チャリンコマンズ・チャンピオンシップ

古城ろっく

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第10話 極寒の雪国とファットバイク

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「あらあら……これは酷いわね」
 ホテルのロビーにて、史奈は外の景色を見ながら空たちに言った。
 昨日見たドレス姿とは違う、長袖ジャージと丈の短いレーパン。そこから覗く太ももは筋肉質で、ウエストとさほど変わらないほど太い。腰が細いので余計にボリュームがあるように見える。
「ああ、史奈さん。おはようございます」
「よう。これから挨拶とお礼に行こうと思ってたんだが……」
「いいのよ。お礼なんて言われることはしてないわ。むしろ私こそ、面白い話をありがとうね」
 かれこれ朝10時。いい加減にスタートしたい時間でもあったし、チェックアウトの時間でもあったのだが、三人ともロビーから動くのをためらっていた。
「仕方ないわね。私はもう一晩泊まることにしたけど、貴方たちはどうする?」
 つまり、泊まりたければ奢ってくれるということだろう。史奈としてはプロレーサーとしての多くの収入を得ているし、何よりテレビでバラエティやニュース番組に出演した報酬もあった。
 金額的には遠慮する必要はない。むしろタイムの方が気になるところだ。丸一日のロスを取り戻すのは簡単ではない。
 茜にとっては、あまり考える必要のない事だった。
「一応、アタイらは出発する。いろいろありがとうな」
「うーん。僕はもう一泊してもいいような……」
「じゃあな、空。お別れだ」
「あ、待ってよ。行かないとは言ってないよ」
「が、頑張ってね。空君、茜ちゃん」
「はい。史奈さんもお元気で」
「どうせ後から追いついてくるんだろう?ゴールで待ってるぜ」
 嵐のように、元気に走り去っていく二人。それを見送った後、史奈はスマホを開いた。
 やりたいことは山ほどある。どうせなら案内マップを開いて、このあたりの見ごろな観光スポットを調べてみようか。それより先に天気予報……朝からずっと見続けているが、もう一度確認してみようか。
 考えた末に、やっぱりミスり速報を開くことにした。画面には白一色の景色が映し出され、ミス・リードのやや申し訳なさそうな声がノイズ交じりで届く。

『選手の皆さん。大変申し訳ありません。
 これ、大会主催者である我々も予想していた事態なのですが、回避は出来なかった事態なんですよね。
 ご覧ください。この大雪を――うわぁ、まだ降り続いてる。天気予報によると、今日いっぱいは内陸部を中心に大雪警報。なんと積雪5cm/hですよぉ。現在のコースですが、場所によっては既に30cmほど積もっているそうです。
 昨日の深夜ごろから降り出したんですよねぇ。自転車のタイヤが1/2~1/3も沈み込むレベルですぅ。
 一応、地元消防団やボランティアの協力によって除雪作業は行われていますが、この地域の自治体も大型の除雪機は持っていないとのこと。
 これに伴って、多くの選手が出発をためらっている模様です。現在10:20ですが、いまだに昨日の宿から動かない人たちを多く確認しています。まあ、GPSの故障だったらすみません』

 ここにきてGPSが故障することはないだろうから、出場者の反応が動いていないということは、まあそういうことなのだろう。
「あら?あれは……」
 そんな中、史奈は外に人影を見る。自転車に乗った、中学生くらいの人影だ。積雪20~30cmはありそうなコースの中を、まるで雪の上に浮いているかのように走り去っていく。
「あらあら。これはピンチかもね。空君。茜ちゃん」
 まあ、雪が収まったら改めて走ればいい。他の追随を許さない速度を持つ女王は、明日以降に全員を抜くつもりで、今日一日を譲る。


