173 / 276
第六部『地の底から蠢くは貴き淀み』
幕間
しおりを挟む幕間 ~ 黙秘の契約
鬼神ファールドルの神域は、岩壁の短い通路と円筒形の空間のみで構成されていた。
現在、円筒形の空間の中では、ランドや瑠胡たちが眠りについている。シンと静まり返った神域には、彼らの寝息とアイン自身の呼吸だけが、そよ風にそよぐ水面のように、聞こえていた。
岩壁に囲まれた円筒形の空間への出入り口に凭れながら、アインは腰を降ろしていた。
同じ姿勢をしていると節々が強ばり、また背中や尻が痛くなる。その度に姿勢を変えているのだが、その身動ぎをする音で、ランドたちが目を覚まさないか心配になってしまう。
(どんな夢――いや、託宣だっけか。そんなのを見ているのやら……だな。こっちは暇で仕方ねぇけど)
生あくびを噛み殺し、アインは周囲を見回した。
誰かが来る気配も無ければ、寝息や自分の呼吸以外の音も聞こえてこない。襲撃や危機的状況なんてものが来ないのが、最良ではある。
傭兵としての経験も豊富なアインにとって、静寂の中で息を顰めることなど、慣れすぎているくらいだ。
気が緩みそうになるのを、傭兵としての胆力で堪えていると、不意に異音が耳に入って来た。
カサカサという、軽いものが擦れるような音が、円筒形の空間から聞こえてきた。
(なんだ?)
瞬時に意識を切り替えたアインは、その巨躯に見合わぬほどの素早さで立ち上がると、腰の長剣に手を伸ばした。
息を殺しながら周囲を警戒していると、音は円筒形の空間の上から振ってくることに気付いた。
円筒形の空間の上方を覗き込んだアインは、思わず呻き声をあげそうになった。
短い丈しかない茶色いローブが、薄暗がりの中を降りてくるのが見えた。それが人の形をしていれば、アインも冷静さを保てたに違いない。しかし、それは生物という括りにおいても、奇怪過ぎる外見だった。
七、八本ある脚は、ゴキブリやコオロギに似たものを大きくした印象だ。ローブの袖から覗く腕はミイラのようで、指が異様に長かった。
しかし、もっとも異彩を放つのは、フードの下にある頭部だ。魚のような頭部から、カタツムリに似た五本の触覚が伸び、それぞれ異なる目玉――猫、山羊、人、魚、蠅のもの――がついていた。
異形は白い紐のようなものを伝って、円筒形の中央へと降りてきた。複数ある脚を器用に動かし、真下にいたラニーやクロースの身体を避けつつ、微かな音しか立てずに床へと降り立った。
(魔物か――っ!?)
この異形が鬼神ファールドルとは知らぬアインは、すかさず長剣を抜いて躍り――かかれなかった。
鬼神ファールドルの五つある目を見た途端、傭兵としての直感、そして本能が悟ったのだ。
――この異形には勝てない、と。
そして同時に友情や義務感をかなぐり捨て、数多の戦場を渡り歩いたアインが今、生き延びたいという生存への欲求で、身動きが出来なくなっていた。
手足が冷たくなる感覚に苛まれたアインが硬直していると、鬼神ファールドルが近づいて来た。
(く、来るな! 来るな!)
鬼神は恐怖に顔を引きつらせたアインの前で立ち止まると、長い左手を出入り口の外へと出した。
(殺られる――)
ガコン。
目を閉じかけたアインの横で、軽い音がした。
(……生きてる、か。なにをした?)
大きく息を吐いたアインは、鬼神ファールドルの左手に、窪みに填め込まれていた翡翠が握られているのを見た。
状況を理解していないアインの前で、翡翠をローブの袖に収めた鬼神は、そのまま踵を返すように身体の向きを変えると、今度は眠っているランドへと近寄って行った。
――ランドっ!!
