さつきの花が咲く夜に

橘 弥久莉

文字の大きさ
上 下
63 / 107
第六章:忍び寄るもの

61

しおりを挟む
 情けなくて、悲しくて、なのに気持ち悪く
て、便器にしがみついていた時だった。
 コンコン、とドアをノックする音がしたか
と思うと、ガチャリとドアが開いた。

 「あらあら、どうしたの?気持ち悪いの?」

 婆ちゃんだった。
 ぜえぜえと泣きながら肩で息をする俺の背
中を、婆ちゃんがやさしく擦ってくれる。

 「……婆ちゃん、お腹痛い。気持ち、悪い」

 やっとの思いでその言葉を喉から絞り出す
と、婆ちゃんはポケットから取り出したハン
カチで俺の口を拭ってくれた。

 「風邪が流行ってるから、胃腸炎かも知れ
ないねぇ。まだお医者さんやってるから、
すぐに婆ちゃんが連れてってあげる」

 そう言って俺を立たせてくれたが、もう、
痛みが頂点に達していた俺は動けなかった。

 「無理だよ、婆ちゃん。……歩けないよ」

 「じゃあ、婆ちゃんがおんぶしてあげる」

 「……そんなのダメだよ」

 「ダメじゃないよ。田沼医院までは歩いて
五、六分だし。ちょっとお財布と診察券取っ
てくるからここで待ってなさい」

 俺を安心させるようににっこりと笑うと、
婆ちゃんはすぐに必要なものを持って来て俺
をおぶってくれた。少し丸まった婆ちゃんの
背中に被さると、薄荷はっかのような匂いがした。






 かかりつけの小児科医に診察してもらった
俺は、すぐに近くの総合病院に搬送された。


――病名は急性虫垂炎。


 すでに虫垂壁全体が炎症を起こしていて、
発熱もあったので、緊急で開腹手術を行うこ
ととなった。生まれて初めての手術は怖かっ
たけれど、怖いと怯える間もなく俺は意識を
手放してしまったらしい。

 再び目を覚ました時、すでに手術は終わっ
ていて、俺はクリーム色のカーテンに囲まれ
たベッドの上に横たわっていた。

 まだ、麻酔が効いているのか痛みは全然な
かった。けれど、誰も傍にいないことが寂し
くて、心細くて、どうすれば婆ちゃんを呼べ
るのだろう?と、俺は辺りを見回してみる。
すると、ベッドのヘッドボードにボタンが
垂れ下がっているのが見えた。


――これを押せば、誰か来てくれる。


 そう思って手を伸ばしたその時、病室の外
から聞き覚えのある声がして、俺は伸ばした
手を止めた。

 「どうしてすぐに救急車を呼んでくれなか
ったんですっ。もう少し遅かったら腹膜炎を
起こしてたかも知れないんですよ?あの子に
もしものことがあったら、どうするつもりだ
ったんですかっ!」

 母さんの声だった。
 けれどその声は鋭く、誰かを責めている。
 俺はどくどくと、鼓動が早なるのを感じな
がら声のする方を向き、じっと耳を澄ました。

 すると次に聞こえてきたのは、噛みつくよ
うな、婆ちゃんの怒鳴り声だった。

 「いっつも仕事優先で、子どものことなん
かほったらかしのクセに、こんな時だけ母親
面するんじゃないよっ。あの子は、私が育て
た私の子どもなんだ!あんたに文句を言われ
る筋合いはないね。そんなに心配なら、さっ
さと仕事辞めてあんたが育てればいいじゃな
いか。ここぞとばかりに人の粗探しして、
性格悪いったらないよ!」

 婆ちゃんの、こんな声を聞くのは初めてだ
った。婆ちゃんはいつも穏やかで、やさしく
て、誰に対しても怒ることなんてないんだと、
勝手に思っていた。
しおりを挟む

処理中です...