「それにしても、進まねぇな」
「わ、わわわっ……と」
「空、大丈夫か?」
「だ、大丈夫。ちょっと停止しただけ」
 雪道を走ったことのない人に限って、雪の恐ろしさは滑ることだと勘違いする。
 自動車に慣れている人が一番その勘違いに陥りやすいが、恐らくタイヤからの感触をダイレクトに感じていないことと、エンジンの馬力に物言わせて力任せに解決しようとする人が多いことが主な原因だろう。車重と慣性によるところもある。
 ずばり、雪道で一番怖いのは、車体が埋まって前進しなくなることだ。タイヤは雪に深々と突き刺さり、前後左右を圧迫される。前輪が着雪で動かなくなると、後輪を動かしても空回りするばかりだ。
 さらに変速ギアまで雪に埋まると、ギアを切り替えられないどころか、雪にディレイラーが押し込まれチェーンが外れやすくなる。空の場合はVブレーキを搭載しているため、リムに着雪するとブレーキパッドと干渉して車輪が止まる。
 感覚としては、タイヤをロープで固定されたような走り心地と言えば伝わるかもしれない。ディスクブレーキを搭載している茜のクロスファイアはまだマシだったが、結局タイヤが雪を切り裂いていけるような構造にはなっていない。
 それでも、歩くのと大して変わらない速度でようやく走る空と茜。ときどき車体が完全停止して足を付く。
「あー、これはどのみち、変速ギアを上げることなんかできないな」
「茜。僕、腕が疲れてきた」
「うん。アタイもだ。車体バランスを保つ必要もあるし、前輪が常に抵抗を受け続けている状態だからな。地味にハンドルに力が入っているんだよ。無意識に」
「なるほど。無意識か。言われてみると、ずっと力入れっぱなしな気がしてきた」
 そもそも、こうなってくると自転車を担いで歩く方が早いんじゃないかと思えるレベルだ。どうせ自転車に乗っていても、ペダルは降ろすたびに雪に埋まる。後ろを振り返ると、まるで歩いたような足跡が車輪の跡と一緒についている。
「これならストラトスと走ってた時の強風の方が、幾分か楽だったかもしれないな」
「僕もそう思う。結局、勢いをつけたってすぐ止まるし」
「トラクションをかければ滑るし、な」
 一気にペダルを踏むと、後輪が行き場をなくしてスリップする。単に後輪がグリップを失うというより、動輪の摩擦以上の力で車体を固定する力が働いている感覚。なのでスリップしたくせに体力は大きく消耗する。
「普通、滑ったら軽い力で空回りするよね?」
「ああ、アタイもこんなにヘビーな空転は初めてだ。全力で電車道作っている力士の気分だよ」
「そういえば、茜はそんな格好で寒くないの?初日から訊いている気がするけど」
「ああ、何度となく訊かれたな。その度に大丈夫だと答えていたけど……今回ばかりはアタイもマジで寒い」
 自転車はペダルを漕いでいれば暖かい。というのが茜の持論だった。逆に言えば、自転車を漕ぐことすら許されないこの環境では寒いということなのだろう。意地っ張りな茜が認めるくらいだから本気で寒いのかもしれない。
「茜。やっぱり今日は……いや、せめて今は走るのをやめようか。もしかすると、除雪作業が進むかもしれないし」
「どうだかな。地元ボランティアも良くてスノーダンプしか持ってないみたいだし、完全に除雪するのは無理だろうぜ。なにせ、降り積もるペースの方が早い」
 茜の言う通り、除雪した端からまた積もる。茜の頭にもすでに大量の雪が積もっており、引っ詰め髪に着雪して、不細工な雪だるまみたいになっている。
「そういえば、茜ってどうしてヘルメットをかぶらないの?」
「アタイも欲しいとは思っているんだけどな。あれって地味に高価なんだ。結局他に欲しいものがあったりすると、後回しにしちゃうんだよな。そういう空もかぶってないけど?」
「うん。ダサいから」
「うそっ!かっこいいだろう?」
 レーサー気質のアスリート然とした茜と、ポタリング趣味のカジュアルな空とではセンスが違い過ぎる。おそらく永遠に分かり合えないだろうし、無理に合わせなくてもいいところだろう。
 こうして会話ができるという点では、強風よりは豪雪の方がまだいいのかもしれない。
「それでも、手近に休憩できるところを探そう。僕、もう限界」
「わかった。アタイも正直きつい」
 そんなことを話していると、後ろからモゾモゾと、独特の音を立てて何かが近づいてくる。自動車が雪を蹴散らしながら走るときのような音だが、少し軽めだ。

「ん?いったい何……が?」
「え?何アレ。かっこいい」

 空が一目で格好いいと評した自転車。それは見たことも聞いたこともない太さのタイヤを装備した自転車だった。
 そこらの原チャリよりはるかに太いであろうタイヤは、MTBと比べても2倍近い。そんな大きなタイヤを履いた自転車が、雪の中を轟々と走っていた。
「だぁーはははっ。ご機嫌だぜ。おらおら、どけぇ!邪魔するやつは雪と一緒に蹂躙ふみつぶしてやる!」
 サングラスにリーゼントの少年が、特攻服を着て、太いタイヤの自転車に跨っている。それはまるで暴走族のヘッドのような姿だった。車体のヘッドチューブと特攻服の後ろには『鹿番長』と漢字で書かれている。
「茜。あれって新型の自転車?それともMTBの一種?」
「いや、アタイも知らない。初めて見る」
 時速20km/hほどの、この路面コンディションなら間違いなく速い部類に入る速度で通過する鹿番長。