そう叫びたかったが、まだ恐怖に心が凍っていたアインは、ただ虚しく口を振るわせることしか出来なかった。
そんなアインの前で、鬼神ファールドルはローブの袖から赤いコインを取り出し、眠っているランドの右手にそっと握らせた。
なにをしているのか、アインにはまったく理解できなかった。
ランドから離れた鬼神ファールドルは、アインを振り返った。白い触手のようなものが蠢く口元に、長い人差し指を当てると、コクッっと小首を傾げた。
なんの真似だ――と訝しんだ直後、幼い男児とも女児ともつかないキュンキュンした声が、短く告げた。
〝な、い、ちょ☆〟
この声は、どうやら鬼神ファールドルの声らしい――情報過多で思考は鈍くなっていたが、アインはそう理解した。
それ以外は、なにも理解できなかった。
呆けたように立ち尽くすアインの前で、鬼神は再び白い紐のようなものを伝って、円筒形の空間を登っていった。
ランドたちが目を覚ましたのは、それから十数秒もあとのことだ。それぞれに起きあがった彼らは、ランドが右手に握っていた赤いコインの存在に、驚きを隠せないようだった。
「うそぉ……あの世界から、どうやって持って来たんだろう?」
クロースが口にした疑問に、アインは真実を告げようとした。
そのとき円筒形の空間に突如、淡い光が零れ出した。床から三マーロン(約三メートル七五センチ)の高さにある岩壁が、窓のように開いていた。
その窓から、鬼神ファールドルが顔を覗かせ、アインに対して人差し指を立てた。
〝ないちょ〟
どうやら『内緒』と言われていることに気づいたアインは、なにも言うことが出来ないまま、鬼神を見上げていた。
アインと鬼神は、しばらく見つめ合っていた。
やがて鬼神ファールドルは持っていた翡翠を口元に寄せると、白い触手を掻き分けるようにして、口の中に押し込んだ。
〝おいちい〟
(……食うのかよ)
こめかみの辺りを引きつらせたていたアインの前で、岩壁の窓は音もなく閉じた。
会話が終わってランドが通路への出入り口の前まで来たのは、その直後だ。
「アイン、どうかしたか?」
ランドの質問に対してアインは、今はもう姿の見えない鬼神ファールドルを気にしながら、なんとか誤魔化した。
通路を戻り始めたときになっても、託宣のことで頭が一杯だったのか、誰も翡翠のことを思い出す様子はなかった。
神域から出たあと、アインは一人静かに首を振った。
(……あのことは、忘れよう。鳥に糞を落とされたと思って――犬に噛まれたと同意――、忘れよう)
そのほうが、精神的にも良い気がする。
強い酒が飲みたいという願望を抱きつつ、アインは神域での出来事は墓の下まで持っていく覚悟を決めた。
--------------------------------------------------------------------------------------
本作を読んで頂き、誠にありがとうございます!
わたなべ ゆたか です。
……たまには、こういうまったりとした幕間もいいかな、と思った次第です。
副題はきっと、赤いコインとアインの苦悩。
まったり話でも、男性向きの作品というのは意識しています。その証拠に鬼神ファールドルは、設定上では女の子になってます。
ちゃんと男性向きですね。
……まあ、人間以外の女の子が女騎士だったり邪神の生け贄になるのは、エルダースクロールの定番なんですが。
中の人もその昔、TRPGの代理マスターをやった歳、誘拐された御令嬢ネタをやったことがあります。
とある地方貴族の老伯爵の依頼で、ゴブリンに誘拐された御令嬢を助け出す――というもので。
たしか
「娘が望めば、婿として迎え入れよう」
と伯爵に言わせた記憶もありますが。
そしてゴブリンやゴブリンのメイジなどを蹴散らし、救い出したのは真紅のドレスに身を包んだゴブリン(雌)。
妻子のない伯爵は、事件の数年前に赤子だったゴブリン(雌)を拾い、殺すのも忍びないということで、娘の様に育ててた――というネタでした。
シナリオが終わったあと、友人でもあるプレイヤーたちから「ちょっと体育館の裏に来い」と凄まれたのも、今ではいい思い出です。
そして、中の人も一応は学習もするわけです。
ゴブリンじゃダメだったか――という経験を踏まえて、今回はクトゥルフへ寄せてみました。
(イア現在、アイディアロール失敗中イアイア)
そして余談ですが……。
プロットを大幅変更したのは、九割ほどがここら辺の話が原因です。
少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
次回もよろしくお願いします!
