上 下
56 / 105

【運命の交差点】

しおりを挟む
近くに座っていた客の数人が怪訝な顔をして

こちらを向いた。俺は財布から札を1枚

抜き取るとマスターへ差し出した。

「申し訳ないけど……これは俺から

 マスターへのご馳走ってことでいいかな。

 次は必ず、美味しくいただくよ」

ふむ、と鼻を鳴らしてマスターが目を細めた。

そして、俺の手からすっと札を受け取る。

白髪交じりの口髭をやんわりと曲げて

交互にふたりの顔を見ると、

少し控えめの声で言った。

「そういうことなら。これはありがたく、

 僕がいただくとするよ。昼と夜じゃ

 睡眠の質が違うからね。ゆづるちゃんも、

 もっと体を大事にしたほうがいい」

職業柄、昼夜逆転の生活をしてきた

マスターにそう諭されれば、返す言葉もない。

ゆづるはため息をついて渋々と席を立つと、

俺を見上げた。

「わかったわ。で、ここ出てどこへ行くの?」

「それは……店を出てから決めようか」

「まさか。また車停めてるわけじゃ

 ないんでしょう?」

「はは。それはないな」

彼女のコートを手に取って羽織らせながら、

俺は白い歯を覗かせた。

店を出て向かう場所は、

俺の中でとっくに決まっていた。

「……眠れないのか?」

腕の中から体温が抜け出す気配を感じて、

閉じていた瞼を開ける。

ぼやけた視界にまっくろな人影が映り込んで

振り返ると、小首を傾げた。

「月が、きれいだから」

「…ツキ?」

俺の言葉に頷きながら、

ゆづるが部屋のカーテンを向く。

そして、ギシ、とベッドを鳴らして立ち上がると、

カーテンの隙間から伸びる細い光を頼りに、

窓へと向かった。シャッ、と軽やかな

音と共にカーテンを開ける。

澄んだ窓の向こうには、銀色の半月が

寝静まった街の上に浮かんでいた。

眩いほどに白い光を放つそれは、

東の空へ弓を弾くように下を向いていて、

美しい。

俺はベッドを下りてゆづるの背後に立つと、

両腕で細い肩を抱いた。

「半月か。確かにきれいだけど、

 少しは眠った方がいいんじゃないか?

 ベッドに入ってから今まで、

 ずっと寝てなかっただろう?」

彼女を休ませようと……

自分の部屋へ連れ帰った俺は、

ベッドに入ってもなお「眠くない」と

拗ねるゆづるの肩を、そこから

逃げないように抱いていた。


まるで目を閉じることを恐れるように、

じっと天井を睨む横顔は、

小さな少女のようにも見えて、

また、愛おしい。

わが子を寝かしつける父親とは、

こんな満たされた気持ちなのだろうか?

そんなことを考えながらゆづるの顔を

眺めていた俺は、仕事の疲れも手伝って、

つい重い瞼を閉じてしまった、矢先だった。

「眠くないのに、寝られるワケないでしょう。

 無駄な時間をベッドで過ごすよりも、

 画を描いている方が私はずっといいの。

 あの月が消えてしまう前に、早く描きたいのよ」

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

王命を忘れた恋

須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』  そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。  強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?  そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

【完結】私の婚約者(王太子)が浮気をしているようです。

百合蝶
恋愛
「何てことなの」王太子妃教育の合間も休憩中王宮の庭を散策していたら‥、婚約者であるアルフレッド様(王太子)が金の髪をふわふわとさせた可愛らしい小動物系の女性と腕を組み親しげに寄り添っていた。 「あちゃ~」と後ろから護衛のイサンが声を漏らした。 私は見ていられなかった。 悲しくてーーー悲しくて涙が止まりませんでした。 私、このまなアルフレッド様の奥様にはなれませんわ、なれても愛がありません。側室をもたれるのも嫌でございます。 ならばーーー 私、全力でアルフレッド様の恋叶えて見せますわ。 恋情を探す斜め上を行くエリエンヌ物語 ひたむきにアルフレッド様好き、エリエンヌちゃんです。 たまに更新します。 よければお読み下さりコメント頂ければ幸いです。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...