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【月が輝く理由】
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あの日。初めて夜景を観に行った帰り、ゆづるを降ろした
十字路の信号に立って辺りを見渡す。朝と夜では少々景色が
違って見えたが、大通りを渡った向こう側に、すぐにその
店は見つかった。
----白い花束を買ってくれた彼が、
またお店に来てくれました-----
“弓月”が書いた日記の一文を思い起こして、呟く。
「花屋だ……」
弓月は花屋で働いていた。そこで、あの男と出会った。
そしてあの朝、ゆづるを降ろした場所からごく近くに、
“アン・フルール杉村”という花屋がある。
ゆづるの本名は“杉村 弓月”だ。
病院のベッドの名札にそう記されていたのだから、
間違いない。
目の前を走り抜けていた、いくつものヘッドライトが
ぴたりと止まる。俺は一度大きく息を吸いこむと、
足早に横断歩道を渡った。
白い建物に、大きなガラス窓が印象的なその花屋の前に
立つと、店の奥で花の手入れをしているらしい父親の背が
目に入った。
店の閉店時間までまだ少しあるが、店内に客はいない。
俺は、ひんやりと冷たいドアノブに手を掛けると、
静かに店の中に足を踏み入れた。
チリリン------
澄んだベルが鳴ったと同時に、父親が振り返った。そして、目を
見開いた。「いらっしゃいませ」という接客用語を、うっかり
呑み込んでしまったような顔に、苦笑いする。
「突然すみません。どうしても、ゆづるさんに渡しておきたい物
があったので……」
ジャケットの懐から、少しシワになった色鉛筆の紙袋を取り
出して見せると、父親は、ああ、と表情を緩めた。
手にしていた剪定鋏をカウンターに置き、エプロンの裾で
濡れた手を拭う。そうして、小さく頷くと俺を見た。
「良かったら、奥へあがってください。ちょうど昨日、
病院から戻ったんです」
「いいんですか?」
まさか、本当に会わせてもらえると思っていなかった俺は、
父親の意外な言葉に少し戸惑って、唾を呑んだ。店の奥に
向かいかけていた背中が、くるりと振り返る。
「どうぞ。まだ、意識は戻っていないので、あの子と
話すことはできませんが……」
なるほど、そういうことか。
俺は心の中でそう納得して頷くと、店の奥へ進んでいった。
--------ゆづるの匂いだ。
彼女の部屋へ一歩足を踏み入れた瞬間、俺は密かにそんな
ことを思った。ほのかに香る甘い、花の香り。
部屋のいたるところに、鮮やかな生花やドライフラワーが
飾られている。その部屋の中心に、ゆづるは眠っていた。
ベッドの横にある机から木の椅子を引っ張り出し、
そこに座る。俺を部屋に案内するなり、「熱いお茶を
淹れてきますから」と部屋を出ていってしまった父親は、
それでも、部屋の戸を閉めることはせずに、少し開けたまま
で、一階へ下りていった。
ゆづるの寝顔を見る。すぅ、と静かに寝息をたてている
彼女の頬は、あの日、病院のベッドで見た時よりもさらに
青白く、まるで知らない女のようだ。俺は、ゆづるで
ある証に触れるため、布団の中に手を忍ばせた。左手を握る。
確かに、第一関節の一部が硬くなっている。間違いなく、
目の前に眠る女はゆづるだった。髪が短くても、俺を覚え
ていなくても、色鉛筆を手に、鮮やかな風景を描くことが
なくても……
この世のどこを探しても、彼女は“弓月”の中にしかいない。
十字路の信号に立って辺りを見渡す。朝と夜では少々景色が
違って見えたが、大通りを渡った向こう側に、すぐにその
店は見つかった。
----白い花束を買ってくれた彼が、
またお店に来てくれました-----
“弓月”が書いた日記の一文を思い起こして、呟く。
「花屋だ……」
弓月は花屋で働いていた。そこで、あの男と出会った。
そしてあの朝、ゆづるを降ろした場所からごく近くに、
“アン・フルール杉村”という花屋がある。
ゆづるの本名は“杉村 弓月”だ。
病院のベッドの名札にそう記されていたのだから、
間違いない。
目の前を走り抜けていた、いくつものヘッドライトが
ぴたりと止まる。俺は一度大きく息を吸いこむと、
足早に横断歩道を渡った。
白い建物に、大きなガラス窓が印象的なその花屋の前に
立つと、店の奥で花の手入れをしているらしい父親の背が
目に入った。
店の閉店時間までまだ少しあるが、店内に客はいない。
俺は、ひんやりと冷たいドアノブに手を掛けると、
静かに店の中に足を踏み入れた。
チリリン------
澄んだベルが鳴ったと同時に、父親が振り返った。そして、目を
見開いた。「いらっしゃいませ」という接客用語を、うっかり
呑み込んでしまったような顔に、苦笑いする。
「突然すみません。どうしても、ゆづるさんに渡しておきたい物
があったので……」
ジャケットの懐から、少しシワになった色鉛筆の紙袋を取り
出して見せると、父親は、ああ、と表情を緩めた。
手にしていた剪定鋏をカウンターに置き、エプロンの裾で
濡れた手を拭う。そうして、小さく頷くと俺を見た。
「良かったら、奥へあがってください。ちょうど昨日、
病院から戻ったんです」
「いいんですか?」
まさか、本当に会わせてもらえると思っていなかった俺は、
父親の意外な言葉に少し戸惑って、唾を呑んだ。店の奥に
向かいかけていた背中が、くるりと振り返る。
「どうぞ。まだ、意識は戻っていないので、あの子と
話すことはできませんが……」
なるほど、そういうことか。
俺は心の中でそう納得して頷くと、店の奥へ進んでいった。
--------ゆづるの匂いだ。
彼女の部屋へ一歩足を踏み入れた瞬間、俺は密かにそんな
ことを思った。ほのかに香る甘い、花の香り。
部屋のいたるところに、鮮やかな生花やドライフラワーが
飾られている。その部屋の中心に、ゆづるは眠っていた。
ベッドの横にある机から木の椅子を引っ張り出し、
そこに座る。俺を部屋に案内するなり、「熱いお茶を
淹れてきますから」と部屋を出ていってしまった父親は、
それでも、部屋の戸を閉めることはせずに、少し開けたまま
で、一階へ下りていった。
ゆづるの寝顔を見る。すぅ、と静かに寝息をたてている
彼女の頬は、あの日、病院のベッドで見た時よりもさらに
青白く、まるで知らない女のようだ。俺は、ゆづるで
ある証に触れるため、布団の中に手を忍ばせた。左手を握る。
確かに、第一関節の一部が硬くなっている。間違いなく、
目の前に眠る女はゆづるだった。髪が短くても、俺を覚え
ていなくても、色鉛筆を手に、鮮やかな風景を描くことが
なくても……
この世のどこを探しても、彼女は“弓月”の中にしかいない。
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