10
お気に入りに追加
127
あなたにおすすめの小説

最凶と呼ばれる音声使いに転生したけど、戦いとか面倒だから厨房馬車(キッチンカー)で生計をたてます
わたなべ ゆたか
ファンタジー
高校一年の音無厚使は、夏休みに叔父の手伝いでキッチンカーのバイトをしていた。バイトで隠岐へと渡る途中、同級生の板林精香と出会う。隠岐まで同じ船に乗り合わせた二人だったが、突然に船が沈没し、暗い海の底へと沈んでしまう。
一七年後。異世界への転生を果たした厚使は、クラネス・カーターという名の青年として生きていた。《音声使い》の《力》を得ていたが、危険な仕事から遠ざかるように、ラオンという国で隊商を率いていた。自身も厨房馬車(キッチンカー)で屋台染みた商売をしていたが、とある村でアリオナという少女と出会う。クラネスは家族から蔑まれていたアリオナが、妙に気になってしまい――。異世界転生チート物、ボーイミーツガール風味でお届けします。よろしくお願い致します!
大賞が終わるまでは、後書きなしでアップします。
転生前のチュートリアルで異世界最強になりました。 準備し過ぎて第二の人生はイージーモードです!
小川悟
ファンタジー
いじめやパワハラなどの理不尽な人生から、現実逃避するように寝る間を惜しんでゲーム三昧に明け暮れた33歳の男がある日死んでしまう。
しかし異世界転生の候補に選ばれたが、チートはくれないと転生の案内女性に言われる。
チートの代わりに異世界転生の為の研修施設で3ヶ月の研修が受けられるという。
研修施設はスキルの取得が比較的簡単に取得できると言われるが、3ヶ月という短期間で何が出来るのか……。
ボーナススキルで鑑定とアイテムボックスを貰い、適性の設定を始めると時間がないと、研修施設に放り込まれてしまう。
新たな人生を生き残るため、3ヶ月必死に研修施設で訓練に明け暮れる。
しかし3ヶ月を過ぎても、1年が過ぎても、10年過ぎても転生されない。
もしかしてゲームやりすぎで死んだ為の無間地獄かもと不安になりながらも、必死に訓練に励んでいた。
実は案内女性の手違いで、転生手続きがされていないとは思いもしなかった。
結局、研修が15年過ぎた頃、不意に転生の案内が来る。
すでにエンシェントドラゴンを倒すほどのチート野郎になっていた男は、異世界を普通に楽しむことに全力を尽くす。
主人公は優柔不断で出て来るキャラは問題児が多いです。

明日を信じて生きていきます~異世界に転生した俺はのんびり暮らします~
みなと劉
ファンタジー
異世界に転生した主人公は、新たな冒険が待っていることを知りながらも、のんびりとした暮らしを選ぶことに決めました。
彼は明日を信じて、異世界での新しい生活を楽しむ決意を固めました。
最初の仲間たちと共に、未知の地での平穏な冒険が繰り広げられます。
一種の童話感覚で物語は語られます。
童話小説を読む感じで一読頂けると幸いです

5歳で前世の記憶が混入してきた --スキルや知識を手に入れましたが、なんで中身入ってるんですか?--
ばふぉりん
ファンタジー
「啞"?!@#&〆々☆¥$€%????」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
五歳の誕生日を迎えた男の子は家族から捨てられた。理由は
「お前は我が家の恥だ!占星の儀で訳の分からないスキルを貰って、しかも使い方がわからない?これ以上お前を育てる義務も義理もないわ!」
この世界では五歳の誕生日に教会で『占星の儀』というスキルを授かることができ、そのスキルによってその後の人生が決まるといっても過言では無い。
剣聖 聖女 影朧といった上位スキルから、剣士 闘士 弓手といった一般的なスキル、そして家事 農耕 牧畜といったもうそれスキルじゃないよね?といったものまで。
そんな中、この五歳児が得たスキルは
□□□□
もはや文字ですら無かった
~~~~~~~~~~~~~~~~~
本文中に顔文字を使用しますので、できれば横読み推奨します。
本作中のいかなる個人・団体名は実在するものとは一切関係ありません。

異世界で魔法が使えるなんて幻想だった!〜街を追われたので馬車を改造して車中泊します!〜え、魔力持ってるじゃんて?違います、電力です!
