さつきの花が咲く夜に

橘 弥久莉

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第七章:絡みつく孤独

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 結局、告別式を終えてからも役所への死亡
届の提出や、年金、保険の届け出など各種手
続きに追われ、満留がようやくひと息付けた
のは、週明けには忌引休暇が明けるという、
金曜の夕刻だった。


――その日の夜。


 満留は満から借りたままの空色のハンカチ
をトートバッグに入れると、「いるわけない」
と、心の内で反芻しながらも中庭へ向かった。
 ジーパンにスニーカーという私服姿で中庭
へ続くタイル張りの通路を進んでゆくのは初
めてのことで……。無意識のうちに急ぎ足に
なってしまう。


――絶対、いるわけない。


 そう思いながらも、「もしかしたら……」
という相反する想いが、心の中を掻き回した。

 もしも、こんな自分を満が待ってくれてい
たら、何と謝ろう?

 あの夜、彼に放ってしまった言葉は八つ当
たり以外の何物でもないのだ。満はただ自分
を元気づけようとしてくれただけなのに、母
の危篤に動揺して彼のやさしさを踏み躙るよ
うなことを言ってしまった。

 満留は悔恨の念に唇を噛みしめながら、
白い灯りに照らされた中庭に足を踏み入れた。

 そして、いつも満と腰かけていた丸いベン
チを見、がっくりと肩を落とす。やはりそこ
に彼の姿はなく、誰もいない中庭は夜の音を
吸い込んだようにひっそりと静まり返っている。

 満留はため息をひとつ吐くと、すとん、と
ベンチに腰を下ろした。

 ひんやりとした風が木々を揺らし、凋落ちょうらく
秋が近いことを暗に教えてくれる。最後に会
ってからまだ一週間しか経っていないという
のに、満に手を引かれて走ったあの夜が遠い
日のように感じられた。

 満留はトートバッグからハンカチを取り出
すと、きつくそれを握りしめた。


――どうしよう?どうすればいい?


 そう、心の内で問いかける。
 きっと、このまま待っていても満が中庭
に来てくれることはないのだろう。

 明日も、明後日も、明々後日も、ただ悪戯
に時間だけが過ぎて、もう、二度と会えない
人の一人になってしまうに違いない。

 満留は唇を引き結ぶと、ゆるりと立ち上が
った。


――二度と満に会えないなんて、嫌だ。


 いま、はっきりとそう思う。
 何げなくこの場所で出会って、共に過ごし
た時間はほんの数日だけれど、『会えないな
ら仕方ないや』と諦められるほど彼の存在は
小さくなかった。

 満留は顔を上げると夜間通用口に向かって
歩き始めた。ハンカチをトートバッグにしま
い、大股で歩いてゆく。

 もしかしたら、迷惑かも知れない。
 謝っても、許してもらえないかも知れない。
 それでも、会いに行こう。
 自分から、彼に手を伸ばしてみよう。

 そう、心に決めれば無意識のうちに早足に
なり、肩口までの髪を風が撫でてゆく。

 真っ直ぐ前を見つめる満留に、迷いはなか
った。川沿いの道を大通りまで進めば、信号
の向こうに三叉路が見える。満の家は、この
三叉路を左に歩いて数分の所にあるはずだ。

 満留はチカチカと点滅を始めた信号をじっ
と見つめると、それが青に変わった瞬間に走
り始めた。
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