 すれ違いざま、茜や空と目が合った。
(ん?あいつら、ミスり速報で見たツラだな)
 気付いた鹿番長は、Uターンして戻ってくる。車体は内側に倒れるようなことがなく、地面と垂直なまま曲がっていた。まるで四輪車のような軌道だ。
 ディスクブレーキを使って急停止した彼は、リーゼントを天に向けて、見下ろすような視線で空たちを睨む。いわゆる、ガンを飛ばすという行為。
「よう、お前ら、アカネとソラとかいう参加者やつらだよな?」
 ガラガラと、喉の奥で反響するエッジボイスが、空たちに名前を尋ねる。その迫力に、空は少しだけひるみ、茜はいっそう眉根を寄せた。
「あ、はい。空です。初めまして」
「そういうお前は何者だ?」
 茜に訊かれた鹿番長は、待ってましたとばかりに自転車を降りて突っ立つ。ポケットに手を入れて体をそらす独特の立ち方は、彼の決めポーズだった。
「俺は鹿番長!地元じゃ名の知れた走り屋でよ。雪の日にはおうちに引きこもってシーズンオフだとか言ってる腰抜けが、プロレーサーだのと名乗ってるのが気に喰わねぇ。だから俺が本気ガチの走りってやつ見せてやりに、わざわざ来たんだよ!この大会チャリチャンになぁ!?」
 途中でうんこ座りをしようと思った鹿番長だったが、雪が冷たそうなので断念する。代わりに片足を前に出して大きく地面を踏みしめたところ、雪が跳ね上がって迫力のある感じになった。本人的には満足だ。
(すげぇな。こいつ……)
 と、茜は感心する。その心意気……ではなく走り自体に。

 多少粘り気のある雪は積もると何とも言えない硬さになる。踏みしめると沈むのに、蹴散らそうとすると思ったほど飛ばない。しかも下の方に行くほど上の雪の重みで固まり、上は全く固まらないので一見粉雪のように見えてしまう。
 そんな雪の中でバランスを取るのは難しいはずだ。
「鹿番長さん。この自転車って、なんて名前なの?」
 空が興味津々な様子で、鹿番長のタイヤを食い入るように見る。自慢の車体を眺められてご機嫌の鹿番長は、しかしそれを隠すような演技で不機嫌そうに言う。
「兄ちゃんよぉ。ファットバイクを知らねぇのか?雪道じゃ最強無敵の自転車バイクよ!俺のCAPTAIN STAG 267は、マジで走れねぇところは無い」
「キャプテンスタッグ?」
 そのメーカーの名前に、茜は心当たりがあった。
「確か、それってパール金属が出しているファミリー向けのキャンプ用品ブランドだろう?折り畳み式のMTBルック車とか作っていた記憶があるけど、大した自転車じゃないものばかり作っているブランドじゃなかったか?」
 本人を目の前にして遠慮のかけらもない茜は、その極太タイヤ……ではなく、他に見るべき個所を見る。
 案の定ロックナットのハブに、たった7段のTourney-TZ変速ギア。クランクセットは折り畳み式自転車でよく見るタイプ。BBも一般的なシティ車のそれで間違いない。
 フレームに書かれているブランドロゴは塗装ではなくシールで、紫外線の影響で色あせてしまっている。ボトムチューブの上面、ヘッドとの溶接付近にはご丁寧に『舗装路専用』との注意書きが貼ってあった。
 つまり、典型的なルックバイクで間違いない。
「あぁん?ルックバイク見下してるとか、姉ちゃんはブランドで自転車チャリ選択キメてんのかよ?おぉ!」
 顎を突き出すように振りながら、茜に一歩近づく鹿番長。対する茜は、一歩も引かない。
「いや、アタイは性能で選んでいるつもりだ。ただ、いい自転車を選ぶと必然いいブランドにたどり着くだけだよ」
 そもそもブランドで選ぶなら、茜の乗っているセンチュリオンだって日本ではあまり有名ではない。もちろん信頼できるブランドであり、知名度より性能を見た結果購入した車体だ。
「はん。なら話は早いぜ。お前のセンチュリオンとかいう自転車シクロは、この雪で立ち往生していたんだろが!そこ行くと俺のキャプテンスタッグは、この程度じゃ恐怖ビビらねぇからよ。見てただろ?」
「うぐっ、まあ、確かに……」
 もちろん、片やファットバイク。片やシクロクロス。勝負にならないのは車体性能や値段やブランドなど以前に、カテゴリーの問題ではある。
 が、しかし。
「ミスり姉ちゃん。このアホ姉ちゃんにファットバイクの事を解説おしえてやってくれや」
 ミスり速報の凸電を繋ぐ。やや時間を空けて、ミス・リードから返答が来た。どうやら他の選手と話をしていたから電話に出るのが遅れたらしい。