あるちゃいる
ファンタジー
山菜を採りに山へ入ると運悪く猪に遭遇し、慌てて逃げると崖から落ちて意識を失った。
気が付いたら山だった場所は平坦な森で、落ちたはずの崖も無かった。
不思議に思ったが、理由はすぐに判明した。
どうやら農作業中の外国人に助けられたようだ。
その外国人は背中に背負子と鍬を背負っていたからきっと近所の農家の人なのだろう。意外と流暢な日本語を話す。が、言葉の意味はあまり理解してないらしく、『県道は何処か?』と聞いても首を傾げていた。
『道は何処にありますか?』と言ったら、漸く理解したのか案内してくれるというので着いていく。
が、行けども行けどもどんどん森は深くなり、不審に思い始めた頃に少し開けた場所に出た。
そこは農具でも置いてる場所なのかボロ小屋が数軒建っていて、外国人さんが大声で叫ぶと、人が十数人ゾロゾロと小屋から出てきて、俺の周りを囲む。
そして何故か縄で手足を縛られて大八車に転がされ……。
⚠️超絶不定期更新⚠️

野草から始まる異世界スローライフ
深月カナメ
ファンタジー
花、植物に癒されたキャンプ場からの帰り、事故にあい異世界に転生。気付けば子供の姿で、名前はエルバという。
私ーーエルバはスクスク育ち。
ある日、ふれた薬草の名前、効能が頭の中に聞こえた。
(このスキル使える)
エルバはみたこともない植物をもとめ、魔法のある世界で優しい両親も恵まれ、私の第二の人生はいま異世界ではじまった。
エブリスタ様にて掲載中です。
表紙は表紙メーカー様をお借りいたしました。
プロローグ〜78話までを第一章として、誤字脱字を直したものに変えました。
物語は変わっておりません。
一応、誤字脱字、文章などを直したはずですが、まだまだあると思います。見直しながら第二章を進めたいと思っております。
よろしくお願いします。
魔石と神器の物語 ~アイテムショップの美人姉妹は、史上最強の助っ人です!~
エール
ファンタジー
古代遺跡群攻略都市「イフカ」を訪れた新進気鋭の若き冒険者(ハンター)、ライナス。
彼が立ち寄った「魔法堂 白銀の翼」は、一風変わったアイテムを扱う魔道具専門店だった。
経営者は若い美人姉妹。
妹は自ら作成したアイテムを冒険の実践にて試用する、才能溢れる魔道具製作者。
そして姉の正体は、特定冒険者と契約を交わし、召喚獣として戦う闇の狂戦士だった。
最高純度の「超魔石」と「充魔石」を体内に埋め込まれた不死属性の彼女は、呪われし武具を纏い、補充用の魔石を求めて戦場に向かう。いつの日か、「人間」に戻ることを夢見て――。

レジェンドテイマー ~異世界に召喚されて勇者じゃないから棄てられたけど、絶対に元の世界に帰ると誓う男の物語~
裏影P
ファンタジー
【2022/9/1 一章二章大幅改稿しました。三章作成中です】
宝くじで一等十億円に当選した運河京太郎は、突然異世界に召喚されてしまう。
異世界に召喚された京太郎だったが、京太郎は既に百人以上召喚されているテイマーというクラスだったため、不要と判断されてかえされることになる。
元の世界に帰してくれると思っていた京太郎だったが、その先は死の危険が蔓延る異世界の森だった。
そこで出会った瀕死の蜘蛛の魔物と遭遇し、運よくテイムすることに成功する。
大精霊のウンディーネなど、個性溢れすぎる尖った魔物たちをテイムしていく京太郎だが、自分が元の世界に帰るときにテイムした魔物たちのことや、突然降って湧いた様な強大な力や、伝説級のスキルの存在に葛藤していく。
持っている力に振り回されぬよう、京太郎自身も力に負けない精神力を鍛えようと決意していき、絶対に元の世界に帰ることを胸に、テイマーとして異世界を生き延びていく。
※カクヨム・小説家になろうにて同時掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる