいんだよな」
カーシェスはふと首をかしげて、セレルを見た。
「おまえ、変だろ」
「私?」
変なのは目の前にいる赤髪の男の方だ、と思ったが、思考は彼の言葉にさえぎられる。
「変だ。妻を美しすぎると褒めたたえることを珍しいとか、ロラッドがサボりで出て行くことをうじうじ気にするとか、俺の話を聞いているときは呆れた顔が基本とか、おかしい!」
「おかしくないと思うけど。特に最後」
「なんだ、難しい年ごろ……反抗期か? それとも愛情不足か?」
「全然違うでしょ」
セレルは急に嫌な気分になって、不機嫌に立ち上がる。
「おい、セレル! そんなお前にぴったりな話をこれからしてやる。俺のイモたちを育てる愛情論だ、聞きたいだろ!」
セレルは騒ぐカーシェスを無視して、その場を離れた。
畑では今も、ミリムがせっせとたねいもを植えている。
──私にとってはたった一人の、愛おしい父上なのです。
ミリムのつぶやきが、ふと蘇ると、なぜか心がざわついた。
カーシェスと話をしてから数日後、セレルは畑仕事をサボってばかりいるロラッドの部屋を訪れることにした。
慣れないことをしているせいか、極度の緊張で、握りしめた手が汗ばんでいる。
おそるおそるノックをしたが、返事もない。
セレルは少しドアノブをまわして、ちいさく声をかけた。
「ロラッド、あの……お元気ですか?」
返事がないまま、時間だけが過ぎていく。
ふと、この部屋の奥には、誰もいないような気がした。
思ってしまうと、セレルはその可能性に耐え切れなくなる。
ためらいながらも部屋に立ち入り、速足に進むと、セレルがミリムと一緒に使っているものと、よく似た部屋が現れた。
寝台の上で、ロラッドが眠っている。
セレルはほっとして、足取りを止めた。
横顔の、きれいな輪郭に目を引かれる。
色素の薄い髪を無造作に散らし、その下にあるあどけない寝顔は、整った唇が少し開いていて、それが妙な色気を滲ませていた。
思わず見とれていたが、両腕の中に鞘に包まれた短剣を抱えていることに気づいて、感情がすっと冷える。
ほぼ同時に、ロラッドは息をのむ俊敏さで身を起こした。
逃げる一瞬の判断すら与えず、セレルの手首が掴まれる。
鮮やかな緋色のまなざしが、動けば命を奪われる確信すら覚えるほどの冷酷さで、セレルを射抜いた。
「あ、セレルか」
相手をセレルだと認めた瞬間、ロラッドの殺意は消えた。
そうしてようやく、セレルは自分の身体が極度の緊張で痺れていることに気づく。
心臓が激しく打ち、死を前にした恐怖にさらされていた。
もし、ロラッドにその意思があれば、簡単に殺されている。
怯えを悟られないようにと、セレルはいつも通りを意識して、言葉を絞りだした。
「勝手に入って、驚かせたよね。ごめん」
「いや。俺が悪かった。近づいてくるやつは全部警戒するのが染みついていて。でもかなり鈍ってるな」
「鈍ってる?」
「ああ、うん……」
ロラッドは珍しく、あまり言いたくなさそうに目を伏せる。
「あいつは基本、人の話を聞くような女じゃないけど、それはあいつのことだから。だけどさ、俺の行動に関してはすべて、俺が引き受けたいからな。俺、あいつに「行くな」って、一言かけることをサボったんだ。怠けたそのときの自分に、俺は納得していない」
「どうして、言わなかったの?」
「そうなんだよ、聞いてくれよ! 土地がこんな風にすさんだせいで、俺はまともに動けないくらい、具合が悪くなったんだ! あいつはなんとかしなくてはいけないと思ったんだろうな……本当にいい女だよ! 俺もあいつが、ちょっと出かけてくる程度というか、軽く考えていた。だから、行くと言われても、たいして気にしてなくてな! 結果、もう何年会っていないんだか」
「さみしいの?」
カーシェスはあっさりと、否定的に首を振った。
「今は、そうでもない。正直、あいつが幸せにしていてくれたら、別に帰ってこなくてもいいんだ、俺は。だけど、ミリムがな……まだ小さかったから。母親の記憶がないって思うと、俺はそのことの方が、どうしようもなくさみしいんだよな」
カーシェスはふと首をかしげて、セレルを見た。
「おまえ、変だろ」
「私?」
変なのは目の前にいる赤髪の男の方だ、と思ったが、思考は彼の言葉にさえぎられる。
「変だ。妻を美しすぎると褒めたたえることを珍しいとか、ロラッドがサボりで出て行くことをうじうじ気にするとか、俺の話を聞いているときは呆れた顔が基本とか、おかしい!」
「おかしくないと思うけど。特に最後」
「なんだ、難しい年ごろ……反抗期か? それとも愛情不足か?」
「全然違うでしょ」
セレルは急に嫌な気分になって、不機嫌に立ち上がる。
「おい、セレル! そんなお前にぴったりな話をこれからしてやる。俺のイモたちを育てる愛情論だ、聞きたいだろ!」
セレルは騒ぐカーシェスを無視して、その場を離れた。
畑では今も、ミリムがせっせとたねいもを植えている。
──私にとってはたった一人の、愛おしい父上なのです。
ミリムのつぶやきが、ふと蘇ると、なぜか心がざわついた。
カーシェスと話をしてから数日後、セレルは畑仕事をサボってばかりいるロラッドの部屋を訪れることにした。
慣れないことをしているせいか、極度の緊張で、握りしめた手が汗ばんでいる。
おそるおそるノックをしたが、返事もない。
セレルは少しドアノブをまわして、ちいさく声をかけた。
「ロラッド、あの……お元気ですか?」
返事がないまま、時間だけが過ぎていく。
ふと、この部屋の奥には、誰もいないような気がした。
思ってしまうと、セレルはその可能性に耐え切れなくなる。
ためらいながらも部屋に立ち入り、速足に進むと、セレルがミリムと一緒に使っているものと、よく似た部屋が現れた。
寝台の上で、ロラッドが眠っている。
セレルはほっとして、足取りを止めた。
横顔の、きれいな輪郭に目を引かれる。
色素の薄い髪を無造作に散らし、その下にあるあどけない寝顔は、整った唇が少し開いていて、それが妙な色気を滲ませていた。
思わず見とれていたが、両腕の中に鞘に包まれた短剣を抱えていることに気づいて、感情がすっと冷える。
ほぼ同時に、ロラッドは息をのむ俊敏さで身を起こした。
逃げる一瞬の判断すら与えず、セレルの手首が掴まれる。
鮮やかな緋色のまなざしが、動けば命を奪われる確信すら覚えるほどの冷酷さで、セレルを射抜いた。
「あ、セレルか」
相手をセレルだと認めた瞬間、ロラッドの殺意は消えた。
そうしてようやく、セレルは自分の身体が極度の緊張で痺れていることに気づく。
心臓が激しく打ち、死を前にした恐怖にさらされていた。
もし、ロラッドにその意思があれば、簡単に殺されている。
怯えを悟られないようにと、セレルはいつも通りを意識して、言葉を絞りだした。
「勝手に入って、驚かせたよね。ごめん」
「いや。俺が悪かった。近づいてくるやつは全部警戒するのが染みついていて。でもかなり鈍ってるな」
「鈍ってる?」
「ああ、うん……」
ロラッドは珍しく、あまり言いたくなさそうに目を伏せる。
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