『はいはーい。お待たせしましたぁ。今ですねぇ。ファットバイクの中学生選手、エントリーナンバー040 鹿番長さんからリクエストがありましたよぉ。えっと……ファットバイクの説明ですねぇ。
 この車体カテゴリーが生まれたのは、比較的近年の事です。1995年の厳冬期ウルトラレースで、2台のMTBを溶接して作ったのが始まり。それからアメリカのSurlyが2005年に商品化を行うことで規格が決定し、ファットバイクと呼ばれることになったみたいです。
 極太の3.8~5.0inタイヤは、気圧を下げることで自在に変形する特性も持っています。その走り心地はキャタピラに例えられることも多いですねぇ。広い設置面積で雪に埋まらず走ることができ、サスペンションなしで路面の凹凸を包み込む。そんな夢のような車体ですぅ。
 本来なら、安くても10~20万円はする本格的なスポーツバイクで間違いないのですが、鹿番長さんの乗っているのは6万円ほどの安物。いわゆるルック車ですよぉ。
 ところが今のところ、今大会に出場している選手の中で、一番早いファットバイクの乗り手は鹿番長さんなんですよね。KONAやSurlyやCannondaleといった名車も出場する中、この速さの秘訣はなんでしょう?
 私は、単に選手のバイタリティが重要だと思います。鹿番長さんったら、本当に夜通しで走るんですもの。驚きましたぁ。自転車の性能だけではなく、乗り手の実力も絡んでくる話ですねぇ』

 要は、ルック車でも乗る人次第で速いということなのかと思ったら、違う。

「甘いな、ミスり姉ちゃん。俺が速いのはつまり、この267が速いって事だ。
 考えてもみろ。MTBはその性能上、登りに特化するためにギア比を落とす。フロントギアはチェーンリングが小さければ小さいほどマブい。リアのスプロケはでかいほど強い。これが基本だ。
 まして、ファットバイクの業界ではフロントをシングル化する野郎も多い。これは段差を超えるときにチェーンリングをぶつけないように最小化しているとか、どのみち重いギアを使わないとか、いろいろ言われているけどな。
 だから本格的なファットバイクは、馬力もあるし走破性も高いが……単純に速度で劣るんだよ。ギアを上げるのに限界があるからな。
 そこ行くとシティ車由来のルックバイクは、トップスピードが速い。この程度の雪なら本格派と大差ない走りをするし、もう少し圧雪されればルック車の方が速いんだ。空回りみたいなギア比を自慢するだけの頭足りねぇ連中とは格が違うんだよ!
 悔しいか?悔しかったら俺に追いついてみろ。ブランドばっか自慢している暇があったら……走行ハシりで魅了ミセてみろよ!」

 !?

「お前、理屈も語れるんだな。驚いたよ」
「まあ、ミス・リードは聞いてないと思うけど……」
 空が言う通り、今回はミスり速報の凸電が込み合っているため、ミス・リード自身が大忙しになっている。天気が悪かったりアクシデントがあったりすると忙しくなるようで、既にミス・リードは別な凸電を対応していた。
「まあ、いいや。お前ら、走れないんだろう?これからどうすんだ」
「僕たちは、手近なところで休憩しようと思ってたんだ」
「今日はアタイも走れそうにないからな。無理をして怪我したり、車体を壊したら大ごとだ」
「へぇ……?」
 鹿番長は顔をしかめて、少し考えたのちに決めた。
「それなら、この先にデパートがあるんだよ。多分普通に営業ってると思うけど、いったん休憩やすむならそこが最適だ。逆に言うと、そこ以外に休憩できそうなところは遠いぜ」
「……番長さん。どうしてそんなことを知っているの?」
 空が訊くと、鹿番長は自転車に跨りながら言った。
「それは、ここが俺の地元だからよ」


