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第二部『帰らずの森と鬼神の迷い子』
一章-6
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レティシアがトルムイ山の麓に到着したのは、昼を過ぎてからだった。
トルムイ山は元々、緑が豊かな場所だった。標高は低めで、登山をしても二時間ほどで山頂に到達する。
そのトルムイ山を覆っていた森林の三分の一ほどが、無残にも朽ちていた。遠目にはミミズがナメクジが這った跡を思わせる軌跡を描いていたが、だとしたら、幅が十数マーロン(一マーロンは約一メートル二五センチ)もある存在とは、一体なんだというのか。
その不気味に朽ちた森林を見上げながら、レティシアは生唾を飲んだ。
「総員、警戒を怠るな。あの森の木々を薙ぎ倒していったヤツが、件の魔物である可能性が高い」
「レティシア……これは一度引くべきかと」
副団長であるセラが、レティシアの乗る騎馬に馬首を並べた。
普段は冷静な表情を崩さぬセラだったが、今は血の気が引いた顔をしていた。
「あの森を這いずった跡から察するに、かなり巨大な魔物と推測できます。斃すのであれば、援軍が必要でしょう」
「斃すなら、そうする。しかし我らの使命は、調査である。最終的な判断は、魔物の正体を突き止めてからだ」
そう答えるレティシアの顔は、普段よりも青白かった。
レティシアとセラの操る騎馬を先頭に、騎士団はトルムイ山の山道を登り始めた。巨大な力で木々が薙ぎ倒された場所に近寄ると突然、馬が嫌そうに嘶いた。
「どうした? クロース」
「はい団長。ええっと……脚が気持ち悪い……みたいです」
「脚?」
レティシアが地面を見下ろすと、粘液のようなものが地面を覆っていた。
粘液は倒木や折れた草花にもこびりつき、ところによっては糸を引いていた。まだ新しいのか、微かに腐肉のような臭いが漂っていた。
「――うっ」
騎士団長としての威厳を保ち続けたレティシアだったが、これには流石に顔を歪めた。
精神的な嫌悪感というものが自制心を凌駕し始めていたが、瓦解寸前のところで冷静さを取り戻した。
「総員、周囲の警戒を怠るな。魔物は近いかもしれん」
手綱を操って前に進もうとしたが、騎馬は珍しく抗った。
仕方なく、レティシアとセラは粘液を避けるように騎馬を先に進ませた。それから、数分ほど経ったとき、騎馬の耳が忙しく動き始めた。
「団長、馬たちが不安がってます。これ以上は……」
「下馬をして進まねばならんか」
レティシアが騎馬の首を撫で始めたとき、か細い声が聞こえてきた。
「――くれぇ。すけ――くれぇ……」
「なんだ? クロース、この声は魔物か?」
「わかりません。あたしの《スキル》では、聞き取れなくって」
「もう少し試してみてくれ。動物たちの声が、手掛かりになるかもしれん」
「……わかりました」
クロースは不安そうな顔で頷きながら、レティシアの指示に従った。
目を閉じて深呼吸しながら、意識を周囲に広げていく。
(なにかいるの? あたしの声に応えてっ!!)
クロースの《スキル》である〈動物共感〉の力に乗せて、クロースの言葉が広がっていった。
しかし、反応はない――と、クロースが肩を落としかけたとき、なにかの振動か、地面が揺れ始めた。
「これ、地震か!?」
怯える馬を宥めながら、レティシアが周囲を見回した。
地面の揺れは数秒ほど続くと、すぐに収まった。レティシアたちは安堵しながらも、しばらくは再び地面が揺れるのではないかと、周囲を見回していた。
そのとき、異質な音が響き渡った。
〝グヌチャビギャヌチャヌチャグキャ――〟
それは、なんと形容すればいいのか。騎士団の面々は、音の正体が判断できなかった。
喩えるなら。
ナメクジや外皮の薄い昆虫などを器に入れ、一心不乱にすり潰しているような――そんな音だ。
「これは、なんだ?」
音の響き渡ってくる方向をセラが仰ぎ見たとき、トルムイ山の山頂付近に、巨大な影が現れた。
ゼリー状になっている半透明の表皮から、筋肉や内臓、脳といった器官がうっすらと浮き出ていた。三つある目は、表皮の中を泳ぐように漂い、涎とも粘液ともとれる液体が滴る口からは、蛸や烏賊の足のような、触手が蠢いていた。
常軌を逸したその姿に、レティシアを初めとした騎士団は恐怖した。
「ひ、退け! 退くぞっ!!」
馬首を巡らしたレティシアの号令で、セラとクロースの操る馬車が山道を戻り始めた。
(あれ?)
クロースは伝わって来た『声』で、我に返った。
(帰りたいって聞こえた。誰の声なの?)
声がした方向を振り返ったクロースは、山頂にある不気味な魔物と目が合った。
(――む、無理ぃ)
レティシアを先頭に、《白翼騎士団》は魔物が見えなくなるまで、全速力で撤退を続けた。
どれだけ馬を走らせただろう。
馬の口から泡が出始めていることに気付いたレティシアが、わずかに手綱を緩めた。
(さすがに、休ませねばならんか)
背後を振り返ったが、あの魔物の姿は見えなかった。
街道まで出たところで、レティシアは片手を挙げて騎馬と馬車を停めた。すぐ横にいるセラの騎馬に馬を寄せると、レティシアは小声で話しかけた。
「セラ、あの魔物はなにかわかるか?」
「皆目……見当がつきません。おぞましい姿が目に焼き付いているようです」
「同感だ。生態の調査をするにしろ、我々だけでは無理だな」
「ランド――を使うおつもりですか?」
どこか安堵したようなセラの表情に、レティシアは目の縁に皺を寄せた。
《白翼騎士団》の面々が、ランドに様々な信頼を寄せていることに、レティシアも気付いていた。
それは瑠胡――ドラゴンに打ち勝った一件や、監査に来たゴガルンとの一戦などで、芽生えたものだ。それを理解しているから、あまり強く咎めることができなかった。
どんな理由があるにせよ、ランドを関わらせたのはレティシア本人だからだ。
馬車に近寄ったレティシアは、クロースに休憩の旨を伝えると、荷台にいるリリンを手招きした。
無表情な顔は普段と変わりないリリンだったが、やはり顔色は悪かった。
申し訳ない気持ちを抱きながら、レティシアは軍馬から降りて、馬車から降りるリリンを待った。
「リリン、このような状況ですまぬが、キャットたちに伝言を送ることはできるか?」
「……伝言、ですか?」
「ああ。これから合流したい、とな。河原のあたりで待機して欲しいのだが――」
「使い魔を召喚すれば、可能です。居場所を探すのに、少し時間がかかるかもしれませんが、馬よりは早く伝言を伝えられると思います」
「では、頼む。日暮れくらいには合流したい」
「はい」
リリンが詠唱を始めるのを眺めてから、レティシアは騎馬から降りた。
自分の手が震えていることに気付いたのは、女従者に愛馬を託す直前のことだった。
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