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第六部『地の底から蠢くは貴き淀み』
幕間
しおりを挟む幕間 ~ 黙秘の契約
鬼神ファールドルの神域は、岩壁の短い通路と円筒形の空間のみで構成されていた。
現在、円筒形の空間の中では、ランドや瑠胡たちが眠りについている。シンと静まり返った神域には、彼らの寝息とアイン自身の呼吸だけが、そよ風にそよぐ水面のように、聞こえていた。
岩壁に囲まれた円筒形の空間への出入り口に凭れながら、アインは腰を降ろしていた。
同じ姿勢をしていると節々が強ばり、また背中や尻が痛くなる。その度に姿勢を変えているのだが、その身動ぎをする音で、ランドたちが目を覚まさないか心配になってしまう。
(どんな夢――いや、託宣だっけか。そんなのを見ているのやら……だな。こっちは暇で仕方ねぇけど)
生あくびを噛み殺し、アインは周囲を見回した。
誰かが来る気配も無ければ、寝息や自分の呼吸以外の音も聞こえてこない。襲撃や危機的状況なんてものが来ないのが、最良ではある。
傭兵としての経験も豊富なアインにとって、静寂の中で息を顰めることなど、慣れすぎているくらいだ。
気が緩みそうになるのを、傭兵としての胆力で堪えていると、不意に異音が耳に入って来た。
カサカサという、軽いものが擦れるような音が、円筒形の空間から聞こえてきた。
(なんだ?)
瞬時に意識を切り替えたアインは、その巨躯に見合わぬほどの素早さで立ち上がると、腰の長剣に手を伸ばした。
息を殺しながら周囲を警戒していると、音は円筒形の空間の上から振ってくることに気付いた。
円筒形の空間の上方を覗き込んだアインは、思わず呻き声をあげそうになった。
短い丈しかない茶色いローブが、薄暗がりの中を降りてくるのが見えた。それが人の形をしていれば、アインも冷静さを保てたに違いない。しかし、それは生物という括りにおいても、奇怪過ぎる外見だった。
七、八本ある脚は、ゴキブリやコオロギに似たものを大きくした印象だ。ローブの袖から覗く腕はミイラのようで、指が異様に長かった。
しかし、もっとも異彩を放つのは、フードの下にある頭部だ。魚のような頭部から、カタツムリに似た五本の触覚が伸び、それぞれ異なる目玉――猫、山羊、人、魚、蠅のもの――がついていた。
異形は白い紐のようなものを伝って、円筒形の中央へと降りてきた。複数ある脚を器用に動かし、真下にいたラニーやクロースの身体を避けつつ、微かな音しか立てずに床へと降り立った。
(魔物か――っ!?)
この異形が鬼神ファールドルとは知らぬアインは、すかさず長剣を抜いて躍り――かかれなかった。
鬼神ファールドルの五つある目を見た途端、傭兵としての直感、そして本能が悟ったのだ。
――この異形には勝てない、と。
そして同時に友情や義務感をかなぐり捨て、数多の戦場を渡り歩いたアインが今、生き延びたいという生存への欲求で、身動きが出来なくなっていた。
手足が冷たくなる感覚に苛まれたアインが硬直していると、鬼神ファールドルが近づいて来た。
(く、来るな! 来るな!)
鬼神は恐怖に顔を引きつらせたアインの前で立ち止まると、長い左手を出入り口の外へと出した。
(殺られる――)
ガコン。
目を閉じかけたアインの横で、軽い音がした。
(……生きてる、か。なにをした?)
大きく息を吐いたアインは、鬼神ファールドルの左手に、窪みに填め込まれていた翡翠が握られているのを見た。
状況を理解していないアインの前で、翡翠をローブの袖に収めた鬼神は、そのまま踵を返すように身体の向きを変えると、今度は眠っているランドへと近寄って行った。
――ランドっ!!