 鹿番長が先頭を走り、その極太4inタイヤで雪を踏み潰す。圧雪された後を茜が続き、空が最後尾を走る。
(雪を支えにして走るのがいいのかな?)
 空はわだちの一番端を走る。タイヤを雪にこすりつけるようにして、最低限転ばないように慎重に走る。それでもたまにタイヤが横に滑るが、進みながら無理矢理立て直す。
 そもそも、たとえ圧雪状態でも自転車で走るのは難しい。踏み固まったせいで滑りやすくなる。ただでさえ細いスリックタイヤの空にとって、これ以上ないほどに不利な状況だった。
「ソラ……って言ったっけ?よく俺の|走破(はし)りについてこれるな」
 鹿番長が感心したように言う。この中では一番の安定感を誇る彼は、片手を離して余裕の表情だった。
「まあ、空はああ見えて天才だからな。アタイも驚かされてばかりだよ」
 そういう茜は、ブロックタイヤにもかかわらずスリップしながら走っている。
 道路とは、常に水平であることが珍しい。大概は水はけを考慮して両サイドを低くしたり、カーブに合わせてバンクのような傾斜を設ける。それに加えて自動車の通行によって歪んだり、経年劣化で亀裂が入ったりする。
 以前ユークリットが言っていたように、ずさんな道路工事による弊害もある。また植物が根を張ったり、地震で崩れかけたりという自然の驚異にも晒されているのだ。
 要するに、アスファルト≠オンロードである。そこに雪が降り積もると、自転車は左右に滑る。もともと細いタイヤは、横方向の傾斜に弱いのだ。
(この状態で石ころでも踏んだら最悪だな。普段なら石一つ分横に滑った後に体勢を立て直せるが、今なら一瞬滑ったのを皮切りに転ぶまで滑り続ける)
 普段なら気にならない小さな段差や傾斜にも、真剣に注意を払う必要がある。茜が下ばかりを見ていると、
「安心しろや、アカネよぉ。俺も大体の事情は把握わかってるから、なるべく車線中央どまんなかを走るぜ」
 車道の中央は、自動車の設計や道路交通法の都合であまりダメージを受けない。タイヤに踏まれることもないし、マンホールなどの障害物も少ないのだ。だからこそ、自転車にとっては走りやすい環境と言える。
 ただ言わずもがな、道路中央を走るのは追突などの危険がある。チャリチャンではコースを閉鎖しているから大丈夫だが、よいこはマネしてはいけない。
「それにしても、お前は転ばないんだな。鹿番長」
 茜が訊く。よほど寒いのか、その声は震えていた。歯を食いしばることで、ガチガチと歯が当たるのを防ぐ。
「おう!俺のタイヤは太いだけじゃなく、柔らかいからな。例えばちょっとした段差でも、細いタイヤだと一気に突っ込む形になるだろう?太いタイヤなら少しずつ乗り上げる感覚だ。それも包み込むようにっていうか、捕まえるようにっつーかよぉ」
「どういうこと?」
「おお、ソラ。会話しゃべれるのか?余裕だな!?」
「うん。そこまでギリギリな走り方はしてないつもりだし、会話するくらいの余裕はあるよ」
 とはいえ、さすがに近くで話すほど余裕はないらしい。あくまで一列並びの最後尾をキープしたまま、空にしては大きな声で話してくる。
 一方の鹿番長は、普段張っている声の大きさで十分に届く。
「ソラも知っていると思うけど、普通はタイヤの空気を抜いたほうが、滑りにくくなるよな。ちなみに今どのくらい|注入(いれ)てる?」
「え?えっと……測ってないけど、多分70psiくらい」
「だろうな。クロスバイクだと限界はそこだ。それ以上下げるとリム打ちする。ブチ損傷れちまうからな!」
 タイヤが気圧不足で潰れると、路面とリムが直接ぶつかって、間に挟まるチューブが切断されることがある。縦に細く二つの穴が開くことから、別名スネークバイト(蛇が噛む)とも言う現象だ。
 自転車のパンク理由としては、現在一番多いとも言われている。何かを踏んだわけでもないのに、何も刺さらず発生するパンクだ。
「そこ行くと、俺の267は今8psiしか充填はいってない。つまり、1ber以下だ」
「え……大丈夫なの?」
 空が目を丸くする。その数字は常識外れな少なさだった。文字通りの桁違い。ゼロが一つ足りない。
「心配要らねぇよ!それがこの自転車バイクの仕様だからな」
 自転車のチューブは円筒形で、幅と高さが同一であることが多い。つまりファットバイクの4inタイヤは、太さだけじゃなく高さも4inだ。単純計算によるものであって実測ではないが。
 つまり、たとえ10cm沈み込んでもリム打ちしないのだ。ちなみに、空のエスケープは3cm沈んだだけでパンクする。
「自動車やオートバイでも雪の日に気圧を下げる方法が有効くけどよ。車体が重いから殆ど空気を抜けねえんだ。1ber以下で走れるのは世界でもファットバイクだけだろうよ!」
 得意げに言う鹿番長。車体性能だけを自慢しているが、実際には走っていること自体も自慢していい技術だったりする。
 ふわふわと風船のように形を変えるタイヤは、狙ったとおりにコントロールするのが難しい。たとえアスファルトの上でも扱いにくいはずだ。例えて言うなら、バランスボールに座っている状態で自転車を漕いでいるようなもの、と言えば伝わるだろうか。
 実際、鹿番長の身体が縦に小さく揺れているのも、車体が暴れているせいだったりする。それを抑え込むバランス感覚と、その状態で長距離を走る体力は並ではない。
「そういえば、結局ギアは上げないんだな」
 茜が後ろから見ていて気付く。せっかくの7段変速は1段目からピクリとも動かない。どころか少し下げたいくらいのようで、たまにディレイラーが痙攣したように動いている。これよりも下がらないはずのレバーを下げようとしている証拠だ。
「う……まあ、俺でもこの雪の中じゃ、な。本当はDEOREとかSLXなんかに換装かえようかと思ったんだが、値段が、よ」
「ああ、フルセットで買い揃えると凄いことになるよな。アタイもデュラエースに憧れたり、せめて105とか思ってたけど……」
 茜もどうやら金額に限界を感じたことがあるらしい。これは別に中学生に限った話ではない。自転車とは金をかけようと思えば際限のない趣味なのだ。
「まあ、俺の場合は自転車にかけた金額を自慢するより、自分の鍛えた技術ワザ体力チカラを自慢した方が漢が上がると思ってるけどよ!?」
「なるほど。だからルック車でも雪道を走れるのか。納得したよ」
「へへっ――まだだ。まだまだ俺は進めるぜ。もっと上に、な……アカネ、まだ俺に惚れるなよ」
「誰が惚れるか。一生願い下げだ」
「ハッ――冗談だよ。アカネにはソラがいるもんなぁ?」
「それも違うからな!」
「おう、ソラ。アカネのこと、よろしくヨロんだぜ!」
「違うって言ってるだろう。しかもどこ目線だ!お前はアタイの何なんだ!」
 空も何か言ってやってくれないか。そう思って後ろを振り返ると、真剣に地面を見ながら走り続ける空と目が合った。
「ん?どうしたの?」
「いや、何でもない」
 今話しかけるのは難しいかもしれない。状況は一秒単位で変化し、一メートル進むごとに違った路面が顔をのぞかせる。さっきまで余裕だった空が今は真剣だ。
 雪道の本当の恐ろしさは、同じ雪の質が存在しない事なのかもしれない。


