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【運命の交差点】
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「…美味しい?」
「うん。美味しい」
「良かった」
ふふ、と微笑する弓月に頷く。
そして冷めないうちに、と弓月が僕の手に
珈琲を戻した。
「…………」
まだ温かいそれと弓月の手を握ったまま、
僕は不意に表情を止め、口を噤んだ。
握りしめた缶の熱が、ゆるやかに手の平を
温めていく。弓月が不思議そうに眉を寄せた。
「どうか、したの?」
なおも、黙ったままの僕の顔を覗く。
僕はゴクリと唾を呑んで唇を舐めると、
躊躇いがちに弓月の顔を見た。
「昨日の、ことなんだけど」
一瞬で、弓月の顔色が変わった。
僕はその事に内心、戸惑いながらも
握る手に力を込め、言葉を続けた。
「何があったのか、話してほしいんだ。
突然、あんな風に僕を置いて逃げるなんて……
何かよっぽどのことがあったんだろう?」
弓月が唇を噛んで俯く。
僕に握られていた手をすっと引き抜くと、
怯えるように両手で顔を覆った。
指の隙間から覗く唇は、小刻みに震えている。
「黒い…人影が見えたの。真っ黒な…
人の形をしたものが、こっちに向かってきて。
それで怖くなって……」
「黒い……影?」
小さく首を縦に動かして、弓月が目を瞑る。
僕はどう答えていいかわからず
眉を顰めると、弓月の肩を抱いた。
昨夜の風景を思い起こしてみる。
けれど、弓月が凝視していた風景の中に
不審な人影はなかった。少なくとも、
僕には何も見えなかった。
だからと言って「見えた」という弓月の
言葉を、否定する気にもなれない。
もしかしたら、僕には見えないものを彼女が
「見て」しまうことだってあるのかもしれないのだ。
僕はそういったものを信じないタチだけれど、
母を亡くしてから、心のどこかでそういう世界が
あって欲しいと思うようになっていた。
「そう。僕には何も見えなかったけど、
弓月には怖いものが見えていたんだね」
「……信じて、くれるの?
私がおかしなことを言ってるって、
思わない?」
弓月が驚いたように目を見開いて僕を見る。
僕はもちろん、と笑って頷いた。
「信じるよ。でも、もしかしたら光の
悪戯かもしれないし、疲れていて錯覚が
見えただけなのかもしれない。だけど、
今までにもこういう事があったなら、もう
弓月が怖い思いをしないように考えないとね」
腕の中の細い肩を温めるように擦りながら、
ガラス越しに外を見る。
冷たい風を受け、カタカタと揺れるドアの
向こうの景色は、昨夜と何ら変わらない。
「今までもあったの?見えたこと」
僕は努めて優しく問いかけた。
弓月がぎこちなく頷く。
「…そっか」
僕は小さく息をついた。
「うん。美味しい」
「良かった」
ふふ、と微笑する弓月に頷く。
そして冷めないうちに、と弓月が僕の手に
珈琲を戻した。
「…………」
まだ温かいそれと弓月の手を握ったまま、
僕は不意に表情を止め、口を噤んだ。
握りしめた缶の熱が、ゆるやかに手の平を
温めていく。弓月が不思議そうに眉を寄せた。
「どうか、したの?」
なおも、黙ったままの僕の顔を覗く。
僕はゴクリと唾を呑んで唇を舐めると、
躊躇いがちに弓月の顔を見た。
「昨日の、ことなんだけど」
一瞬で、弓月の顔色が変わった。
僕はその事に内心、戸惑いながらも
握る手に力を込め、言葉を続けた。
「何があったのか、話してほしいんだ。
突然、あんな風に僕を置いて逃げるなんて……
何かよっぽどのことがあったんだろう?」
弓月が唇を噛んで俯く。
僕に握られていた手をすっと引き抜くと、
怯えるように両手で顔を覆った。
指の隙間から覗く唇は、小刻みに震えている。
「黒い…人影が見えたの。真っ黒な…
人の形をしたものが、こっちに向かってきて。
それで怖くなって……」
「黒い……影?」
小さく首を縦に動かして、弓月が目を瞑る。
僕はどう答えていいかわからず
眉を顰めると、弓月の肩を抱いた。
昨夜の風景を思い起こしてみる。
けれど、弓月が凝視していた風景の中に
不審な人影はなかった。少なくとも、
僕には何も見えなかった。
だからと言って「見えた」という弓月の
言葉を、否定する気にもなれない。
もしかしたら、僕には見えないものを彼女が
「見て」しまうことだってあるのかもしれないのだ。
僕はそういったものを信じないタチだけれど、
母を亡くしてから、心のどこかでそういう世界が
あって欲しいと思うようになっていた。
「そう。僕には何も見えなかったけど、
弓月には怖いものが見えていたんだね」
「……信じて、くれるの?
私がおかしなことを言ってるって、
思わない?」
弓月が驚いたように目を見開いて僕を見る。
僕はもちろん、と笑って頷いた。
「信じるよ。でも、もしかしたら光の
悪戯かもしれないし、疲れていて錯覚が
見えただけなのかもしれない。だけど、
今までにもこういう事があったなら、もう
弓月が怖い思いをしないように考えないとね」
腕の中の細い肩を温めるように擦りながら、
ガラス越しに外を見る。
冷たい風を受け、カタカタと揺れるドアの
向こうの景色は、昨夜と何ら変わらない。
「今までもあったの?見えたこと」
僕は努めて優しく問いかけた。
弓月がぎこちなく頷く。
「…そっか」
僕は小さく息をついた。
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