そう叫びたかったが、まだ恐怖に心が凍っていたアインは、ただ虚しく口を振るわせることしか出来なかった。
そんなアインの前で、鬼神ファールドルはローブの袖から赤いコインを取り出し、眠っているランドの右手にそっと握らせた。
なにをしているのか、アインにはまったく理解できなかった。
ランドから離れた鬼神ファールドルは、アインを振り返った。白い触手のようなものが蠢く口元に、長い人差し指を当てると、コクッっと小首を傾げた。
なんの真似だ――と訝しんだ直後、幼い男児とも女児ともつかないキュンキュンした声が、短く告げた。
〝な、い、ちょ☆〟
この声は、どうやら鬼神ファールドルの声らしい――情報過多で思考は鈍くなっていたが、アインはそう理解した。
それ以外は、なにも理解できなかった。
呆けたように立ち尽くすアインの前で、鬼神は再び白い紐のようなものを伝って、円筒形の空間を登っていった。
ランドたちが目を覚ましたのは、それから十数秒もあとのことだ。それぞれに起きあがった彼らは、ランドが右手に握っていた赤いコインの存在に、驚きを隠せないようだった。
「うそぉ……あの世界から、どうやって持って来たんだろう?」
クロースが口にした疑問に、アインは真実を告げようとした。
そのとき円筒形の空間に突如、淡い光が零れ出した。床から三マーロン(約三メートル七五センチ)の高さにある岩壁が、窓のように開いていた。
その窓から、鬼神ファールドルが顔を覗かせ、アインに対して人差し指を立てた。
〝ないちょ〟
どうやら『内緒』と言われていることに気づいたアインは、なにも言うことが出来ないまま、鬼神を見上げていた。
アインと鬼神は、しばらく見つめ合っていた。
やがて鬼神ファールドルは持っていた翡翠を口元に寄せると、白い触手を掻き分けるようにして、口の中に押し込んだ。
〝おいちい〟
(……食うのかよ)
こめかみの辺りを引きつらせたていたアインの前で、岩壁の窓は音もなく閉じた。
会話が終わってランドが通路への出入り口の前まで来たのは、その直後だ。
「アイン、どうかしたか?」
ランドの質問に対してアインは、今はもう姿の見えない鬼神ファールドルを気にしながら、なんとか誤魔化した。
通路を戻り始めたときになっても、託宣のことで頭が一杯だったのか、誰も翡翠のことを思い出す様子はなかった。
神域から出たあと、アインは一人静かに首を振った。
(……あのことは、忘れよう。鳥に糞を落とされたと思って――犬に噛まれたと同意――、忘れよう)
そのほうが、精神的にも良い気がする。
強い酒が飲みたいという願望を抱きつつ、アインは神域での出来事は墓の下まで持っていく覚悟を決めた。
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本作を読んで頂き、誠にありがとうございます!
わたなべ ゆたか です。
……たまには、こういうまったりとした幕間もいいかな、と思った次第です。
副題はきっと、赤いコインとアインの苦悩。
まったり話でも、男性向きの作品というのは意識しています。その証拠に鬼神ファールドルは、設定上では女の子になってます。
ちゃんと男性向きですね。
……まあ、人間以外の女の子が女騎士だったり邪神の生け贄になるのは、エルダースクロールの定番なんですが。
中の人もその昔、TRPGの代理マスターをやった歳、誘拐された御令嬢ネタをやったことがあります。
とある地方貴族の老伯爵の依頼で、ゴブリンに誘拐された御令嬢を助け出す――というもので。
たしか
「娘が望めば、婿として迎え入れよう」
と伯爵に言わせた記憶もありますが。
そしてゴブリンやゴブリンのメイジなどを蹴散らし、救い出したのは真紅のドレスに身を包んだゴブリン(雌)。
妻子のない伯爵は、事件の数年前に赤子だったゴブリン(雌)を拾い、殺すのも忍びないということで、娘の様に育ててた――というネタでした。
シナリオが終わったあと、友人でもあるプレイヤーたちから「ちょっと体育館の裏に来い」と凄まれたのも、今ではいい思い出です。
そして、中の人も一応は学習もするわけです。
ゴブリンじゃダメだったか――という経験を踏まえて、今回はクトゥルフへ寄せてみました。
(イア現在、アイディアロール失敗中イアイア)
そして余談ですが……。
プロットを大幅変更したのは、九割ほどがここら辺の話が原因です。
少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
次回もよろしくお願いします!
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