 割とどこにでもある系列のデパート。ここはコースに含まれないため、駐車場に入ると同時にコースアウト扱いになる。もっとも、入ったところから出ればいいだけだが。
 コース側の道路は閉鎖されているため、そちらの出入り口にはパイロンが置かれていた。反対側の出入り口は解放されているため、店内にはチャリチャン出場者も一般客も混在している。
 やっと屋内に退避できた茜と空は、それぞれ寒そうに入店した。自転車用の装備をしていなかった空は、手足の感覚がなくなるほど冷たくなっている。風への対策を行わなくてはいけない自転車にとって、ニットは無力以上にマイナスだ。
 茜は手足を完全防備していたが、それ以上に薄着だ。全体的に体温が下がっているし、一番つらそうにもしている。コンパクトなダウンジャケットは少し役に立った程度で、完全防備には程遠かった。
「お前ら……どっちも冬場の装備下手くそか。足して二で割れや」
「そういうお前はツッコミ上手か。甲子園でも目指せ」
「うう……手が凍るううう」
「……やれやれ、まともなファッションなのは俺だけか」
「特攻服着たリーゼント野郎にそれを言われるのか」
「足の感覚がないよ。地面踏んでる気がしない」
「「お前はマイペースか!」」
 空が二人に突っ込まれて目を丸くする。その反応が少し面白かったが、何となく笑うのが釈然としなかった茜は咳払いでごまかす。
「コホン……案外、出場者も多くいるな」
 周囲を見渡してみると、自分と同じデザインの腕輪をつけた人が何人も見つかる。大会参加者が取り付けているもので、GPS機能を搭載した身分証のようなものだ。案外目立つデザインである。
「ああ、俺の知る限り、休憩どころはここしかないって言ったろう?今のソラやアカネみたいに、無鉄砲に走り出した連中がここに集まっているんだろうさ」
「で、動けなくなっているって寸法だね。僕らと同じように……」
「店側にとっては迷惑な話なんじゃないか?アタイが言うのも変だが」
「心配すんなよ。どうせ平日にデパート来てる奴なんか、生活必需品の買い足しに来た主婦ばっかだ。むしろテナントで入っている飲食店なんかは、出場者おれらが来た方が儲かっていいだろう」
 案外まともなことを言う鹿番長。
「鹿番長さんって、不良っぽいって思ったけど、優しいよね」
 空がしみじみ言う。
「ああ?ナメてんのか。おお」
「あははっ、違う違う。僕は、鹿番長さんを尊敬しているんだよ」
「はぁ?何だそりゃ……チョーシ狂うぜ」
 恥ずかしそうに後ろ頭を掻く鹿番長を見ていると、同じ中学生なんだなと思う。きっと本気で暴走族や不良なのではなく、そういう漫画か何かを見て憧れているだけの少年なのだろう。
「ところで鹿番長。あんたはこれからどうするんだ?」
 茜が訊く。鹿番長にとって今日は順位を上げるチャンスだ。てっきりこのまま走り続けるものだと思っていたが、
「いや、今日は俺も休もう。この雪の調子見る限りじゃ、本当の勝負時は明日か……早くても今日の夕方以降だろうよ」
「そうなの?」
「おう。今はわかんねーだろうさ。それより、俺も夜通し走ってたから、疲労つかれてんだ。順位はぶっちゃけヨユーだし、休みてぇ」
 その顔色からは疲れも窺えるが、それ以上に何かを待っているような表情でもある。茜はそれを感じ取りながらも、あえて触れない。
「それなら、このデパートでゆっくり休めるところを紹介してくれよ」
「ああ、それならフードコートだろうぜ。俺もそこで休むわ。ついてくんなら勝手にしろよ」
 大あくびを放った鹿番長は、ふらふらと貧乏ゆすりしながら歩きだす。実はファットバイクの振動に慣れてしまっていたので、地面が揺れない感覚が奇妙に感じるのだ。船乗りが久しぶりに陸に上がると発生する現象に似ている。
「せっかくだし、アタイらもそこで休憩するか」
「うん」


