さつきの花が咲く夜に

橘 弥久莉

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第一章:母と娘

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 デスクの引き出しから帆布のトートバッグを
取り出し、首から提げていたネームプレートを
外す。そして、バッグの中にしまっておいた携
帯の待ち受け画面を恐る恐る確認していると、
斜め前に座っている柳怜子やなぎれいこが声を掛けてきた。

 「お母さんの調子はどう?今日も病院の方に
泊まるんでしょう?」

 スクエア型のメガネの向こうから、心配そう
な眼差しを向けている。昭和初期を連想させる
ひっつめお団子ヘアと角ばったメガネのせいで
少々冷淡な印象を相手に与えてしまうけれど、
その容姿に反して彼女は情が厚く、上司として
も頼りになる存在だった。

 満留はぎこちなく唇を引き結ぶと、小首を傾
げて見せた。

 「一昨日緊急入院した時よりかは、落ち着い
ているんですけど……まだ呼吸が苦しいみたい
で、ご飯もほとんど食べられないんです」

 ベッドの上で自分の帰りを待っているに違い
ない母の姿を思い浮かべ、胸が苦しくなる。

 「悪い知らせが届いていないだろうか?」と
思えば、バッグの中の携帯を見る時が一番恐ろ
しい。不安を隠しきれず満留が俯いてしまう
と、今度は隣に座る門脇かどわきが声を掛けてくれた。
 
 「桜井さくらいさん。家のことが大変な時は、無理に
業務をこなさないで仲間に振ってくれていいか
らね。僕も喘息持ちの子供がいるからいつ入院
するかわからないけど、こういう時はお互いさ
まと思っていいんだから」

 色白で、ひょろりと背の高い門脇が背中を丸
めたまま満留を見上げている。満留は二人の気
遣いに心のやわらかな部分を刺激されながら
も、涙を堪え、「ありがとうございます」と
頷いた。

 「母の病状は心配で仕方ないんですけど、家
に一人で置いていた時よりかは、ずいぶん気持
ちが楽なんです。本当は完全看護体制だから私
が泊まり込む必要もないんですけど。どうし
ても母の傍にいたいって、看護婦さんに我が
儘を言っちゃいました」

 そう言って肩を竦めると、柳と門脇は顔を
見合わせる。母の傍にいたところで何も役に
立てないかも知れないが、浮腫んでしまった
足や手を擦ったり、蒸したタオルで顔や身体
を拭いてやったりすることは出来る。その他
にも洗濯物や必要な物の買い出しなど、身の
回りの世話はいくつかあるが、何より、病魔
に蝕まれてゆく母親を一人にしておくこと
が、満留には出来なかった。

 「それじゃ、お言葉に甘えて。お先に失礼
します」

 定時を数分過ぎた時計を見やって、満留は
ぺこりと頭を下げる。と、その様子に気付い
た他の事務員たちも「お疲れさま」と声を掛
けてくれた。満留はトートバッグを肩に提げ
教務課を出ると、一日を終えた学生たちに混
じって校内を歩き始めた。
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