『うーん。この雪で走るのは難しいのでしょうねぇ。今のところ、ファットバイクやオールマウンテンなどの十数名が走るのみです。
 エントリーナンバー403 ストラトスさん。数分前にネットカフェを出発したのがGPSで観測されています。バッテリの充電が終わったんでしょうね。電動アシストの威力を十分に発揮して、この雪の中を突き進んでいきます。
 昨日デスペナルティさんと接触事故を起こした選手ですが、無事で何よりですよぉ。
 今、コース上に設置されたカメラがストラトスさんを捉えました。速度は申し分なさそうですが、この馬力を維持するためには、大量の電力消費を覚悟しなくてはいけませんねぇ。どこまで持つんでしょう?
 ハンドルを雪に取られて、まるで荒波に逆らう帆船のような動きをしていますよぉ?なんだか腰使いがちょっとエッチですぅ。今夜のおかずにしてもいいですかぁ?

 先ほどから順位を上げているのは、エントリーナンバー322 トライク二等兵さん。ご自慢のRUNGU Juggernautは横幅の都合で日本国内の法律(幅600mm以内。ただしスポーツ車はある程度までグレーゾーンとする)に反しますが、チャリチャンコースでは合法ですよぉ。
 ご覧いただけますでしょうか?前輪が2本ついているんですよぉ。しかも前後輪ともに4.8inタイヤです。こんな太くておっきいのが3本も……前に2本、後ろに1本。これを電動アシストによって、30km/h以上の速度で走らせるわけです。これもう自転車って言っていいんでしょうかぁ?

 SURLY MOONRANDERを走らせるのは、エントリーナンバー089 軍隊シロクジラさん。ただでさえ前後にキャリアを取り付けたムーンランダーに、さらにSURLY TRAILERを搭載。その見た目は軍用車に近いですねぇ。
 これを電動アシスト無しのガチ自力で走らせるシロクジラさんは、なんと女性。細い手足からは想像がつかないですけど、この車体を積雪の上で走らせるのって男性でも大変なはずです。こいつぁすげーや。

 しかし、依然としてトップを譲らないのはエントリーナンバー001 アマチタダカツさん。ずっと首位をキープし続けている彼ですが、なんと本日は自転車を担いで、自分の足で走っております。それが許されるのが本大会。本当に、何でもアリです。
 これ、凄いですねぇ。ロードバイクのトップチューブを肩にかけて、シクロクロス選手が階段を上るときみたいな姿勢で走っていきます。雪に足を取られることもなく、高く飛ぶように跳ねる走り方。どんな体力しているんでしょう……』


 ミス・リードの放送を映像付きで聞きながら、茜たちはフードコートの一角でコーヒーを飲んでいた。
「ストラトスさん。無事だったんだね。それにこの雪のなかで走れるなんて、凄いよ」
「ああ。だがすぐにバッテリが切れるだろう。それよりアタイが驚いたのはアマチって男だな。初日に会った時から只者じゃないと思っていたけどよ」
「つーか、何が電動アシストだよ。漢の使うものじゃねぇや。自分テメェ脚力アシは飾りかっての!」
「そこ行くと、シロクジラさんって人は凄いよね。ユークリットさん以外にもトレーラー参加者っているんだ。僕も欲しくなってきちゃったなぁ」
「サーリーのは2輪タイプか。100kgくらいは余裕で積めそうだな。もっとも、クロモリの扱いに長けたメーカーだからこそ、耐えられる車体を作れるんだろうけど」
「あぁん?アカネよぉ……またブランドの話か?やっぱ女はダメだな。名前ブランドばっかみて中身ホンモノを見ちゃいねぇ!」
「お前はブランドにコンプレックス持ち過ぎだよ」
「鹿番長さん。高級ブランドに乗っている人だって、自転車のブランドだけで走っているわけじゃないと思うよ」
「へっ……まあ、ソラに言われちゃ仕方ねぇな」
 三人はまるで他人事のように感想を言い合っていた。本当ならライバルの走りに心動かされるシーンなのかもしれないが、今日は大人しく観戦するつもりである。何しろ心が動いても自転車が動いてくれない。この雪が何とかなるまで様子見だ。
 というわけで、どうせ観戦するなら徹底的に観戦しようと、こうして一般客に紛れてコーヒーなど飲んでいるわけである。
「ピザ、ラスト1/4だ。欲しい奴いるか?」
「俺が貰う」
「あ、僕も」
「よし、二人で分け合え。アタイはもういいや」
「なんだアカネ?小食な方がモテるとか考えてんのか?」
「いや、茜に限ってそれは無いでしょう。お腹痛いの?」
「兄貴の作るピザのが美味い。それだけだよ」
「ホームシックかよ」
「似合わないと思うよ」
「空。お前は後で処刑な」
 茜は疲れ果てたようにテーブルに突っ伏した。引っ詰めた髪が揺れるのを見て、空は微笑む。
(たしか、茜と初めて会った時も、こうして突っ伏してたな。最初は怖かったけど、勇気出して話しかけてよかったかも)
 学校での日々や家の事を思い出して、改めて今の自分の状況を認識する。スタートしたのがついさっきのようにも感じるし、それからいろんなことがあったのも事実だ。
(もう3日目なんだよね。いや、まだ3日目……かな?ずっと自転車に乗ったり、茜と話したり、凄い自転車をたくさん見たり……)
 冒険とは、驚くほど沢山転がっているのかもしれない。毎日が同じことの繰り返しでつまらないと感じている人は、学校や仕事を休んで自転車に乗ってみると、世界が変わって見えるだろうと思う。ただ、
(贅沢だよね。自転車で日本縦断なんてさ)


『朗報。朗報ですよぉ。大雪警報が今、解除されましたぁ。はぁ。やっとですよぉ。
 今、中継車を使って圧雪を急いでいます。ええ、もう使えるものは何でも使いますよぉ。除雪車があればいいんですけどねぇ。
 さらに、地元の消防団もスノーダンプによる雪かきを引き続き行ってくれるそうです。ボランティアであるにもかかわらず、甚大なご協力に感謝いたします。
 さあ、皆さん。ここから状況を立て直しますよぉ。私もエッチなことを言っている場合でもなければ、シている場合でもないです。あっ――ちょっと待ってくださいね。今すぐ賢者モードに切り替えますから……んっ』


 再び、レースが動き出す。密かに、空は誰よりもこの時を待っていた。
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